事の起こりは喧嘩だった。
 喧嘩をしてもいい時間帯なんてのはないが、支度で慌ただしい朝にするべきではないと、二人ともわかっていた。前にも一度それで失敗して、騒ぎになった事があるのだ。
 だが、わかっていても、やっちゃったものは仕方がない。
 問題なのは、その後だ。
 「勝手にしろ!」「勝手にします!」の応酬の後に仕事場へ向かった土方は、本庁に着いてから頭が冷えた。
 あそこまでヒートアップすることもなかっただろうと思ったのだ。そのため、帰宅する時は、仲直りするつもりで家路をたどった。
 だが、しかし……












 斎藤一の趣味は、音楽鑑賞である。
 仕事で疲れきった身体をひきずって帰宅した後は、酒を飲みながら、お気にいりの音楽を鑑賞するのが最大の楽しみなのだ。
 その夜も、斎藤は一人がけソファに身を沈め、のんびりまったりと音楽に聞き入っていた。もちろん、酒もつまみも用意してある。
 部屋の中に美しい旋律が響き渡り、斎藤はうっとりと至福の一時に酔いしれた。
 その時である。


 ピンポーン!


 当初、斎藤は無視しようと思った。
 こんな時間に(もう夜の12時だ)訪ねてくるなど非常識極まりないし、酔っぱらいの悪戯という可能性もあるのだ。と言っても、ここは官舎であるため、可能性は低かったが、警察官と言っても人は人。中には非常識な人も、酔っぱらいもいるであろう。
 斎藤はピンポーンと鳴ったこと自体をなかったことにして、そのまま音楽に聞き入った。念のため、少しだけボリュームをあげる。
 だが、それで事はおさまらなかった。


 ピンポーン!ピンポーン!ピンポーン!ピンポー……(以下省略)


 いつまでもいつまでも、呼び鈴は鳴り続けるのだ。
「何なんだ、いったい」
 斎藤はとうとう立ち上がり、ドアフォンのテレビ画面を覗き込んだ。とたん、「げっ」と呻いてしまった。
「ひ、土方さん……」
 何がどうしたのかわからないが、とにかく、そこにはさっき本庁で別れたばかりの土方が立っていたのだ。
 斎藤は正直な話、開けたくないなぁと思ったが、そういう訳にもいかない。仕方なく玄関へ向かい、ドアを開けた。
 やはり、そこには土方が立っている。
「どうしたんです、いったい」
 当然のことながら、斎藤はそう訊ねた。だが、それに土方は無言のまま切れの長い目をむけていたが、やがて、はぁっとため息をついた。
 むっとする。
「……とことん非常識な人ですね。真夜中にいきなり人の家を訪ねてピンポンラリーをした挙句、ため息ですか」
「いや、悪い」
 一応謝りながら、土方は中へ入った。さすがに廊下でこの時間に会話するのはまずいと思ったのだろう。
 ただし、玄関の土間に佇んだまま、土方はいきなり訊ねた。
「念のため聞くが、ここに総司はいねぇよな?」
「は?」
 斎藤は思わず聞き返してしまった。
「総司って……なんで、ここに?」
「いや、だから、いねぇよな」
「当然じゃないですか」
「だよな」
 まったく意味のわからぬ会話をしてから、土方は踵を返した。それを慌てて引き止める。
「何なんですか、いったい。きちんと説明して下さいよ」
「説明か」
 土方はちょっと考えこんでから、あっさりと答えた。
「総司が家出した」
「はいー?」
「今朝喧嘩をしたんだが、帰ってみたら家にいなかった。荷物も減っていたし、書き置きまであれば家出だろう」
「何ですか、それ」
 斎藤は呆れ返った。


 淡々とした調子で言っているが、その実、土方もかなり慌てているのだろう。
 その証に、こんな時間だというのに斎藤の家へ来ているし、よく見れば、スーツ姿のままだ。
 書き置きを見るなり飛び出してきたに違いない。


 斎藤は時計をふり返り、言った。
「とにかく、あがって下さい。それから、もう遅いし、今夜はここに泊まっていった方がいいですよ」
「いいのか」
「ここで帰したら、土方さん、一晩中探しまわりそうじゃないですか。明日の仕事に支障がある方が困ります」
「……なるほど」
 斎藤の言葉を否定せぬまま、土方は框にあがった。「お邪魔します」とそこだけは行儀よく断り、さっさと部屋の中へ入ってゆく。
 流れっぱなしの音楽デッキと、酒やつまみを見ながら、土方はスーツの上着を脱いだ。それに、斎藤が訊ねる。
「土方さんも、飲みますか」
「あぁ、少し貰えると有り難い」
 斎藤は手早く水割りをつくると、ソファに腰を降ろした土方の前に置いた。夕食も未だだろうと思い、夜食のようなものを用意する。
「すまない、面倒をかけるな」
「慣れました。で、総司が家出した原因は喧嘩ですか」
「そうなるだろうな」
「何か、総司が怒るようなことをしたとか」
「どちらかと言うと、俺が先に怒った」
「土方さんがですか……ってことは、例の」
「伊庭って男だよ」
「なるほど」
 忌々しげに吐き捨てた土方を前に、斎藤はやれやれと首をふった。


 伊庭という男は総司が運転免許をとるために通っていた教習所の教官なのだが、免許取得後も何かかにやと総司とつきあいが続いているのだ。
 総司はあくまで友人としてつきあっているらしいが、伊庭はどう見ても総司に恋心をもっている。それだけに、土方もついつい過敏になってしまうのだ。


「また、伊庭と今週逢いたいって言い出したんだ。それも夜に食事をして、あちこちで遊ぶとか言われてさ」
「え、それって、思いっきりデートじゃないですか」
「まぁな。初めは俺も冷静に、断ってくれないか、やめて欲しいと言ったんだ。けど、総司、すげぇ強気で、絶対に出かける約束したんだからの一点張り。とうとう俺も頭にきちまって、勝手にしろと言って家を出たんだが」
「で、帰ってみたら、いなかったと」
「あぁ」
 低い声で答え、土方は荒々しくグラスの水割りを煽った。
 他の男ならそんな飲み方をすれば、一発で酔ってしまうだろうが、生憎、土方は酒も強いのでまったく酔わない。本人としては酔ってしまいたい処だろうが。
 斎藤は、ふむと腕を組んだ。
「珍しいですね、総司にしては」
「おまえもそう思うか」
「だって、そうでしょう。以前、ある程度、伊庭って男とのつきあいはセーブすると約束したはずじゃないですか。それに、総司はこっちが嫌になるぐらい、いつもあなたを最優先している。あなたが嫌だと言えば、あっさり断りそうなものなのに」
「……」
「土方さん」
「何だよ」
 きつい口調で聞き返した土方に、斎藤は目を向けた。
「その前の夜、総司の機嫌が悪くなるようなことをしたんじゃないですか」
「してねぇよ」
「本当に?」
「しつこいな、おまえも」
 土方はソファの背に凭れかかり、切れの長い目で斎藤を見やった。それが流し目のようで、同性から見てもぞくりとするほど男の艶がある。
「早めに帰ることが出来たから、あの夜は仲良く総司のつくった飯を食って、一緒に風呂も入って色々して……」
「はいはい、その辺りはスルーで結構ですから」
「で、ベッドでも色々して、総司も機嫌よく寝たはずなんだ。事の後、にっこり笑っておやすみなさいとキスしたのも覚えているし」
「じゃあ、翌朝です。起きてすぐはどうだったのです」
「さぁ……どうなんだろう」
 微かに眉を顰めた。
「俺も朝は支度で忙しいからな、朝飯食っている最中に話を切りだされたし、機嫌がどうだったかまるで覚えてねぇよ」
「挨拶はどうなのです。朝の挨拶、総司からありましたか」
「あったと思うぜ。……いや、待てよ」
 土方は考えこむような表情になった。グラスを口元に当てたまま、考えている。
「確かに、おはようと言われたが、なんか……変だったな。いつもの元気の良さがなかった気がする」
「じゃあ、夜の間に何かがあったんですよ」
「夜?」
「決っているじゃないですか。おやすみなさいと言ってから、おはようと言うまでの間に、何かがあったとしか考えられません。土方さん、身に覚えはないんですか」
「全然、ねぇよ。俺、朝までぐっすり眠っていたし」
「ぐっすりって……何かあったら、起きるでしょう。土方さん、けっこう敏感な方じゃないですか。眠り浅いし」
「いや、総司の傍では違うんだ。総司がいるからかな、すげぇ安心して眠っちまうのさ。もう俺はあいつなしじゃ熟睡できねぇかもな」
「……」
 どこまでもどこまでもラブラブな熱愛ぶりの話に、斎藤はげんなりしたが、ここで話を放り出すわけにはいかなかった。
 というより、斎藤自身、総司が心配だし、それに、何がどうなっているのか知りたいという好奇心もある。
「とにかく、謎は夜にあるんですよ」
「夜なぁ」
「そうだ、書き置き。書き置きがあったんでしょう? 何て書いてあったんです」
「家を出ます、仲直りする気になったら探して下さい、だったかな」
「うーん……全然、ヒントありませんね」
「総司を探す他ねぇよ。考えているより、まずは会って話がしたい」
「で、オレのところにやってきたと」
 ふむと頷いてから、斎藤は時計に目をやった。もうとっくの昔に真夜中を過ぎてしまっている。
「とりあえず、今夜は寝ましょう。明日も仕事ですし」
「……」
「まさか、総司を探すために休むなんて言いませんよね。そりゃオレも心配ですけど、それとこれとは別ですよ」
「わかっているさ」
 土方は低い声で答えてから、立ち上がった。「風呂、借りるぞ」と一言だけ言ってから、リビングを出てゆく。
 それを見送り、斎藤は、どうしたものかと考えこんだのだった。













「は? 家出?」
 平助は思わず聞き返してしまった。
 土方が斎藤の家へ乗り込んだ夜の翌日だった。大学の生協食堂の一角である。
 講義は違うが、もともと一緒に昼ごはんを食べようと約束していたので、平助は総司と一緒に食事をとっていた。その最中にいきなり言われたのである。
 思わず念押しした。
「まさかと思うけど、それ、総司のこと? 総司が家出したってこと? それか、逆に土方さん?」
「ぼくの方だよ」
 オムライスを食べながら、総司はベビーピンクの唇を尖らせた。
「土方さんは家出なんてしないもん。でも、昨日の朝、大喧嘩しちゃって、家を出てきたの。腹がたって仕方がなかったから」
「大喧嘩って……何が原因な訳?」
「はじめはね、ぼくが伊庭先生と会うことだったんだ」
「総司―」
 思わず、平助は唸ってしまった。
「それダメだって言っただろ? 伊庭先生は土方さんの恋敵、つきあいはよく考えた方がいいのに」
「わかっているよ。ぼくだって、ちゃんとセーブしていたもの。でも」
「でも?」
「……」
 総司はぎゅっと唇を噛みしめた。それから、小さな声で言った。
「自分は縁談もあって、結婚するかもしれないのに、ぼくの友達づきあいに口出しするっておかしくない?」
「……はぁあ?」
 平助は目を丸くした。
「何だよ、それっ」
「……」
「結婚って、縁談って、土方さんにそんな兆候がある訳?」
「ちょっと前だけど、見合い写真を持って帰ってきていた。ぼくに隠しているつもりだったみたいだけど、書斎で見つけちゃったから」
 総司は長いまつ毛を伏せた。
「とっても綺麗な人だった。でも……その時はスルーしようと思ったんだ。土方さんのこと、ぼくも信じていたし」
「けど、今は信じられないってこと?」
「うん」
「何で」
「指輪、見つけたんだ」
 スプーンをぎゅっと握りしめ、言葉をつづけた。
「夜、土方さんが眠った後、水が飲みたくなってキッチンに行ったの。で、土方さんの鞄にけっつまずいちゃって、中からケースが出てきたんだ。何だろと思って見てみたら、可愛いダイヤの指輪で……」
「嘘だろ」
「ぼくだって、そう思ったよ!」
 総司は勢い良く叫んだ。
「慌ててしまいこんだけど、絶対にあれは婚約指輪だった。こんなの信じられる? 酷すぎると思わない?」
「いや、ちょっと待って。その指輪、総司のために買ったって事も……」
「ぼくの指には入らないよ。とっても小さくて女の人用なの、明らかだったもの」
「うーん……」
「挙句、翌朝、ぼくがイライラしてても全然気づかないし、伊庭先生と会うことに怒り出すし、勝手すぎる土方さんにかぁーっと頭にきちゃったんだ」
「総司、それって、かなりまずい状況じゃ……」
 思ったより深刻な状況に、平助は青くなってしまった。


 未だ信じられないが、本当に土方が結婚するつもりであるのなら、とんでもない修羅場展開になること間違いなしだった。
 今までの二人の関係から考えても、総司は恐らく身を引くと言い出すに違いない。どんなに辛くても彼の幸せを願うに違いないのだ。
 なら、シリアス展開になることは間違いなかった。藤堂としては、大切な友人である総司がまた辛いめにあう処など、見たくないのだが……


「これから、いったいどうするつもり……?」
 平助はおそるおそる訊ねた。
「土方さんがもしも結婚したら、総司、あの家を出ることになるだろ。いろいろと大変なことに……」
 言いかけた平助を、総司が呆気にとられた顔で見た。
「なんで、ぼくが家を出なきゃいけないの?」
「だ、だってさ、土方さんが結婚したら、奥さんが家に入って……」
「そんなこと許す訳がありません」
 きっぱりと総司は言い切った。大きな瞳が勝ち気そうにきらきらと輝いている。
「ぼくと別れて結婚なんて、絶対に許さない! 相手が誰でも関係ないもん」
「そ、総司?」
 平助は目を丸くした。それに、総司はオムライスをぱくぱく食べながら言葉をつづけた。
「昔のぼくならね、身をひかなくちゃとか思ったに違いないよ。でも、今のぼくは違うの。色々なことがあったんだもの。ぼくは土方さんの恋人なの、それもずっと死ぬまで恋人だと約束しあったんだから。その約束は絶対に何があっても守ってもらうのです」
「そ、そこに愛は……」
「もちろん、あるよ。でも、今は完全に怒ってる。頭下げるまでは絶対に許しません」
 確かに、今の総司はどう見ても、悲しんでいるというよりは怒っていた。完璧に怒り心頭状態だ。
 こえーと思いながら、平助は呟いた。
「だから家出した、と」
「うん、ぼくの決意を知ってもらうためにもね」
「今、どこにいるんだ? ホテルとかに泊まっている訳?」
 そう訊ねた平助に、総司は顔をあげた。大きな瞳でじーっと見つめている。それに、平助は思わず身を引いてしまった。
「な、何?」
「ここでぼくがどこにいるか答えたら、それ、磯子ちゃんに言うでしょ。そうしたら、即座に土方さんへ連絡いっちゃうんでしょ」
「そ、そんなこと……」
「だーめ。絶対に内緒だから」
 総司は断言すると、再びオムライスをぱくぱく食べ始めた。それを眺め、平助はため息をついた。


 今も、陽だまりの中、総司はまるで美少女のように綺麗だ。可愛らしい。
 さらさらと絹糸のような黒髪に、長い睫毛、大きな瞳、ふっくらとしたベビーピンクの唇。真っ白な肌はなめらかで、ほんのり桜色に染まっている頬は、しっとりとした花びらのようだ。
 華奢な身体に、白いセーターとジーンズをつけている姿は、ボーイッシュで可憐な美少女そのものだった。そこらのアイドルも顔負けの可愛さに、食堂を歩く男たちのほとんどがふり返っていく。
 同性だと知られていても、総司はこの大学で男たちから絶大な人気を得ているのだ。本人は全く知らぬことだが。
 しかも、素直で優しくて、ちょっと気の強いところさえ可愛い総司が傍にいるのに、あの土方が結婚するなど到底考えられることではなかった。
 そもそも、総司をあれだけ溺愛してきた男が、他の誰かと結ばれることなど想像もつかない。


(絶対、何かこんぐらがっているよなぁ)


 平助は、昨夜の斎藤と同じように、どうしたものかと考えこんだのだった。