玄関のドアを開けたとたん、飛びつかれた。
 そのまま手を掴まれて引っ張られ、気がついたらフローリングの上に押し倒されていた。
 顔や、首筋や、胸もとに、降らされるキスの雨。
 ネクタイを強引に緩められて、ワイシャツの釦外されて。
 剥き出しになった肌に這わされるのは、柔らかな桜色の唇。ふれる、さらさらの髪。細い指さき。
 そりゃ、嬉しいけどさ。
 珍しく積極的な仔猫ちゃんも、宜しいけどさ。


 ……けど
 何かおかしくねぇ?












「……で、どうしたのです」
 斉藤は恐る恐るといった感じで、訊ねた。
 彼にしては珍しい事だが、話題が話題だけに、そうそうきっぱりした態度をとる事もできないのだろう。
 土方は生姜焼きを箸で突いてから、あっさり答えた。
「つきあった」
「と云うと?」
「最後までやってやるぞって、燃えた。こういうのもたまにはいいかって」
「はぁ」
 斉藤は思わず気のない返事をした。何だ、結局のろけだったのかと思ったのだ。
 だが、それは違うようだった。
 土方は遠い目をしてしばらく黙っていたが、やがて、ぽつりと云った。
「けど、駄目だった」
「? 何でです」
「寝ちまったから」
「は? 誰が」
「総司に決まっているだろうがッ!」
 思わず、土方は声を荒げた。
「こっちがその気になって押し倒したとたん、すやすやおやすみタイムになっちまったんだぞっ」
 苛立った表情でダンッとテーブルを叩いた土方に、固唾を呑んで聞いていた面々──いつもの、斉藤・永倉・島田たちは、そりゃまた……と思った。


 そこまで、おいしい状況で。
 おあずけを喰らわされた男の、やるせなさ切なさってのは、よーくわかる。
 土方が怒って当然だった。
 この盛り上がりまくった男の状態を、いったいどうしろと? てなものである。


「そりゃあまた……気の毒に」
 思わずしみじみ呟いた永倉に、土方は切れの長い目をむけた。
「気の毒なんてものじゃねぇよ。その後、俺は持て余しまくった躯の熱を抱えたまま、くーくー寝てる総司を寝室に運んで寝かせたんだぞ」
「で、あんたは隣で寝たと」
「寝られると思うか?」
 土方はため息をつき、また生姜焼きを箸で突いた。
「結局、冷たい水のシャワー浴びて、何とか自分をおさえて、で、ようやく総司の隣にもぐりこんださ」
「冷水シャワー……修行僧みたいですね」
「滝打ちじゃねーんだから」
「というか、結局、それって毎日なんですか?」
 そう訊ねた斉藤に、土方はぐっと眉間に皺を寄せた。手に握りしめた箸が心なしか力入りすぎているようで、今にもバキッと折れてしまいそうだ。
「……毎日だよ」
「ひえええ、何日前から?」
「もう一週間になるな」
 土方の答えに、永倉は呆れかえったように仰け反った。やれやれと首をふる。
「あんた、よく我慢してるねぇ。っていうか、それで、ここんとこ機嫌悪かったんだ」
「機嫌も悪くなるさ」
「とばっちり喰らった所轄が、昨日オレに泣きついてきてましたよ」
「別に何もしてねぇけどな」
「どうだかねぇ」
 永倉はくきくきと首を回してから、かぼちゃの煮物をぽいっと口の中へ放り込んだ。
「で、翌朝、総司くんには聞いてみた訳?」
「何を」
「そりゃ、昨夜のご乱行を」
「……聞いてねぇよ」
 突然、言葉少なに、さり気なく目をそらしながら答えた土方の様子に、斉藤は首をかしげた。
「聞いてないって、いったい何でです。一週間も続いているのなら、いつだって聞けるでしょう」
「いや、それが聞けねぇんだ」
「だから、どうして」
「あいつ……」
 土方は一瞬、さすがに躊躇ったようだった。
 プライベートのこと、それも総司自身のことをどこまで話していいのか、考えたのだ。
 だが、彼も正直、追い詰められている。ここで思わず吐露してしまったのも、その現れだった。
「総司がな……全然覚えてないみたいなんだよ」
「へ? 覚えてない?」
「まさか、短期性記憶喪失?」
 呆気にとられる三人を前に、土方は深々とため息をついた。また生姜焼きを突っつきまわしている。
「俺だって、さっぱりわからねぇよ。けど、朝になって探りを入れてみたが、何のこと? って顔をされるんだ。全然、覚えてないみたいで」
「じゃあ、本人は夜の記憶、どうなっているんです」
「俺の帰りを待つうちに、ソファで寝てしまった。それだけだ」
「え、でも、朝目覚めたらベッドでしょう? おかしいって思わない訳ですか」
 訊ねた斉藤に、土方は肩をすくめた。
「運んでくれてありがとう、だとさ」
「うーん……」
 腕組みをして唸る斉藤の隣から、永倉が訊ねた。
「つまりは、土方さんが帰ってきたことも、覚えてないって訳かい?」
「あぁ」
「それは、悩むところだねぇ。いっそ医者に連れていったらどうだい」
「……」
 永倉の言葉に、土方は眉を顰めた。
 ある意味、総司が記憶を失うということは、嫌な思い出に直結しているのだ。出来ることなら、そっとしておきたい程だ。
「……気がすすまねぇ」
「でしょうね」
 頷いた斉藤は、言葉をつづけた。
「だったら、いっそのこと、全部話したらどうです。この際、お互いの話し合いが大事だと思いますよ」
「話し合いか」
「そうそう。今日はケーキでも買って帰って、いい雰囲気になった処で切り出したら、どうだい」
「私もその方がいいと思います」
 三人そろっての提案に、しばらくの間、土方は眉間に皺を寄せて考えこんでいたが、やがて、頷いた。
「そうだな、そうするよ」
 男の言葉に、三人は安堵したように頷いた。これで、土方の機嫌もよくなって、仕事も潤滑にいくというものである。
 むろん、総司との話し合い次第だが。
 やれやれと昼食を再開した彼らだったが、その頃、事態は思わぬ方向へ進みつつあったのだった……。











「浮気ぃ!?
 思わず、平助は仰け反ってしまった。
 隣に坐る磯子もケーキを口に運びかけたまま、目をまん丸にしている。
 その前で、総司はこっくりと頷いた。
 土方と総司の家である。
 何やら相談があると云われ、二人そろって呼ばれたのだが、総司は用意していたケーキや紅茶を出すやいなやのうちに、とんでもない事を云い出したのだ。
「あのね、土方さんが浮気しているんだ」
「ま、まさか」
 平助は信じられないという顔で、呟いた。
「土方さんが、あの、総司にべた惚れの土方さんが浮気って……嘘だろ?」
「嘘じゃないから、こうして相談しているんじゃない。とにかく、土方さんが浮気していて、それでどうしようって……考えたら、何も手がつかなくて……」
「いつわかったのですか?」
 さすが、女性。
 恋愛のもめごとには馴れているのか、磯子が真剣な顔で問いかけた。
「浮気をしているって事に、気づいたのはいつ?」
「今朝。出かける時にわかったんだけど……」
 総司はケーキをぱくりと食べてから、はぁっとため息をついた。
「最近、帰りが遅くて……もちろん、お仕事だと思っていたから何も疑っていなかったんだ。でも、浮気相手と一緒にいたんだとわかって、ショックで……」
「総司さん……可哀相」
「ありがとう、いっちゃん。でもね」
 総司は可愛い顔に、弱々しい笑みをうかべた。
「今朝知ったばかりの事でしょ。だからか、まだ何だか実感がなくて……」
「つまり」
 磯子は身をのりだした。
「何か決定的なものを見ちゃった訳ですね。携帯の着信履歴とか?」
「うん……あまり云いたくないけど、でも、絶対なんだ。あんまりびっくりして、何も聞けなかったんだけど」
「聞いても答えてくれるかどうか、わからないですよ」
「……でも」
 総司は長い睫毛を伏せた。
「もしかしたら、間違いかもしれないし。本当は……そうであって欲しいし……」
 口ごもり、ぎゅっと両手を握りしめた。
 なめらかな頬は心労のせいか青ざめ、桜色の唇は微かに震えている。
 それを、平助はじーっと眺めた。


 涙を必死に堪えている総司は痛々しく、そのくせ愛らしい。
 正直な話、全然その気のない藤堂から見ても、可憐で色っぽくて綺麗だった。
 どう考えても、この総司をあれだけ愛している土方が浮気するなど、想像もつかない。
 いや、総司がここまで断言するからには、事実なのだろうが、だとすれば、いったいどんな相手なのか。


「相手はわかっている訳?」
 おそるおそる問いかけた平助に、総司は首をふった。
「全然。まだ何もわかってなくて……調べる気にもなれないし」
「調べるって、尾行でもしますか? あたし、協力しますよ」
 そう云った磯子に、総司がぱっと顔をあげた。ほっと安堵した表情になっている。
「本当? 協力してくれる?」
「えぇ。それで、相手との現場おさえて、土方さんをしっかり取り戻しましょう! 総司さんは土方さんの奥様なんですから、当然のことです」
「いっちゃん、いや、ちょっと待ってよ」
 慌てて平助は口を出した。
「尾行とか、現場おさえるとかって、それより先にまず土方さんに確認した方がいいんじゃないか? それからでも……」
「甘いっ!」
 磯子がもの凄い勢いで一喝した。
「男が浮気を問い詰められて、正直に答えると思っているの!?」
「あ、あるかもしれな……」
「そんな事ある訳ないでしょ! 決定的な証拠か現場をおさえなきゃ、絶対云い逃れするに決まっているんだから。やるなら徹底的によ!」
「そうだよね」
 総司は磯子の言葉に元気づけられたらしく、頬に赤味がさした状態で、磯子の手をとった。がっしりと握手しあう。
「いっちゃん、ありがとう! ぼく、尾行頑張る!」
「そのいきですよ、絶対、現場押さえてコテンパにしましょう!」
「うん!」
 盛り上がる二人をよそに、平助はクッションを抱え込み、「こ、こえーッ……」と呻いた。













 尾行と云っても、時間は限られる。
 何しろ、総司も磯子も平助も大学があるし、土方もいつも外に出ている訳ではないのだ。そのため、彼が仕事を終えてから相手を会うに違いないという結論に達した三人は、就業時間以降に尾行を開始することにした。
「あ、出てきた」
 その日は珍しく残業もなかったのか、土方が警視庁の玄関に姿を現したのは、夕方の事だった。ちらりと腕時計を見てから、足早に歩き始める。
 すらりとした長身に上質のスーツを纏った姿は、遠目に見ても惚れ惚れするほど恰好よかった。整えられた黒髪を、仕事が終ったからか片手でかきあげ、かるくネクタイを緩めている様にも、男の色香が漂う。
「……とことん、人目を惹く人だよね」
 平助がやれやれと云いたげな口調で、呟いた。
 あれでは、周りが放っておく訳がない。今も、土方とすれ違った女性のほとんどが、ふり返ってゆくのだ。当然、見惚れるような視線を向けている。
「だから、困るんじゃない」
 総司は拗ねたように唇を尖らした。それから、三人はこっそりと後をつけてゆく。
 土方は地下鉄に乗り、少し行った処の駅で降りた。すわ、浮気相手と待ち合わせかと慌てて三人も降りる。
 すると、土方は駅前のケーキ屋にあっさり入っていった。そこは、総司がお気にいりの店であり、ショーウインドごしに覗くと、あれこれ注文しているのが見える。


(あれって……浮気相手に持っていくのかなぁ)


 そんな事を考えると、視界の中で男の広い背がぶれた。
 いつも優しい笑顔で自分を愛してくれた彼が、別の誰かのためにケーキを買っている。
 そのことに、今更ながら、浮気されていることを実感してしまったのだ。こういうショックって、ボディブローみたいにじわじわきいてくるのだろうかと、ぼんやり考える。
「……」
 総司は慌てて両手で目をこすった。それに、磯子も平助も見て見ぬふりをしてくれる。
 ケーキを買った土方は、そのまま駅へと向かっていった。適当に距離を置きつつ尾行すると、改札口をくぐってゆく。三人も慌てて切符を買い直し、追いかけた。
「土方さん、どこへ行くんだろう」
 隣車両から様子を伺いつつ、総司は呟いた。それに、磯子が小首をかしげた。
「これって、本当に、浮気相手との待ち合わせ場所へのルートなのかなぁ」
「いっちゃん、何で?」
「だって……」
 磯子が指さした先、このまま乗っていくと、行き着く先は土方と総司の家がある町なのだ。
「まさか、すぐ近くに浮気相手の家があるなんてことは……」
「それはないだろう」
「でも、ドラマとかでもよくある設定じゃない」
「えー」
 こそこそ話しあう磯子と平助をよそに、総司はガラス越しに土方を見つめていた。
 土方は立ったままで、ぼんやりと視線を窓外にやっている。


 だい好きな彼だった。
 その艶やかな黒髪も、切れの長い目も、引き締まった口許も。
 しなやかな指さき一つまで、本当に綺麗で恰好よくて、だい好きなのだ。
 その彼の心が全部、自分だけのものじゃないという事に、総司は大きなショックを受けていた。
 今朝はまだ実感していなかったのだが、こうして再び土方を目にすると、胸の奥がきつく重くなって泣きたくなってくるのだ。
 本当なら、今すぐ隣車両へ乗り込んで、問い詰めてしまいたいぐらいだった。
 だが、そんなことしたら、何もかも終ってしまいそうで、怖くてできなくて……


「あ、降りるみたいですよ」
 磯子に声をかけられ、総司は我に返った。ひっぱられるようにして、慌てて降りたとたん、「え?」と目を瞬かせる。
 そこは、土方と総司の家がある駅だったのだ。
「? もしかして、家に帰るだけ?」
「今日は待ち合わせじゃなかったのかな」
 三人は小首をかしげながら、改札口をくぐった。だが、そこでハッとなった。
 どこにも、土方の姿がないのだ。
「え? え?」
 三人はきょろきょろと周囲を見回した。
 夕方のラッシュで駅は混み合っている。大勢のビジネスマンやOLが往き来していたが、そのどこにも、土方の姿はなかった。完全に見失ってしまったのだ。
 どうしようと、三人は思わず立ちつくした。
 その時だった。
「……どこを探しているんだよ」
 低い声が、背後からかけられた。それに、総司は思わず飛び上がってしまう。
「!?」
 慌ててふり返ると、柱の影から、土方がゆっくりと歩み出るところだった。歩み寄りながら腕を組み、総司を見下ろす。
 微かに口角をあげた。
「どうした、俺を捜していたんだろ?」
「……土方さ……」
 総司は驚きのあまり、まともに声がでなかった。気づかれているとは思ってもみなかったのだ。
 怯えきった様子で身をすくめる総司に、土方は切れの長い目をすうっと細めた。
 そして。
 身をかがめると、その青ざめた愛らしい顔を覗き込むようにして、意地悪く云ったのだった。
「尾行失敗、だな」




















尾行失敗の総ちゃん、さて?

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