恋しちゃう瞬間に、理由なんてないの
 ただもう
 好きで好きでだい好きで

 気がつけば
 朝も昼も夜も
 いつまでも

 ぼくはあなたに恋してる……












「……総司」
 低い、どこかはりつめたような声に、びくりと肩が震えた。
 はっと我に返って、顔をあげる。
 柔らかな音楽が流れる、街角の小さなカフェだった。
 その窓際の席、秋の昼下がり。
 窓ガラス越しにひろがる秋の空は美しく晴れ渡り、ぽかぽかした日射しがとても心地よい。
 目の前に置かれたカップには、とっくの昔に冷めてしまったミルクティー。
 意味もなくそれをスプーンでかきまわし、総司はちょっと息を吸った。
「えっと……何?」
「何じゃねぇよ」
 ひどく不機嫌そうな顔の土方に、小首をかしげてしまう。
 自分は何か、いけない事でもしたのだろうか。
 ついさっきまで、久しぶりのデートに上機嫌だった男は、今どこから見ても不機嫌の極みだった。形のよい眉を顰め、深く澄んだ黒い瞳をまっすぐこちらへ向けている。
 固く引き結ばれた唇が、彼の苛立ちを如実にあらわして。
 だが、そんな不機嫌そうな表情でも、綺麗に格好よく見えてしまうのだから、いい男は得だ。
 今も濃紺のタートルネックに、洗いざらしのジーンズというシンプルな格好ながら、カフェ中の女性客の視線を一身に集めてしまっている。


 この人って、、どうしてこうも華があるんだろう。
 ほら、黒髪をしなやかな指さきでかきあげる仕草一つさえ、こっちが息をつめて見惚れちゃうぐらい、艶っぽくて……。


「いったい、何度呼んだと思うんだ」
「え」
 総司はちょっと驚いた。
 自分では全く自覚がなかったのだ。
「何度も呼んだの?」
「あぁ、三回は呼んだぞ。その間、おまえ、ずっと外を見てるばかりで、全然聞こえてないみたいだった」
「えっと、それは……ごめんなさい」
 総司は素直に謝った。だが、どうしてもわからない。
 三回呼ばせたぐらいで、こんなにも彼が不機嫌になってしまう理由がわからないのだ。
 もともと総司はけっこうぼんやりしてる事が多く、あれこれ考え始めると他のことが目に入らなくなってしまう。それを一番よく知っているのは、恋人の土方であるはずだったのに。
「そのう……まだ怒ってる?」
 おずおずと訊ねた総司に、土方は僅かに目を伏せた。珈琲カップを取り上げながら、低い声で答える。
「……別に」

(でも、その声も顔も、きっぱり怒っているんですけど)

「ごめんね、何度も呼ばせて」
「俺が怒ってるのは、それじゃねぇよ」
「え?」
 意味がわからず、総司は小首をかしげた。
「それじゃないって……じゃあ、どうして」
「おまえの表情だ」
「???」
「すげぇ、うっとりした……何か、恋してるみたいな顔してたんだ。俺のことなんか、全然眼中にないみたいだった」
「……あ」
 総司は思わず小さく声をあげてしまった。慌てて口をおさえたが、もう遅い。
 鋭い視線をむけられ身がすくむのを感じたが、嘘をつく訳にもいかなかった。
「それ本当だから……でも、その、ごめんなさい」
「……本当…だって?」
「うん。その、恋しちゃったみたいな感じで、他のこと考えてたっていうか……」
 後は口の中に消えてしまったが、総司は、云った瞬間にしまったと思った。
 その言葉を口にしたとたん、前に坐っている男がさっと顔色を変えたのだ。不意に片手をのばしたかと思うと、ぐいっと手首を掴まれてしまう。
「いた……っ」
 思わず顔をしかめた総司に構わず、土方はより強く引き寄せた。かるく身を乗り出し、総司の顔を覗き込む。
「……ふざけるなよ」
 低い凄味のある声が響いた。
 びっくりして見あげると、黒い瞳が鋭く見据えてくる。
「まさか、本気で云ってんじゃねぇだろうな」
「え……」
「恋してるだって? おまえ、浮気でもしてるのかよ」
「う、浮気!?」
 まったく違う話の方向性に、総司は慌てた。
 そんなふうに取られると考えなかった自分も悪いが、まさか土方がそう取るとは思ってもみなかったのだ。
「浮気なんか、そんなのしませんよ! だって、ぼくには土方さんがいるじゃないですかっ」
「けど、今、云っただろう。恋したとか、他のこと考えていたとか」
「だって、そういう時もあるでしょう? お互いの事ばかりで頭をいっぱいにしてる訳にはいかないし、ぼくだって、勉強とか趣味の事とか考えることもあるし……」
「なら、それはそれでいい。だが、恋してるってのは?」
「あ、えーと……それは、土方さんに対して?」
「その疑問符は何だよ」
「だから、その、土方さんにいつも恋してるというか、その……っ」
「さっき、他のこと考えてたって云ったじゃねぇか」
「そ、そんな事云ってませんよ。でも、その……あぁ! もう追求しないで」
 総司は不意に立ち上がると、土方の手をふり払った。真剣な顔で彼を見つめると、きっぱり断言する。
「とにかく、ぼくは浮気なんかしてませんから」
「……」
「これ以上、この話をつづけるなら今日は帰らせて貰います」
「おい、総司」
「さよなら」
 くるりと背をむけ、総司はカフェをさっさと出ていってしまった。
 というより──逃げた?
 土方は小走りに街路を駆けてゆく少年の後ろ姿を窓越しに眺め、はぁっと深くため息をついた。
 さっきの総司のように、珈琲カップにスプーンを突っ込んで一回し、頬杖をつくと、小さく呟いたのだった。


「さよならって云われても、帰るとこ……同じなんだけどな」










「え? 今日も?」
 藤堂は驚いたように、隣でノートを纏める総司を見た。
 大学の講義がさっき終わったばかりだ。今日は一緒に映画でも見に行こうと誘うつもりだったのだが。
「ごめんね、平助」
 総司は申し訳なさそうに謝った。その手は、せっせと先程の講義の内容をノートに纏めている。
「でも、せっかくのタダ券だし、磯子ちゃんと一緒に行ってきたら?」
「アクションものだから、いっちゃんはあんまりさぁ。けど、それはともかく、最近えらく熱心なんだね」
「うん……まぁ」
 ちょっと誤魔化すように笑ってみせた。
 最近、そう、総司はせっせとバイトに励んでいるのだ。とにかくもう大学の講義が終わってから、ずーっと毎日働いている。
 その理由を、まだ誰にも云うつもりはなかった。
 大学を出て藤堂と別れた総司は、足早にバスへ乗り込み、原田が経営するカフェへ向かった。ここでは働いてもいいと土方に許可を貰っているので、総司にとっては唯一のバイト先だ。
 カラン…とドアを開けると、原田とまさ子が嬉しそうに迎えてくれた。けっこう店内は混んでいる。総司は大急ぎでカフェエプロンをつけると、給仕を始めた。


 カフェでのバイトは好きだ。というより、昔からこうして体を動かしていると、余計な事を考えずに済むから好きだった。
 もちろん、今はそういう後ろ向きな理由ではない。
 土方との甘い恋のまっただ中にいる総司に、余計な考えごとなどあるはずもないのだ。
 そう。
 あるはずないのだが───


「……でも、ちょっとぐらい考え事しちゃうよね」
 ようやく空いてきたカフェのカウンターに寄りかかり、総司は小さく呟いた。
 それに、原田が首をかしげる。
「? 何がちょっとぐらいだって?」
「え……あ」
 心の中だけで云ったはずなのに口に出してしまった事に気づいた総司は、慌てて口をおさえた。
 原田がにやりと笑った。
「さては、また彼氏と喧嘩したな?」
「そ、そんな……違いますよっ」
 総司は慌てて否定したが、それでも喧嘩した事は本当だ。もちろん、既にもう仲直り済みなのだが。


 あの日、帰宅した土方に、総司が拗ねて黙り込んでいると、彼の方からきちんと謝ってきてくれたのだ。
 優しい声で。
「ごめん、おまえを疑ったりして。せっかくのデート、台無しにしちまったな」
 そう、囁いてくれた。
 そんな彼に、総司が折れないはずはなく、後はもう甘い甘いキスと抱擁、そのままなし崩しにベッドへ運ばれ、蜜のようにとろける仲直りの夜を過ごしたのだ。
 ある意味、土方もこの頃、総司の操縦術を覚えてきたと云うべきなのか。
 ほんのちょっとした喧嘩だと、けっこうあっさり彼の方から折れてくるようになっていた。それも、総司も謝ろうかなぁと思っているのを鋭く察知し、絶妙なタイミングで謝ってくるのだ。優しい囁きと甘いキスつきで。
 どんなに拗ねたり怒ったりしていても、彼みたいないい男に、背中から柔らかく抱きすくめられ、頬や首筋に甘いキスを落とされたあげく、耳朶を噛むようにしながら低く掠れた声で「ごめん……」なんて囁かれたら、誰だってコロッと一発で落ちてしまうだろう。
 というか、何があっても許しちゃう?
 むろん、総司だって、彼の戦法と方針がわかっていはいるのだが、どうしてもついついほだされてしまう。
 身も心もとろけさせられてしまえば、もう喧嘩の種など忘却の彼方にいってしまい、翌朝、いつものように笑顔で朝のキスをかわすことになるのだ。
 それが最近、喧嘩→彼の謝罪→仲直りという、彼らのゴールデンパターンだった。
 だが、ある意味、それは問題を先延ばしにする事にもなる。
 今回の場合も、喧嘩の原因は全くもって解決されていないのだ。


「ね、原田さん」
 総司はカウンターに頬杖をつくと、目の前できゅっきゅっとカップを拭いている原田を見あげた。
「聞いてもいいですか?」
「何を?」
「あのね、一目惚れってあると思います?」
「……」
 それに、原田はちょっと小首をかしげた。
 今更、何を云ってるのだろうと思ったのだ。原田も総司から二人の事は色々と聞いている。最初の出逢いがこの近所の公園であった事も。
 総司が散歩させていた子犬をつかまえ、手渡してくれたのが土方なのだ。
 その時、土方を強引に誘って、このカフェへ連れてきて、それから二人のつきあいは始まったのだから。
「一目惚れって……総司は、土方さんにそうだったんじゃねーの?」
 呆れたように訊ねた原田に、総司はぱっと顔を赤らめた。
「え…えぇっ、それは……っ」
「土方さんの笑顔に一目惚れした。それでつきあい始めたんだろ? ま、あの笑顔はくせものだからなぁ。あれで落ちないのはいないって、オレも思うよ」
「そ、それはそうなんですけど……いえ、その、一目惚れって、ちょっと意味が違うんですけど」
「意味が違う? 一目惚れじゃなかった訳?」
「だから、何ていうか、逢った瞬間、懐かしいって気がしたというか……ずっと一緒にいたいって思ったというか……わぁ! 何を云わせるんですかっ」
「はいはい、お惚気ありがとう」
 くすくす笑いながら原田が云った時、ちょうどカランと音が鳴り、一人の客が店へ入ってきた。
 それに「いらっしゃいませ」とふり返った総司が、ぱっと笑顔になる。
「斉藤さん」
 喜んで駆け寄った総司に、斉藤はちょっと照れくさそうに笑ってみせた。
 スーツの上着を片腕にかけたまま、言い訳する。
「いや、ちょっと……近くに用事で来たからさ」
「外、冷えてますしね。はい、メニューをどうぞ♪」
 総司はにこにこ笑いながら、斉藤をいつものカウンター席に案内した。
 カウンターの中から、原田がにやっと意味ありげに笑ってみせる。
「いらっしゃい」
「どうも」
「近くに用事って、何かあったのかい?」
「え、いえ……その」
 斉藤はちょっと赤面しつつ、口ごもった。いつもポーカーフェイスのうまい斉藤がこれほど感情を出すのは、総司に限ってのことだけだ。
 それを知ってい原田は面白そうに眺めたが、あまりからかっても可哀想だと珈琲のオーダーを聞いてやった。
 斉藤はいつもキリマンジャロなのだが、今日は別のものがいいと云うのでブルーマウンテンの豆を挽いた。まろやかな香りが広がる。
 さし出された珈琲を飲む斉藤の傍に、総司がちょこんと腰かけた。大きな瞳で、友人を(総司にとってはあくまで)見つめながら、訊ねてみる。
「あのね、斉藤さん」
「うん」
「一目惚れってした事ある?」
「……っ」
 危うく、斉藤は珈琲を吹きそうになった。
 慌ててごっくんと飲み込んだが、気管に入ってしまったため、げほげほ咳き込んでしまう。
 総司は慌てて立ち上がった。
「だ、大丈夫!?」
「……だ、大丈夫だ……っげほっ…っ」
 斉藤は原田がさし出してくれた水を飲み、何とか落ち着いた。はぁっと息をついてから、総司の方を見やる。
「ひ、一目惚れって……」
「うん。斉藤さんはそういう経験あるの?」
「あるっていうか、ないっていうか……」
「どっち?」
「……ある、かな」
 ちょっと顔を赤らめつつ答えた斉藤に、総司はぱっと顔を輝かせた。
 嬉しそうに叫ぶ。
「そうですよね! やっぱり、ありますよね。ぼくだけじゃないんだ、やっぱりこういうのってアリなんだ〜♪」
「??? 土方さんとのことか?」
「違いますよ」
 にこにこしながら、総司は云った。
「土方さんとの事じゃありません。全然違うの。でもね、ふふっ、一目惚れしちゃったんです♪」
「……ちょっと待て」
 思わず固まった。


 まさか。
 まさかと思うが、この総司が浮気?
 土方さん以外の男と、恋に落ちてしまったって事なのか?
 えぇぇぇえっ──!?


 斉藤は、目の前でるんるん♪している総司を、呆然と見つめた。


 正直な話、これから先も今までも、総司以外を好きになる事はできないと思っていた。だが、それは絶対的な片思いだったのだ。
 総司の傍には、土方という男がいる。斉藤も認める、総司に相応しい男だ。
 だからこそ、諦めた。っていうか、ずっと片思いで頑張っていこう!と、けなげにも決意を固めていた。
 なのに、なのに……浮気だって!?
 いったい、いつ! どこで!
 これこそ鳶に油揚げさらわれたって奴じゃないかーっ!(いや、ちょっと違う)


 斉藤は今まで固く信じていた世界がぐるぐるーっと反転して、いきなりモノクロになってしまったような気がした。


 そして。
 ─────暗転。











 翌日、IN THE警視庁食堂。
「いったい、どういう事ですか!?」
 食堂の定食受け取りコーナーの前だった。
 会ったとたん、いきなり斉藤に怒鳴りつけられた土方は唖然となった。
 いったい、何をそんなに怒っているのか全くわからないが、斉藤はもう怒髪天をつく勢いだった。土方のスーツの襟元を掴み、怒り狂っている。
「こんな事になって、オレはいったいどうすりゃいいんですか! オレの長年の想いはどこは行くって云うんですか!?」
「……斉藤?」
「オレはね、オレはずーっと片思いでいいって思っていたんですよ! なのに、どうせあなたが総司を放っておいたのでしょうっ。だから、こんな情けない事になっちゃたって……もうオレは昨夜、やけ酒呑みまくって頭ガンガンなんです!」
「それで、よく大声出せるな」
「朝にバファリン飲みましたから、もう大丈夫です……って、そういう事じゃない!」
 斉藤は土方の襟元を離すと、びしっとその胸もとを指さした。
「とにかく、絶対にあなたが悪いに決まっています。さっさと総司に謝って縒りを戻して下さい! でなきゃオレが浮かばれません」
「浮かばれないって……」
 土方の隣にいた永倉が、じーっと斉藤を頭の先から足先まで眺め回した。
「見たところ足もあるようだけど……はじめちゃん、あの世へいっちゃった訳?」
「そういう事じゃなくてっ、永倉さんは口はさまないで下さい。どんどんややこしくなります」
「せっかくオレが仲裁役してやってんのに」
「結構です。たいだい、そういうのをね、要らぬお節介って云うんですよ」
「何だと! おまえのもな、恩を仇で返すっつーんだぞっ」
「まま、皆さん落ち着いて」
 島田がまぁまぁと割って入った。
 ふと見回してみれば、いつのまにやら土方はそこから姿を消してしまい、向こうの方で定食を前に「いただきます」と手をあわせている。
「土方さんッ!」
 思わず大声で怒鳴ってしまった斉藤に、土方は驚いたようにふり返った。が、すぐに肩をすくめると食べ始める。
 斉藤は仕方なくトレーに定食をとると、足早に彼の方へ向かった。永倉と島田も、それにつづいた。