駅前から連れさられて十数分後。
総司は家へと帰っていた。否、正確には連れ戻されていた、だ。
平助や磯子とは駅前で強引に別れさせられていた。平助はやたら引き攣っていたが、磯子の方はにっこり笑いながら手を振っていたから、もしかすると彼女は気づかれる事も承知の上だったのかもしれない。
よくよく考えてみれば、いや、考えなくても、土方の職業は刑事なのだ。それも将来は警察官僚たるキャリア組。ばりばりに仕事の出来る彼が、素人である三人組の尾行に気づかぬはずがなかった。
磯子は、そこまで考えた上で、こういう展開を予測していたのか。
やたら余裕の笑顔だった磯子を思い出し、総司はため息をついてしまった。
それに、土方が眉を顰めしつつ、見下ろす。
「何だ、家へ帰ってきた事が不満なのか」
「そうじゃありませんけど」
「なら、何だ」
そう問いかけた土方だったが、別に返事を求めている訳でもなさそうだった。
苛立った様子でスーツの上着を脱ぎ捨て、ネクタイをしゅっと音をたてて引き抜く。放り出されたそれを仕舞おうとしたとたん、手首を強く掴まれた。驚いて顔をあげれば、怒りを湛えた黒い瞳が総司を見据えている。
「ひ、土方さ……」
「おまえ、本当にわからねぇ」
「え?」
「いったい何がしたいんだ。何を考えているんだ」
土方は手を握りしめたまま、強引に総司をソファへ坐らせた。そのまま自分も隣に腰をおろし、瞳を覗き込んでくる。
「何で、俺を尾行なんざしたんだ」
「いつから、気づいていたの?」
「初めからだよ。本庁出た時から、わかっていたさ。俺がおまえに気づかなくて、どうするんだ」
「じゃあ……」
みるみるうちに、総司の瞳に涙がもりあがった。それを見た土方が「え」と驚いた顔になっていたが、それに構っていられなかった。思わず彼の胸もとへ縋りついてしまう。
「じゃあ、気づいていたから、真っ直ぐ帰ってきたの?」
「真っ直ぐ帰ってきて、悪いのかよ。って……何でおまえ泣いているんだ?」
「だっ…て……っ」
総司は思わず叫んだ。半分、涙声で。
「浮気しているんでしょう!? それで、帰りがいつも遅かったんでしょうッ?」
「……はあ?」
土方の目が大きく見開かれた。呆然と胸もとで泣く可愛い恋人を見下ろす。
浮気?
って……え、俺?
何でだよ!
何が何だかわからず、呆気にとられている土方に気づかぬまま、総司は嗚咽をあげつつ云いつのった。
「あなたが…浮気してるって、け、今朝気づいて……それで、いっちゃんと平助に相談して、現場…押さえようって、だから尾行して、それでっ」
「ちょっと待った!」
土方は不意に手をあげ、総司の言葉を遮った。無理やり細い肩を掴んで、顔をあげさせる。
そうして、真剣な口調で問いかけた。
「いつの間に、いったい何がどうなって、俺が浮気しているって事になっちまっているんだ?」
「……」
「浮気なんかするものか。俺がそんなもの、する訳ねぇだろうが」
「……」
黙って、じっと土方の顔を見つめていた総司は、やがて、きゅっと唇を噛んだ。ぽろぽろと涙をこぼしながら、俯く。
「……やっぱり、いっちゃんの云うとおりだ」
「え?」
「男の人が浮気認める訳ないって、証拠突きつけなきゃ駄目だって」
「いや、証拠も何も……」
「こっちへ来て、土方さん」
不意に立ち上がった総司は、先程とは逆に、土方の手をひっぱった。それにつられ、土方も立ち上がる。
二人は洗面所へ入った。レトロな感じがする洗面所の壁には、大きな鏡が据え付けられてある。これもアンティーク風のもので、二人がある店で探してきたものだった。
「……」
不審げな土方を鏡の前に立たせ、総司は彼のワイシャツに手をかけた。釦を二つ、三つ外し、くつろげさせる。
そっと唇を噛んでから、小さな声で云った。
「……ほら、見て」
「何を」
「ここに、キスマーク。こんなにもはっきりついてるじゃない」
「……」
「最近、ずっとご無沙汰なのに、いったい誰がつけたの? こんな処に自分でつけられるはずないし」
確かに、総司の言葉どおりだった。いや、正確には前半だけだ。
白いワイシャツの間から覗く、男らしい褐色の肌。そこには、鮮やかなキスマークがあった。薔薇色の痕がつけられてある。
だが、しかし。
それをつけたのは、浮気相手などでは断じてないのだ!
土方は形のよい眉を顰め、鏡ごしに総司を見つめた。
悲しそうに瞳を潤ませている総司がいじらしいような、ちょっと腹ただしいような……。
はぁっとため息をつき、土方は総司の方へ向き直った。
そして、肩に手をかけ、呼びかけた。
「あのな、総司」
「はい……」
いよいよ浮気の告白をされるのかと、総司は息をつめた。それを感じつつ、土方は低い声で云った。
「このキスマークをつけたのは、おまえだ」
「……?」
「だから、おまえが昨日の夜、つけたんだよ」
「……」
長い長い間、総司は沈黙していた。じっと黙り込んだまま、大きな瞳で土方を見上げている。
納得してくれたかと思った土方だったが、それは完璧に裏切られた。
総司は拳を握りしめ、それをブルブル震わせたかと思うと、いきなり叫んだのだ。
「土方さんの莫迦ッ!」
「え?」
「ぼくのはずがないじゃない! よりによって、そんな分かりやすい云い訳するなんて、酷すぎるよっ」
「云い訳って、本当の事なんだから仕方ねぇだろう?」
「ぼく、そんな事した覚えないもん。昨日はソファでそのまま眠っちゃって、それきり気がついたら朝だったのに、いつどこで、そんなキスマークつけた訳? お酒に酔っていた訳じゃないし」
「だから、一週間、おまえ、夜にあったこと忘れているんだよ」
土方は煩わしげに前髪を片手でかきあげつつ、口早に云った。
「おまえは毎晩、俺を迎えに出てくれた。それで、俺のこと押し倒して、キスマークつけて、挙げ句、眠ってしまって……」
「そ、そんな事する訳ないじゃない!」
総司は顔を真っ赤にして、叫んだ。
「あなたを押し倒すなんて、ぼくがする訳ないでしょう? いくら浮気を誤魔化すためだからって、ひどいよ」
「だから、浮気なんかしてねぇって! このキスマークつけたのは、おまえだ!」
「ぼくじゃないもん! 絶対絶対違うから!」
そう叫んだ総司は、くるりと身をひるがえした。そのまま、ぱたぱたと廊下を走ってゆく。
土方は慌てて追いかけたが、飛んでくる声に動きをとめた。
「追っかけてきたら、家出させて頂きます!」
「……」
「おやすみなさい」
律儀に挨拶だけはして、総司は部屋へこもってしまった。一応、この家には二人の寝室とは別の、それぞれの部屋があるのだ。総司の部屋には、昼寝用のソファとタオルケットもある。
今日はそこで休む気なのだろう。
「……ったく、どうしたもんだろうな」
土方はうんざりした様子で呟いた。
そして、買ってきたケーキの箱を冷蔵庫に入れながら、この先の事を考え、深くため息をついたのだった。
「何です、その展開は」
斉藤は呆れかえったように云った。
いや、実際、呆れかえっていたのだ。
どこをどうすれば、そんな浮気疑惑みたいな展開になってしまうのか。
このバカップルはつくづく騒動を起こすのが上手いと、つい考えてしまった。
それに毎回つきあってしまう自分も自分だが。
土方はデスクワークを片付けながら、ため息をついた。
「もう何が何だか、わからねぇよ」
「というか、その夜はどうだったのです。総司は起きてきたりしなかったのですか」
「いや、昨日はおとなしかった。何も起こらなかったんだ、だから、尚更」
「土方さんの話に、信憑性がなくなっちゃいますねぇ」
やれやれと首をふった斉藤に、土方は肩をすくめた。
実際、今朝は最悪だった。
総司はいつも通り朝ご飯を用意してくれたのだが、ずっと黙ったままだったのだ。
むろん、可愛い笑顔も、キスもない。
あの緊張感、静けさが、これからもずっと続くかと思うと、正直、気が重い。
可愛い総司の笑顔は、土方にとって生きる力そのものなのだ。パワーの源なのだ。
だからか、仕事もどうもスムーズにいかない。まぁ、嫌いなデスクワークだという事もあるが……。
「しかし、浮気とは」
にやりと斉藤は笑ってみせた。
「信用されていませんねぇ」
「うるせぇよ」
「まぁ、とにかく早く疑いをはらす事ですね。でないと、下手すれば総司とお別れになっちゃいますよ」
「斉藤」
凄味のきいた声で呼んだ土方に、斉藤は首をすくめた。だが、それでも懲りず、ワーキングチェアに凭れかかり、言葉をつづける。
「何か方法があるんじゃないですか。総司がつけたって証拠。土方さん、家の中にカメラ設置してないんですか」
「どこの誰が、家の中に設置するんだよ。それじゃ、盗撮じゃねぇか」
「いや、発信器までつける人ですから、やりかねないと思いまして。でも、総司が日中どんな風に過しているか、土方さんは見たいと思わないんですか?」
「……」
一瞬、見たいと答えかけた土方は、慌ててそれを飲み込んだ。
いくらべた惚れで独占欲が強くて執着心も強い男でも、ほんのちょっぴりだけTPOというものがあるのだ。何よりも、総司にバレた時が怖い。
「別に……見たくねぇよ」
「ふうん、オレは見たいですけどね」
「斉藤!」
「いやいや、冗談です」
全く本気ですって顔で手をふってから、斉藤は腕組みした。
「でも、今からでも遅くないんじゃないですか」
「何が」
「カメラの設置。玄関にでもつけておいたら、一部始終が録画できますよ。総司が土方さんを迎える様子もばっちりでしょうし」
「確かに……」
「安いの売っていると思いますよ。ネットの方が安いですけど、今から注文しても翌日になっちゃいますしね。それじゃ、今夜のうちに設置できないでしょうし」
「けど、設置したことが総司にバレたらどうするんだ」
「大丈夫ですよ。最近のは色々あって、一見すればコンセントにしか見えないものまであるんですよ。天井近くにつけておけば、気が付いても、あんな処にコンセントあったかな? で、終っちゃいますよ」
「……」
やけに詳しい斉藤を、土方は思わず半目で眺めてしまったが、実際、他に浮気疑惑を晴らす方法はないのだ。
「帰りに買いに行くか」
そう呟いた土方に、斉藤が楽しそうに「おつきあいしますよ」と云った。
数日がたった。
が、状況は全く変わらなかった。
相変わらず総司は怒っているというか、拗ねているようで、必要最小限以上の会話はない。その上、例のカメラは役に立たなかった。
何しろ、あの日から、総司の謎の行動はぴたりと止んでしまったのだ。遅く帰っても早く帰っても、同じことだった。出迎えてはくれるが、「お帰りなさい」と云うだけで、すぐに自分の部屋へ引っ込んでしまう。
その細い背を見送るたび、土方は地団駄踏みたいぐらいの苛立ちを覚えたが、まさか、それを総司にぶつける訳にはいかなかった。
あの日から、総司は何も云わない。浮気のことも口にしない。
だが、潤んだ大きな瞳で見つめられるたび、胸奥がぐっと苦しくなった。断じて浮気などしていないのに、総司に悲しげに見つめられるだけで、思わず「すみません、浮気しました!」と自白してしまいそうになる。
(やばいだろ、俺)
かなり追い詰められているなぁと思いつつ、土方はふり返った。
朝だ。出かける土方を見送るため、総司が玄関まで出てきていた。いってらっしゃいと鞄を渡してくれるが、笑顔はない。
そんな総司を、土方はじっと見下ろした。
「……」
さらさらの絹糸のような髪に、大きな瞳。
しなやかで華奢な若鹿のような躯つき。
なめらかな頬にも、ぷるんとした桜色の唇も、白い肌も。
いったい、どれだけさわってないんだ?
こっちはもう、さわりたくて抱きしめたくて、おかしくなっちまいそうなんだぞ!
心の中で叫びつつ、土方はぎこちない笑みをうかべた。
「……行ってくる」
「はい、気をつけてね」
言葉だけを見れば、いつもの会話だ。
だが、そこに笑顔はない。愛もない……気がしてしまう。
土方はため息をつきつつ、家を出た。背後でぱたんと閉じられる玄関扉が、総司の今の心境を顕わしている気がして、微妙に切なくなる。
しかし、考えても仕方がない。やるだけの事はやったのだ。
「もう成り行まかせかな」
彼にしては気弱な事を呟きつつ、土方は歩き出した。その時、内ポケットで携帯が鳴り出てみると、事件発生の知らせだった。不謹慎な話だが、仕事熱心な土方は一気に気持ちが浮上するのを感じた。
「よし、頑張るか」
気合いを自分に入れた土方は、駅への道を勢いよく駆け出したのだった。
──一方、総司は。
「急いで走って……事件かな」
カーテンの影から見送っていた総司は、きゅっと唇を噛んだ。
テーブルに戻ると、朝食の皿やカップを片付け始める。ふと気づき、彼が飲んだカップを指さきでなぞった。
「土方さん……」
正直な話、ここまで拗れるとは思っていなかったのだ。
浮気を土方が認めてくれて、謝って、それで終わりだと思っていた。
もちろん、悲しいし、いつまでも引きずってしまうだろうけれど、それでも、一応は結着がつくと思っていたのだ。
心の問題はともかく。
だが、土方は絶対に浮気を認めなかった。あくまで、総司がつけたと主張してくるのだ。
土方にはあぁ云ったが、その実、総司は彼の言葉を信じたかった。
浮気をされたなど、信じたくもないのだ。
だが、どうしてもわからない。そんな記憶は頭のどこにもないのだ。
「……どっちが正しいのか、全然わからないや」
総司は椅子に坐り込み、ぼうっと宙を見つめた。その時だった。
不意に、携帯電話のベルが鳴る。
「あ、いっちゃん」
表示を見て、総司は慌ててボタンを押した。明るい磯子の声が聞こえてくる。
『おはようございます、総司さん』
「うん、おはよう」
『そろそろ仲直り出来てるかなぁと思って、電話したんですけど、どうですか?』
いきなり直球な磯子に、総司は苦笑した。
「実は、まだ全然なんだ。あの時も、そうだったんでしょう? いっちゃん、ぼくと土方さんに話し合いさせるため、尾行なんて云い出したんでしょ?」
『ごめんなさい。実はそうなのです』
磯子は素直に謝った。
『どうしても、あの土方さんが浮気するなんて、信じられなくて。それで、話し合ってみたらどうかなと思ったんだけど……まだ仲直りできてないなら、余計な事をしちゃったみたいですね』
「ううん、いっちゃんのせいじゃないから。土方さん、キスマークをつけたのはぼくだと云って、絶対浮気してないなんて云うから……」
『それ、案外本当なんじゃないですか?』
「え、だって、全然記憶にないんだよ。そんな覚えないし、ここんとこずっとご無沙汰だったし……あ」
ピンポーンと鳴った呼び出し音に、総司はふり返った。見れば、インターホンのカメラに、宅急便らしい人の姿とトラックが映っている。
「ごめんね、宅急便みたい。後でまたかけるね」
『いいえ、こちらこそ、朝早くからすみませんでした』
「ううん、心配してくれてありがとう。じゃあ、またね」
そう云って電話を切った総司は、慌ただしくインターホンのカメラに走り寄った。ボタンを押して、応対する。
玄関を出て荷物を受け取り戻ってきた総司は、ふと顔をあげ、インターホンの通話が繋がったままだという事に気づいた。ボタンを押して消そうとした瞬間だった。
「……あ」
手がとまる。ふと、ある事を思いついたのだ。
総司はじっとインターホンを見つめていたが、ゆっくりとある操作を始めた。ピッピッピッと押してゆく。
「──」
やがて、流れ出した映像と声に、総司の目が大きく見開かれた。
次、お褥シーンがありますので、苦手な方はスルーしてやって下さいね。