──交渉時において、相手の要求内容を詳細まで吟味せぬうちから、その要求を承諾してしまう事は、我々警察官の職務上、むろん論外の愚挙である。
 だが、それは職務上のみならず、日常的な場合──所謂、交際相手との会話においても、よーく留意しなければならない事なのだ。

 お願いごとを叶えてやると約束するのは、その内容をよーく聞いてから!
 とくに、ピンクうさぎ相手の場合は、絶対必須!

 これは、己自身にも肝に銘じておきたい事柄だと、しみじみ思う……。

斉藤一の日記より抜粋










「……うーん」
 低く唸り、土方はデスクに頬杖をついていた。
 警視庁組織犯罪対策部のセクションの、一角である。
 というか、その中心。
 課長である近藤のまん前にある席で、土方は先程から考え事に耽っていた。むろん、どう見ても仕事関係ではない。
 本日のノルマであるデスクワークは先程さっさと終わらせてしまい、今日は定時退社かという有様なのだ。
 ここで課長の近藤がいれば、これ幸いと近藤家のホームパーティなどに誘われたりするのだが、今日は出張だ。
 土方は形のよい眉を顰め、僅かに目を伏せていた。
 その端正な横顔には、明かな憂愁の翳り。
 いい男は何をしていても絵になるのだから、得である。
 そのもと警視庁ナンバー1たらし(注:総司と恋仲になる前である。現在進行形であるのなら怒り狂った総司に食事抜きにされるか、もしくは平手打ちくらわされる)は、時折、はあーっとため息をついている。
 それは、先ほどから何度もくり返されている光景で。





「あれ、どうしたの?」
 その様子を遠巻きに眺めていた永倉が、傍を通りかかった島田に訊ねた。
「あれ、とは」
「土方さんだよ。なーんかさ、あそこだけ重苦しい暗雲たちこめてね〜?」
「暗雲…ですか」
 島田は訝しげに土方の方を見やったが、別にその上司の頭上に雲がのっかっている訳ではない。
 ただ、何となく、彼の雰囲気が重いのだ。
 いやいや、別にいつもどこかの誰かのごとく、明るく軽くって訳ではないが。
 どちらかと云えば、どこか翳りをもっている男なのではあるが、今日はいつもより格段に重苦しい。
「どーしたんでしょうね」
 珈琲を入れにいってきた斉藤が、カップ片手に呟いた。
 しばらく眺めていたが、不意に、よし!と一人気合いを入れると、さっさと土方の方へ歩み寄っていった。
 それを島田と永倉も追う。
「土方さん」
 突然、声をかけられ、土方は物思いから覚めたような表情で顔をあげた。
 そこにいるのは、古くからの友人であり(悪友とも云う)同僚である斉藤だ。
「いったい、どうしたのですか」
「え」
「さっきから、ため息ばかりついて。相談ごとなら、乗りますよ」
 にやりと笑ってみせた斉藤に、土方は肩をすくめた。
「おまえに相談したら、すぐまた相談料請求されるだろうが」
「人聞きの悪い。ま、聞くだけなら、CD一枚ぐらいでいいですが」
「とか云って、去年発売された一枚10万円とかいうプレミアCDじゃねぇだろうな」
「よくわかりましたねー!」
 斉藤は声をたてて笑ったが、土方は笑い話どころではないのだ。
 あの日から、真剣!!に悩みつづけているのだから。
「とにかく、俺は今金がねぇから、あっち行ってくれ」
「とは云っても、隣の席がオレの場所ですから」
「……」
「ま、長いつきあいのよしみで、特別に無料で聞いてあげましょう。で、何です。どうしました。もうすぐホワイトデーだってのに、総司と喧嘩でもしましたか。いよいよ総司と別れる気にでもなりましたか」
「……斉藤」
「というのは冗談で……本当に、いったいどうしたのです」
「……」
 一瞬、土方は話すべきかどうか、悩んだようだった。
 が、結局は僅かに目を伏せると、ぽつりぽつりと話し始める。
「……実は……」
 実際、彼自身もどうしたらいいのかわからず、誰かに相談したくて仕方がなかったのだ。
 独立独歩の土方にしては珍しい事だが、ある意味、それだけ困っているという事だろう。
 結局、土方は、興味津々の三人を前に、あらいざらいを話したのだった。



 ……事は、数日前に遡る。 








「今年のホワイトデーは、ホワイトチョコのケーキを買ってね♪」
 総司がにこにこ可愛い笑顔で云ってきたのは、休日の朝の事だった。
 かわいい恋人お手製の朝食を食べ、掃除も洗濯も終わって。
 ゆったりリビングでくつろいでいた土方の隣に、ちょこんと坐った総司は嬉しそうにそう云ったのだ。
「チョコケーキか」
「あ、もちろん、甘さ控えめのを買って、二人で食べましょうね」
「あぁ」
 頷いてから、土方はちょっと考えた。


 毎年毎年、総司はバレンタインの時にチョコでつくったお菓子を贈ってくれる。
 たくさんの愛をこめて。
 それに対して、土方はホワイトデーにそれなりのお返しをしてきたつもりだが、ただ、どうしても買ってきたお菓子を食べておしまいになってしまうのだ。
 総司がしてくれている事に比例すると、かなり差があるんじゃないのか。
 ホワイトデーは三倍返しと聞くし。
 なら、今年は、総司自身の希望を聞いて、何かもっと違うプレゼントをしてもいいんじゃないだろうか──?


 こんな事を考えたのには、もちろん、理由があった。
 土方はここのところ仕事が忙しく、総司との外出の約束などを悉くキャンセルしてしまっていたのだ。
 この休日だって本当ならデートでもすべきなのだろうが、彼自身が疲れている事を知っている総司は、昨夜、
「せっかくの休日だもの。ゆっくり休んでね。それに、ぼくは土方さんと一緒にいれたら、外でも家でも幸せだから……」
 などと、ふんわり柔らかな笑顔で云ってくれたのだ。
 いつも彼の事を気づかい、彼のためにと色々頑張ってくれている総司。
 そんな総司に、土方は何かしてやりたいと心から思った。
「あのさ、総司」
 優しく指さきで総司のさらさらした髪を梳いてやりながら、土方は少し躊躇いがちに云った。
「ホワイトデーなんだが……今年は、もっと何か別にプレゼントしようか?」
「えっ」
 総司はびっくりしたように、目を見開いた。
「プレゼントって、土方さんがぼくに?」
「あぁ。おまえがしてくれる事に比べたら、チョコケーキぐらいじゃ……それに、この処おまえに我慢ばかりさせているし」
「そんな、いいんですよ」
 総司はふるふると首をふった。
「ぼく、我慢なんかしてないし。それに云ったでしょう? 土方さんといられるだけで、幸せ♪って」
「総司……」
 可愛い恋人のいじらしい言葉に、土方の胸は熱くなった。


 この可愛い恋人のためなら、どんな困難な事でも成し遂げてやろう!
 何が何でも、その願いを叶えてやろう!


 そう心に固く誓った(……この時は)。
「その言葉は嬉しいが、遠慮せずに云ってくれ。何か欲しいものはないか? 何か俺にして欲しいことは?」
「え……うーん……」
「おまえの願いを叶えてやりたいんだ。絶対そうしてやりたいんだ」
 きっぱり云いきった土方を、総司は綺麗に澄んだ瞳で見上げた。
 ちょっとだけ考えてから、なめらかな頬をぽっと染める。
 長い睫毛がそっと瞬いた。
「……あのね」
「あぁ」
「本当は、して欲しい事があるんだけど、でも……その、土方さん、だめって云うだろうし……」
「そんなこと云うものか」
 云いきってから、土方はある事に考えが至り、慌ててつけ加えた。
「と云っても、俺と別れてくれとか、そういうのは絶対に駄目だぞ! 何があっても、俺はおまえを離さなねぇからな」
「えっ、やだもう〜♪ 何を云ってるんですかぁ」
 総司はきゃっきゃっと嬉しそうに笑った。
 彼の独占欲丸出しの言葉が、事の他お気に召したらしい。
 ぎゅっと抱きしめる土方の腕の中で、総司はくすくす笑いながら彼の頬にキスをした。
「だい好きなあなたと別れるなんて、あるはずないでしょう?」
「総司……」
「ぼくのね、願いごとは小さな事なんです。でも……本当に叶えてくれる?」
「あぁ、絶対に」
 土方はしっかり頷いた。
「約束するよ。絶対に叶えてやる」
「本当の本当に? 後で、やっぱり駄目って云わない?」
「もちろん、男の約束だ」
「じゃあね」
 総司は大きな瞳をきらきらさせると、土方を見つめた。
 そして、云った。


「土方さんのブロマイド写真が欲しいのー!」


「…………は?」
 たっぷり10秒ほど沈黙してから、土方は聞き返した。
 それに、総司はにこにこ笑いながら、言葉をつづけた。
 とっても、うきうきらんらん♪と。
「モデルの時みたいに、プロの写真家さんに撮ってもらった写真。その撮影現場も勿論見せて欲しいし〜♪ だって、ぼく、土方さんのモデル時代の写真、ちゃんとしたの全然もってないんだもん」
「……ちゃんとしたのって……」
「雑誌のね、コピーを信子さんがくれたの。でも、それって生写真じゃないでしょ。ぼくは、とっても格好いい土方さんの生写真が欲しいの。あっ、もちろん、ちゃんとポーズつけてね、プロの写真家さんに撮ってもらうんだから、すっごく綺麗だろうし、素敵だろうし♪ うふふっ、楽しみ〜♪」
「ちょっ…ちょっと待ってくれ!」
 果てしなく幸せ妄想にひたっていきそうな総司を、土方は慌てて遮った。
 その細い肩を掴んでこちらを向かせ、超真剣な口調で話しかける。
「何で、俺の写真? っていうか、いつもデジカメで撮ってる奴じゃ駄目なのか?」
「だって、あれじゃただの記念写真でしょ」
「それで十分だろうが」
「どこが。ぼくが欲しいのは、土方さんのブロマイド写真! 撮影現場見学つき! それしかいらないのっ」
「それしかいらないって……」
 あまりの要望に絶句している土方に、総司は小首をかしげてみせた。
 大きな瞳がじいっと彼を見つめる。
「……だめ?」
「え……いや、その……」
「土方さん、何でも叶えてくれるって云ったのに。男の約束だって云ったのに」
「云った……そりゃ云ったが……」
 口ごもる土方に、総司の大きな瞳がうるうるっとなった。
 いや〜な予感に慌てて見やれば、桜色の唇はきゅっと噛みしめられ、今にも泣き出しそうだ。
 細い指さきが彼のセーターの端を、そっと掴んだ。
「やっぱり……だめ?」
「…………」
 黙ったまま土方は視線を落とした。
 それから、はぁあぁっとため息をつき、瞼を閉じる。
「……わかった」
「え」
「わかったよ。何とかするよ」
「! やったぁ♪」
 とたん、総司の可愛い顔がぱぁっと輝いた。先程のうるうる目はどこへやらで、なめらかな頬を紅潮させ、両手をあげて大喜びしている。
 その様子に、さすが慣れた恋人である土方は驚きはしなかった。
 そして、ため息をつきながら、呟いたのだった。
「……わかってて、嵌められる俺もなぁ……」








 話を聞き終わった三人は、しばらく沈黙していた。
 やがて、はぁ〜っとため息をついた永倉が、しみじみ呟いた。
「……男の約束、とはね」
「……」
「そんなものしちまったんじゃ仕方がない。あんた、腹くくって写真撮影だよ」
「ですね」
 傍らの斉藤もこっくり頷いた。
 島田は「うーん」と唸っている。
 話を終えたきり遠い目をして黙りこんでいる土方の傍に、斉藤は椅子を引いて坐った。
 マグカップを置きながら、云う。
「だいたい、もとモデルでしょう? 慣れたものじゃないですか」
「あれは若気の至りって奴だ」
「若気の至りも何も、土方さん、まだ三十前でしょう。十分、モデルやれますよ」
「あのな! 俺はモデルやりたいんじゃなくて、どうしたらこの写真撮影を回避できるか悩んでるんだろうがっ」
「回避不可能でしょ〜」
 永倉がにやにや笑いながら、嘴を突っ込んだ。
「何しろ、あんたの可愛い可愛い総ちゃんと約束しちまったんだ。ここで、今更いやだってあんた云えるかい?」
「……」
「駄目だね、だめだめ。誰にでも強気なあんたも、総司くんには弱いからねぇ。溺愛しすぎって奴?」
「シスコンのおまえに云われたくねぇよ」
「麗しき兄妹愛と云って欲しいね」
 あぁ云えばこう云うの永倉相手に、土方はうんざりしたようにため息をついた。
 結局のところ、何の助言も得られていないのだ。話すだけ無駄のようだった。
 諦めて、自ら総司に頭下げて謝ろうかと考えはじめた時、不意に、土方のスーツの中で携帯電話が鳴った。
「……」
 もしかして総司か!? と、ちょっと怯みつつ、土方は携帯電話を開いた。
 だが、表示を見たとたん、パタンと閉じたくなってしまう。
 果てしなく、いや〜な予感がしたのだ。だが、しかし。ここで電源落としたら、本庁へ直接電話してくる事は目に見えている。
 土方はしぶしぶながら、通話ボタンを押した。
「……はい」
『あ、歳? 元気してる〜♪』
 この馴れ馴れしい声の主は、もちろん、土方の姉である信子である。
 そのうきうきした口調に、嫌な予感はますます強まった。
「何の用だ。今、忙しいんだけど」
『あら、相変わらず愛想なしねぇ。可愛い総ちゃんとは大違い』
「……」
『ところで、歳、ブロマイド写真撮るんですってね♪』


 信子の言葉に、やっぱりな!と思った。
 話の出所がどこかなどと、聞く必要もない。
 嫁と姑の(この場合、恋人と小姑)仲が悪いよりいいに越した事はないが、仲が良すぎるのも場合によっては困るものなのだ。


「絶対、姉さんは撮影現場に立ち入らせねぇからな」
『何よ、それ〜! せっかく小島さんに連絡とってあげたのに』
「はあっ!?」
 土方は思わず聞き返してしまった。
 驚くのも当然だ。
 小島は一流カメラマンであり、土方がモデルをしていた頃、ほとんど専属のように撮ってくれていた相手だった。土方自身も、小島の包容力のある人柄と、彦五郎の知り合いでもある事から、すべて彼に一任してきたのだ。
 小島は土方の写真集を出したいとまで強く惚れ込んでいたが、その話が実現する前に土方はモデルを辞めてしまい、その時もかなり残念がったという話だった。
 しかし、その小島にもう話を通してしまったとは!
 こっちは総司に謝って、この事はナシにしようと思っていたのに!
「姉さんっ!」
 思わず叫んでしまった土方に、信子はうふふっと笑った。
『びっくりした? でも、小島さん喜んでたわよ〜。また、あんたの写真が撮れるなんて思ってもみなかったって。いい男になったでしょうねって云われて、もちろんって云っておいてあげたわ♪』
「云っておいてあげたって……そんなの、何考えてるんだよっ! 俺は写真撮影なんて全然やる気……」
『……全然やる気……で、何?』
「────」
 不意に変わった声に、土方は絶句してしまった。
 いつのまにやら、電話の相手が、可愛い恋人に変わってしまっていたのだ。
 思わず携帯電話を耳から離し、聞き間違えかとばかりに、マジマジと見つめてしまう。
 だが、電話からは、聞き慣れた──甘く澄んだ声が、何度も彼に呼びかけた。
『土方さん? ねぇ……土方さんってば』
「……あ、あぁ。総司、おまえ……」
『びっくりさせてごめんなさい。今ね、信子さんの家にいるの。だから、電話かわってもらったんだけど』
「そうか。いや、その……」
『全然やる気……ないの?』
 不意に問いかけられ、土方はうっと詰まった。
 無意識のうちに、何度も前髪を片手でかきあげてしまう。
 それらを周囲にいる永倉や斉藤、島田がじいいっと見ている事は知っていたが、気にする余裕は全くなかった。
「やる気、そのあるというか……ないというか……その……」
 彼らしくもなく口ごもる土方に、総司は甘い声で追い討ちをかけた。
『まさか、今になって嫌って云わないよね? 土方さん、お願いだから、そんなこと云わないで』
「総司……」
『ぼく、とっても楽しみにしてるの。嬉しくて嬉しくて、信子さんに思わず話しちゃったぐらいで。そうしたら、信子さん、すぐに小島さんってカメラマンさんに連絡とってくれて』
「そ、そうか。そりゃ良かったな」
『うん! だから、お願いね♪ すっごく楽しみにしてるから』
「あぁ……」
『じゃ、晩御飯用意して待ってるから、早く帰ってきてね♪ 今夜は、土方さんの好きな肉じゃがですよ。一緒に食べたいから、待ってるね♪』
 ラストに、ちゅっとキスの音をさせてから、総司は電話を切った。
 しばらくの間、土方はその携帯電話を凝視していた。だが、やがて、のろのろとスーツの胸ポケットに仕舞い込む。
 そのまま、はぁああっとため息をつくと、頭を抱えこんでしまった。
 斉藤が傍らから、呆れたような口調で云った。
「全然、断れてないじゃないですか」
「……あぁ」
「それどころか、念押しされて、話どんどん進んでるみたいだし」
「……」
「土方さんって、本当に総司限定で弱いんですよねぇ」
 そう云ってけらけら笑う斉藤に、「おまえにだけは云われたくねぇよっ!」と思ったが、もはや云い返す気力さえ残っていなかった……。