冬の公園は静かだった。
人の姿はほとんどなく、凍てつくような曇り空の下、枯れ枝だけが揺れている。
公園の石畳を踏みしめ、ゆっくりと歩く総司の前に、やがて噴水が見えてきた。そして、その前に佇む一人の男の姿も───
「……」
総司は思わず足をとめ、それを見つめた。
もしもまだそう思うことが許されるのなら、最愛の恋人を。
土方はまだこちらに気づいてないようだった。
噴水の前、スーツに裾の長い黒のコートを纏った姿で佇んでいた。柔らかな黒いコートは彼のしなやかな長身によく似合い、まるでそこだけ別の色彩のように誰の目をも惹きつける。
仕事の最中なのか、艶やかな黒髪は綺麗に整えられていた。
僅かに目を伏せ、じっと何かを考え込んでいるその端正な横顔。
かるく両腕を己の躯にまわしていた。自分の腰を抱くようにして腕を組んでいる様が、美しい一枚の絵のようだ。
そんな事を考えながらぼんやり見つめていると、不意に土方が顔をあげた。こちらへふり向き、僅かに目を細める。
「……」
とても恋人を迎える男の表情ではなかった。
固く唇を引き結んだまま、鋭い視線をこちらへむけている。
その怜悧な表情に胸奥を抉られるような痛みを感じながら、総司はまたゆっくりと歩き出した。土方へと歩み寄ってゆく。
土方はそこに佇んだまま、じっとそれを見つめていた。総司が目の前まで来て立ち止まっても、何も云わない。
堪えられなくなったのは総司の方だった。
「……何も云う事はないのですか」
「……」
「呼び出しのは、あなたの方でしょう?」
自分でも驚くほど固く、冷たい声だった。
それに土方は僅かに眉を顰めたが、すぐにほろ苦い笑みを口許にうかべた。
手をのばし、しなやかな指さきで総司の顎をとらえ無理矢理仰向かせると、その瞳を深々と覗き込んだ。冷たく澄んだ黒い瞳がじっと総司を見つめる。
「たった十日……それでこの様か」
「何のこと」
怪訝そうな表情で聞き返した総司に、土方は嘲りにみちた声音で答えた。
「俺を愛してくれた恋人はもういないって事だよ。おまえがそんな瞳で俺を見る日が来るとは思わなかったぜ」
「そんな瞳って……冷たい態度をとっているのは、あなたの方でしょう?」
思わず云い返した総司に、土方はふっと唇を歪めた。
手を離し、肩をすくめる。
そのままコートのポケットに手をいれ、不意に噴水の向こう側へ歩きだした。総司をふり返る事もなく、さっさと歩いてゆく。まるで総司がついてくるのが当然だと云わんばかりの態度だった。
勝ち気な総司は一瞬、かっとなったが、それでも結局は男の後を追った。
どんなに冷たくされてもいい、ほんの少しでも長く愛しい男の傍にいたいのだ。
だが、そんな総司の切ない気持ちを知る由もない土方は、公園の片隅にあるベンチに腰をおろすと、悠然と足を組んだ。
ベンチの背に腕をかけて凭れかかり、切れの長い目で総司を見上げた。かるく顎をしゃくってみせる。
「立ち話も何だろ? ほら、坐れよ」
「土方さん……」
「坐れって」
不意に土方は手をのばすと、総司の手首をぐいっと掴んだ。とたん、総司の躯がびくんっと震えた。
「ぁ……っ」
恐れではない──愛しい男に突然ふれられた事で、躯中が熱く火照ってしまったのだ。
自分でも驚くほど明らかな反応に、総司は羞恥を覚えた。思わず「いや……」と身を捩ってしまう。
だが、土方はそれを自分への拒絶、嫌悪だと受け取ったようだった。
その黒い瞳がぎらりと底光りしたかと思うと、次の瞬間、総司の細い腰に力強い男の腕がまわされた。抗う間もなく強引に引き寄せられ、抱きすくめられてしまう。
挙げ句、半ば男の膝上に腰を下ろした状態で、ベンチに坐らされてしまった。
「土方さん……!」
慌てて起き上がろうとしたところへ、男がのしかかってきた。後ろ髪を掴まれ呻いたとたん、深く──唇を重ねられた。
「……っ!」
総司は大きく目を見開いた。
何しろ、ここは白昼の公園なのだ。いくら人影がないとはいえ、いつ誰が通るともわからない。木陰でさえなかった。
「っ…や、やぁ!…ぅ、んんっ…」
必死に男の胸に両腕を突っぱねたが、びくともしなかった。それどころか何度も角度をかえられ、濃厚な貪るようなキスをあたえられる。
唇の中を男の舌が蹂躙し、総司の熱をどこまでも高めた。
次第に、男の腕の中、少年の躯から力が抜けてゆく。
「ぁ…は、ぁ…んっ…ぁ……」
いつしか、総司は土方の背に両手を回していた。その逞しい躯にしがみつき、甘ったるい濃厚なキスに夢中で応える。
キスを終えると、土方はいつものように総司の額や瞼、頬に、甘く優しいキスを落としてくれた。
それを心地よげに受けながら、総司は男の胸に顔をうずめた。うっとりと目を閉じる。
もうこのまま何もかも忘れてしまいたかった。
愛しい男の腕の中、恋人同士に戻って幸せに暮らしたかった。
もしかすると、彼もそれを望み、許してくれるかもしれない。
こんな甘いキスをくれたのだから……。
だが、次の瞬間、総司はそれが儚い願いであった事を思い知らされた。
「……決心がついたか」
男の腕に抱かれ目を閉じた総司の耳もとで、土方が低く囁いたのだ。
意味がわからず、ぼんやりと見上げた総司は、そのとたん──息を呑んだ。
自分を見下ろす土方の黒い瞳は、驚くほど冷ややかだった。
甘さなど微塵もない。
冷徹な視線を、自分の恋人であるはずの少年に向けていた。
「……土方…さん……?」
「決心がついたかと聞いているんだ。電話でちゃんと伝えたはずだろう?」
「──」
そう云われた瞬間、総司は思わず土方の胸を両手で押し返していた。まるで全身に冷や水を浴びせられたようだった。
なら、この人はキスさえも取引の道具にしたのか。
自分を籠絡させ、情報を引き出そうとしたのか。
なんて───
「酷い…男……!」
そう叫んだ総司に、土方は形のよい唇を歪めた。
端正な顔に酷薄な笑みをうかべ、また手をのばした。しなやかな指さきで唇や頬をふれられ、ぞっと身震いする。
「や……!」
「応えていたくせに? おまえも気持ちよかったんだろ……キスされるの好きだったじゃねぇか」
「こんな……こんなキスなんていらない!」
くっくっと土方は喉を鳴らし、笑った。
綺麗な笑顔。
それをこれ程恐ろしいと思った事はなかった。初めての事だった。
思わずベンチの上を坐ったまま後ずさった総司の前で、土方はゆっくりと足を組み直した。僅かに乱れた黒髪を煩そうに片手でかきあげなら、言葉をつづけた。
「躯と心は相反しているという事か。どんなに嫌な男でも、キスされれば反応しちまうという訳だな」
「そんな……そんな酷い……!」
「あぁ、おまえの云うとおり俺は酷い男さ。だが、これでも残虐なテロリストよりはマシなつもりだぜ。俺は罪もない人間を無差別に殺したりしない。だが、おまえはそのテロリストを選ぶというのか。この俺よりも、あの伊東を選び庇い続けるというのか」
「──ッ」
総司の唇がきつく噛みしめられた。膝上においた両手がぎゅっと固く握りしめられ、僅かに震えている。
それを見やる事もなく、土方は冷たい口調で云った。
「どちらを選ぶかは、おまえの自由だ。だが、この先も伊東は悲惨なテロをくり返してゆくだろう。あいつが逮捕されれば、すべてが終わる。むろん、他にもテロ組織はあるからな、この国が完全に平和になる訳じゃねぇが、少しはマシになるだろう」
「……」
「俺は伊東を逮捕したい。そのためには証拠が必要だ。狼火の資金の動きを掴み、活動の拠点を抑えてしまいたい。そのためには、データを入手しなきゃならねぇが、狼火のシステムはかなり強固だ。だから……」
「だから、パスワードが必要なのですか」
低い声で云った総司に、土方は視線をむけた。無言のまま頷く。
それに、総司は小さく息を吸った。
「兄を逮捕するために、あのシステムに侵入するためにパスワードが必要で……だから、ぼくを呼び出したのですよね」
「あぁ、そうだ」
「他には何の理由もないと」
「……あぁ」
男の答えに、総司は一瞬ぎゅっと目を閉じた。
やっぱり、連れ戻しに来てくれた訳じゃなかったのだ。
逢えば、もしかすると、あの優しい声で「戻っておいで」と云ってくれるような気がしていたのに。
なのに……。
あの時、あの瞬間の絶望が蘇った。
この人に見捨てられてしまったのだという、奈落の底へ落とされたような絶望が。
だが、それでも──駄目だった。到底、諦めきれなかった。
愛してる、愛してるのだ。
この人のためなら、もう何でも出来てしまうほど。
彼が望む事なら、どんな非道なこと酷い事でも出来る自分をよくわかっていた。
この恋は、こんなにも貪欲で傲慢で、身勝手なのだ。
彼のためになら、世界中から指弾され罵られてもかまわない。どんな罪を犯してもかまわない。
たとえ、あなたに捨てられた絶望で、この心が壊れてしまっても、ぼくは───……
「……パスワード……」
総司は目を伏せると、ぎゅっと両手を握りあわせた。静かに言葉をつづける。
「兄さんは三日ごとに変えるんだけど、それ、最近……ぼくが決めています」
「おまえが?」
土方は驚いたように見やった。
それに、総司はこくりと頷いた。
「土方さんは知らなかっただろうけど、ぼくは……どんな長い記号でも聞いたり見たりすれば、ずっと記憶できる特技があって。だから、その……土方さんがぼくを監禁していたあの部屋のドアも、番号を聞いてすぐ開けられたんだけど……」
土方の瞳がより昏く翳った。だが、それを見ぬまま、総司は言葉をつづけた。
「兄さんはそれをよく知っているから、ぼくにパスを決めさせて記憶させてたの。だから、帰ってすぐまた……」
「……」、
「パスワードは今朝変えたばかりです。これが……そのパス」
そう云うと、総司はコートのポケットから一枚のメモを取り出した。
一瞬だけ躊躇ってから、それを土方にさし出した。
土方は受け取ると、メモに視線を落とした。そのままじっと押し黙っている。
それを感じながら、総司は静かに立ち上がった。黙って歩き出してから、ふと気がついたようにふり返った。小さな声で訊ねる。
「兄さんは……いつ逮捕されるのですか」
「……恐らく明日には。証拠さえ揃えば、すぐ逮捕になるだろう」
「そう……」
頷き、総司は一瞬だけ土方をその瞳で見つめた。だが、すぐに目を伏せると、ゆっくり歩き出した。
かけられる声も、追ってきてくれる気配もない。
凍てつく空の下、いつのまにか総司は一人泣いていた。その頬を、涙が静かにこぼれ落ちていった……。
その夜、総司はベッドの中でじっと闇を見つめていた。
もう事は動き出してしまったのだ。今更、どうしようもない。
伊東に知らせるという方法もあったが、それでも、逃げきれはしないだろう。知らせる事で、総司の裏切りに怒った伊東に殺されても一向に構わなかったが、それでは何の解決にもならないのだ。
おそらく、伊東は捕まれば極刑となるだろう。あれだけ多くの人々を殺めたのだ。許されるはずがなかった。
「……罪を犯した者は、いつか必ずその罪を償わなければならない」
ずっと前に、土方が云った言葉だった。
刑事であるという事以前に、人間としてそう思っているのだと。
彼の言葉は真実だった。
伊東は大勢の人を殺した罪を、償わなければならないのだ。いくら主義主張のためであれ、決して許される行為ではなかったのだから。それゆえに、総司も土方にパスワードを渡したのだから。
だが、それと、伊東への愛情はまた別の話だった。
兄として、本当に心から愛しているのだ。
大切な、だい好きな兄だった。
両親が殺されるまでは、勉強熱心で正義感が強く、誰からも羨ましがられる優しい兄だった。
その兄を変えたのは、冷たい社会なのだ。兄と総司の訴えも無視し、両親を殺されて泣く兄弟の気持ちを踏みにじった。そんな惨状の中、兄は変わっていったのだ。反社会的思考をもつようになり、それがやがてテロリストたる道へと繋がった。
暴力で社会を変えようとしたのだ。
総司はそれが間違いだとわかっていながら、兄をとめる事ができなかった。ただひたすら怯えながら、兄の行動により多くの人々が殺されてゆく様を見ているだけだった。
「その報いを……今、ぼくは受けているんだ……」
弱さを。
報いを。
罪を。
「……土方さん……っ」
総司はぎゅっと目を閉じると、毛布を頭まで引き被った。
闇がどこまでも落ちてくる。
まるで、総司の心を押しつぶすかのように。
眠れぬ長い夜になりそうだった……。
午前11時だった。
高層のオフィスビルの前に、数台の車が次々と横づけられた。
音をたててドアを閉めた土方は、そのビルを一瞬だけ見上げた。が、すぐに傍らの斉藤を一瞥すると、低い声で云った。
「……行くぞ」
「はい」
斉藤は少し緊張した顔で頷いた。
昨日、土方は本庁へ来るとすぐさま永倉にパスワードを告げた。それにより、ハッキングがなされ、狼火の詳細なデータが全て入手できたのだ。膨大なデータの量だった。資金の動きだけでも凄まじいものだったのだ。
もう躊躇う事などなかった。証拠はすべて出そろったのだ。
何があっても伊東を逮捕しなければならなかった。残虐なテロを未然に防ぐためにも、これ以上罪なき人々の命が奪われないためにも。
土方はきっと固く唇を引き結ぶと、足早に歩き出した。黒いコートの裾がふわりとひるがえる。
それに斉藤らが続いた。
いきなり入ってきた男たちに、受付の女性は驚いた表情になった。目の前に警察手帳を示され、尚のこと目を見開く。
伊東がいる部署は調査済だった。今、社内にいる事も。
土方は階下を部下たちで固めさせると、エレベーターに乗り込んだ。目的の階である25階にあがってゆく。
広いフロアだった。多くの男女が忙しくたち働いている。
その中を土方たちは足早に歩いた。見慣れぬ男たちを不審に思った者が呼び止めたが、それにも警察手帳を示すことで黙らせた。
伊東の居場所はすぐにわかった。
もともと、このフロアに足を踏み入れた時から伊東も気づいていたのか。
土方が歩み寄ってゆくと、手にしていた書類をデスクに置き、ゆっくりと立ち上がった。
穏やかに微笑んでみせる。
「これは……お揃いで」
伊東の声は落ち着いていた。
その鳶色の瞳がまっすぐ土方を見つめた。
「いったい、何のご用ですか」
「……伊東甲子太郎」
土方はスーツの内ポケットから一枚の紙を取り出した。逮捕状だった。
それを突きつけながら、低い声で云いはなった。
「内乱首魁、激発物破裂、爆発物使用、組織的な殺人などの罪により、逮捕状が出ている」
「……ほう」
伊東は感心したように、それを眺めた。
ゆっくりと一歩下がりながら、両手を広げてみせた。
「この私を逮捕すると? ただの一企業に勤めるビジネスマンである私を?」
「おまえはただのビジネスマンなどではないだろう。テロ組織狼火の首領、伊東甲子太郎だ」
「なるほど」
伊東は薄く笑った。
「そこまで云うのなら、証拠は? 証拠はあるのですか?」
「あるさ」
土方は断言し、切れの長い目でまっすぐ伊東を見据えた。傍から斉藤が取り出した書類をさし示した。
「これに、狼火の資金からデータがすべて記されてある」
「──」
初めて、伊東の顔色が変わった。
信じられぬという表情で、それを見つめている。やがて、その唇から掠れた声がもれた。
「どうして……それを。あのシステムは容易に侵入できないはずだ」
「パスワードだ。昨日、教えてもらった」
「! まさか」
伊東の目が大きく見開かれた。
愕然とした表情で土方を見つめ、それから、ゆるく首をふった。片手で口許をおおう。
「まさか、そんな……あの子が私を裏切るなど……っ」
「裏切りじゃない。正義にもとづいた行為だ」
すぐさま、土方はきっぱりとした口調で云いきった。
裏切りなどと云ってもらいたくなかった。
総司は初めからテロ行為になど賛成していなかったのだ。とめられぬ自分を責め、心を痛めていた。
だからこそ、苦渋の選択をし、土方にこのパスを渡したのだ。
「もう逃れられないぞ。伊東、覚悟を決めろ」
「……」
動かぬ証拠を突きつけられ、伊東はしばらく押し黙っていた。だが、やがて俯くと、低く笑い出した。
くっくっと喉を鳴らし、笑った。
それはどこか狂ったような笑いだった。
「総司が……あの子が私を売るとは。あの可愛い弟が私を警察へ売るなど、そんなこと思ってもみなかった」
「……」
「きみがいたからか。初めから、私はきみを殺すつもりだった。どんなに総司に哀願されても、それでもいつか必ず殺してやろうと……」
そう呟いてから、伊東はゆっくりとスーツのポケットに手を入れた。
「!」
はっと気づいた時は遅かった。
まさか、そんな物を常時持ち歩いているとは予測だにしていなかったのだ。
伊東の手には細長い爆弾が握られていた。テロによく使われるプラスチック爆弾だ。2sクラスのものなら大型旅客機でも木っ端微塵の代物だった。このフロアなど、簡単に吹っ飛んでしまうだろう。
「伊東……!」
そう叫んだ土方らに嘲るような嗤いを向け、伊東は静かに歩き出した。フロアの中央へと向かってゆく。
とたん、フロア内はパニックになった。
今の今までいったい何が起こっているのか分からなかった社員たちが、伊東の手にしている爆弾に気づいたのだ。口々に悲鳴をあげ、フロアから駆けだしてゆく。
怒号と悲鳴が飛び交った。
その凄まじい騒ぎの中、伊東は薄い笑みをうかべながら佇んでいた。
鳶色の瞳は、まっすぐ土方を見据えている。
「一人で死ぬのもつまらないからね。テロリストらしい最期を見せてあげるよ」
「伊東! よせ!」
傍らから斉藤が叫んだ。
それを聞きながら、土方は黒い瞳でまっすぐ伊東だけを見ていた。斉藤たちが動こうとする気配に、それを片手で制して対峙した。
そんな刑事たちの前で、伊東は一瞬だけ、フロアの入り口の方へ視線を流した。
どこか満足げな笑みがゆっくりと、その口許にたちのぼってきた。鳶色の瞳が狂気じみた愉悦をうかべる。
「……私はここで死ぬ」
「伊東」
「あの子が自分の命を犠牲にしても守ろうとしたきみを、そして……すべてを道連れにね」
伊東の手が爆弾の起爆装置にかけられた。
その瞬間、土方は脇下に下げていたホルダーから拳銃を引き抜くと、その銃口を伊東に向けていた───
どうしても耐えられなかった。
ただ家で知らせを待っている事など、到底できなかったのだ。
総司は伊東が勤める商社のビルの前に降り立つと、周囲を見回した。もう土方たちは来ているらしい。数台の車が停まり、刑事らしい男たちがあちこちにいた。
だが、それに構わず総司はビルの中に入った。伊東がいるセクションは知っているので、まっすぐそこへ向かった。エレベーターに乗り、25階へ向かう。
壁に凭れかかって、きつく唇を噛みしめた。
今も間違ってるとは思わない。
罪は必ず償わなければならないのだ。
だが、なら──兄を裏切った罪は?
兄を見捨て、あの人を選んだぼくは罪でないのだろうか──?
ほんの少しだけ、逮捕される前に、少しでいいから兄と言葉をかわしかった。
いったい、何を云えばいいのか今もわからない。
だが、今まで育ててくれてありがとう。
それから、ごめんなさい……と。
許されるはずもなかったけれど……。
ポーンと鳴った音に、総司は身を起こした。一つ息を吸ってから、エレベーターから歩み出る。
だが、次の瞬間、その場に立ちつくした。
そこはまるで戦場だった。人々がパニック状態になり、飛び出してくる。皆、悲鳴をあげ、階段を駆け下りていった。エレベーターに乗り込む者もいる。
だが、総司はそんな中でたった一つのものしか見えていなかった。
フロアの中央。
爆弾を握りしめ、どこか狂ったような笑みをうかべながら佇んでいる兄。
そして、その少し離れた場所にいる土方───
「……兄さん……!」
思わず叫んでいた。
必死に人をかきわけ、走り寄ろうとした。
「やめて! お願いだから……もうやめてッ!」
もの凄い喧噪で、その声は届かない。
だが、伊東はこちらに一瞬だけ視線をむけた。その秀麗な顔に、微かな笑みがうかべられる。
「……」
何か土方にむかって云うと、爆弾の起爆装置に手をかけた。
一気に、それを引こうとする。
とたん、土方が動いた。
脇下に下げていたホルダーから拳銃を引き抜くと、その銃口を伊東に向けたのだ。
総司は大きく目を見開いた。
「────ッ!」
次の瞬間、銃声がすべてを引き裂いた。
爆弾を握りしめたまま、伊東の躯が激しく仰け反った。その胸から鮮血が吹き出す。
一発の銃弾は、心臓を撃ち抜いたのだ。
伊東は血を吹き出しながら、そのまま床にどうっと倒れこんだ。
「……」
それを、呆然と総司は見つめていた。
身動き一つできなかった。
「……う…そ……っ」
だが、不意に呪縛が解けた。躯中が激しく震えたが、それでも兄のもとへ行こうと走り出した。
フロアの中央、事切れてしまった兄のもとへ───
「総司ッ!?」
とたん、驚愕にみちた土方の声が叫んだが、総司はふり返らなかった。ふり返る事など出来なかった。
「兄…さん……っ」
よろめきながら走り寄ると、その場に崩れるように膝を折った。震える両手で、そっと兄の頬にふれた。
だが、もう応えは返らない。
その瞼は固く閉ざされ、何もかもが冷たくなってゆく一方だった。
兄は死んでしまったのだ。
殺されてしまった。
そして、総司の兄を殺したのは……
「……ぁ……」
総司はのろのろと顔をあげ、目の前に立つ男を見上げた。
まだ拳銃を握りしめたまま、呆然とした様子で自分を見下ろしている男を。
この世の誰よりも、愛しい恋人を。
だが、たった今、自分の兄をその手で殺した男を───
「……ぃ…や……っ」
総司は伊東の躯を胸に抱きしめたまま、ゆっくりと首を左右にふった。
大きく見開いた目で、土方を見つめた。
「こんなの……いや……」
「総司……!」
「どうして? どうして、こんな……こんな事……ッ!」
「総司!」
次の瞬間。
喉も張り裂けんばかりの絶叫が、空気を切り裂いた。
「……いやああああぁぁ───ッ!」
───あれは、まだ両親が生きていた頃だった。
あの悪夢のほんの少し前、家族全員で祝えた最後の、ぼくの誕生日。
8歳になったぼくを、父も母も、そして兄も優しく祝ってくれた。
母が手作りしてくれたケーキに蝋燭をたてて、お誕生日の歌を皆で唄い、火を吹き消した。
「おめでとう、総司」
愛情のこもった手で頭を撫でられ、ぼくは嬉しさで笑った。
そんなぼくに、兄が前から約束していたものをプレゼントしてくれた。
小さなロボットだった。
当時、兄は小さな玩具のロボットを作るのが好きで、よく作っていたのだ。将来はそんな玩具ロボットをつくる会社に入り、たくさんの子供たちを喜ばせたいと云っていた。
それが兄の夢だった。
兄は年の離れたぼくがいたからか、とても子供好きで、そして優しかった。近所の子供たちにも好かれ、もちろん友人もたくさんいて勉強もできて、ぼくにとって本当に憧れのだい好きな兄だった。
プレゼントを貰い、大喜びして、
「ありがとう! お兄ちゃん、大好き……!」
そう云いながら抱きついたぼくを、兄はちょっと照れたような笑みで抱きしめてくれた。
そんなぼくたちを、父と母もにこにこと笑いながら見ていた。
幸せな幸せな記憶。
幸せだった、ぼくの最後の誕生日。
人は──どうして、優しい頃のままでいられないのだろう。
あの数日後、ぼくの両親は強盗に惨殺され、その復讐のために兄は豹変したのだ。あの優しかった兄が恐ろしい残虐なテロリストへと、変貌をとげていった。それを、ぼくはただ見ている事しかできなかった。
辛くて悲しくて切なくて。
それでも、兄の中に、今もあの昔の優しい兄が存在している事を、ずっと信じていた。いつか、あの頃の優しい兄に戻ってくれると、願わずにはいられなかったから。
なのに……。
兄は死んだのだ。
殺されたのだ。
ぼくが誰よりも愛した人の手にかかって。
兄さんは、土方さんに殺され…た───……
次の瞬間、総司は昏倒した。
兄の血の海と化した床に、ぐったりと倒れこんだのだ。
冷たく残酷な世界のすべてを、拒絶するかのように────
