現場検証の後、伊東の遺体が運び出された。
それを土方は無言のまま見送った。白い手袋を脱ぎながら、僅かに吐息をもらす。その端正な顔には憔悴の色が濃かった。
僅かに眉を顰め、瞳を昏く翳らせている。
その肩に、誰かの手が静かに置かれた。
「……」
ふり返ると、近藤がそこに立っていた。知らせを聞いて来たのか、沈痛な表情だった。
「近藤さん……」
云いかけた土方を遮るように、近藤はゆるく首をふった。
「話は聞いた。今回のおまえの発砲は、正当なものとされるだろう。もし伊東を撃たなければ、数えきれぬ程の人々が亡くなっていたからな」
「……」
「歳、おまえは間違っていない」
きっぱりと断言した近藤に、土方は唇を噛みしめた。
ぐっと両手を握りしめた。
「俺は……本当は、伊東に裁きを受けさせたかったんだ。そんなつもりじゃなかった。だが、結局、総司の前で……っ」
「伊東は胸の前に爆弾を掲げていたのだろう? 肩を狙ったのだろうが、それは無理というものだ。むしろ、爆弾に命中しなかっただけよしとすべきじゃないか。それに、撃たなければ、総司も死んでいたんだぞ」
「わかっている! わかっているが、あの時の……俺を見た総司の目が忘れられないんだ……」
そう掠れた声で云うと、土方は不意に両手を広げてみせた。
「俺はこの手で、あいつの兄を射殺した! それも目の前で! こんな酷い話があるか? こんな残酷な……っ」
「歳、落ち着け」
「だめだ、できない」
苦しげな、切ない表情だった。
「俺は……もうどうしたらいいのか、全然わからねぇよ。あいつが俺を許してくれるはずがない。こんな俺を、総司は……っ」
「総司は許してくれるよ」
静かな声で近藤は云った。ぐっと土方の肩を掴み、その黒い瞳を深く覗き込むと、云い聞かせるように言葉をつづけた。
「総司はおまえが愛した相手だろう。あんなにも色んな事があって尚、おまえを愛してくれた総司じゃないか。その総司が、おまえを許さないはずがない」
「近藤さん……」
「とにかく、ここはもう片付いただろう。おまえは総司が運ばれた病院へ行け。そして、きちんと話し合うんだ」
「……」
土方はどこか怯えたような瞳で近藤を見返したが、やがて、視線を落とすと頷いた。そのまま踵を返し、ゆっくりと歩き出してゆく。
フロアを出ようとする土方に、気遣わしげな斉藤がすっと寄りそい、何か話しかけるのが見えた。
それらを見送り、これからの事を思って近藤は深く嘆息した。
病院へ着くと、先に知らせを聞いてやって来ていた藤堂がふり返った。
何か医師と話していたらしい。かるく一礼してから歩み寄ってくる。
「……総司が目を覚ましました」
目の前に立ったとたん、静かな声で云われ、一瞬、土方は鋭く息を呑んだ。が、すぐに僅かに息を吐いた。
「そうか……」
頷き、医師の方へ視線をやった。
傍から斉藤が訊ねた。
「病室はどこだ。大丈夫なのか」
「はい。意識はしっかりしてるのですが、でも……」
口ごもった藤堂を訝しげに見やった。が、すぐに歩み寄ってきた医師へ向き直った。
「あなたが彼の保護者である土方さんですね?」
「はい」
「少しお話があります。こちらへ」
案内され、土方と斉藤はそのまま別室へ通された。
医師はテーブルを挟んで向かい合わせになると、静かな声で云った。
「単刀直入に申し上げましょう。沖田さんは、記憶障害を起しています」
「記憶…傷害?」
「そうです、ここ三年の記憶を失っています。……いや、すべてではありません。学校の事や大学の事、むろん自分自身の事、ここにいる藤堂くんの事などもきちんと覚えています。ですが……」
「先生、意味がわからないのですが」
訝しげな表情で訊ねた土方に、医師は嘆息してから言葉を続けた。
「はっきり申し上げましょう。あの少年は、土方さん、あなたに関する記憶……そして、あなたによって起こった出来事、あなたを介する事で知り合った人々、そのすべての記憶を失っているのです」
「!」
土方の目が大きく見開かれた。愕然とした表情で医師を見ている。
「この藤堂くんの話からも、それは立証されました。だが、失うというより、むしろ消し去ったという方が正しい。今日……またテロ事件があったそうですね。そこで、あの少年はとても辛い目にあったとか。それを忘れるため、あなたの記憶を自分の中から消したのです。いや、でなければ恐らく正気を保てなかったのでしょう。あの少年の精神が本能的に己を守るため、ブロックしたという訳です」
「俺の…事を、総司が……」
「残酷な話ですが、もし今無理矢理でも思い出させようとすれば、あの少年の精神は狂うかもしれません。あなたを忘れる事で、何とか精神のバランスを保っているのですから」
「──」
テーブルの上に置かれた土方の手が僅かに震えた。視線を落とし、血が吹き出そうなほどきつく唇を噛みしめている。
それを不安げに見やりながら、斉藤は訊ねた。
「先生、その記憶障害ですが、それはいつまでも続くのですか? 総司が思い出す事は……?」
「現時点では何とも云えません。本人も確かにあやふやな記憶を不安がってはいます。ですが、今無理やり思い出させようとすれば、最悪の結果しか招かない」
「狂うと…いう事ですか」
「恐らく」
はっきりと頷いた医師は、静かに椅子をひいて立ち上がった。
ちょうど看護婦が部屋の扉をノックし、彼を呼びにくる。医師は二人にかるく黙礼すると、部屋を出て行った。
重い沈黙が落ちた。
土方は両手を固く組み合わせたまま、じっと押し黙っている。
その傍で、斉藤もかけるべき言葉がなかった。こんな結末など、誰も想像していなかったのだ。
確かに、伊東は逮捕されれば極刑だ。確実だろう。だが、それでも、それは法によって裁かれた上でだった。総司が誰を憎む事もない。
だが、事態は全く違った形の終結を迎えたのだ。総司の目前で、土方が伊東を射殺するという最悪の終わり方を───
「……」
やがて、土方は静かに立ち上がった。そのまま、ふらりと部屋を出ていこうとする。
扉を開いた彼に、斉藤が慌てて立ち上がり、声をかけた。
「どこへ行くのです……!」
「……仕事だ」
「土方さん」
ふり返った土方はその黒い瞳で、斉藤を見つめた。
その瞬間、思わず息を呑んだ。
(……土方さん、あなたは……!)
何の感情もない昏い瞳だった。
すべてを拒絶する、冷ややかで──だが、まるで捨てられた子供のような瞳。
一瞬、狂ったのは土方の方ではないかとさえ、思った。
絶望に。
己自身が、最愛の人の狂気の理由になってしまった事への絶望に。
その想いを恋を、今まで注いできた深い愛のすべてを、無理やり断ち切られた悲しみに、彼の中でも、何かが大きく狂ってしまったのだ……。
「──」
何も云えず立ちつくす斉藤の前で、土方は踵を返した。
そして、静かに扉が閉じられた。
「……テロの事件…ですか」
総司は驚いたように目を見開いた。
じっと目の前の男たちを見つめ、ゆるく首をふる。
クリスマスの朝だった。
ベッドの上に半身を起こした総司は、まったくいつもと変わらぬように見えた。だが、そこにいるのは、あんなにも愛した男を己の中から完全に消し去ってしまった少年なのだ。
その事を、そして、そのために愛する総司に逢う事さえできぬ親友を思うと、近藤は涙があふれそうだった。が、それを懸命に堪え、ゆっくりと答えた。
「きみは昨日、先日テロ事件に巻き込まれてしまってね。たまたまあのビルにいたために……」
「そう…ですか。ちょっとよく覚えてないんですけど」
総司はかるく小首をかしげた。
「きっと、こんなふうに記憶があちこち途切れてるのも、そのせいなんですね。早く治ればいいんですけど」
「……そうだな」
「近藤さん……といわれましたっけ? そちらの方は、斉藤さん?」
総司の綺麗に澄んだ瞳が、近藤とその後ろに立つ斉藤に向けられた。だが、それは全く初対面の者たちに向けられる瞳だ。
それに、斉藤はきつく唇を噛みしめた。思わず拳を握りしめる。
だが、そんな彼らの様子に総司が気づく事はなかった。にこっと笑うと、かるく頭を下げた。
「どうもご面倒をおかけしました。でも、ぼく……もう大丈夫ですから、明日にでも退院します」
「いや、もう少し様子を見た方がいいと、医者も云っていた」
「? そうですか」
不思議そうにしながらも、総司はこくりと頷いた。
それから、傍らでじっと見守っていた藤堂に視線を移すと、話しかけた。
「平助もごめんね。面倒かけて、せっかくのクリスマスだったのに」
「……いや、大丈夫。いっちゃんも心配していたよ」
「そう。ありがとうって伝えておいてね」
明るく微笑みながら話す総司には、何の不安も悩みもないように見えた。
それが、事情を知っている者たちには、逆に痛々しい。
辛く、可哀想で、たまらなかった。
いったい、どうしてこんな事になってしまったのか。
昨夜から何度も思った事を心にくり返しながら、斉藤は鳶色の瞳で総司を見つめた。
その視線に気づいた総司がふとふり返る。
そして、にこりと微笑んでみせた。
無邪気な、明るい笑顔。
だが、斉藤はそれに到底笑い返す事などできぬまま、黙って目を伏せたのだった……。
総司の荷物はすべて官舎から運び出され、以前のマンションに戻された。
そこにずっと住んでいたと、総司も思いこんでいるようだった。総司の中には、土方と同居していた官舎の部屋など全く存在していないのだ。
退院後、総司はそこへ戻ると、まるで何事もなかったように暮らし始めた。
大学の費用は伊東の遺産から払われる事になり、次々と土方との繋がりは絶たれていった。むろん、それは土方自身がその手で秘密裏に処理したものであり、総司は全く知らぬ事だったのだが。
総司の中で、伊東はテロリストでも何でもなく、数年前に事故死したと記憶されていた。戸籍にある事実をそのまま現実に移し替えたのだ。そのため、先日のテロ未遂事件で射殺された男が、自分の兄だとは微塵も思っていなかった。名前も違うのだ。わかるはずがなかった。
総司にとって、伊東は両親の亡き後自分を育ててくれた優しい兄であり、そして、自分はただ高校から大学へ進み、将来教職員になるべく勉学に励む平凡な大学生だった。それ以外の何者でもなく、土方と経験した様々出来事など思い出すはずもなかった。
むろん、あのブレスレットもすぐさま外されていた。総司がまだ意識を取り戻したばかりで混乱しているうちに、斉藤が鍵を使い、外しておいたのだ。そのブレスレットは土方の手に渡っていた。
総司の過ごしている日々を、藤堂や斉藤から聞かされた土方は別段何も云わなかった。ただ、静かに「そうか」と頷いただけだった。
最近の土方は仕事に忙殺されていた。だが、それは彼にとってむしろ幸いだった。仕事に集中していれば、余計な事は考えずに済む。だが、一方で、己自身を崖っぷちに追いつめてゆくような土方の姿は、傍から見ていても酷く痛ましかった。まるで手負いの獣がもがき、苦痛に喘ぎながらも闘いつづけるようだった。
そんな日々が一ヶ月以上も過ぎた頃、とうとう土方は倒れた。過労のため昏倒し、血を吐いたのだ。
幸いにして軽い胃炎である事がわかったが、近藤はすぐ土方に休暇をとるよう命じた。家に帰って休め、体が回復するまで出てくるなと命じたのだ。
そのため、土方は仕方なく家へ戻った。
官舎ではなかった。
土方はあの部屋につまった総司との思い出に耐えきれず、彼自身も別のマンションへ引っ越していたのだ。事情を聞いた信子がすぐ用意してくれた、新しいマンション。都心にあり最新の設備を備えている部屋だったが、土方自身はそんな事に何の関心もなかった。
あの部屋でなければ、もうどこでもよかったのだ……。
「……ただいま」
一人、小さく云うと、土方は吐息をもらした。
あの頃、いつも「お帰りなさい!」と飛び出してきてくれた総司が、一瞬脳裏にうかんだ。が、すぐ彼はそれをふり払った。
考えても仕方ないのだ。すべて、自分が選んだ道なのだから。
まだ日も沈んでないうちに帰宅させられたので、いったい何をしていいのかわからなかった。
土方はざっとシャワーを浴びてカジュアルなシャツとジーンズに着替えると、書斎にしている部屋に入った。官舎の時と違い、かなり広い部屋だ。それでも、書籍や資料などでいっぱいになりつつあった。
デスクの上に置いてあった煙草を手にとり、火をつける。
総司とつきあうようになってから、やめた煙草だった。総司の気管支が弱いと知ってから、ぴたりと止めたのだ。そんな自分にどこまで溺れているのかと苦笑したものだが、それさえ甘い疼きの奥に消えた。
「……」
土方はしばらく紫煙をくゆらせていたが、やがて、デスク前の椅子に腰を下ろした。
パソコンを起動させ、様々なデータをチェックし始める。むろん、仕事を持って帰ってきたりしてはいない。だが、情報収集は常に行っていた。
ついでに最近動きが遅くなってきたので、ファイルの整理にも手をつけた。
「……?」
とたん、土方はあるファイルに気がついた。
パソコンは総司と二人兼用で使っていたのだが、アカウントは別だった。だが、何故か、総司のものらしいファイルが入っていたのだ。
総司自身のデータは土方との関係がばれそうなものだけ抜き取り、アカウントごと別のパソコンに移し、総司の部屋へ運びこんでおいた。引っ越しも何もかも、斉藤や永倉がやろうと云ってくれたのだが、それを断り、土方はすべて自分自身の手で行ったのだ。
「おかしいな……何で紛れこんでいるんだ?」
だが、しばらく考えているうちに思い出した。
11月頃。あれはまだ、この事件が起こる前だった。総司が悪戯っぽい瞳で云っていたのだ。
面白いものをとったから、今度見て下さいね──と。
あの時は、いったい何の事かわからなかったが、多分それがこのファイルなのだろう。
しばらく躊躇っていたが、結局、そのファイルをクリックした。メディアプレーヤーが起動し、データをロードし始める。
やがて、画面が現れた。
土方は目を見開いた。
そこは、官舎の寝室だった。朝だ。
窓から光が射し込み、眩しい程だった。とても明るい。
『──朝ですよー!』
いきなり、総司の声が響いた。
カメラを手にしてるのか、画面がちょっと揺れる。
ベッドで眠っているのは土方らしい。ごそごそとシーツが動いた。
『もう朝ご飯作っちゃいました。ね、早く起きて一緒に食べましょう』
そう云いながら、総司はカメラを手にしたままベッドに近づいた。くいくいシーツを引っ張ると、土方がちょっと煩そうに眉を顰め、寝返りをうった。
『……もう少し寝させてくれよ』
掠れた彼自身の声。
それに、総司のくすくす笑う声が重なった。
『だーめ。とってもおいしい朝ごはん作ったんだから』
甘い声で云うと、総司はカメラをコトンと音をたててベッドサイドに置いた。ちょうど、総司と土方を上から見下ろすようなアングルになる。まるでドラマのように、二人の表情一つまで綺麗に映し出されていた。
総司は幸せそうに笑っていた。
その瞳をきらきらさせ、桜色の唇に笑みをうかべて。
『ね、一緒に食べましょう?』
『……じゃあ、朝のキスをくれ』
『え? 昨日あんなにしたのに?』
そう云いながらも、総司は身をかがめた。そっと土方の頬に手をすべらせ、唇を重ねてゆく。次第にキスは深くなった。
ベッドの上、じゃれるように抱きあいながら、何度もかわされる恋人たちの甘いキス。
総司がそっと囁いた。
『だい好き……』
愛情のこもった瞳で彼だけを見つめ、微笑った。
まるで、花のような笑顔だった。
総司は土方の躯に柔らかく抱きつくと、静かに目を閉じた。それを彼も優しく抱きすくめる。
甘く澄んだ声が──囁いた。
『……お願い、ずっと一緒にいてね……』
───いつのまにか、涙で視界がぼやけていた。
土方はパソコンの画面を、ただ呆然と見つめている。
やがて、低い嗚咽がその唇からもれた。
「……総…司……っ」
呻き、両手を握りしめた。
もう我慢など出来なかった。耐えられなかった。
何でもないふりをする事など、到底できなかった。大声で泣いて、この運命を呪ってしまいたいのだ。罵ってやりたいのだ。
どうして──!と。
もしもこの世に神が本当にいるのなら、それはあまりにも残酷だった。
ただ一人。この世でただ一人、初めて心から愛したのだ。
己のすべてで、この命をかけるほど、深く愛してきたのに。ほんの少し前まで、こんなにも幸せだったのに。
なのに───
「!」
不意に、土方は立ち上がった。
まだ映像は続いている。だが、これ以上、幸せだった頃の映像を見ている事などできなかった。耐えられなかった。
顔をそむけると、土方は逃げるように書斎を出た。
だが、リビングに入ったところで膝が折れた。そのまま壁に凭れかかり、ずるずると坐り込んだ。
涙に濡れた目で呆然と天井を見上げた。
男なのに情けないと自分でも思ったが、どうしようもなかった。ここで泣かなければ、自分は狂ってしまうと思った。
今は誰も見ていない。
何を繕う事もない。
だから。
「……総…司……総司……ッ!」
愛しい少年の名を叫び、土方は激しく慟哭した。
まるで傷ついた獣のように。
愛しい者を奪われた男の苦しみ、悲しみそのままに。
もう二度と帰らぬ日々を思って。
泣きつづける土方を、大きな窓ガラスから月だけがひっそりと見つめていた……。
……そして。
幾つもの季節が巡っていった。
冷たい冬から花開く春になり、眩しいほどの夏になり、やがて、季節はまた秋へと巡ろうとしていた。
都心の街路樹が美しく紅葉し始める。
大学構内の楓も色鮮やかで、最近、総司はその下を歩くのがお気にいりだった。藤堂たちとはしゃぎ、笑いあいながら歩く。
だが、そんな時、総司はふと不思議な感覚を覚えていた。
友人達に囲まれているにもかかわらず、なぜか無性に淋しいのだ。何かが足りない気がした。
とても大切なものが、自分の心の柔らかな部分から奪われ、欠けてしまったような……。
だが、その事は、優しい友人である藤堂、あの事件が切っ掛けで親しくなった近藤や斉藤に話すつもりはなかった。
なぜか、口に出してはいけないと思ったのだ。
それに少し気恥ずかしかった。
なぜなら、その気持ちは悲しく切ないのに──ほんの少しだけ甘酸っぱかったのだ。
どこか恋の予感めいていて、総司は思わず頬を赤らめさえした。
まるで、誰かを待っているようだった。
いつか──きっと、めぐり逢える大切な誰かを……。
ある秋の早朝だった。
綺麗に澄み渡った青空の下、総司は急ぎ足で歩いていた。
周囲に広がるのは美しい公園の光景だ。そこは郊外の大きな公園だった。春になれば、さぞかし花畑が見事だろう。
しかし、今は秋のためか、あまり人影もなかった。遠く、丘の上に男が一人佇んでいるだけだった。
だが、それに気づく事なく、総司は足早に公園を抜けた。
「……困ったなぁ、遅れちゃうかも」
何度も時計をちらちら見やった。
もっとも完全に遅れるなら、もう諦めればいいのだ。が、できるなら出たい講義だった。
総司は公園を出ると、交差点の前に立った。歩行者側は赤信号だ。
「……っ」
それを見上げていた総司は不意に、いつもの頭痛を覚えた。
時々、ある場所や何かがあったりすると、突然、鋭い痛みを覚えるのだ。実を云うと、この公園もそうだった。
以前勤めていたバイト先であるカフェがその公園の向こうにあった。今も親しくしてもらっているので、今朝、そこのマスターの妹さんの結婚祝いに行ったのだが。
「……痛い……」
総司は頭を片手でおさえ、ぎゅっと目を瞑った。
しばらくすると、少しずつ頭痛はいつもおさまってくるのだ。が、今回はなかなか重かった。
それでも、ようやくおさまってくる。
「……」
ほっと安堵の息をもらした。
やはり、まだあの時の後遺症があるのだろう。あやふやな記憶も、この頭痛と関係があるのか。
だが、総司の中で、何かが考えるなと叫んでいた。余計な事は考えるなと。
それが、いつも少し怖かった。
「……考えても仕方ないよね」
一人こくりと頷いてから、総司は歩き出した。横断歩道に足を踏み入れ、わたってゆく。
だが、それは間違いだった。
自分の考えにのみ囚われていた総司は、周囲の光景が全く目に入っていなかったのだ。
信号は赤だった。
そして、当然ながら───
「!」
激しいクラクションにハッとした瞬間、総司の視界いっぱいに車が迫っていた。足が竦んでしまい、身動き一つできない。
その総司の腕が、不意に後ろから掴まれた。あっと思った時には誰かの胸もとに抱きこまれ、そのまま道路脇へと勢いよく二人して転がっていた。全身を激しい衝撃が襲い、思わずきつく目を閉じた。
ほんのすぐ先を、車がクラクションを鳴らしながら走り抜けていった。
「……ぁ……」
すぐには声が出なかった。
恐怖と驚愕に、頭の中がまっ白だったのだ。
だが、総司を助けてくれた男はすぐさま身を起こし、歩道へ強引に連れ出した。
またその場に坐りこんでしまった総司の肩を、男の手が荒々しく掴んだ。目の前に跪いているため、男の着ている濃紺のスーツとまっ白なワイシャツ、ネクタイが視界に入った。
「怪我は!?」
大声で怒鳴られた。声からすると、まだ若い男のようだ。
「どこか怪我は……!?」
「……大丈…夫です……」
総司は喘ぎながら、必死に云った。まだ躯中の震えがとまらず、声が震えてしまう。
「ぼくはどこも怪我…してません……」
それに、男が深く安堵の息をついた。
「……よかった……」
「あの、ありがとうございます。本当に助けて頂いて……」
そう云いながら顔をあげた総司は、思わず目を見開いた。
自分を助けてくれたのは、今まで見たことないほど綺麗な顔だちの男だったのだ。
艶やかな黒髪が僅かに額に乱れ、切れの長い目が印象的だ。引き締まった頬から顎にかけての線も、形のよい唇も、大人の男の艶が匂い立つようだった。
濡れたような黒い瞳が、じっと総司を見つめていた。だが、すぐその視線は反らされた。
男は総司から手を離すと、そのまま立ち上がった。すらりと均整のとれた長身だった。
総司から視線を外したまま、低い声で云った。
「……信号はちゃんと見るんだな。気をつけろよ」
「は、はい……」
こくりと頷いた総司を一瞥もせぬまま、男はその場から立ち去ろうとした。上等そうなスーツが砂や泥で汚れてしまっている。それを申し訳ないと思いつつ見ていた総司は、不意にあっと息を呑んだ。
慌てて立ち上がり男の後を追うと、その腕を掴んだ。
男の反応は総司が驚くほどだった。びくりと激しく躯を震わせ、ふり返ったのだ。
「……何だ」
喉にからんだような声だった。凄味さえ感じさせる。
だが、総司はそれに怯んでいられなかった。
「怪我してます! 血が出て……っ」
「あぁ」
男は頷き、ちらりとその怪我に視線をやった。車のどこかに引っかけたのか、スーツの上腕部分が裂けていた。血も滲んでいる。
「病院に行きましょう!」
そう云った総司に、男は苦笑した。
「たいした怪我じゃねぇよ」
「でも……それじゃ、ぼくが嫌です。我慢できません」
「病院に行く程の怪我じゃない。気にするな」
素っ気ない口調で答え、男は踵を返した。邪険なまでの仕草で総司の手をふり払うと、歩み去ろうとする。
それを、総司は必死になって引き留めた。
なぜだかわからなかった。
なぜ、こんなにも彼が気になるのか。
けれど、どうしても彼とこのまま別れたくなかったのだ。この──まるで手負いの獣のような男と。
自分でも理解できぬほどの、激しい衝動だった。
「じゃあ、この先にぼくが昔勤めていたカフェがありますから、そこで手当させて下さい。途中で包帯とか買って行けば……」
「……」
「お願いですから、手当させて下さい! それに、助けて貰ったお礼になるかわかりませんけど、そのカフェでモーニングご馳走しますから」
とたん、男の目が見開かれた。驚いたような顔で、総司をじっと見つめている。
それに総司は小首をかしげた。いったい、何をそんなに驚いているのだろう。
「あの……?」
「……」
訝しげに問いかけた総司の前で、男はふっと視線をそらした。しばらく黙っていたが、やがて僅かに嘆息すると、答えた。
「……わかった。おまえの云うとおりにするよ」
「よかった!」
総司はほっとして微笑んだ。
「すぐ近くなんです。この公園を抜けていけば、すぐですよ」
「……あぁ」
男は頷き、総司とともに歩き出した。今度はきちんと青信号で渡り、公園を抜けてゆく。
そうしながら、総司は云った。
「あ、そうだ。助けてもらったのに、自己紹介もまだでしたね」
「……」
「ぼくは総司。沖田総司です」
そう云った総司に、男はしばらく黙り込んでいた。
端正な横顔を見せたまま、押し黙っている。
名前は教えてもらえないのかなと総司が思った時、ようやく男は口を開いた。
「……土方だ」
低い声だった。
そして、静かな。
「俺の名は土方。土方歳三だ」
「土方さん……」
そう呼んだ総司に、土方は僅かに目を伏せた。ぎゅっと片手が握りしめられる。
それを総司はじっと見つめた。
なぜか、無性に懐かしい感じがしたのだ。この名も口にした事があるような気さえした。
とても……不思議な感覚だった。
「……土方さん」
もう一度呼んだ総司に、土方は目をあげた。
その濡れたような黒い瞳に見つめられ、どきりとする。
総司は立ち止まると、彼を見上げながら両手を組みあわせた。かるく小首をかしげてみせる。
「えっと、その……土方さん、でいいんですよね? そう呼んでもいいですか?」
「あぁ」
「じゃあ、ぼくの事は……総司と呼んでください。皆、そう呼んでるから」
その言葉に、土方はまたしばらく黙っていた。
だが、僅かな逡巡の後、低い声で呼んだ。
「……総司」
「!」
その瞬間。
総司は大きく目を見開いた。
彼に名を呼ばれた瞬間、胸の奥がふわっと熱くなったのだ。それは、まったく信じられないような感覚だった。
視界の中、息を呑む土方が映った。
なぜだろうと思った総司は、すぐにその理由を知った。
いつのまにか──泣いていたのだ。
涙があふれ、ぽろぽろとこぼれ落ちてゆく。かぁっと頬が紅潮した。
「あ、れ……?」
総司は慌てて手の甲で目をこすったが、あとからあとから涙があふれてきた。
小さく泣き笑いした。
「何で…だろ、どうして、泣いてるの……?」
「総司……」
「ぼく、どうして……?」
自分自身でも理解できない涙に戸惑う総司の視界が、突然、暗くなった。「え……?」と目を見開き、驚く。
土方が総司の躯を引き寄せると、その両腕で柔らかく抱きすくめてくれたのだ。そっと背を掌で撫でてくれる。
「……我慢するな」
優しく低い声が囁いた。
「ぁ……」
「泣きたい時は、素直に泣いた方がいい。その方がずっと楽になる……」
「……土方…さん……」
とても懐かしい匂いがした。
とても懐かしい感覚だった。
総司は目を閉じると、土方の広い胸に頬を寄せた。
とくんとくんと、彼の鼓動が聞こえた。それがたまらく心地よかった。
優しい響きだった、
あたたかい……彼のぬくもりだった。
まるで、帰るべき場所にようやく辿りついたような───
「……土方さん」
しばらくたってから、総司は男の胸に手をついてそっと身を起こした。
まだ涙に濡れた瞳で、小さく笑ってみせた。
「ありがとうございました。……もう大丈夫です」
「……」
土方は黙ったまま頷くと、そっと腕の力を緩めてくれた。だが、まだ心配そうに眉を顰め、総司をじっと見つめている。
それに、総司は微笑んでみせた。
手をのばし、土方の手を不意にとった。指さきをからめ、きゅっと握りしめると、土方が驚いたように目を見開いた。
「行きましょう!」
明るく澄んだ声で、総司は云った。
花のような笑顔をうかべながら、土方の手を無邪気にひっぱった。
「早く行って怪我の手当をして、それから一緒に朝食をとりましょう。さっき云ったとおり、お礼にご馳走しますから。オープンサンドに、スクランブルエッグと、それから」
「それから、珈琲?」」
「えぇ。あ、でも、紅茶がよかったら、セレクト出来ますよ」
そう云った総司に、土方は苦笑した。
「どっちでも構やしねぇよ」
「じゃあ、紅茶でもいいですか? 土方さんと一緒に飲みたい紅茶があるんです」
「そうか」
「とってもおいしい紅茶なんですよ」
「……」
───まるで。
何事もなかったように。
あの幸せな日々がずっとつづいてきたように、明るく笑いかけてくる総司を、土方はその黒い瞳で見つめた。
悔恨と罪悪感。
悲しみと切なさと──何よりも、深い愛しさのこもった瞳で。
「……総司」
「はい」
素直に返事をしてくれる総司の手を、土方はそっと握り返した。
そして。
静かに微笑んだ。
──それは。
本当に、きれいな微笑みだった。
世界中の何よりも、美しい。
かけがえのない。
己の命よりも大切な。
この世でただ一人──心から愛したものだけにむけられる。
とても、きれいな微笑みだった……。
つかまえてね
かくれて泣いているぼくを
追いかけ、つかまえてね
そして──思いきり抱きしめて
好きだと言って
愛してるって囁いてね
その時、きっと
あなたの腕に抱きしめられたぼくは
世界中の誰よりも
幸せそうに微笑んで
あなたを愛してるって告げられるから
だから、お願い
つかまえてね
そして、もう二度と放さないで
……土方さん
愛してる
あなただけを、いつまでも