しなやかな指さきだった。
 すっとさし出されたそれを、総司は息を呑むようにして見つめた。
 一瞬、呆然としていたのかもしれない。
 男が低く笑い声をたてた事で、我に返った。
「歳三さま」
 なじるようにその名を呼ぶと、歳三は切れの長い目を細めた。形のよい唇が笑みをかたちどる。
「余計な事だったか」
「はい」
「おまえは言葉を選ばんな」
 くっと喉を鳴らした男に構わず、総司は地面に手をつき、立ち上がった。先程まで握りしめていた木刀はどこかへ飛んでしまっている。
 それを探す総司に、歳三は肩をすくめた。
「今日はここまでにしておこう」
「ですが、私はまだ……」
 総司は思わず云いつのった。
「稽古致しとうございます。それとも、歳三さまは私相手などでは物足りぬとおっしゃられるのですか」
 勝ち気な少年らしい口調だった。
 総司はまだ十四でありながら、この国でも指折りの剣士なのだ。常ならば、これ程簡単に勝負が決するはずもなかった。
 なめらかな白い頬に、血がのぼっている。
 その様子を、歳三は無言のまま見つめた。


 美しい少年だった。
 淡い色あいの小袖と袴を、ほっそりとした華奢な躯に纏っている。
 前髪の下からのぞく大きな瞳が美しく、ふっくらした唇は少女のように桜色だ。
 その少年が屋敷先の緑あふれる庭先に佇む姿は、まるで一幅の美しい絵のようだった。


「……総司」
 しばらく黙ってから、歳三は答えた。
「そのような事は云っておらぬ。だが、今日の稽古はここまでだ」
「歳三さま……」
「それに、俺はこの後町へ出るつもりでおる」
「……」
 沈黙する総司の前で、歳三は木刀を傍らの小姓に手渡した。襷を解きながら、歩みさってゆく。
 総司は慌ててその広い背を追った。
「歳三さま、町へなど……おやめ下さい」
「何故だ」
「お屋形さまが亡くなられた今、若殿は、歳三さまを必要とされておられます。町などへ出られるより、若殿のもとへ……」
「兄上に、俺など必要ない」
 きっぱりと云いきった歳三は、立ち止まろうともしなかった。口調は淡々としていたが、その端正な横顔は厳しく引き締まり、それ以上の言葉を許さない。
 総司は気遣わしげな表情で、男を見上げた。





 総司にとって、歳三はただ一人の主だった。
 幼なじみでもあるが、それ以上に主である意味あいの方が濃い。


 先日、その歳三の父であり──この国の国主でもある土方義諄が突然の病で没した。そのため、正妻の子であり嫡男の喜六が跡目にたったのだが、まだ国の中は収まっていない。
 何しろ、戦国の世だった。いつ隣国が攻めてくるともしれぬのだ。
 民には慕われたが、人もよく穏やかな気質だった義諄の元で、この小国が他国に侵されることもなく過ぎてこられたのは、まさに奇跡に近かった。だが、その子であり、これまた聡明だがおとなしい嫡男喜六の元で同様にゆくかと云えば、それは誰にも保証できない。


 武勇に優れ、凛々しく剛毅な性質である歳三は、次男であり、また妾腹の子だった。それも、身分が低く領内でも酷く忌み嫌われる佐藤一族の出だ。兄がいる以上、彼が跡目になることはあり得ぬ話だった。
 だが、それは、この何事にも秀でた歳三にとって、堪えられる事なのだろうか。いつも端然としているため穏やかに見えるが、その実、彼の気性は焔のように激しく、誇り高い。
 そして、また、兄喜六よりも聡明であり怜悧なたちだ。


 幼い頃から仕えてきたが故に、それをよく知っている総司は、存在さえも全く無視された形になっている今の状況が腹ただしくて堪らなかった。歳三よりも、まだ十四の総司の方が余程国の政事にかかわっている程だ。
 総司は、家老沖田家の嫡男だった。古くからの名家の出身であり、文武に優れている事から、将来、この国の政事の一翼を担うともくされている。





「案ずるな」
 気がつけば、歳三が微笑みかけていた。
 そっと、総司の髪を撫でてくれる。いつもなら子供扱いと拗ねてしまう仕草だが、この時ばかりは総司も黙って見つめた。
「俺は……気にしておらぬ。勝手気ままな今の方がよいのだ」
「歳三さま……」
「町に出る。おまえもついて参れ」
 歳三はそう云うと、踵を返した。彼の纏う質のよい着物の裾がひるがえる。
 すっと綺麗にのびた男の背を見つめ、総司は小さく「はい」と答えた。
 幼い頃から追ってきた、男の背だった。ずっと見つめてきた彼だった。
 主とわかっていなら、身も心も捧げてしまう程の憧憬と恋心を抱いてきたのだ。総司自身、それを隠した事はない。隠しようもなく、幼い恋は男にはっきりと伝わってしまっていたのだ。
 だが、歳三が応じてくれた事は一度もなかった。
 それらしい仕草も、視線も、まったくない。歳三はいつも、総司を幼なじみとして、そして信頼する一番の家臣として扱った。それが、総司には嬉しくも淋しい。
 この想いは永遠に届かぬのかと、ふと涙がこみあげる時もあった。
 だが、それでも、愛しいという想いは途切れる事がなくて。


(……歳三さま)


 総司は想いを胸に、ゆっくりと愛しい男の背を追った。













 緑波うつ草原がどこまでも広がっていた。
 見渡せば、山の稜線が遙か遠くにつらなり、その上をゆく白い雲に澄み渡った青空が絵のように美しい。
 聞こえるのは、鳥の囀りと草をゆく風の音のみだ。
 その光景の中、総司は佇んでいた。
 その桜色の唇が微かに動いた。
「……歳三さま」
 綺麗に澄んだ瞳が、まっすぐ草原の彼方へと向けられている。
 そこを一騎の馬が駆けてくる処だった。男が見事に馬を御している。
 あっという間に少年の傍まで近づくと、歳三はひらりと飛び降りた。その動きは驚くほど敏捷で、この男の鍛えられた躯が着物の上からでもよくわかる。
「総司」
 低い声で叱責するように呼ばれ、総司は俯いた。そっと、細い指を握りこむ。
 先程、総司は歳三と小さな諍いをしてしまったのだ。
 主と家臣で諍いなど許されぬ事だが、もともと幼なじみでもある二人だった。それだけ歳三も総司に心を許しているという証であり、彼らの場合、よく行われる事でもある。
「申し訳ありませぬ」
 小さな声で謝した総司に、歳三は嘆息した。
「……おまえが謝る事ではない」
「……」
 男の言葉に、総司は目を伏せてしまった。きゅっと唇を噛みしめる。
 本当に、そうだろうかと思った。
 自分が謝る事ではないのかと。
 諍いの理由自体は、些細な事だった。
 だが、そもそもの原因は別なところにある。一途であるが故に明らかな総司の想いに、歳三はいつも気づかぬふりをしてきた。実際、鋭敏な彼が気づかぬはずはないのだ。だが、それでも目をそらし続ける彼に、まだ幼い総司が堪えきれなくなるのも当然のことだった。
 だからこそ、今回のような諍いになってしまったのだが。
「……すまん」
 低い声で謝した歳三に、はっとして総司は顔をあげた。
 見れば、歳三は端正な顔に苦渋の色をうかべ、目を伏せている。
「おまえにはすまぬと思っている」
「歳三さま……」
「許せ」
 その言葉自体が、静かな拒絶だった。
 総司の一途な想いへの拒絶なのだ。
「……っ」
 思わず涙があふれそうになった。そのままきつく唇を噛みしめ、愛しい男を見つめた。





 端正な顔だちだった。
 結い上げた艶やかな黒髪も、切れの長い目も、精悍な男としての美を際だたせている。黒曜石のような瞳が美しく、男にしては長い睫毛が伏せられるさまは、まるで絵のようだった。
 すらりとした長身は、常ならぬ力を漲らせている。まだ二十三という年齢だったが、戦を重ねてきたためか、年相応以上の落ち着きが物腰にあった。
 傲慢ではなく、威厳ある態度。誰の目にも明らかなその力。
 彼は生まれながらの王なのだ。そう囁きあう声を、総司は城内で聞いた事があった。
 主の座につくべきなのに、今の存在に生まれ落ちてしまった事こそが、不幸なのだと。
 だが、それを耳にしても、歳三は平然と聞き流していた。穏やかに笑ってさえみせたのだ。
 何か事があっても声を荒げた事はなかった。深く澄んだ黒い瞳に静かに見つめられれば、皆、跪いてしまう。


 物腰も、その端正な容姿、武勇も。
 誰もが手放しで国随一と讃えた。
 その上、次男とは云っても、国主の息子だ。歳三ならば、どんな美しい女でも思うがままだろう。
 だからこそ、総司の恋は半ば絶望的だった。これ程、武勇にも容姿にも優れた男が、総司のような少年になど心惹かれてくれるはずもない。総司自身も、ただ傍に仕えられるだけでいいと常々己に云い聞かせていた。
 だが、やはり幼いのだ。十四の少年の恋なのだ。
 受けとめて貰えずとも、少しでもわかって欲しいと、気づいて欲しいと願ってしまう総司の一途な瞳に、歳三は目をそむけるばかりだった。
 かと云って、女を傍に置いている訳でもない。
 歳三はいつも自らを律しているようだった。端正な容姿をもちながら、一切遊び事には目もくれぬ。先日のように町へ出ると云っても、女と遊ぶでもなく酒を飲むでもなく、ただあちこちを眺めながら歩いてゆくのみだった。
 その理由を、総司は少しだけ理解している。
 歳三の姉である、お信の存在だった。兄喜六と違い、歳三とは同母姉弟の関係であり、当然ながら佐藤一族の出だ。





 歳三は身をかがめ、一本の花を抜きとった。
 白い小さな花だ。
 それを少し弄んでから、無造作に総司にむけてさし出した。目を瞠る。
「? 歳三……さま?」
「姉上から、何度も云われた。おまえを大切にするようにと」
「お信さまが……」
「それ故ではないが……泣くな。おまえがそのような顔をすると、堪らなくなる」
「……申し訳ありませぬ」
「謝って欲しいのではない」
 吐息をもらし、歳三は総司に歩みよった。そっと髪を撫で、耳もとにその白い花をさしてくれる。
 驚いた総司に、優しく微笑んだ。
「昔もよく、こうして花を摘んでやったな。おまえはとくに白い花が好きだった」
「……とても綺麗でしたから。それに……」
「それに?」
 訊ねる歳三の前で、総司は微かに首をふった。


 あの頃、花が欲しかっただけではない。
 少年の頃から常に冷静で大人びていた彼が、総司のためならばと、白い花を摘むため懸命になってくれるのが嬉しかったのだ。
 そうして、摘んだ花をさし出してくれる彼の笑顔を見るのが、何よりも幸せだった。


 しばらく黙ってから、訊ねた。
「お信さまからは、その後……?」
 躊躇いがちに聞いた総司に、歳三は苦笑をうかべた。
「文がきた」
「聞いても宜しければ、その……」
「同じ文言ばかりだ」
 そう云ってから、歳三は肩をすくめた。
「姉上の言葉は、いつも同じだ。神仏を信じ、人によい行いをし、模範となるよう。己を常に律するよう」
「それは、皆、ごもっともな事かと存じますが」
「わかっている。だからこそ、俺も自らを律しているのだ。だが、姉上の文には別の意味がある」
 歳三はふと目を細めた。
 つらなる山々の稜線に視線をやった。そのまま何か別の遠いものを見つめながら、ゆっくりと呟いた。
「姉上は……恐れているのだ。俺の中にあるやもしれぬ悪を恐れている……」
「歳三さまの中にある、悪……?」
 総司は目を見開いた。
 歳三の中に悪があるなど、考えられぬ事だった。否、思いたくもなかった。
 愛する男に対して、ずっと昔から憧憬に似た想いを捧げてきた総司なのだ。少年にとって、歳三はあまりにも大人で完璧すぎた。
 だが、そんな総司の戸惑いに、歳三は気づいてないようだった。
「そうだ。悪だ」
「……」
「……いや、鬼と云うべきか……」
 そのまま口を閉ざしてしまった歳三に、総司は困惑した。
 何を云えばいいのかわからず、俯いてしまう。
 総司にとって、歳三の姉──お信は不可思議であり、少し苦手な存在だった。佐藤一族の出身であり、最もその血が色濃く出ていると云われているが為だろうか。
 佐藤一族である証を、誰よりも……。


 佐藤一族はとても古い家柄だった。
 だが、一つの里に固まって住むこともあり、他族からは酷く忌まれている。
 何故なら、佐藤のものは皆、心を読み、様々な妖しい力をもつと云われていたのだ。
 人の心を読む力をもち、そのため、一族同士ではあまり言葉を交わさない。他族に忌まれるため、自然と血族結婚を重ねることになり、よりその血は濃くなり力も強められていた。
 その佐藤家から唯一、他の血と交わったのが、歳三の母だった。儚げで美しかった母を、里を訪れた義諄は一目で気にいり、攫うようにして妾にしたのだという。だが、歳三を生んですぐ、その母は亡くなってしまった。
 そのため、歳三は、同じ佐藤の母から生まれた姉のお信に育てられたようなものだった。そのお信も今は佐藤の主である彦五郎の元に嫁ぎ、時折、文をかわすだけの間柄となっている。





 歳三は馬の手綱を引き寄せると、総司をふり返った。
「そろそろ戻ろう。あまり遅くなれば、皆が案ずる」
「はい」
 ひらりと馬に跨ってから、歳三は総司の手を引いて自分の前に乗せた。腕をまわして手綱をとると、総司の華奢な躯を背から抱きすくめるような格好になる。
 いつもそうだった。
 花を摘んだ時だけではない。想いを受けとめてはくれぬが、歳三はいつも総司に優しかった。様々に気づかい、大切に扱ってくれる。
 だが、総司は、歳三に優しさを向けられるたび感じる心の痛みを、その時も疼くように覚えた。小さく唇を噛んだ。
「……」
 背に感じる彼のぬくもりが愛しくも、切ない。
 己に定められた残酷な宿命も、忘れえぬからこそ。
 ゆっくりと馬を打たせてゆく愛しい男の腕の中、総司は祈るように目を閉じた……。












 まだあぜ道が続いてはいたが、城までもう僅かだった。
 小高い山を迂回してゆけば、すぐ城郭は見えてくる。歳三の父土方義諄が建てた城は小さいが、なかなか守るに易く攻めるに難しと云われる城だった。
 今は、跡目を継いだ喜六がおさめている。その城まであと少しという処だった。
 前方から駆けてくる男の姿に気づき、歳三は手綱を引き絞った。
 それに、総司が小首をかしげた。
「歳三さま?」
「……山崎だ。何事かあったらしい」
 男の低い声音にただならぬものを感じ、息を呑んだ。
 歳三は馬から下り、総司の躯も抱きおろした。そうして佇むうち、歳三の乳母兄弟である山崎は走りよってくると、傍らに膝をついた。
 そして、緊迫した様子で叫んだ。
「今すぐ引き返されて下さいませ! 城へ入られてはなりませぬ」
「何事だ」
「若殿がお亡くなりになられました。領内見回りの最中の落馬と云われておりますが、暗殺の疑いが広まっております」
「兄上が……!?」
 歳三は大きく目を見開いた。


 あまりに突然の死だった。
 これで、数ヶ月の間に、土方家は、当主義諄とその嫡男喜六と二代つづけて失った事になる。
 混乱は避けられぬ事だろう。
 しかも───


「その疑いが歳三さまにかけられている由、既に追手もかけられております」
「!?」
 信じられぬ言葉に、歳三は山崎を凝視した。
 だが、山崎はひたとその目で見返してきた。偽りなど云う男ではない、実直で生真面目な乳兄弟なのだ。
「追手とは……いったい、誰がそのような者をさし向けたというのだ」
「小島殿でございます」
「伯父上が!」
「跡目を狙った歳三さまが、お屋形さま、若殿と、つづけて暗殺なさったと。その噂で今や城内はもちきりでございます。ご家来衆はもはや、皆、小島さまのお味方につかれたとの事……」
「……罠だ」
 呆然とする総司の頭上で、歳三が低く呻いた。
 はっと見上げた端正な顔は、衝撃と苦渋にみちていた。


 もともと、小島は父義諄の兄にあたるが、攻撃的な考え方の持ち主であり、穏やかな気質の義諄とは相容れぬ存在だった。そのため、跡目から外された彼は臣下として小島家を継ぎ、弟である義諄が国主となったのだ。
 だが、その好戦的な考えも国を憂えての事であり、まさかここまでの暴挙に出るとは、思ってもみなかったのだ。


「父上も兄上も……伯父上に殺されたという事なのか……」
「歳三さま、お早く!」
 縋るようにして、山崎が懸命に懇願した。
「命さえあれば再挙も叶いましょう。小島殿に捕まれば、命はございませぬ」
「しかし、どこへ」
「佐藤家の里へ参りましょう!」
 それまでずっと黙っていた総司が、突然、叫んだ。それに、歳三が驚いたように視線をむけた。
「姉上のもとに……?」
「あそこならば、当然、歳三さまを匿ってくれるはずです。あそこへ行く他ございませぬ」
「……そうだな」
 歳三は切れの長い目を細め、頷いた。それから、不意に総司を鋭く一瞥し、云い放った。
「おまえは城へ戻れ」
「え」
「おまえは沖田家の嫡男だ。この分では、おそらく沖田家も伯父上側についたであろう。おまえが俺についてくる理由はない」
 きっぱり云いきると、踵を返した。手綱をひき、馬へひらりと跨る。
 それに、総司は呆然となっていたが、はっと我に返った。泣きそうになりながら走り寄り、もう駆け出そうとしていた馬の手綱を危うく掴んだ。
 あまりに冷然とした男の態度に、泣き叫んでしまいそうだ。
「歳三さま……っ」
 無我夢中で、手綱に縋りついた。
「お願いです、歳三さまと共に行かせて下さいませ」
「それは駄目だ」
 歳三は首をふった。
「おまえは沖田家の嫡男だ。俺の道連れにはできぬ」
「そのような事……っ」
「子どものおまえにはわからぬのだ」
「歳三さまこそ、わかっておられませぬ……!」
 総司はもう半ば泣き出していた。
 いけないと思うが、これだから子供だと云われてしまうのだとわかっていたが、それでもあまりに冷たい男の態度に我慢できなかった。
「確かに、私は沖田家の嫡男です! でも、その前に、私は歳三さまをずっとお慕い申し上げてきたのです……っ」
「……」
「なのに、今生の別れになるとも知れぬ今、歳三さまは当然のように私を捨てようとなさる! 去れと命じられる。私は、やはり、歳三さまにとって少しもお心にかけて貰えぬ存在だったのですか……?」
 大きな瞳に涙をあふれさせながら訊ねる総司に、歳三は唇を噛んだ。
 しばらくの間、黙ったまま見つめていたが、やがて、その頬に僅かに血をのぼらせた。
「……心にかけているからこそ」
 掠れた、低い声だった。
「大切だと思うからこそ……手放すのだ。俺は、おまえを地獄への道連れにはできぬ」
「いやです」
「聞き分けのない事を云うな」
「絶対にいや」
 総司は激しく首をふった。
「どんな地獄でも、歳三さまと共になら参ります。もしも、つれて行って下さらぬならば、私はこの場で自害します……!」
 少年の言葉に、歳三は息を呑んだ。
 しばらく押し黙っていたが、やがて、微かにため息をもらした。ゆっくりと片手をのばし、総司にむけて手をさしのべる。
 それに、総司の瞳が歓喜にきらめいた。男の手に縋るようにして、鐙に足をかける。
「!」
 次の瞬間、その華奢な躯は男の腕の中にあった。
 しっかりと抱きついてくる少年の躯を感じながら、歳三は云い聞かせた。
「本当に、良いのか。二度と後戻りはできんぞ」
「わかっております、覚悟の上です」
 しっかりと答える総司に頷き、歳三は山崎をふり返った。
「おまえも共に来い」
 それに、山崎は目を潤ませつつも、首をふった。
「いえ、私は足手まといになります。それに、母を放ってはおけませぬ」
「ならば、助け出した後、佐藤の里へ来い。そこで待っている」
「ありがとうございます……!」
 山崎は涙をこらえつつ、深々と頭を下げた。
 それを一瞥してから、歳三は鐙で馬の腹を蹴った。先程の緩やかな歩みとは違う、猛烈な勢いで馬が走り出してゆく。
 馬を駈りながら、歳三は突然変転した運命を思わずにはいられなかった。
 たった一日にして、彼は多くのものを失ったのだ。
 父を兄を失い、そして、何もかも失ってしまった。昨日まで国主の息子として何不自由なく暮らしてきた自分が、今や追手をかけられる身の上だった。


(何という運命の変転だ。何という……)


 だが、これはまだ序章に過ぎなかった。
 歳三はこの後、すべてを奪い取られてゆくのである。
 残酷な定めによって。











 佐藤の里は、山を幾つも超えた処にあった。
 人里離れた奥地故、尚更、国の中でも孤立してしまったのだろう。
 だが、そこはとても美しく緑豊かな土地でもあった。皆、争い事もせず、静かに田畑を耕して暮らす小さな里だ。
「……疲れたか」
 歳三はまだ暗闇に沈む山を見上げながら、腕の中の総司にむかって問いかけた。
 それに、総司は小さく首をふってみせたが、その可愛らしい顔には疲労の色が濃い。何しろ、一晩かけて駆けてきたのだ。馬も疲労の限界に達していたし、ここで少し休みたい処だった。だが、追手の事を考えれば、悠長な事を云っておられない。
 歳三はそっと総司の髪を撫でた。
「すまない……」
「歳三さま?」
「おまえまで巻き添えにしてしまった。おまえの気持ちに押され、つい連れてきてしまったが……本当に良かったのだろうか」
「何を云われるのです」
 総司はふり返り、大きな瞳で一途に彼を見上げた。
「私は、あなたについてゆくと決めたのです。親も友もいらぬ、あなたさえいて下されば、それでいいのだと」
「総司……」
 歳三の表情が苦渋に歪んだ。しばらく黙った後、そっと腕の中の華奢な躯を抱きすくめる。
 それに、総司の目が見開かれた。
 今までにも抱きしめられた事はあったが、こんな風に明確な意志をもって強く抱かれた事はなかったのだ。
 息を呑んでいる総司に、歳三は低い声で云った。
「すまない。俺は……おまえから逃げてばかりだった」
「歳三さま……」
 そっと彼の顔を見ようとしたが、歳三は許さなかった。強く抱きしめたまま、言葉をつづける。
「おまえが俺を想うてくれている事は知っていたが、どうしても信じ切れぬ部分があった。こんな妾腹の俺に、何故、沖田家嫡男のおまえがついてきてくれるのか。それが不安でならなかった」
「そんな……!」
 総司は激しく首をふった。
「私は、歳三さまを好いております。他の誰でもない、歳三さまご自身を。歳三さまが百姓であっても、商人であっても、私には何の関わりもなきこと。歳三さまがあなたご自身でいて下さるのなら、私はそれだけで……」
「総司……」
 込みあげる愛しさに、歳三は総司の躯を抱きしめた。髪に首筋に、唇を押しあてる。
 それに、総司は歓びにみちた吐息をもらした。長い睫毛が震え、夜目にも白い手がそっと男の胸もとに添わされる。
「……」
 歳三は息をつめた。
 今すぐこの愛しい存在を己のものにしたいという衝動を、ようやく堪える。
 だが、一方で、この少年へ抱く己の狂気じみた愛と執着に、苦笑してしまった。


 幼い頃から、誰よりも愛してきたのだ。
 総司の想いに不安を覚えた事はあったが、彼自身はこの可憐な少年を愛しつづけていた。
 念兄弟と噂されながら、指一本ふれていない事に、たまらぬ焦燥を覚えていた。他の男のものになってしまわぬか、不安に思う事もあったのだ。もし、総司が自分以外の誰かのものになることがあれば、気が狂ってしまうと、それ程の執着を早くから自覚していた。
 だが、遊びなど知らぬ、常に己を律し真っ直ぐであろうとした彼にとって、総司への執着は禁忌に近いものがあった。決して総司に知れてはならぬと、目をそらし続けてきたのだ。
 幾度、夜の狭間で抱いたやもしれぬ。
 己の腕の中で、嬌声をあげ、艶めかしく悶える少年の硬く幼い躯を思う存分貪りつくし、そして──迎えた朝。
 彼の夢であった出来事など何も知らぬまま、あどけなく笑いかけてくる総司に、激しい罪悪感を覚えた。だが、一方で、夢の中であったとしても、この清らかで美しい少年を犯したのは己だという、奇妙な愉悦感を覚えたあの時から、彼は少しずつ狂いはじめていたのかもしれぬ。
 だが、もう抑える事はない。
 想いが通じあった今、これからは気持ちのまま愛してゆけばいいのだから……。


 歳三は不思議なほどの穏やかさを感じながら、馬を進めた。
 その時、男の逞しい胸もとに凭れかかっていた総司が、不意に身をおこした。訝しげに細い眉を顰める。
「……あれは、夜明けの光でしょうか」
「? どうした」
「あの山の向こうです。朝焼けが広がっているのでしょうか」
 総司が指さした方向を見た歳三は、目を細めた。
 小高い山の向こうの空が、真っ赤に燃えあがっていた。茜色に染め上がり、それは少しずつ大きく広がってゆく。
「……まだ朝は遠いはずだ」
 低く呟いた。
「月もあの場所にある限り、確かな事だろう。それに、あちらは東ではない」
「ならば、あれは……?」
 不安げに総司は歳三をふり返った。それに視線を返す事もないまま、歳三は馬に鞭をあてた。勢いよく走り出した馬は、小高い山の淵をまわるようにして、闇の中を疾走してゆく。
 近づくにつれ、空を染め上げる朱はより鮮やかになった。まるで、燃えあがる炎のようだ。否、そのものだった。
 そして、それは───


 丘上へ、馬が駆け上がった瞬間。
 目前に広がった光景に、二人は息を呑んだ。


 見渡す限り一面──火の海だった。
 美しかった里が、業火に包まれていた。
 まさに地獄絵図だ。
 平和に暮らしてきた、佐藤一族の里。
 その里が今、燃えあがる紅蓮の炎に灼かれていた。
 そこに暮らしていた人々もろとも。





 燃えさかる炎を前に、歳三は呆然と目を見開いた───
















[あとがき]
 小島さん、悪人になってますので、お好きな方すみません〜。
 ラストまでおつきあい下さいませね。