土方は眉を顰めた。
本庁へと戻る車内での出来事だった。
突然、胸もとを片手で掴んだかと思うと、前屈みになってしまったのだ。
「……っ」
そのまま苦しげな表情で、激しく喘いでいる。
運転席でハンドルを握っていた斉藤は驚き、慌てて路肩に車を停めた。
「大丈夫ですか!?」
「……大丈夫、だ……」
「どこが痛いんです? 心臓? 土方さん、あなた心臓が悪いなんて一度も……」
「なんかねぇよ……けど……っ」
土方はゆるゆると首をふった。眉根を寄せ、きつく目を閉じる。
「けど、すげぇ苦しいんだ。心臓が痛いとかいうより、これは……」
「過労ですか? オレ、いやですからね、心不全なんかで死なれたら困りますよ」
「違うって……大丈夫だ、マジで」
少しずつ声音がしっかりしてきたのに気づき、斉藤はほっと息をついた。
だが、土方の顔色はまだすぐれない。
タイトに締めていたネクタイに指をさしこみ、僅かに緩めた。何度も呼吸をくり返している。
そのままシートにしばらく凭れかかっていたが、やがて、低い声で云った。
「斉藤……頼みがあるんだが」
「何です」
「もう一度、官舎へ戻ってくれないか」
「え? 忘れ物ですか」
そう訊ねた斉藤に、土方は俯いた。
片手でくしゃっと前髪をかきあげ、僅かに目を伏せた。
「まぁ……そんなとこだな」
「そんなとこって、急がなきゃまずいんですよ」
「すまない。けど、どうしても戻って欲しいんだ」
「仕方ありませんね。少し飛ばしますよ」
斉藤は肩をすくめ、ドライブを入れ替えた。そのまま少し走らせてから交差点で一気にUターンをかける。
警察官にあるまじきスピードでハンドルを切る斉藤に、土方は思わず眉を顰めた。
「おい、つかまったらどうするんだ」
「だから、少し飛ばしますと云ったじゃありませんか」
「ったく……」
土方はため息をつきながら、窓外を見やった。
どんどん景色が過ぎ、官舎へと近づいてゆく。不思議なことに、それにつれて胸の痛みは消えていった。
だが、それでも土方の表情は晴れない。
むしろ、昏い光がその瞳に浮かんだ。固く唇を引き結んでいる。
「土方さん……!」
官舎の玄関前についたとたん、車がまだ停まらぬうちから土方はドアを開けて飛び降りた。慌てて呼びかけた斉藤をふり向きもせず、官舎の中へ走り込んでゆく。
それに、斉藤もさすがに異常なものを感じた。一瞬躊躇ったが、車のキーを抜くと飛び降りた。
エレベーターには何とか間にあった。駆け込んできた斉藤に、土方はちらりと視線をむけたが何も云わなかった。無言で閉のボタンを押す。
「土方さん、いったい……?」
訝しげに問いかける斉藤に、土方は何も答えなかった。
実際、答えようがなかったのだ。この胸奥でどす黒く渦巻く予感が何を意味するのか、彼自身わからなかった。
エレベーターが8階につくと、土方はすぐさま飛び出した。廊下を走り抜けて自分の玄関前につくと、もどかしげに鍵を開けた。
訳がわからないまま立ちつくす斉藤を玄関に残し、土方は部屋の中へ駆け込んでいった。
やがて、廊下ごしにバスルームへ入る姿が見えた。
その瞬間だった。
「────ッ!!」
凄まじい、獣の咆哮じみた絶叫が響きわたった。
それに、斉藤は一瞬反応できなかった。何が起こったのか理解できなかったのだ。
だが、激しい水音が鳴った瞬間、大きく目を見開いた。
「!」
慌てて靴を脱ぎ、玄関にあがった。そのままバスルームに飛び込んだ斉藤の目に、濡れた床に跪いている土方の背が映った。
そして、その腕に力無く抱かれている総司の姿も。
細い手首も、バスタブの中も、血で真っ赤だった……。
「……総司ッ!」
気がつくと、土方が叫んでいた。必死になって総司の躯を揺さぶり、その名を呼びつづけている。
「総司! 総司っ……総司──ッ!」
まるで、気が狂ってしまったようだった。
斉藤はその様を呆然と見ていたが、すぐ我に返った。その場で救急車を呼ぶと、土方の肩を掴んだ。
「早く止血しないと!」
「……総司が、総司……っ」
「土方さん!」
ぐっと肩を掴み、彼をふり返らせた。その黒い瞳を覗き込み、激しい口調で言い聞かせた。
「早く止血しないと、本当に総司は死んでしまいますよ! あなた、それでもいいんですか!?」
「!」
土方の目が大きく見開かれた。
その唇がわななく。
が、それは一瞬の事だった。強靱な彼の精神はすぐに己をとり戻したのだ。
「……おまえの云うとおりだ」
まだ僅かに震える声で答え、土方はすぐさま総司の躯を抱きあげた。リビングへ運ぶと、手早く止血の手当を始める。
そうしながら、何度もくり返した。
まるで、祈るように。
「死なせるものか……絶対に死なせるものか、総司……!」
「……」
男の逞しい躯が震えているように見えた。
それは、奪われようとする恋人に、必死に縋りつく男の姿だった。
この世の誰よりも愛しい者を、失いかけている男の真実だった。
「……」
斉藤は何も云えぬまま、彼の腕に抱かれた総司を見下ろした。青ざめた頬に長い睫毛が翳りをおとし、もう息さえしてないように見える。ぞっと身震いした。
斉藤にとっても、総司はかけがえのない存在なのだ。
きつく両手を握りしめた。
(……総司。頼むから、助かってくれ)
遠く、サイレンの音が近づいてきていた……。
バスルームの扉を開けた瞬間。
土方の目に飛び込んできたのは、真紅だった。
バスタブに満たされた鮮血の赤。
そして、そこに片手をさし入れ、ぐったりと目を閉じている少年の姿───
「!」
まるで、体中の血が逆流したようだった。
目の前が真っ暗になり、吐き気さえ込みあげてくる。
気がつくと、誰かが叫んでいた。
獣の咆哮じみた凄まじい声で。
それが自分のものだと知ったのは、後になってからだった。
「総司ッ!」
水から手を抜かせ、荒々しく引き寄せた。胸もとに抱きしめるが、何の反応もない。
その瞬間、絶叫していた。
「総司! 総司っ……総司──ッ!」
もう何も考えられなかった。
ただ、総司の名を呼ぶことしか出来なかったのだ。
その時の彼には。
斉藤が正気に戻してくれなければ、手当も満足にできなかっただろう。救急車さえ呼べなかったのだから。
「……総司……っ」
救急車の中、土方は傷ついてない方の総司の手を握りしめた。
人工呼吸器をつけられた総司は酷く青ざめ、まるで綺麗な人形のようだった。だが、まだ息はあるのだ。心臓は動いていた。
「死なないでくれ……俺を一人にしないでくれ……っ」
その声が震えた。
涙があふれ、ぽたぽたと零れ落ちた。
傍で斉藤が驚いた表情で見ているのを感じたが、とめる事などできなかった。
総司の冷えた手に、何度も唇を押しあてた。
「頼む……頼むから、俺を残して逝くな……!」
だが、それに答えは返らなかった。総司は深く瞼を閉ざし、細い息をくり返していた。
やがて、病院に到着すると、すぐさま総司はストレッチャーに乗せられ、病院の奥へ運び込まれていった。
土方は呆然と立ちつくしたまま、それを見送った。その姿が見えなくなっても、身動き一つしない。
同じように救急車から降りてきた斉藤が、その腕を掴んだ。
「土方さん」
ふり返らせた。
どこか焦点のあっていない黒い瞳が、斉藤を見た。だが、おそらく何も映っていないのだろう。
斉藤は構わず云った。
「おれは今から近藤さんに連絡します」
「……」
「こんな状態じゃ、あなたは仕事にならないでしょう。おれだけ行きますから、あなたは総司の傍にいてやって下さい」
「……斉藤」
低い声で、土方が不意に呼びかけた。
それに「はい」と答えると、言葉がつづけられた。
「総司は苦しんでいたんだ……」
「……」
「俺と伊東の間でどうする事も出来ず悩み苦しんで、それで……あんな事をした。自らの命を絶つような事を……っ」
土方は傍らの壁に、ガンッと音をたてて拳を打ちつけた。
顔を伏せ、苦しげに呻いた。
「どうして、俺はわかってやれなかったんだ! あんなに追いつめられるまで悩んでいた総司を、どうして……っ」
「土方さん……」
斉藤は静かに土方の肩に手をおいた。
何も云ってやる事ができない。
あなたの責任ではないと、云ってやる事は簡単だが。
それでも、土方は自分自身を許せないだろう。
死を選ぶほど追いつめられていた総司に、全く気づいてやれなかった自分を……。
土方は壁に額を押しつけ、固く目を閉じた。しばらく、浅い呼吸をくり返している。
それに、斉藤も黙って傍にいた。
「──」
やがて、ゆっくりと土方は躯を起こした。僅かに乱れた黒髪を片手でかきあげ、ネクタイを締め直した。そのまま踵を返すと、病院の出口へ向かって歩き出す。
斉藤は驚き、慌てて声をかけた。
「土方さん……!」
「何だ」
ふり返った土方は酷く怜悧な目をしていた。それに一瞬たじろいだが、それでも斉藤は言葉をつづけた。
「いったい、どこへ行くつもりです」
「仕事だ」
「仕事って……総司を残して!?」
「俺がここにいてもできる事はない。後は医者たちの腕と、総司の気力次第だろう。今の俺にできるのは……」
すうっと土方は切れ長の目を細めた。
「総司をここまで追いつめた伊東を、逮捕する事だけだ」
「土方さん……」
「行くぞ」
感情を押し殺した──それだけに凄味のある表情で顎をしゃくると、土方はまた歩き出した。
それを追いながら、斉藤は深く嘆息した。
総司は丸一日昏睡状態がつづいたが、翌日の夜に目を覚ました。
それも、ちょうど土方がICUに入った瞬間だった。
ベッドへ歩み寄ってくる彼を感じたかのように、ゆっくりと目を開いたのだ。
「総司……!」
驚き、駆け寄った土方を、ぼんやりと霞んだ瞳が見上げた。
幾度かの瞬きの後、ぽろりと涙がこぼれた。
その青ざめた唇が小さく呟いた。
「……ごめ…ん…なさい……」
「総司」
慌てて、土方は総司の手を握りしめた。すると、細い指さきが弱々しく彼の手を掴んだ。
「ごめん…なさい……生きることから……逃げて……」
「総司、もう何も云うな」
土方はベッドに手をつき、その綺麗な顔を見つめた。空いてる方の手で頬を撫でてやった。
「話は全部、後だ。とにかく休め」
「でも、ぼく……あなたとの約束……」
「大丈夫だ、俺は何も怒ってねぇよ。怒ってるのは、むしろ自分自身に対してだ。だが、そんな事もうどうだっていい」
土方は身をかがめ、そっとキスを落とした。
静かな声で囁いた。
「おまえが生きててくれた……それだけで、俺はもう全部いいんだ」
それは本心だった。
バスルームでの光景を思い出すと今でも身震いしてしまう程だが、それでも、総司は助かってくれたのだ。
今、こうして生きててくれるのだ。
それだけで、もう良かった。
他には何も望まなかった。
「土方さん……」
総司が彼の名を小さく呼んだ。大きな瞳が僅かに潤んでいる。
その髪を、そっと撫でてやった。
「さぁ……もう少し眠れ。今は躯を休めることだ」
優しい男の言葉に、総司はこくりと頷いた。
まるで幼い子供のように、土方のスーツの袖口を指さきで掴むと、静かに目を閉じた。小さく息をついてから、眠りへ落ちてゆく。
その愛しい少年の寝顔を見つめ、土方はきつく唇を噛みしめた……。
自殺未遂である事は明らかだったため、総司は心のカウンセリングまでされたようだった。
だが、実際の話、総司が死を選んだ事には、明確な理由があるのだ。決して精神的なものではなかった。それゆえ、カウンセリングは何の役にもたたなかった。
傷が塞がると、総司はすぐ退院しても良い事になった。
ただ、またくり返す恐れがあるからと保護者である土方には、かなり念押しと警告がされたようだった。
「……ごめんね、迷惑ばかりかけて」
退院の日、総司は小さな声で云った。
それに、土方は肩をすくめた。手をのばし、ぴんっと指さきで額を弾いた。
「いたっ」
「そう思うなら、少しはいい子にしろよ」
笑いながらそう云ってくれた土方に、総司は安堵の吐息をもらした。
荷物を纏めてくれる彼を、そっと見やった。
(……土方さん……)
入院している間、彼は毎日見舞いにきてくれた。ここは完全看護制なので夜の泊まり込みは出来ないが、面会時間ぎりぎりまでいてくれたのだ。
だが、その間、土方は自殺未遂について全く口にしなかった。まるで、ちょっとした事故か何かで入院しているように、総司を扱ったのだ。一言だって、問いただそうとしなかった。
それは総司への気遣いもあったが、土方自身、恐れていたのだ。
自殺未遂までした総司の後ろに、いつのまにか、まだ逢った事のない兄伊東の存在を見るようになっていた。
確かに、総司は自分と伊東の板挟みに苦しんだ挙げ句、自殺しようとしたのだろう。
だが、それは裏を返せば、土方と同じぐらい、伊東を愛しているという事だった。
それ程までに、総司の中で伊東の存在は大きいのだ。消し去る事などできない存在なのだ。
自分より伊東を選ぶとは思わないが、それでも不安である事は確かだった。
少しでも目を離したら最後、伊東に浚われてしまいそうな気がしたのだ。
実際、自分はもう少しで、この愛しい少年を永遠に失う処だったのだから……。
世話になった医者や看護婦に礼を云い、病院を後にした。むろん、まっすぐ官舎へ戻った。
扉を開けた瞬間、土方も総司も一瞬戸惑った。少し躊躇いを覚えたのだ。
だが、すぐ気をとり直した土方が先に中へ入った。慌てて総司がそれにつづく。
綺麗に掃除され、あのバスルームも血の痕など何処にもなかった。
だが、違う事にもすぐ総司は気がついたのだ。
(……まるで……あの時みたいだ)
黒手団に誘拐され、土方のもとに監禁されていた頃と同じだった。
家の中から、すべての刃物が片付けれられていた。剃刀から包丁、ハサミに至るまで捨ててしまったらしい。
だが、総司はその事自体にふれぬまま、訊ねた。
「ご飯……どうやって作りましょう」
「最近は材料を全部切ったのが売ってるだろ。あれで作ってくれ」
そう云ってから、土方はちょっと困ったように笑った。
「もちろん、おまえが一人の時はの話だ。俺がいる時は、俺が作る」
「でも……っ」
「おまえはゆっくり休んでろって」
ぽんぽんっと総司の背をかるく叩いてから、土方はキッチンへ歩いていった。さっそく夕食の支度にとりかかるつもりらしく、冷蔵庫を開けている。
その姿を、総司は見つめた。
あんな事をしでかしたのに、何も聞かず何も問いたださず、ただ優しく受け止めてくれる恋人が、嬉しく──そして、切なかった。
よくわかっているのだ。
あの自殺未遂に、彼がどんなにショックを受け悲しんだか。総司よりも、むしろ土方の方がより深く傷ついていた。
(ぼくは……この人を傷つけたんだ)
ぎゅっと両手を握りしめた。
こんなにも愛おしい人を、傷つけた。それも最悪な形で。
いったい、どうやって償えばいいのか、わからない程だった。
こんなにも愛しているのに、どうして、ぼくはいつもいつも、土方さんを傷つけ悲しませてしまうの……?
総司はキッチンへ入ると、手早く料理をしている土方の背に、そっと寄りそった。
頬を寄せ、目を閉じる。
土方が驚いたようにふり返るのを感じたが、それでも離れなかった。離れたくなかった。
「……ごめんなさい、土方さん」
そう、小さな声で云った総司に、土方は何も云わなかった。ただ黙って、総司の手を優しく撫でてくれた。
冬の昼下がり。
彼のシャツが少しだけ涙に濡れた……。
その夜、土方の腕に抱かれながら、総司は薄闇を見つめていた。
首筋に彼の寝息がふれ、背中ごしに感じる体温がとてもあたたかい。
生きている証。何よりも愛おしい彼のぬくもり、鼓動だった。
それを感じながら、総司は思った
逃げてはいけないのだ……。
自分は彼と兄の間で悩み、その挙げ句、自殺未遂までしてしまった。しかも、それを彼の命を助けるためだという名目で。
だが、それは逃げだった。
生きることから、苦しむことからの、逃げだった。弱いからこそ、現実に立ち向かう勇気がなかったからこその行為だった。
それを、総司は自分が自殺未遂したことで深く傷ついた土方を見て、思い知らされたのだ。
愛する彼のためにも、もう決して逃げたくなかった。
戦いたい──と、そう強く思った。
待ち合わせ場所は、大学近くの公園だった。
雑木林の奥にあるベンチで、総司は本を読みながら待っていた。
やがて、枯れ葉を踏む音が鳴り、伊東が現れた。仕事の途中だったらしく、スーツ姿でコートを纏っている。
「……ごめんなさい、お仕事の最中だった?」
そう訊ねた総司に、伊東は僅かに苦笑した。
ちらりと腕時計に視線を走らせなら、答えた。
「30分ぐらいなら何とかなるよ。で、話とは……?」
「くり返しになるけど、ぼくは土方さんと絶対に別れない」
静かな声で、総司は云った。
「兄さんがあの人を傷つけるなら、ぼくも戦うよ。あの人を守るためなら、どんな事だって出来る」
「なるほど……」
伊東はくっくっと喉を鳴らし、笑った。
「この間は命乞い、次は自殺を引き替えにしての懇願、そして……今度は宣戦布告かい?」
「……」
「つまりは、私を警察に売るという訳だね」
そう云った伊東に、総司は目を見開いた。
思わず立ち上がり、叫んだ。
「違う! そんな事しない……っ」
「なら、どうするつもりなのかな。私はおまえをあの男から引き離すためなら、何でもするよ。おまえは自ら死ぬことであの男を助けてくれと云ってきたが、私はそんな甘い人間じゃない。おまえが死んだら尚更、あの男を殺すだろう。許せる訳がないからね」
「そん…な……!」
呆然とした総司に、伊東は手をのばした。そっとなめらかな頬を手のひらに包み込んでやりながら、優しい声で囁いた。
「戻っておいで……それが一番なんだよ」
「兄さん……」
「私たちは、あんなにも仲の良い兄弟だったじゃないか。また昔のように、一緒に暮らそう」
「でも……っ」
総司は激しく首をふった。伊東の手をふり払い、後ずさる。
「ぼくは、あなたから逃げ出したんだ! 兄さんがテロを起こすたび、たまらなかったから。辛かった、罪の意識に苦しみ抜いた。だから……っ」
「おまえは優しすぎる。私の行為に、おまえが罪悪感をもつ必要はないし、その義務もないだろう」
伊東は静かな声で云いきった。
「私は私の信念に基づいて行動しているんだ。何ら悔いる気持ちもないし、恥じる気持ちもない。ましてや、罪悪感など持った事もない。なのに、おまえがどうしてそんな気持ちになるのか、まったく理解できないね」
「兄さんはおかしいよ!」
思わず叫んだ。
「あんな暴力行為に訴えて、何が変わるというの。何が得られるというの?」
「おまえと、信念や思想、そういうものに関して議論する気は全くないよ」
そう云うと、伊東は僅かに嘆息した。
胸の前で腕を組むと、その鳶色の瞳でまっすぐ総司を見つめた。
「とにかく、私が云いたいのは、これだけだ。戻ってきなさい、総司」
「……」
俯いてしまった総司に、伊東は瞳の色を和らげた。手をのばすと、華奢な弟の躯をそっと引き寄せた。
優しく抱きしめ、その瞼に頬にキスを落とした。
「おまえは私の家族なんだ……」
耳もとで、云い聞かせるように囁いた。
それに総司が堪えきれぬように目を閉じる。
「この世でたった二人きり残された兄弟じゃないか。唯一の肉親だよ。その私を、おまえは切り捨てるのかい?」
「兄さん……」
「帰っておいで、私はおまえをずっと探してたんだよ。愛してる……私にはおまえしかいないのだから」
「……」
総司の長い睫毛が震えた。
白い指先がぎゅっと──縋るように兄のコートを握りしめた。
その瞬間、だった。
「!」
雑木林の中。
枯れ葉を踏みしめる音に、気がついた。
重く雲のかかった冬空の下、それはゆっくりとこちらへ近づいてくる。
(……まさか……!)
総司は慌ててふり返り、とたん、鋭く息を呑んだ。
もう枯れ枝だけになった雑木林。
その中を遠く、一人の男がこちらへ歩んで来ていた。彼が歩くたび、ふわりと裾がひろがる黒いコート。
黒い瞳は鋭い光をうかべ、その形のよい唇は固く引き結ばれていた。
すらりとした長身にスーツと黒いコートを纏った、その男は───
総司は、急いで伊東に向き直った。その胸を両手で押しながら、叫ぶ。
「兄さん、行って!」
「総司……」
「いいから、早く! 早く行って下さい!」
「……」
一瞬、伊東は冷ややかな視線を土方の方へ向けた。だが、まだ互いの距離は30メートル程あいている。
「……待ってるよ」
そう囁きざまキスを落とすと、伊東は身をひるがえした。足早にその場を去ってゆく。
雑木林を抜けてゆく兄の姿を見送っていると、その背に土方が歩み寄ってきた。見上げた総司を鋭く一瞥してから、すぐさま傍を通り過ぎ、伊東を追おうとする。
「土方さん……!」
総司は素早く土方の前に回り込むと、両手を広げた。
「お願いだから、追わないで」
「……そこをどけ、総司」
「土方さん、聞いて。あなたの立場もわかるけど、でも……っ」
「どけと云っているんだ。聞こえねぇのか……!」
激昂した土方に怒鳴りつけられても、総司は怯まなかった。
きつく唇を噛みしめたまま、土方をまっすぐ見返す。
それに、土方は顔を歪めた。
「……そんなに、兄が大事か」
「ぼくのたった一人の肉親です。大事なのは当然の事でしょう」
はっきりと云いきった総司に、土方はぐっと拳を固めた。
しばらく無言のまま恋人を見据えていたが、不意に手をのばすとその細い腕を掴んだ。踵を返し、先ほど伊東が去った方向とは反対へ歩き出してゆく。
「ひ、土方さん……何!?」
驚き、叫んだ総司に、答えは返らなかった。思わず抗ったが、その手は離されない。まるで鋼のような力だった。
痛いほど腕を掴まれたまま、連れ去られてゆく。
「土方さん……!」
重く雲がたちこめた冬の空に、少年の声が響いた……。
