今度の待ち合わせ場所は、街角のカフェだった。
総司が歩み寄ってゆくと、やはり先に来ていた伊東は読んでいた本から視線をあげた。
ちょうど昼食時だったので、伊東は総司の分も注文しておいてくれた。間もなくワンプレートランチが運ばれてくる。
躊躇う総司に、伊東は静かに促した。
「食べなさい、冷めてしまうよ」
「……はい」
きちんと手をあわせてから、総司は食事を始めた。
だが、あまり食欲がないため、さっぱりしたサラダばかりを食べてしまう。
それを見ても、伊東は何も云わなかった。
もともと総司はひどい偏食だったのだ。
それが直ったのは、自分で食事を作り始めてからだった。
否、むしろ、土方がおいしいと喜んで食べてくれるならと一生懸命つくった結果、自分も少しずつ偏食が直っていったのかもしれない。
だが、今はとても食べる気になれなかった。
先に済ませていた伊東は、珈琲カップを取り上げた。
口に運びながら、穏やかな口調で云った。
「悪いが、会社の昼休みに抜けてきている。あと40分程で戻らないといけないんだ」
「じゃあ……」
総司はかるく目を見開き、訊ねた。
「どうして、ぼくを呼び出したの?」
それに、伊東はくすっと笑った。頬杖をつき、柔らかな笑顔で覗き込む。
「怒ってるのかい?」
「……怒ってないけど、でも……」
「もちろん、おまえに逢いたかった。だが、それ以上に答えが聞きたかったのだよ」
「答え……」
思わず、総司は口ごもってしまった。
伊東は鳶色の瞳でまっすぐ弟を見つめた。そのまま、静かな声で云った。
「わからないとは云わせないよ。私はきちんと自分の要求を伝えた。後はおまえの判断次第だ」
「ぼくは……っ」
総司は長い睫毛をふせ、きゅっと唇を噛みしめた。喉が焼け付くほど、からからに乾く。
じっと黙り込んだ末に、躊躇いがちにだったが、小さな声を絞り出した。
「あの人と……土方さんと別れるなんて」
「……」
「そんな事……できない」
すっと伊東の目が細められた。口角が僅かにあげられる。
「それがおまえの答え?」
「……」
「なら……あの男が死んでも構わないんだね?」
「兄さん……!」
思わず総司は手をのばし、伊東の手を握りしめた。縋るように、その大きな瞳で一途に見つめた。
「お願いだから、そんなこと云わないで」
「……」
「本気で云ってるんじゃないよね? そんなこと……兄さんがするなんて……っ」
「やれやれ」
伊東は肩をすくめた。しばらく総司を眺めてから、椅子の背に凭れかかると、くすくす笑い出した。
秀麗な顔だちにうかぶ表情は、一見、とても柔らかな笑みだ。
優しげと云ってもよい。
だが、その瞳はまったく笑っていなかった。
むしろ、ぞっとするほど冷ややかな狂気のかげろいさえ孕んだ───
「おまえは今まで私の何を見てきたんだい? 私がどんな事をしてきたのか、その目でしっかり見てきたはずだろう?」
「……」
「私は云った事は、必ず実行するよ。だいたい、こんなことを冗談で云う程、酔狂じゃない」
そう云ってから、伊東は逆に総司の細い手を掴んで、引き寄せた。思わず手をひこうとするが、見た目より力の強い兄には叶わない。
伊東は、その白い指さきにキスの雨を降らせながら、鳶色の瞳で最愛の弟を見つめた。
「あの男に……抱かれたね」
「え?」
目を見開いた総司に、伊東はゆっくりと唇の端をつりあげた。
ぞっとするほど酷薄な笑み。
低い声で囁いた。
「……首筋に痕がついている」
「あ」
総司は慌てて首筋をおさえた。そのまま思わず俯いてしまう。
そんな総司に視線を据えたまま、伊東は言葉をつづけた。
「また、咬まないと駄目かな」
「……」
「それとも、あれぐらいでは足りないか……?」
「兄さん、ぼくは……」
何か云いかけた総司に、伊東は肩をすくめた。突然、突き放すように総司の手を離した。
「兄さん……?」
驚いて見つめる総司の前で、携帯電話をスーツのポケットから取り出した。通話が繋がると、僅かに背をむけて何か話し始める。
総司は仕事かと思い、視線を落とした。
すると、その電話はすぐ終わったらしく、伊東は通話を切って携帯電話を仕舞い込んだ。
椅子に坐り直しながら、優しく微笑みかけた。
「さぁ、これで少しはおまえもわかるだろう」
「え……?」
目を見開いた総司に、伊東は云った。愉しそうに笑っている。
「帰って、ニュースでも見ることだね」
そう云うと、戸惑う総司を残し、伊東は立ち上がった。
伝票を取り上げながら、のばした手で総司の髪にふれた。身をかがめ、一瞬だけその頬にキスを落とす。
「私の可愛い総司……」
低い声が耳もとで囁いた。
「一日も早く、おまえがこの私のもとへ帰ってくる事を願っているよ」
「兄さん……」
思わず見上げた総司に笑いかけると、伊東は踵を返した。後はもうふり向きもせず、歩み去ってゆく。
ガラス越しに、店を出た兄が横断歩道をわたり、自分の勤め先である商社のビルへ入ってゆくのが見えた。途中で同僚に声をかけられ、何か談笑している。その姿はどこから見ても、エリートビジネスマンだった。
あの兄を見て、残虐なテロリストなのだと思う人など、いないだろう。だが、それは真実なのだ。
伊東は目的達成の為ならば、どんな非道な事でも出来る男だった。
紛れもない犯罪者。
そして、総司の愛する土方は、それを追い捕えるべき立場の人間だった……。
「……」
総司は目を伏せると、きつく唇を噛みしめた。
「……ただいま」
小さな声で云いながら扉を開けたが、むろん、昼間の部屋には誰もいなかった。
当然、土方は仕事中なのだ。
それに安堵すべきかどうなのか、わからない気持ちのまま総司はスニーカーを脱いだ。パタパタとスリッパの音をさせてリビングへ入ってゆく。
すぐキッチンへ入り、買ってきた野菜や肉などを冷蔵庫にしまった。手も綺麗に洗ってから、ふうっとため息をつく。
時計を見上げると、もう3時だった。伊東と別れてから、あれこれ買い物をしてから帰ってきたのだ。
「土方さん、今日も遅いのかな……」
そう呟いた総司は、ふとある事を思い出した。
去り際、伊東が投げかけた言葉を。
───帰って、ニュースでも見ることだね。
あれは、いったい何を意味していたのだろう。
「……」
ゆるく首をふると、総司はリビングへ戻った。取り込んだ洗濯物をたたもうと床に篭を下ろし、その前に坐り込んだ。
放り出してあったリモコンを手にとり、何気なくテレビをつける。
「!」
その瞬間、総司の目が大きく見開かれた。
どこかの──東京の大きな橋の上だ。
それが激しく燃えさかり、何度も爆発をくり返していた。
真っ黒の煙が空へたちのぼり、オレンジ色の焔がめらめらと橋を呑み込んでゆく。
「これ……映画?」
そう思わず呟いた総司は、すぐ違う事に気がついた。
激しく鳴るヘリコプターの音と、上ずったレポーターの声。
これは紛れもない現実なのだ。
「ま…さか……っ!」
総司はテレビに駆け寄り、その画面を食い入るように見つめた。
橋の上、たくさんの車が激しく燃えていた。それはどう見ても、ほとんどが警察車両だった。レポーターの話では、検問中に一台の車が突っ込んできたらしい。その車には爆弾が積まれており───
(兄さんだ! あの時の電話は、この自爆テロを指示するものだったんだ)
呆然とテレビを見つめていた総司は、突然、我に返った。
「土方さん……!」
慌てて鞄から電話を取り出し、彼の携帯電話の番号を押した。ただの短縮なのに、指が震えてうまく押せない。
三度目に何とか出来た時には、もう総司は半泣き状態だった。
しばらくコールがつづき、やがて、通話が繋がった。
その瞬間、思わず叫んでしまう。
「土方さん……!?」
それに、土方の低い声が答えてくれた。
『あぁ。総司か?』
「ごめんなさい。お仕事中に電話して、でも……!」
『ニュースを見たのか、大丈夫だ』
土方は静かな落ち着いた声で話した。
『俺も……斉藤や島田、永倉も近藤さんも大丈夫だ。あの検問は別のセクションのものだったしな』
「そう……よかった」
『けど、多数の死傷者が出たのは確かだ。警察相手にここまでのテロはなかったしな……悪いが、当分帰れそうにない』
そう云った土方に、総司はこくりと頷いた。
「わかってます。それは……でも、土方さんも気をつけて」
『大丈夫だ。ただ、着替えが全くないから、今日の夕方に一度戻るよ。すぐ出るけどな。用意しておいてくれるか』
「はい。一週間分ぐらいでいい?」
『あぁ、頼む。……近藤さんが呼んでる、悪いが切るぞ』
「仕事中にすみませんでした」
『じゃあ、後でな』
それきり通話が切れたが、総司は受話器を握ったままそこに立ちつくしていた。
土方の声音はいつもより酷く固かった。
恐らく、多数の犠牲者が出ているのだろう。その中には、土方の知り合いも多く含まれているに違いない。
その残酷なテロを行ったのは、命じたのは、総司自身の兄なのだ。
兄の伊東が───
脳裏に、あの時の言葉が蘇った。
───さぁ、これで少しはおまえもわかるだろう。
そう云って、優しく微笑んでいた兄。
あの兄がテロを実行させる命を下したのだ。
何でもない事のように、しかも総司が見ている前で。
(……あぁ、兄さん。あなたという人は……!)
今になって、躯中が激しく震えだした。
昔の──兄のもとにいた頃の絶望と罪悪感が、身のうちに蘇ってくる。
何もかも、自分のせいだと思っていたあの頃の……。
(でも、そうだ。今度こそ、ぼくのせいなんだ。ぼくのせいで、あの人たちは……)
思わず崩れるように坐り込んでしまった。
冷たいフローリングの上、己の躯に手をまわし抱きしめた。
(これで済むはずがない。ぼくのせいで、またテロがくり返されるんだ。だって、これは……警告なのだから)
よくわかっていた。
伊東は少しずつ少しずつ、範囲を狭めてゆく。
最初は都内の数カ所。
次は公的な機関。その次は警察。
そして、次の標的は───
(……土方…さん……!)
総司は両手で顔をおおうと、きつく目を閉じた……。
土方が帰宅したのは、その日の6時頃だった。
冬の夜の訪れは早いので、もうすっかり日が落ちてしまっている。
「ただいま」
そう云いながら、土方は玄関から上がろうともしなかった。余程急いでいるのだろう。
総司は用意しておいたボストンバックを手渡しながら、云った。
「本当に気をつけてね」
「あぁ」
土方は頷き、ボストンバックを下駄箱の上に置くと、チャックを開けた。念のためか、簡単に確かめている。
「着替えや洗面具、色々と入れてくれたんだな」
「うん……それで足りる?」
「あぁ、大丈夫だ。また足りなくなったら、戻ってくるしな」
そう云いながら、土方はボストンバックのチャックを閉めた。とんとんっと形を片手で軽く整えている。
その端正な横顔を見つめた。
彼の黒髪は今はきっちり整えられているが、本当は素直でさらさらだった。それが愛しくてだい好きで、何度も指で梳いた。
黒い瞳はまるで濡れたようで、とても綺麗で。見つめられるたびにどきどきした。
でも、そんなぼくを彼はいつも「可愛い」と笑いながら、抱きしめてくれた。
それから、彼の優しい声。
何度も「愛してる」と、耳もとで囁いてくれた彼の声。
もう数えきれぬぐらいあたえられた、甘い口づけ。
世界中の誰よりも愛しい、大好きな人のすべて───
「ね……土方さん」
思わず呼びかけた総司に、土方は視線をあげた。何だ?と問いかけてくる。
それを、じっと見つめた。
「キスして」
「え?」
「しばらく帰って来られないのでしょう? なら、ぼくにキスして下さい」
「……あぁ」
一瞬、土方は戸惑ったようだったが、それでも優しく両手をさしのべてくれた。
総司の頬を掌で包み込むと仰向かせ、ゆっくりと唇を重ねた。
ふれるだけのバードキス。
だが、優しく甘いとろけそうなキス。
「総司……」
キスの後、きつく抱きすくめられた。背中と腰に腕をまわされ、息もとまるほど抱きしめられる。
総司も黙ってその男の背に手をまわし、目を閉じた。
全身で、彼を感じたかった。彼の鼓動を、ぬくもりを感じたかった。
確かに、この愛しい人が今生きている証を───
「……土方さん」
そっと身を離したのは、総司の方だった。
男の胸に手をつき、云った。小さく笑ってみせる。
「ごめんなさい、時間をとらせて。斉藤さんが待ってるのでしょう?」
「あぁ」
土方は頷き、もう一度だけキスを落とすと、踵を返した。総司が用意してくれたボストンバックを手に出ていこうとする。
その背に、総司は云った。
「気をつけてね……いってらっしゃい」
「いってくるよ」
扉を閉める瞬間、土方は優しく微笑んでくれた。それに、総司も小さく笑い返した。
ばたんと扉が閉まり、足音が遠ざかっていった。
「……」
しばらくの間、総司はそこに立ちつくしていたが、すぐ我に返った。いつもどおりリビングの窓から見送らないと、彼が不審に思ってしまうだろう。
慌ててリビングへ走り、窓を開いた。
今日は車なのか、斉藤のボルボが玄関前に停められていた。ちょうど、それに土方が乗り込むところだった。
窓の開いた音を聞いたのか、上を見上げる。
「……土方さん」
手をふった総司に、彼も手をふり返してくれた。そのまま、すっと車の助手席に躯を滑り込ませると、ドアを閉じる。
すぐさま車は走り出した。官舎の門を抜け、道路へ滑り出てゆく。
それを、総司はいつまでも見送っていた。
角を曲がった車が、視界から完全に消えてしまうまで。
「……」
やがて、総司は静かに窓を閉めた。そのまま踵を返すと、部屋の中をぐるりと見回した。
きちんと片付けられた部屋。
二人の愛と思い出がたくさんつまった、この部屋。
見られて困るものはなかったが、それでも幾つかの手紙や個人的な日記などは処分した。もう何の心配もないだろう。
総司は固く唇を引き結ぶと、リビングを出た。バスルームに入ると、水を満たしたバスタブの傍に跪く。
「……土方さん、ごめんなさい」
本当はもっと別の場所で行うべきなのだろう。
だが、それでも彼の思い出があるこの家で、死んでゆきたかった。彼との思い出が欠片もない何処とも知れぬ場所で死ぬ勇気など、到底なかった。
もちろん、自分が死ぬことで、伊東のテロがなくなる訳ではない。
伊東は弟への感情だけで動くような甘い人間ではないのだ。あの幾つかのテロは、総司へは勿論、社会への揺さぶりそのものだった。
だが、それでも、このままでは土方が危なかった。伊東の標的とされ、いつか確実に命を落とすだろう。
それだけは耐えられなかった、我慢できなかった。
先ほど、伊東宛に手紙を送った。自分の命と引き換えに、土方を助けて欲しいと。殺さないで下さいと。
伊東のもとへ戻るという選択もあっただろうが、そんなこと出来るはずがなかった。
総司にとって、愛する土方と引き離される事は精神的な死を意味していたのだ。それぐらい、総司にとって土方は大きな存在だった。
彼は、総司の命そのものだった。
「あなたと別れるぐらいなら……死んだ方がいい」
ひっそりと総司は呟いた。
「ううん、むしろ、ぼくが死ぬことで……あなたの命が助かるなら。だって、ぼくのせいで、あなたが死ぬなんて……そんなの絶対に耐えられない」
白い指さきがぎゅっと剃刀を握りしめた。
「でも、ごめんね。勝手にこんなこと決めて……あなた、きっとすごく悲しむよね。ぼくのこと許さないよね。生きることから逃げたら駄目だと、あなたがそう云ってくれたのに、なのに……こんな事になって……」
一度だけ、きつく目を閉じた。
「土方さん……愛してる」
そう小さな声で囁くと、ゆっくりと剃刀をその手首に押しあてた。そして、一気に手前へ引く。
「!」
痛みに顔を歪めた総司は、それでも血にそまった手をバスタブの水の中へ差し込んだ。
後は、やがて訪れるだろう死を待つだけだった。
これで、何もかも終わるのだ。
(……土方さん……)
大好きだった。
誰よりも愛していた。
色んなことがあったけれど、でも。
あなたといた日々は、どんなに輝いていた事か。
公園で初めて逢って、それから、黒手団にとらえられ再会して。
憎み、殺そうと思った時もあった。
でも、それでも──やっぱり愛さずにはいられなくて。
土方さん。
あなたが、愛しくて愛しくてたまらなかった。
ぼくのこの命よりも、あなたが大切で……どうしても守りたくて。
だから……お願い、許して下さい。
あなたを失ったら生きてゆけないぼくを、どうか許して……。
総司は静かに目を閉じた。
(……土方…さん、愛して…る……)
───やがて。
底知れぬ深い闇が、ゆっくりと総司を包み込んだ……
