家へ帰ると、土方は少し落ち着きを取り戻したようだった。
ずっと掴んでいた総司の手を離し、リビングへと入ってゆく。だが、それでも無言のまま苛立った様子でコートを脱ぎ捨てる男の姿に、総司はきつく唇を噛んだ。
「……怒っているの?」
そう問いかけた総司に、ネクタイを緩めようとしていた土方の手が一瞬とまった。
ふっと唇の端をつりあげた。
「怒っている、か。生憎、そんな生易しいものじゃねぇよ」
「じゃ、じゃあ……何?」
「憎らしさと怒り、嫉妬と……何だろうな、俺にもわからねぇ」
苦々しい口調で云い捨てると、土方はしなやかな指さきで僅かに乱れた黒髪をかき上げた。目を細め、宙を見据えている。
「とにかく、確かなことは、おまえが俺よりもあいつを選んだという事だ。それだけが紛れもない事実だろう」
「選んだなんて……!」
思わず総司は叫んだ。
「ぼくはそんな選んでません」
「選んだじゃねぇか、俺の目の前で」
「そんな……っ」
「俺から逃がすために、あいつを庇っていただろ。全身で俺の前に立ちふさがって」
「だって、あの人はぼくの兄なんですよ。唯一の肉親だ。庇って当然でしょう?」
「肉親だから当然、か」
肩をすくめ、土方は嘲るような笑みをうかべた。
低い声で訊ねた。
「だから、か。それで、俺を裏切るという訳か?」
総司は目を見開いた。
「裏切り? そんなこと、ぼくは……」
「これの何処が裏切りじゃねぇと云うんだ」
土方は吐き捨てるような口調で云い放った。
「俺に隠れて伊東と逢いながら、それを全く知らせず、挙げ句、躯中にあの男につけられた痕なんざ残しやがって……!」
「!」
鋭く息を呑んだ。
思わず両手で口をおおい、後ずさった。
「なん…で? どうして、知っているの……っ?」
「入院した時だ。おまえが眠っている時、苦しそうだったからパジャマのボタンを外し、襟元をゆるめたんだ。その時に見えた、俺がつけたはずもない痕をな」
「……土方…さん……っ」
「あの伊東におまえは抱かれた訳か? だから、明かりを消してくれと云った訳だよな。近親相姦までやってるとは、思ってもいなかったよ」
「!」
思わず、総司は手をあげていた。次の瞬間、鋭い音が部屋の空気を切り裂く。
土方の頬を、総司が思いっきり引っぱたいたのだ。
だが、すぐに後悔した。
こんな事するつもりはなかったし、こんな事をすればより彼を怒らせるだけだとわかっていたのに───
「……いい度胸してるじゃねぇか」
土方は目を細め、今の平手打ちで切れた唇の端を手の甲で拭った。
その手についた血に、総司は目を見開いた。
「あ……」
「自分が裏切ったくせに、俺に手をあげるとはな。最低だよ、ほんと」
「だ、だって……!」
総司は後ずさり、激しく首をふった。
「だって、土方さんが酷い事を云うから! ぼく、兄さんに抱かれてなんかいないのに……っ」
「あんな痕があるくせに?」
土方は唇を歪め、嘲りにみちた声で嗤った。
「よくも、そんな嘘が云えるな。おまえは俺より伊東を選び、裏切った。それは確かな事だろう」
「だから……裏切ってなんかいません。信じてよ」
「信じられる訳がねぇだろうが!」
がんっと壁に拳を叩きつけ、土方はしばらく黙っていた。きつく唇を噛みしめたまま、総司を見据えている。
だが、不意に嘆息すると、目を伏せた。一度脱いでおいたコートを拾い上げ、また袖を通した。
「土方さん……?」
思わず呼びかけた総司に、土方はふり返った。だが、そのまなざしに息を呑む。
まるで、赤の他人を見るような冷ややかさだったのだ。
「伊東の処へ行くなら、勝手にしろ。俺はとめやしねぇよ」
「……っ」
「鍵はポストにでも放り込んでおきな」
そう云うと、土方はすっと背を向けた。足早にリビングを出ていってしまう。
「──」
総司は呆然とそこに立ちつくしていた。
追わなければと思うのに。
今すぐ謝らなきゃ駄目だとわかっているのに。
どうしても躯が動かなかった。
彼の冷ややかな瞳、あの残酷な別れの言葉。
それがあまりにも衝撃的で、身動き一つできなくて……。
(……土方…さん……!)
やがて、遠く玄関の扉が閉められる音が響いた。男の気配が遠ざかってゆくのを感じる。
だが、それでも追えなかった。
ただ宙を見つめ、躯を震わせるばかりだった。指さきから血の気が失われ、鼓動だけが耳奥に響く。
(……ぼくは、見限られた……?)
そうとしか考えられなかった。
土方は総司を見限ったのだ。今のは絶縁の言葉だったのだ。
「そん…な……っ」
のろのろと、総司はその場に坐りこんだ。
たとえ、彼が自分を突き放しても、それでも愛する事をやめられるはずがなかった。
だが、それでも、さっきの土方の冷たい瞳を思い出すと、躯中が瘧のように震えてくる。
苦しくて辛くて、呼吸さえ出来なくなりそうだった。
「あんな目で見られるなんて……本当に、愛想をつかされたんだ……っ」
涙がぽろぽろ零れた。
両膝を抱え込み、まるで親に捨てられた幼い子のように嗚咽をあげて泣きじゃくった。
その時だった。
突然、電話のベルが鳴った。
「!」
総司は顔をあげ、思わず電話に飛びついた。土方かと思ったのだ。
「土方さん……!?」
受話器をとるなり確かめもせず叫んだ総司に、相手はしばらく何も云わなかった。
だが、やがて静かな声で呼びかけた。
『……総司』
それは兄の声だった。
紛れもなく、伊東の声だった。
強ばっていた総司の躯から力が抜けた。気が緩んだのか、また涙がぽろぽろと零れてしまう。
「兄さん……っ」
『やはり、あの後……何かあったんだね』
伊東は僅かに嘆息した後、云った。
『すまない、私のせいで泣かせてしまったようだ』
「兄さん…のせいじゃないの、ただ、ぼくが意地をはったから……」
『総司、今、私はすぐ近くにいるんだ。そこを出て、私の処に戻って来ないかい?』
優しい兄の声に、総司は息を呑んだ。
愛する土方に見限られた自分には、他に行ける場所などないのだ。
さしのべられた手が、たまらなく恋しかった。
それに、もうあんな冷たい瞳で見られたくない。
すべてから逃げ出してしまいたいと、心の底から願った。
「うん……」
気がつくと、総司は泣きながら返事をしていた。
「兄さんの処へ行く……ここを出るよ……」
『じゃあ、今すぐ荷物を纏めて出ておいで。必要最小限のものだけでいいから、後はこっちで揃えればいい』
「うん……でも、兄さん、迷惑じゃない?」
電話越しに伊東は苦笑した。
『迷惑なはずがないだろう? おまえは私のたった一人の大切な弟なんだ』
「うん……」
『愛してるよ……総司。今度こそ、おまえを幸せにしてみせる』
「兄さん……ありがとう」
30分後にと約束してから、総司は電話を切った。
手早くボストンバックに大学のものなどを詰めると、立ち上がる。一刻も早くここを出たかった。
いたくないのではない。
ここにいれば、せっかくの決心が鈍りそうな気がしたのだ。
「……」
総司は涙に潤んだ瞳で、ぐるりと部屋の中を見回した。
たくさんの思い出がつまった部屋だった。
あの時も──自殺しようとした時も、こうして部屋の中を見ていた。
同居した最初の日、隠していた袋がばれて恥ずかしかった。でも、そんな自分に彼は優しく笑い、抱きしめてくれた。
記憶を失った彼に傷つけられ、苦しんだ日々。
その時の事で泣く自分を抱きしめてくれた彼。
お揃いのパジャマを着て記念撮影した日。
お誕生日もバレンタインも、みんなみんな毎日、楽しかった。
本当に、夢のように幸せだった。
「……ふ…くっ……っ」
総司はうずくまり、また泣き出してしまった。
本当は出ていきたくないのに。
今でも好きで好きでたまらないのに。
でも、彼はもうあんな冷たい瞳でしか自分を見てくれないのだ。
それだけの事を、自分はしてしまったのだから……。
「……っ」
総司は手の甲で涙を拭うと、また立ち上がった。
ボストンバックを抱えて玄関を出ると、彼の言葉どおり鍵をポストから入れた。
「……さよなら、土方さん」
小さな声で告げてから、総司はゆっくりと歩き出した。
まるで、総司の気持ちを具現するかのように、静かに雨が降り出していた……。
翌日、土方は家に帰ってきた。
誰もいない部屋の扉を開けると、明かりを灯した。
いつも笑顔で迎えてくれる恋人はいない。その事は、もうよくわかっていた。
「……やっぱり、出ていったか」
書斎や寝室をぐるりと周り、そこから総司のものが幾つか消えている事を確認した土方は、低く呟いた。
嘆く気にもなれない。無理に無理を重ねた結果だった。
お互い隠し事をして、それでも必死に恋人同士であろうとした。だが、所詮、無理だったのだ。
秘密を抱えたままで、やってゆけるはずもなかったのだから。
土方はダイニングの椅子に腰をおろすと、僅かに乱れた黒髪を指さきでかき上げた。
自分が突きつけた別れだった。
それを総司が受け入れても、責められるはずがなかった。また、責めようとも思わなかった。
正直な話、彼は怖かったのだ。
今夜、帰ってきてまだ総司がいたら?
もしも、いつもと同じように彼を迎え出たら?
今度こそ、総司を激しく傷つけてしまう気がした。
世界中の何よりも愛おしくてたまらない少年の身も心も、この手で壊してしまいそうな気がしたのだ。
土方自身の奥にひそむ獰猛な獣が鋭い牙を剥き、その獰猛な衝動のまま総司を引き裂いてしまいそうだった。
それが身震いするほど怖かった。
嫉妬と怒りに狂った自分が何をするか、もう彼自身にさえわからないのだ。己の中にある残酷な衝動が、たまらなく恐ろしかった。
だから、むしろ、土方は総司が出ていった事に安堵の息をもらしていた。
「……総司……」
むろん、淋しかった。
総司が恋しかった。
何としてでも取り戻したかったが、それは事を片付けてからだった。
今のままでは、何をどうしても繰り返しになってしまう。それだけは避けたかった。
元凶である伊東を逮捕しなければ、どうにもならないのだ。先の捜査で、伊東の居場所は掴めていた。少しずつその実態もわかりかけている。
だが、逮捕に至るまでは、まだ程遠い状態だった。
「……」
静まり返った部屋の中。
土方は両手を固く組み合わせると、鋭い瞳でじっと宙を見据えた……。
「……無理だね」
マウスから手を離し、永倉はため息をついた。
幾つか並べたパソコンを前に、椅子の背に寄りかかった。そうしながら、傍らに立つ土方と斉藤を見上げた。
「何をどうやっても侵入なんかできねーよ」
「どうして」
「狼火のシステム防御、これ誰が作ったか知らないけど、相当なものだ。この天才ハッカーの永倉新八様がroot権限さえ奪取できないんだぜ。こんなの見た事ないよ」
「資金の動かし方もわからないのか」
「いや、そっちはわかるよ。銀行のシステムの方が余程簡単だし……ほら、かなり細かく分けた上で沢山の銀行に振り分けている。けど、こっちもまるで網の目みたいに細分化されてるし、挙げ句、スルー口座だらけだ。資金ぐりの方から探るのは無理なんじゃないの」
難しい表情で云った永倉に、土方はきつく唇を噛みしめた。
「あいつは……伊東は、一流企業の商社マンらしい。それがあいつの隠れ蓑だ。だが、何の証拠もないまま、伊東を逮捕する事なんかできない」
「当然ですね。逮捕状だって出ませんよ」
斉藤がため息をつき、手元の書類を投げ出した。悲惨なテロ現場の写真ばかりだ。
あれから、また幾つかの大がかりなテロがあり、今度もまた狼火の仕業であると表明してきたのだ。
その写真をじっと見据え、土方は低い声で呟いた。
「だが、どこかに付け入る隙があるはずだ」
「そりゃ、当然あるさ」
永倉は椅子に凭れかかり、キシキシ鳴らしながら云った。
「どんな優秀なシステムだって、セキュリティホールってのがある。そこから入り込んでやれば、システム乗っ取りだろうが、クラッシュさせる事だろうが、何だってやりたい放題だ。けど、この凄いシステムじゃ到底無理だね」
「なら、打つ手は全くなしという事か」
「そりゃさぁ、めちゃくちゃ根本的な話だけど、パスワードさえ分かれば一発だよ。もちろん、今の時点じゃ、そのパスを探る処までも全然いきつけてない訳だけど」
「パスワードか……」
土方は眉を顰め、片手の指を口元にやった。きりっと歯をたてながら、考えこんでいる。
その様子を、斉藤は不安げに見やった。
だが、そんな友の様子に気づかぬまま、土方は何かを考えつづけた。そして、何を思ったのか、ふっと歪んだ昏い笑みを唇に刻んだ。
一瞬、その黒い瞳に、残忍で獰猛な獣じみた光がうかぶ。
それはすぐ、男にしては長い睫毛の翳りに消えたが、斉藤は見逃さなかった。
背筋がゾッとするような恐れを、斉藤は抱いた。
(……土方さん……)
ゆっくりと何かが動きだそうとしていた。
誰一人、望みもしなかった方向へ───
総司は伊東のマンションで暮らしていた。
あの日、迎えにきてくれた伊東の車に乗せられ、すぐさまこのマンションへ連れてこられたのだ。
どうやら、伊東が幾つか持っている拠点の一つらしいが、ここは完全にプライベートで組織の者は一切出入りを禁じてあると云った伊東に、総司は安堵の息をもらした。
卑怯だとは思うが、兄がテロリストである事から少しでも目をそらしたかったのだ。あからさまに狼火の活動を見せられたくなかった。
ここでの生活はもう十日になり、少しずつ総司も慣れはじめていた。
「……いってらっしゃい」
総司は玄関口で、出社する伊東に云った。
伊東はスーツ姿で差し出された鞄を受け取ると、優しく微笑んだ。
「今日は徹夜になると思う。少し仕事がたまっていてね」
「兄さんが徹夜なんて珍しいね。今日も休日出勤だし、そんなに忙しいの?」
そう訊ねた総司に、伊東は肩をすくめた。
「もうすぐ暮れだからね」
「じゃあ、帰りは明日の夜?」
「あぁ。そうだ……明日はイヴの夜だね。総司と過ごす久しぶりのクリスマスだ。楽しみにしているよ」
「兄さん……」
「今日は大学は? もう終わりだったかな」
穏やかな口調で訊ねた伊東に、総司は素直に答えた。
「うん。でも、家の中の事を色々したいし……レポートもあるし」
「そうか、あまり無理はしないようにね」
こくりと頷いた総司の頬に一度だけキスを落とし、伊東は踵を返した。
「行ってくる」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
バタンと閉じられたドアを、総司はしばらく見つめていた。
だが、小さくため息をもらすと、鍵をかけ、部屋の中へ戻った。
ダイニングに入り、朝食の皿やカップをキッチンへ運んだ。スポンジに洗剤をつけ、洗い物を始める。
そうしている総司の顔は真剣そのものだった。
家事をしていれば、他のことは考えずに済むのだ。何かしていれば気が紛れる。だから、一生懸命に集中しようと努力していた。
もう何も考えたくなかったのだ。
伊東の事も、自分の事も。
そして──土方の事も……。
「!」
はっと総司は顔をあげた。
洗いものに集中していて気がつかなかったのだが、電子音が鳴っていたのだ。慌てて見回したが、固定電話は点滅していない。なら、総司の携帯電話だった。
総司は急いで手を拭うと、部屋を横切った。リビングのソファに置いてあった鞄から携帯電話を取り出し、パチンと音をたてて開いた。
だが、次の瞬間、その目が大きく見開かれた。
「土方…さん……!」
ディスプレイには、確かに土方の名が表示されてあった。
呆然としている総司を追いつめるように、いつまでも電子音は鳴り続ける。それに、総司は固く目を閉じた。
深呼吸をくり返し、必死に自分を落ち着かせようとする。
そして、ようやく心を決めると、静かにボタンを押した。通話が繋がる。
「……はい」
小さな声で答えた総司に、一瞬、彼は何も云わなかった。
が、沈黙の後、あの聞き慣れた低い声が電話ごしに伝わってきた。
『……総司か?』
「はい……」
こくりと頷いた総司に、土方はまた黙り込んだ。
いったい、どこから電話しているのだろう。彼の後ろは酷く静かだった。なら、仕事場ではないのか。
『おまえに話がある』
「話、ですか」
『あぁ、話というより……頼みだな』
そう前置きすると、土方は静かに話を始めた。
何の感情もない淡々とした声音で、その説明をつづけてゆく。
だが、それを聞くうち、総司は躯中が激しく震え出すのを感じていた。大きく目を見開いた。
(……信じられない……!)
こんな事を、彼が自分に頼んでくるなんて。
それを、自分が引き受けると思っているなんて。
やがて話を終えた土方は、ゆっくりとした口調で訊ねた。
『で、どうだ? 引き受けてくれるか?』
「土方さん、あなたは……っ」
総司は電話を握りしめた。
「ぼくがそんなこと引き受けると思っているのですか! そんな酷い事をよくも……」
『市民の義務って奴じゃねぇか。それとも何か、おまえはあんな残忍なテロを支持しているのか』
「そんな……っ」
『今までの経緯から考えても、俺はごく当然の事を云ってると思うぜ。まぁ、おまえが嘘をついてなければの話だがな』
「嘘って、何のこと……」
『俺より伊東を選んだんじゃないと云ったことだ。おまえが本当に俺を愛しているなら、身の潔白を証明するためにも当然出来る事だろう。それとも、出来ないのか? やっぱり、俺を裏切り、伊東を選んだという事なのか?』
男の冷ややかな声音に、総司は息を呑んだ。
信じられないような、自分に向けられる日がくるなんて思ってもみなかった、嘲りにみちた、躯の芯まで冷えてしまいそうな声音だった。
「……土方…さん……っ」
『今日、T公園中央噴水前で11時だ。来なければ、それがおまえの答えだと受け取らせて貰う』
そう低い声で云いきると、土方は返事も待たず一方的に電話を切った。
(……土方さん……!)
携帯電話を握りしめたまま、総司は呆然とその場に立ちつくしていた。
