「あぁ……うん」
呆然と見つめている総司の前で、土方は会話をつづけた。
むろん、暗がりにいる総司の存在には全く気づいていない。
端正な顔に、優しい笑みがうかべられていた。
「え、今から?」
土方は、くっくっと楽しそうに笑った。
「へぇ……知美からのお誘いなんて珍しいな。すげぇ嬉しいよ」
どこか、浮立ったような様子でつづける。
「ごめんな、ずっと連絡しなかったものな。悪かったよ」
そう云った土方が不意に、表情をあらためた。
ちょっと黙ってから、僅かに目を伏せた。低い、甘やかな声音で訊ねる。
「……俺に逢えなくて、淋しかったか?」
「!」
彼の言葉に、総司は目を見開いた。
まるで──まるで、恋人に訊ねるような口調ではないか。
しかも、あの表情。
小さく微笑みをうかべたその表情は、優しく甘やかで、総司がいつも見慣れたものだった。
だが、今、それは別の相手に向けられているのだ。
他の誰かに、囁きかけているのだ。
呆然とする総司の前で、やがて、土方は携帯電話を切った。そのまま、すっと踵を返し、歩き出してしまう。
マンションとは全く逆の方向へ。
手をあげた土方の前でタクシーがとまった。それに乗り込んだ彼が行き先を告げているのが、総司にも見える。
走り出した車を見送り、総司はふらふらと歩み出た。
「……」
総司の目に、遠ざかるテールランプが滲んでぼやけた……。
どこをどう通って帰ってきたのか、正直な処わからなかった。
気が付けば、自分の部屋で呆然と坐り込んでいたのだ。
真っ暗な部屋の中で。
「……あ、電気つけなくちゃ」
ようやくその事に気づいた総司は、のろのろと立ち上がった。明かりをつけると、ぱっと部屋の中が明るくなる。
だが、そのとたん、テーブルの上に置いた袋が目に入った。あの中には、彼のために焼いたパンが入っているのだ。
「……」
総司はぎゅっと両手を握りしめた。
だめ、と思う。
誤解も、邪推も、しちゃ駄目だと。
京都の時のような早とちりをして、また彼を困らせたくはなかった。
だから、いけないと思うのだ。思うのだが……。
「ともみって、呼んでいた……」
小さく呟いた。
とても優しい、甘やかな声で。
あれはどう考えても、女の人の名前だろう。
花のように美しい女性をイメージさせる。
そう思ったとたん、たまらなくなった。
嫉妬と淋しさと切なさで、胸の奥が苦しくて苦しくてたまらなくなる。
「……淋しいのは……」
総司はその場にうずくまり、目を瞑った。
「逢えなくて淋しいのは、ぼくもだもの……っ」
本当は、こんな事、彼の前で云わなきゃ意味がないとわかっていた。だが、今、吐き出さずにはいられない。
もう二度と云えないのかもしれないから、逢えないかもしれないのだから。
自分で自分に吐き出すしか、方法がないのだ。
「ずっとずっと逢いたかったんだから……我慢してたんだから、それなのに……っ」
口紅の痕と香水の匂いをつけて帰宅した彼。
こんな事になるのなら、あの時、怒らなければよかった。ちょっと拗ねたぐらいで済ませておけば、ここまでこじれる事もなかったのだ。
あれきり、彼から電話もメールもない。
それが何を意味するのか考えたくもなかったが、あんな光景を見せられたら、いやでも考えずにはいられなかった。
「もう駄目、なの? 終わりって事なの……?」
思わずそう口にしてしまった総司は、のろのろと両手で唇をおおった。
彼がいない人生なんて、考えられない。
色んな事があったけれど、ずっといつまでも一緒にいられると思っていた。
なのに。
「土方…さん……っ」
だい好きな愛しい男の名を呼び、総司は床上に突っ伏しかけた。
ぽろぽろと涙をこぼそうとした──まさに、その瞬間だった。
軽やかな電子音が鳴る。
「!?」
慌てて身をおこした総司は、周囲を見回した。
この音は携帯電話ではない。固定電話の音だ。
「もしかして、土方さん!?」
あっという間に涙はひっこみ、総司はウサギのごとく電話に飛びついた。受話器を取り上げ、耳におしあてる。
「はい、沖田です!」
そう答えた総司の耳に、ある声が響いた。
だが、それは土方のものではない。しかも、思いがけない人からの電話だった。
「……あ、こんばんは」
総司は座り直した。だが、すぐに相手の言葉に目を見開く。
「え……?」
びっくりした総司は、目をぱちぱちと瞬きさせた。
その日、土方は、微妙な表情の斉藤に呼びとめられた。
ここのところ残業続きで休みがたまっていたため、定時より早く帰ろうとしていた矢先だった。
「土方さん」
デスクの上を手早く片付けていた土方の前に現われた斉藤は、静かな声で呼びかけた。ふり返ってみれば、沈痛なまなざしでこちらを見つめている。
ただならぬ様子に、土方は思わず形のよい眉を顰めた。
「……何だ。爆発事件でもあったのか」
「いえ……そうではありません」
「なら、何だよ」
土方は書類の束を取り上げ、鞄に突っ込んだ。
それを眺めながら、斉藤は、はぁっとため息をついた。
「総司の事ですよ」
「……総司の?」
顔をあげた土方に、斉藤は深く頷いてみせた。
「とんでもない話を聞いたものですから……」
「おまえ、総司と逢ったのか?」
「いえ、逢ったんじゃなくて、電話で話したんです。土方さんと仲直りして欲しいと思いましてね」
「世話好きだな」
「友情に厚いと云って下さい」
そう云ってから、斉藤は言葉をつづけた。
「電話して、今日、土方さんは早く仕事終るはずだから、デートに誘ったらどうかと云ったんですよ」
「……そんなの御免だとでも答えたか」
土方は苦笑をうかべた。肩をすくめ、また片付けを始める。
とんっと音をたてて書類をそろえた。
「まぁ、総司も意地っぱりだからな。全然電話もメールもしてこねぇし、どっちが折れるか我慢比べってとこか」
「そんな!」
不意に、斉藤が大声を出した。
びっくりした土方が見ると、ひどく強ばった表情になっている。
「そんな呑気な事を云ってる場合じゃないんです!」
「何、おまえ興奮してるんだよ」
「だから、どうして、土方さんはそんな呑気に構えているんです」
「呑気も何も……」
「総司はね、今日、お見合いをするんですよ!」
「……え?」
土方の目が見開かれた。唖然とした表情で、斉藤を見つめている。
それに、斉藤は滔々とまくし立てた。
「今日の夕方5時から、Gホテルの鳳花というレストランでお見合いをするそうです。お相手は、大学教授の娘さんとかで」
「何だよ、それ」
呆然とした表情で、土方が呟いた。
「総司が見合い、だと?」
「オレもびっくりしましたけどね、この間、土方さん、云ったんでしょう? 女とつきあうとか何とか」
「あぁ」
「それを、総司の方が有言実行しちゃった訳ですよ」
やれやれと肩をすくめる斉藤の前で、しばらくの間、土方はじっと押し黙っていた。
その様子に、この人ちゃんと聞いていたのか? と斉藤が思った時、ようやく彼は顔をあげた。デスクの上に置いていた鞄を取り上げると、さっさと踵を返す。
「土方さん」
「先に帰らせてもらう」
「それは決まっていた事だからいいですけど、その……っ」
「Gホテルの鳳花だな?」
念押しするように訊ねてから、土方は自分の腕時計にちらりと視線を走らせた。そうして、後はもうふり返りもせず、足早にフロアを横切ってゆく。
その後ろ姿を見送り、斉藤は無言のまま、ひらひらと手をふった。
土方はもの凄い勢いで地下鉄に乗ると、そのGホテルへむかった。
地下鉄に揺られながら、ぼんやりと窓外を眺めやった。と云っても、視界に入るのは窓ガラスに映る自分の顔だけだ。
ある意味、年下の恋人に逃げられようとしている、男の顔。
(……情けねぇ)
土方はため息をつき、体の向きを変えた。入り口付近の手すりに凭れる形で、視線をめぐらせる。
とたん、今度はある広告が視界に入り、もっとため息をつきたくなった。
婚活!! 花盛り!
思わず視線を外してしまった。
唇を固く引き結び、もうどうにでもなれと云った心境で目を閉じる。
土方にもよくわかっていた。
総司の事を真実想うのならば、この縁談を祝福してやるべきなのだ。こんな九つも年上の男に束縛されている状況など、総司が云うとおり普通じゃないのだから。
総司なら、あたたかい家庭をつくる事ができるだろう。幸せになることができるだろう。
それがわかっているのなら、手を離してやるべきなのだ。
愛しているのなら、男の度量を見せて、最愛の者の幸せを願って……
「……そんなもん、出来る訳ねぇだろうが!」
地下鉄から降りた土方は、地上への階段を駆け上がりながら低く唸った。
理性と感情は全く違うのだ。
それは確かに、総司の幸せを願ってはいる。世界中の誰よりも幸せでいて欲しいと思う。
だが、自分はこの手で総司を幸せにしてやりたいのだ。
総司の幸せを一緒に感じられなければ、意味がないのだ。
「今更、何が見合いだ! 結婚だ! 冗談じゃねぇよッ」
一人罵った土方は、はぁっとため息をついた。
とは云っても、総司が今日見合いをしようとしているのは事実なのだ。もしも、その見合いが成功すれば、結婚。
そう、総司が結婚してしまうかもしれないのだ。
総司が他人と結ばれてしまう。信じられない事だった。考えただけで、頭がおかしくなってしまいそうだ。
嫉妬と怒りで気が狂ってしまうと、土方は真剣に思った。
正直な話、にっこり笑って「おめでとう」などと祝えるほど、土方も人間が出来ていなかった。
否、この場合、そんな事をできる方が怖いだろう。総司もきっと怯えるに違いない。
一瞬、高砂の前に並んだ総司と花嫁(この場合、顔はぼやけている)の前で、にこやかに祝いを告げる自分と、それに怯えて後ずさる総司の図が頭をよぎった。
思わず頭をブンッと強くふり、そのとんでもない予想図をふり払った。
そして、土方は目の前にそびえ立つ建物を見上げた。
例のGホテルだ。
「ここの鳳花だな。よし!」
土方は一人、気合いを入れた。ネクタイを締め直し、ショーウインドで自分のスーツ姿を点検すると、表情をあらためる。
背筋をのばし、いつもの堂々とした態度でホテルに入っていった。
ドアボーイが開けるドアをくぐり抜けると、一流ホテルにふさわしい品のあるロビーが広がった。ゆったりとした配置でソファや大きな花瓶、オブジェなどがならべられ、あちらこちらで人々が談笑している。
その間を大股に通り抜けていった土方は、案内板で確かめた。
鳳花は最上階にあるメインレストランだ。
「メインレストランか……」
こういうホテルのレストランで見合いならば、当然、個室だろう。それは騒ぎを起したくない土方からすれば、好都合だった。
最上階にあがり、レストランの受付で個室の利用を訊ねた。
平日の、それもまだ早い時刻だったからか、利用は一室のみだった。
連れだと偽った土方は、場所を聞き出すと案内を断り、歩き出した。
堂々と物慣れた様子で振る舞う端正な長身の男を、身につけている上質のスーツもあり、疑うものなど誰もいない。それどころか、店内にいた女性客も、店員も皆、見惚れるような視線を送ってきた。
だが、土方の目には全く入っていなかった。意識にない。
今、彼の頭の中をいっぱいにしているのは、ちょっと目を離せばすぐさまピョンピョン逃げ出してしまう、可愛いけれどやんちゃで手を焼くウサギ──訂正、恋人の事だけだった。
その可愛い恋人を取り戻すための手段をあれこれ考えているうちに、件の個室までついてしまう。
「!?」
冷静に冷静にと云い聞かせていた土方だったが、息を呑んだ。
中から、紛れもない、総司の笑い声が聞こえてきたのだ。
「え? やだぁ、本当なんですか?」
可愛い声とともに、笑い声が響く。
鈴をころがすような声。
それも、気のせいか、自分といる時より楽しげな。
「!」
それを聞いたとたん、かぁぁっと頭に血がのぼった。
人の気も知らず、見合い席などで楽しげに笑っている総司に、ぷちっと何かがキレてしまったのだ。
気が付けば、ドアを乱暴にバンッと押し開けていた。
そして。
深々と頭を下げ、土方は叫んだ。
「総司を返して下さい!」
