少しだけ怯えながら、ゆっくりと歩みよってゆく。
 大きな瞳で見上げると、土方は視線を返した。ふと表情が変わる。
「……」
 総司の怯えた様子に、土方は形のよい眉を顰めた。だが、すぐ苦笑すると、スーツのポケットから何かを取り出した。それを総司に手渡してくる。
 土方の部屋の鍵だ。


 ───先に帰っててということ?


 目で訊ねかけると、土方は電話で会話をつづけながら一度だけ頷いた。切れの長い目が、総司を一瞥する。
 だが、それは一瞬の事で、すっと視線をそらし、また電話の相手との会話に戻ってしまった。
 そんな彼の態度に、きゅっと唇を噛みしめる。
 仕事中だから仕方がないとは思うが、それでも、厳しい表情を浮かべた端正な横顔はひどく冷たくて、何だか自分自身を拒絶されているような気さえしてしまったのだ。
「……土方さんから鍵貰ったのか?」
 戻ってきた総司に、斉藤が訊ねた。
 それに、手の中の重みをしっかり握りしめながら、総司はこくりと頷く。
「うん」
「なら、今夜中には帰るつもりって事だろう。大丈夫、早めに片付くよ」
「そうだといいけど……」
 あの電話の様子では到底そうは思えなかったが、総司はそう願うより他ないと思った。
「土方さんに伝えておいて下さいね……無理しないでって」
「あぁ。総司も気をつけて」
「ありがとう」
 総司は永倉と島田の方へぺこりと頭を下げてから、踵を返した。立ち去る前に土方の方をふり返ってみたが、彼はちらりとも視線を寄越そうとしない。

(……冷たいんだ)

 総司はぷんっと頬をふくらまし、地下鉄への階段を降りた。思わず、手にしていたボストンバックをぶんぶん振ってしまう。
 仕事だとわかってはいるが、デートがおじゃんになったという事に怒るつもりもないが、それでも、彼の態度はどうなんだろうとつい思ってしまうのだ。


 この間から、あまりにも冷たすぎるんじゃない?
 全然ふれてくれないし。抱きしめてくれないし。
 さっきなんて、知らん顔だし。
 自分に対する恋愛感情が薄くなってきてるんじゃないだろうか。
 いわゆる……倦怠期って奴?


「!」
 自分の心にうかんだ言葉に、どきりとして、総司は思わず立ち止まってしまった。


 ずっと前、釣った魚には餌をやらないと聞いて焦った事あったけど、あの時はちゃんと彼の愛情の深さを確かめられたから良かったけど、でも。
 今回は違いすぎるのだ。
 一年近くも彼のことを忘れていた薄情な恋人。
 それをようやく取り戻したとたん、気持ちがしゅーっと萎んでしまったのではないだろうか。
 やっぱり男の子相手だと疲れるとか、つまらないとか、思ってしまったのではないだろうか。


「現実が見えちゃった……とか?」
 総司は震える声で呟き、ぎゅっと手を握りしめた。
 手の中にある彼の部屋の鍵。
 今夜逢えることを約束してくれるはずの小さな鍵。
 それがまるで世にも稀な宝物のような気がして、総司はポケットに入れる事もできないまま握りしめつづけたのだった。












 ソファの上で、総司はふわぁと欠伸をした。
 もうお風呂もすませて、白いパジャマ姿だ。
 ちらりと視線をやった先にあるテーブルの上に並んだ料理は、とっくの昔に冷めてしまっていた。だが、きちんとラップしてあるので、土方が帰宅後食べると云ったらレンジであたためればいいだろう。
「……もう12時まわっちゃった」
 先程までテレビを見ていたのだが、つまらなくなってやめた。
 一人ぼっちで過ごすこの部屋は、たまらなく淋しかった。広すぎるからか、酷く冷たい気がするのだ。生活感がなさすぎるのも恐らく原因だろう。
 自分と離れていた間、土方がどんな思いでここで一人で過ごしていたかと思うと、胸の奥がちくりと痛んだ。
 だが、だからこそ……と、つい考えてしまうのだ。
 土方の中で、落差が大きかったのかもしれない。
 失っている間に、土方の中で総司は理想化されてしまって。
 そして、せっかく取戻しても、彼自身が求めつづけた総司と現実とのギャップに戸惑い、一気に気持ちが醒めてしまったかもしれないのだ。
「……そんなの考えたくないよ」
 総司はソファの上でころんと躯を丸めると、拗ねたように呟いた。


 嘘であって欲しかった。
 自分の考え違いであって欲しかった。
 でも、最近の彼の態度を見ていると、何だかその考えがしっくりあて嵌る気がして。


 総司の視界がぶれ、じんわり涙がうかんだ。
 その時だった。
 不意に、玄関の方で音が鳴ったのだ。がちゃりと鍵の回される音がして、扉の開く気配がする。
「!」
 慌てて起き上がった総司は、玄関へつづく廊下の扉を開けた。
 顔を覗かせてみると、ちょうど扉を開けて入ってきた土方と目があう。
「……お帰りなさい」
「ただいま」
 どこか疲れた表情で答えると、土方は靴を脱いで框にあがった。リビングへと入ってくる。
 前と同じようにソファへ鞄を無造作に放り出す彼に、総司も何も云わなかった。黙ったまま鞄を片付け、それから、キッチンへ向おうと彼の傍をすり抜けた。
 とたん、ぐいっと腕を掴まれ驚いた。
「えっ……何?」
「……聞きたいのはこっちだ」
 見上げると、土方が眉を顰めた表情で見下ろしていた。どこか切なげで苦しそうな表情だ。
 そのまま見つめていると、すっと手があがった。あっと思った時には、長い睫毛に指さきがふれる。
「涙」
「ぁ……」
「泣いてたのか、総司」
 そう云ってから、土方は不意に総司の細い躯を引き寄せた。己の両腕の中におさめ、ぎゅっと抱きしめる。
「……ごめん」
 耳もとで、掠れた声が囁いた。そっと髪を撫でられ、額にキスをおとされる。
「ごめん……遅くなって悪かったな」
「ううん」
 ふるりと首をふってから、総司はおずおずと彼の背に両手をまわした。久しぶりの感触に、思わず満足そうな吐息をついてしまう。
 泣いていたのは彼が遅くなったからではなかったが、それでも、抱きしめてもらえた事が嬉しかった。もっと彼を感じたくて、身をすり寄せる。
 ところが。
「総司」
 ちょっと困ったような声がしたかと思うと、肩に手をかけられ強引に引き離されてしまった。
 華奢な躯を押しやるようにして離し、土方は背を向ける。
 それに、総司は呆然と目を見開いた。


 やっぱり……やっぱり、そうなの!?
 ぼくの思い違いじゃなかったの?


 頭の中がまっ白になった。
 そして、気が付くと。
 ゆっくりとリビングを横ぎり歩み去ろうとしている彼にむかって、思いっきり叫んでいた。


「土方さんの……莫迦っ!!」


「……は?」
 突然の言葉に、土方はふり返った。
 心底驚いたらしく、目を丸くしている。
「何だ、いったい」
 そんな彼に、総司は半泣きになりながら言葉をつづけた。
「こんなの……もう嫌です! はっきりしてくれた方がずっといいのに!」
「はっきりって何が」
「何がって、わかってるでしょう!?」
 総司は唇を噛みしめ、大きな瞳でまっすぐ土方を睨みつけた。
「もうぼくに飽きたなら、飽きたってはっきり云えばいいじゃない! 一年かけて取り戻したとたん、気持ちが萎えちゃったんでしょ? 飽きちゃったんでしょ?」
「……」
「やっぱり綺麗な女の人とかの方がずっといいはずだもの、ぼくみたいな男の子、あらためて抱いたら幻滅しちゃって当然だと思うし」
「……幻滅?」
「そう、幻滅です」
 きっぱりと云いきった。
「幻滅したから、ぼくにあなたはふれなかった。キスと指さきふれあわせるだけで、抱きしめてくれる事もしなかった。さっきだって、すぐに背を向けちゃうし……っ」
「……」
 土方は何も云わなかった。無言のまま、総司をじっと見つめている。
 総司の言葉をすべて肯定するかのように押し黙る土方の前で、俯いた。
「もう……いいの」
 きゅっと唇を噛みしめてから、小さな声で呟いた。
「無理しなくていいの。こんな事つづけるぐらいなら、別れようってはっきり云ってくれた方が、ぼくも……」
「……いいと云うのか」
 突然、低い声で問われ、総司はびっくりして顔をあげた。
 とたん、息を呑んでしまう。
「土方…さん……」
 底光りする黒い瞳が、こちらをまっすぐ見下ろしていた。
 きつく寄せられた眉根、固く引き結ばれた唇。
 奥歯をぎりっと食いしばる音さえ、聞こえそうだった。
 どこからどう見ても、土方は怒っていた。それも生半可な怒り方ではない。
「……っ」
 凄味さえ感じさせる男の迫力に、総司は思わず両手で唇をおおった。後ずさってしまう。
 それに、土方の目がすうっと細められた。
「人の気も知らねぇで……」
 地を這うような低い声だった。
「何が幻滅だ、飽きた、だ。勝手な事ばかりぬかしやがって、人を莫迦にするのもいい加減にしろよ」
「ひ、土方さん……」
「おまえは、俺がそんな男だと本気で思ってるのか。おまえへの気持ちが、そんな簡単に飽きたり幻滅したりするような浅いものだと、思っているのか」
「だ、だって……」
 ふるふると総司は首をふった。
 滅多に向けられた事のない彼の怒りに、躯中が竦みあがってしまう。鼓動が早くなり、指さきが冷たくなった。
 ゆっくりと近づいてくる土方から逃げるように後ずさるうち、壁にどんっと背がついてしまう。
 躯を震わせつつも彼を見上げ、必死になって抗弁した。
「土方さん、最近、冷たかったし……それで……っ」
「それで飽きたと? 幻滅したと? 冗談じゃねぇよ。俺がどんな思いで一年間、過ごしてきたと思っているんだ! おまえが恋しくて愛しくて、気も狂いそうだった。なのに、おまえは……っ」
 土方は言葉を途切れさせ、両手をのばした。総司が背をつけている壁に手をつき、檻のように囲ってしまう。
 逃げ場を失った総司は、より身を竦みあがらせた。それを見下ろし、土方は耳もとに唇を寄せた。
 低い声が、ゆっくりと囁きかけた。
「俺の気持ちを疑うなら……わからせてやろうか」
「……ぁ」
「おまえをどんなに愛しているのか、執着しているのか、この躯に教え込んでやろうか」
「い、いや……っ」
 怯えきった総司は激しく首をふった。


 彼の言葉の意味はわかっている。
 抱かれること自体に、拒絶感は全くなかった。むしろ望んだ事だ。
 だが、それは優しく甘いものであって欲しかった。
 まるで罰するように抱かれるなど、あの頃と同じではないか。
 それだけは絶対に嫌だった。


「ご、ごめんなさい……いや、許して」
 大きな瞳が涙をうかべ、桜色の唇がわなないた。細い指さきが縋るように壁をひっかく。
「……」
 しばらくの間、土方はそんな総司を無言で眺めていた。
 やがて、僅かに嘆息すると、すっと手を動かした。とたん、総司の躯が竦み上がった。
「!」
 反射的に、彼から叩かれると思ったのだ。びくっと身を竦めてしまう。
 それに、土方は唇を噛みしめた。ゆるく首をふり、そっと少年の白い頬に指さきでふれる。
 おそるおそる見上げた総司に、静かな声で囁いた。
「……殴ったりしねぇよ」
「土方…さん」
「おまえを殴ったりできるものか。俺は、おまえを本当に大切に思っているんだ。いつだって、おまえの気持ちを一番に考えている。だから……」
 土方はため息をもらした。
「おまえにふれないでいたのにな」
「ふれないでって……やっぱり?」
「そうじゃねぇよ。我慢してたんだ。本当は抱きしめたかったし、ふれたかったが、ずっと我慢していた」
「我慢……?」
 意味がわからず小首をかしげた総司に、土方は言葉をつづけた。
「30分の逢瀬がほとんど、それも路地裏とか公園でだろ。あんな処で抱く訳にはいかねぇし、それでふれたらお互いどうしようもなくなるじゃねぇか。そんなの、おまえも困っちまうだろ?」
 総司の目が大きく見開かれた。
「え、じゃあ……ぼくのため?」
「おまえの為でもあるし、俺の為でもあるな」
 土方は苦笑し、総司の頬を優しく包みこんだ。そっとキスをおとした。
「抱きしめたら、ふれたら、もう止められなくなるのがわかっていた。それに、一ヶ月程で仕事も落ち着いて、おまえと過ごす時間つくれるとわかっていたから、それまでの辛抱だと思っていたんだ」
「でも」
 総司は小首をかしげた。
 あまり追究してはいけないかと思いはしたが、さっきの怖さがまだ不安として残っていたが。
「さっきは?」
 躊躇いつつ、訊ねた。
「この部屋の中なんだから、別に構わないはずなのに……」
「……総司」
 土方は微かに笑い、そっと総司の躯を引き寄せた。両腕で抱きしめると、柔らかな髪に顔をうずめた……。