「……メールが来ない……」
 今にも泣き出しそうなその声に、藤堂はおそるおそるふり返った。
 昼食時のため、とんでもなくごった返している生協食堂の中。学生たちが猛然とご飯をかきこんでいる姿の中、ぐるりと見回す。
 いや、見回す必要など何処にもなかった。
 案の定と云うべきか何なのか。
「っ……メール、来ないよぉ」
「──」
 藤堂の隣に坐った総司はうるうるした瞳で、携帯電話を見つめていた。
 大きな瞳は潤み、今にも涙がぽろりとこぼれそうだ。
 きゅっと噛みしめられた桜色の唇は愛らしく、あれだけいい男の土方が夢中になっても仕方のない可愛さ、可憐さぶりだった。
 もちろん、見た目だけではない。土方は、総司のちょっと勝ち気で、でも素直で優しい性質にもべた惚れなのだ。
 だが、しかし。
 どんないちゃいちゃバカップルでも、喧嘩はする。
 夫婦喧嘩は犬も食わぬと云うが、この場合、何と云えばいいのだろう。
「まだ仲直りできていない訳?」
 藤堂は、やれやれと思いながら、訊ねた。箸をとり、こちらも同じくエビフライを囓る。
「あれから……えーと、一週間だっけ?」
「十日。先週の金曜日の事だもの」
「ふうん。でも、総司からメールする気にはなれないって事だよね」
「……」
 とたん、沈黙してしまった総司に、藤堂は苦笑した。
 本当は仲直りしたい、逢いたくてたまらない。それが丸わかりなのに、喧嘩となると意地をはってしまう総司がある意味可愛らしい。
 しかし、珍しいなとは思った。
 総司の恋人である土方はずっと大人だから、いつも彼の方から速攻で謝ってくるのだ。宥め、謝り、総司がどんなに拗ねていても甘やかせまくって、最後には可愛い笑顔を勝ち取っている。
 その手管ときたら、さすが警視庁一のタラシと云われただけはある見事さだ。
 なのに、今回は全く連絡がない。
 事情を聞くと、土方の方に非があるように思えるのに、どうしてまたと藤堂は首をかしげていた。
 とにかく、友人としても、さっさとこの白うさぎが元気になってくれないと、気になって仕方がないのだ。
「電話すれば?」
 何度も何度も、細い指さきで携帯電話をさわっている総司に、藤堂は云った。
「総司の方から電話すれば、すぐ仲直りできるよ」
「でも……っ」
「意地はってないで、電話しちゃえってば」
 藤堂の言葉に、総司は携帯電話を胸に抱いたまま、俯いてしまった。
 きゅっと唇を噛みしめている。


 本当は、電話したいのだ。彼に逢いたいのだ。
 この間はごめんなさいと、云ってしまいたかった。
 土方さんがそんな気などないとわかっているのに、怒っちゃってごめんなさいと。


(……だけど)


 携帯電話を握りしめる手に、ぎゅぅぅっと力がこもった。


 いざ自分から謝る事を考えると、どうしてもおかしい気がするのだ。
 あんな場面を見れば怒って当然だし、それを謝らず、いきなりお説教って何?
 何様のつもりな訳?
 そりゃ、土方さんが俺様な人だとわかっているけど、でも、土方さんだってやきもち妬くじゃない!
 あの場合、ぼくが怒って当たり前だもん。
 なのに、何で?
 何で、ぼくが謝らないといけない訳!?


 細い眉を顰め、きつく唇を噛みしめた。
 どんどん意地をはりまくっていくのが、傍から見ている藤堂にもよくわかった。
 こうなればもう、手の施しようがない。
「……」
 藤堂は味噌汁を一口飲んでから、はぁっとため息をついた。
 長年のつきあいのため、総司の感情の動きが手にとるようにわかってしまうのだ。
 これは長期戦の構えかも、そう思った。
 その時、だった。
「!?」
 不意に、総司の肩がびくんと跳ねた。
 携帯電話が小さな電子音をたてたのだ。メール受信のお知らせ音だった。
 慌てて開いてみた総司の頬が、そのメールを見たとたん、ぱあっと紅潮した。大きな瞳がきらめき、ベビーピンクの唇に愛らしい笑みがうかぶ。
 誰からのメールか一目瞭然で、藤堂はやれやれと胸を撫でおろしつつ、訊ねた。
「もしかして、土方さん?」
 嬉しさのあまり、傍に藤堂がいる事さえ、すっかり忘れてしまっていたのだろう。
 総司はびっくりしたように藤堂を見ると、それから、こくりと頷いた。
「うん」
「当然、仲直りメールだよね」
「そういう事、になるかな?」
 照れくさそうに笑ってから、総司はそそくさと携帯電話を仕舞い込んだ。さっきとは打って変わった様子で、うきうきとご飯を食べ始める。
 無事元気を取り戻したらしい白うさぎを眺め、藤堂は、これで一件落着と思った。
 むろん、それは大きな大きな間違いだったのだが……。












 この間はすまない。
 逢いたい。
 今日の夜7時頃、マンションに来てくれ。





 他人が見れば、そっけないと思うだろう文面。
 だが、総司には彼の気持ちがちゃんと伝わっていた。
 もともと無口な土方は、こういうメールでも同じくぶっきらぼうなのだ。
 そんな不器用な処がまた愛しくて、総司はうふふと笑いながら、メールを何度も眺めた。
 逢いたいという言葉に、彼の気持ちが全部つまっている気がして、嬉しくなってしまう。
「久しぶりのデートだもん」
 総司はこっくり頷き、携帯電話を仕舞い込んだ。
「ぼくもちゃんと謝って、仲直りして、いっぱい好きって云って……」
 そうすれば、きっと抱きしめてくれるだろう彼のことを思い、総司は小さく微笑んだ。


 だい好きなだい好きな彼。
 少し前になるが、同居の約束をしたばかりだった。もう一度、一緒に暮らそうと約束したのだ。
 彼と一緒にいられるなら、何でもしていいぐらいだった。
 総司にとって、土方は世界中で一番大切な存在なのだ。





 地下鉄を降りると、総司は元気よく階段を駆け上がった。
 雨上がりの外はまだ路上が濡れているが、それでも、夜空が広がっている。
 都会のため星空は見えないが、イルミネーションが水たまりにきらきら反射していた。
 総司は土方のマンションへと向っていたが、ふと、視線を道路の反対側に移した。横断歩道をわたりきった処で、抱きあっている男女に気づいたのだ。


(……え……?)


 どきりと心臓が跳ね上がった。
 大きく目を見開いたまま、立ちすくんでしまう。
 美しい女だった。雑踏の中にいても、ぱっと目を惹いてしまう華やかさだ。
 この間も見た時に思ったが、すらりと長身で、いかにもキャリアウーマン風だった。
 あのホテルで見た、彼女だ。
 彼女は男の胸もとに顔をうずめていた。その細い躯を、男の両腕が抱きしめている。
 やがて、彼女は顔をあげ、それに男が何か囁いた。
 誰が見ても似合いのカップル。恋人同士だった。
 そして、その男は───


「……土方、さん……」


 総司の手から、鞄がすべり落ちた。












「……あら」
 パン屋から出てきたとたん、土方は声をかけられた。
 ふり返ると、例の見合い相手の彼女だった。
 にっこり笑いながら、こちらへと歩み寄ってくる。
「偶然ね。お買い物?」
「あぁ」
 土方は頷き、袋をかかげてみせた。
 夕食に総司と一緒に食べようと、惣菜を色々買い込んでおいたのはいいが、パンが全くない事に気づき、ここまで出てきたのだ。
「意外と家庭的なのかしら」
 くすっと笑う彼女に、土方は肩をすくめた。
 彼女とは見合い話は断ってあるが、何の偶然か、仕事で関係する事があったため、親しく言葉をかわすようになっている。もともと同じ年なので、全体でいえば同期になるのだ。
「例の話、わたしも断っておいたから。父がまた煩く云ってきたら、連絡してちょうだい」
「あぁ、その方が助かる」
「わたしもよ」
 そう云った彼女は、ちらりと後ろをふり返った。少し離れた所に、スーツ姿の年若い男が立っている。いかにも好青年という感じの男だ。
 土方の視線に気づくと、小さく頭を下げた。
「部下か?」
「えぇ。それ兼、恋人ってところね」
「ほう」
「彼がもう少し成長するまで、結婚を待っているのよ」
「なるほど、年下の男が好みか」
「あなたも同類でしょ?」
 悪戯っぽく笑う彼女に、土方は苦笑した。どうやら、総司が男の子だと見抜かれているらしい。
 彼女は「じゃあね」と手をふると、立ち去ろうとした。だが、ヒールがどこかにひっかかったのか、がくんと膝が折れる。
「おっと」
 反射的に、土方はそれを支えた。一瞬、抱えるような形になる。
 すぐさま身を起した彼女は、ちょっと照れたように笑った。
「ごめんなさい。久しぶりのデートだからって、無理してヒールはいてきたから」
「年下男相手に大変だな」
「その緊張感がまたいいのよ」
 そう云った彼女に、土方も思わず笑った。なるほど、確かにそうだと思う。
 誰だって、恋する相手にはいい処を見せたいのだ。
 彼女が歩き出してゆくのを見送り、土方は踵を返した。マンションへ戻ろうと、横断歩道を渡りかける。
 その瞬間、息を呑んだ。
「!」
 横断歩道の向こうに、総司が立っていたのだ。青ざめた顔で目を見開いている。
 それを見た瞬間、総司が何を見たのかを悟った。
 どんなふうに感じたのかも、全部わかってしまったのだ。
「総司……!」
 思わず叫んだ彼に、総司がふるふると首をふった。それから、不意に顔を背けると、逃げ出すつもりなのか、慌てて身をひるがえす。
 だが、そこには自転車が何台も止められてあり、総司はそれに思いきりぶつかった。
 勢いよく、水たまりの中に転んでしまう。
「……っ」
 土方は息を呑み、横断歩道を走った。まだ水たまりの中に坐り込み、泥だらけになっている総司の躯を、すくうようにして両腕に抱きあげる。
 とたん、総司が激しく身を捩った。
「い…やっ!」
「総司」
「やだ、さわらないで……っ」
 総司は土方の胸に両手をつっぱね、暴れた。それに眉を顰めたが、土方は人目を集めている事もあり、仕方なくその躯を降ろした。
 とたん、総司が鞄を拾いあげた。脱兎のごとく走り出してしまう。
 土方は一瞬呆気にとられたが、我に返ると、慌ててそれを追った。
「総司! 待てよ」
「……」
 総司は何も答えぬまま、地下鉄への階段を駆け下りた。
 それを追った土方は、踊り場の処でようやく捕まえた。幸いにして、人気はない。
「頼む、話を聞いてくれ」
「……」
「あれは違うんだ、誤解なんだ。彼女が転んで、それで……」
「……も、やだ」
 総司はまるで土方の言葉を聞いていないようだった。両手で耳をふさぎ、いやいやと首をふる。
 ぎゅっと目をつぶった。
「もう、いや。土方さんといるの……いやだ」
「え」
「こんなの、嫌なの。だめ、我慢できない……もうやだ」
 そう云うなり、総司はぱっと駆け出した。土方の躯を押しのけるようにして、階段を駆け下りてゆく。
 それを、土方は呆然と見送った。
 耳奥に総司の言葉がリフレインしていたのだ。


 自分といるのがいやだ。
 もういやだ、我慢できない。
 総司は確かに今、そう口にしたのだ……。


「……嫌って……おい、嘘だろ?」
 土方は掠れた声で呟き、片手で口をおおった。世界が壊れてゆくような感覚を覚え、思わず壁に凭れかかってしまう。
 階段下の方で、地下鉄の音が鳴った。発車のベルが鳴り響く。
 それが総司の乗っている電車だとわかっていたが、躯が動かなかった。追いかけることさえ出来なかった。


(……総司……)


 土方は壁に凭れたまま、固く瞼を閉ざした。












 恥ずかしくてたまらなかった。
 彼は、あんな綺麗な女性と一緒にいて、とてもお似合いで。
 なのに、自分は水たまりの中に転んだ挙げ句、泥だらけになってしまったのだ。
 それを抱きあげようとした土方に、思わず悲鳴をあげた。恥ずかしかったし、何よりも彼が汚れてしまうと思った。
 道路の向こう側、彼女と一緒にいた土方はとても綺麗だった。まるで映画のワンシーンのようだった。
 それなのに、自分は───





「……もう、やだ」
 総司はこびりついた泥を手で落しながら、きゅっと唇を噛んだ。
 あれから泥だらけのまま地下鉄に乗り、家まで帰ってきたのだ。帰る頃にはほとんど泥も乾いてしまっていたが、それでも洗濯で落ちるかどうか怪しいものだった。
 総司は気持ちをかえるように着替えをすると、洗面所でばしゃばしゃ洗濯を始めた。かるく手洗いしてから、泥落しの洗剤をかける。
 そうして忙しくしながらも、頭の中にあるのは、先程の事ばかりだった。


 恥ずかしくてたまらなかったのだ。
 あの綺麗な女性を抱きしめたすぐ後に、泥だらけのみっともない自分を見られたことが、たまらなかった。
 土方さんは、どう思っただろう。
 久しぶりに逢ったのに、あんなみっともないぼくを見て、もしかして幻滅した……?


「…っ…ぅ……」
 総司はあふれる涙をこらえきれず、その場に坐り込んでしまった。
 もともと似合いだとは思っていなかった。
 土方は自分よりずっと大人の男だし、あんなにも何もかもに優れているのだ。
 端正な顔だちに、引き締まった長身。見た目ばかりでなく、強く、優しく、いつも真摯だ。頭も切れ、仕事もできる。
 そんな彼と自分が似合いだなんて、一度だって思った事はなかった。
 だが、それでも。
「……好きなんだもの」
 総司は涙声のまま、呟いた。ぎゅっと、両手を握りしめる。
「好きで好きで、仕方ないんだもの……っ」


 逢いたかった。
 傍にいたかった。
 彼が一緒にいてくれるなら、それだけで幸せだった。本当に、だい好きだった。
 だからこそ、もう一度同居しようと思ったのに。


「何で、こうなっちゃうの……」
 総司はぐずぐず泣きながら、携帯電話を取り出した。土方と別れた後、携帯電話はずっと沈黙している。
 だが、今はそれが逆に有り難かった。今日の自分がみっともなくて情けなくて、とても彼と話す気になれなかったのだ。
 泥だらけになって、勝手に怒って、彼を突き飛ばすようにして帰ってきてしまった。
 子どもだと呆れているに違いない土方を思うと、頬がかっと火照った。恥ずかしくてたまらなくて、やだやだやだーっと大声で叫びたくなる。
 総司は洗濯機をまわし、キッチンに戻った。とりあえず晩御飯をとろうと思ったのだ。
 冷蔵庫をあけたとたん、ふと、今頃、土方さん、あの女の人と食事をしているのかな?と思った。そのとたん、食欲がなくなってしまう。
 はぁっとため息をついた総司は、冷蔵庫のドアをぱたんと閉めた。


















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