待ち合わせ場所は、都心のレストランだった。
 高級感あふれるそこは、黄昏の光の中、キャンドルの明かりに満ちている。一面ガラス張りの向こうには都会の光景が広がり、さぞ夜景も見事だろうと思わせた。
 そんなレストランの一角に、彼は悠然と坐っていた。
 近づく総司に気づくと優しく微笑み、立ち上がった。すっと椅子を引いてくれる。
「久しぶりだね」
 穏やかな口調で話しかけながら、伊東は一瞬だけ総司の髪に口づけた。総司がびくりと躯を震わせる。
 それに喉を鳴らして笑い、伊東は自分も椅子に腰掛けた。
 現れたウェイターに、伊東は総司の意見を聞くこともなくオーダーした。何しろ、この兄は総司の好みなら熟知してしまっている。何も云わなくても、好みのものばかりが運ばれてくるのは確実だった。
 総司はおずおずと視線をあげ、目の前に坐る兄を見つめた。


 揺れるキャンドルの明かりの中、柔らかく微笑みかけてくる男。
 土方と同じ年のはずだった。だが、まったく異なる二人だ。
 もしも土方が燃えあがる焔であるなら、伊東は流れる水だった。
 その深く澄んだ鳶色の瞳のせいもあるだろうが、伊東はいつも人に穏やかで優しげな印象をあたえた。誰が見ても、まさか彼があの過激派テロ組織狼火の首領だとは思わないだろう。
 その残酷さ、禍々しさをもその奥深くに秘め、伊東は柔らかな雰囲気を身に纏っていた。
 秀麗な顔だちをもつ男だ。
 今も、こうしてレストランの中にいる彼は上質のスーツがよく似合い、どこから見ても端正なエリートビジネスマンにしか見えなかった。実際、表の顔はそうだった。伊東は東証一部上場の商社マンなのだ。


 総司は小さな声で云った。
「……兄さんは、いつ帰国したの?」
「一ヶ月前だが……どうして、私が国外へ出ていた事を?」
「狼火によるテロが少なかったから……逆に国外の方が多かったし」
「やれやれ、総司には隠し事はできないね」
 くすくすと笑い、伊東は運ばれてきた料理の皿を引き寄せた。綺麗に切り分けると、白い皿に盛りつけて総司の方へ押しやってくれる。
「ほら、食べなさい。おまえの好きな鯛のポワレだよ」
「……」
「冷めてしまうし、それにシェフにも失礼だ。早く食べなさい」
「……」
 総司はため息をつくと、カトラリーに手をのばした。
 しばらくの間、久しぶりに再会した兄弟は無言で食事をつづけた。
 さすがに兄が選んだものだけあって、どれもこれも総司の好みだった。昔もよく兄はこうして総司をレストランなどに連れていき、マナーなどを教えてくれたのだ。
 食事がほぼ済み、珈琲と紅茶が運ばれてくると、総司は思いきって口火を切った。
「兄さん」
「……」
 それに顔をあげた伊東をまっすぐ見つめ、総司は静かな声で云った。
「今日、何の用があってぼくを呼び出したか、そろそろ教えてくれない?」
「……」
 伊東は僅かに鳶色の瞳を細めた。
 しばらく黙っていたが、やがて静かに珈琲カップをソーサーに戻した。
「随分と変わったね」
 低い声が呟いた。
 え?と目を見開いた総司に、伊東は薄く笑ってみせた。
「まっすぐ人を見るようになったし、それに、何よりも雰囲気が変わった。強くなった」
「……」
「それは……彼の、あの刑事のためかな」
「!」
 きゅっと総司の桜色の唇が引き結ばれた。テーブルの下で、両手が握りしめられる。
「ぼくは……」
「随分、私はおまえを探したよ。この国から離れている間も、篠原に命じて探させていた。まさか……刑事と暮らしてるとは思わなかったが」
「……」
「おまえは、あの刑事の囲われ者になったようだね」
 どこか侮蔑に満ちた口調に、総司はぱっと頬を紅潮させた。怒りに燃える瞳で兄を見据えた。
「そんな! 囲われ者なんて、ぼくは……っ」
「進学費用から生活費すべて出してもらい、その上、同居までして……それで、どこが囲われ者でないと? 前は別のマンションをあてがわれていたそうじゃないか。私はね、全部、知っているんだよ」
 そう云いながら、伊東はスーツの胸ポケットから封筒を取り出した。そこから抜き出した写真を、テーブルの上に広げてみせる。
「……っ」
 総司の目が大きく見開かれた。
 そこに映っているのは、すべて土方と総司の写真だった。土方が一人で映っている事もあるし、総司が一人で映っている事もある。またデート中らしい二人寄りそう幸せそうな写真も───
 伊東はすっと手をのばし、一枚の写真を取り上げた。
 それは、どうやら警視庁の玄関口で、車へ乗り込もうとしている土方の姿を映したものだった。
 僅かに視線をあげ、カメラとは違う方向を見ている。
 おそらく斉藤か永倉でもいるのか、その黒い瞳は細められ、形のよい唇は小さな笑みをうかべていた。すらりとした長身にスーツがよく似合い、まるで何処かのモデルのグラビア写真のようだ。
 それに視線を落としながら、伊東はゆっくりと呟いた。
「私の可愛い弟を囲い者にするなど……刑事のふぜいで」
「……兄さん、ちが……っ」
「このお礼はたっぷりさせて貰わないとね」
 くすっと笑い、伊東はまた写真をテーブルの上に放り出した。
「……っ」
 その写真を総司は慌てて引き寄せた。
 大事な大好きな彼なのだ。写真一枚であっても乱暴に扱われる事は我慢できなかった。
 そっと胸もとに写真を抱きながら、伊東を見つめた。
「囲い者なんかじゃありません。兄さんは何も知らないんだ。ぼくは望んであの人の傍にいるし、あの人もぼくを愛してくれている。ぼくたちは恋人同士なんです」
「あまり信じたい話ではないが」
 伊東は肩をすくめた。
「たとえ、おまえの云う通りだったとしても、それが私にとって何だろう? 彼は私からおまえを奪った男だ。この数年間、私がおまえをどれだけ探してきたと思う? その間、あの男はおまえを独占し、欲しいままにしていたんだ。私があの男を憎んで当然じゃないか」
「兄さん……」
 思わず潤んだ瞳で見上げた総司に、伊東は微笑んだ。
 手をのばし、総司のなめらかな頬から首筋に、ゆっくりと指先をすべらせた。


 その仕草は優しい。
 だが、彼の瞳は冷たく澄み渡っていた。
 その身の内に秘められた狂気と、危うさを孕みつつ───


 伊東は総司だけを見つめ、ゆっくりと囁いた。
 息をつめる弟に、静かな声で。
「可愛い総司……もう逃がさないよ」
「──」
 絶望的な想いに、総司は固く目を閉じた……。









 伊東が去った後も、総司はしばらくの間、レストランの席に坐り込んでいた。
 テーブルの上にはたくさんの写真。どれもこれも、二人寄りそう写真は幸せそうなものばかりだ。
 だが、今、その幸せは叩き壊されようとしていた。
 他ならぬ、総司自身の兄の手で。
「……土方…さん……っ」
 掠れた声が、愛しい恋人の名を呼んだ。
 総司は先ほどの写真を胸に抱くと、ぎゅっと目を閉じた。
 大粒の涙が、ぽろぽろと頬をこぼれ落ちていった───










「ただいま」
 扉を開けると、土方は優しく微笑んだ。飛びついてきた総司を抱きしめ、甘いキスをあたえてくれる。
「淋しかったか?」
 そう訊ねる土方に、総司はこくりと頷いた。
 それに笑いながら土方は玄関へあがり、そのまま総司の躯を片腕に抱え上げた。何度も甘いキスをくり返しながら、部屋へ入ってゆく。
 5日も彼は泊まり込みだったのだ。
 ようやくとれた休日が、二人とも嬉しくてたまらなかった。
「とっても……淋しかったです」
 甘えた声で囁いた総司に、土方は苦笑した。
「……ごめん」
 土方は総司の頬にちゅっと音をたててキスした。
 ラグマットの上に坐り込むと、コートも脱がぬまま総司の細い躯を両腕に抱きすくめた。膝上に抱きあげ、そらされた白い首筋や耳もとに唇を押しあてる。
「あぁ……おまえの匂いだな、おまえの躯だ」
「や…んっ、ぁ……」
「俺もすげぇ逢いたかったよ。総司、愛してる」
「ん……ぼくも逢いたかったです。愛してます」
 そう囁いてから、総司は顔をあげた。もう一度だけキスをかわしてから、囁いた。
「ね、早くシャワーあびてきて? ご飯、出来たてを食べて欲しいし」
「あぁ、そうだな」
 土方は立ち上がると、コートを脱ぎ捨てた。ネクタイをゆるめながら、バスルームへと向かってゆく。
 その男の背中を見送り、総司は小さく吐息をもらした。

(……大丈夫、ぼくは何も変わってない)

 ふるふるっと首をふってから、キッチンへ向かった。
 手早く今夜のメニューである、チキンのカレー風味クリームソース掛けと、野菜炒め、サラダ、スープを用意していった。だが、手は機械的に動いているが、頭は別の事ばかり考えていた。

(本当は、土方さんに話すべきなんだろうけど……でも……)

 それは伊東への明らかな裏切りだった。
 総司にとって伊東は優しい兄でも、表向きは一流商社に勤めるエリートビジネスマンであっても、その真実は全く違うのだ。
 あの過激派テロ組織狼火の首領。
 大勢の罪なき人々を殺戮してきた、残忍なテロリスト。
 その伊東と会った事を話せば、刑事である土方が動かないはずがなかった。すぐさま、犯罪者である伊東を追いつめ逮捕しようとするだろう。
 だが、そんなこと、総司が黙って見ていられるはずがなかった。
 どんなに罪深い犯罪者であっても、伊東は自分の兄なのだ。両親亡き後、育ててくれた優しい兄だった。
 紛れもなく深い愛情を自分に注いでくれた兄を、どうして裏切る事ができるだろう──?

(できるはずがない。兄さんを売るような真似なんか……)

 総司はシンクの縁に手をかけて俯き、ぎゅっと目を閉じた。
 とたん、背後から声がかけられた。
「……総司?」
「!」
 慌ててふり返ると、いつのまに来たのか土方は驚くほど近くに立っていた。ほとんどふれあわんばかりだ。
 思わず後ろへ下がろうとしたが、シンクに腰があたってしまう。
「ひ、土方さん……!」
「何だ、どうしたんだ」
 訝しげに眉を顰め、土方は総司の顔を覗き込んだ。ちょっと小首をかしげ、額に手をあててくる。
「ぼーっとして、おまえ……熱でもあるのか?」
「ううん! 違います、ちょっと考えことしてただけ」
「何か心配ごとか?」
「そうじゃなくて、今度の提出するレポートの事で……」
「そうか。あまり無理はするなよ」
 土方は微笑み、優しく総司の髪を撫でてくれた。
 身をかがめ頬にキスされると、彼から濡れた水の匂いと石鹸の香りがした。
それが何故かせつなくて、ちょっとだけ泣きそうになった。思わず両手をのばし、縋りそうになる。
 だが、そんな総司にもう一度だけ微笑んでから、土方は少年の躯ごしに手をのばした。
「これを運べばいいのか?」
「え……?」
「この皿だよ。いい匂いしてる」
「あ……はい」
 こくりと頷いた総司をよそに、土方はさっさと食事の用意を始めた。手早く皿を並べ、カトラリーを並べてゆく。
 それをしばらくの間、総司はぼうっと見ていたが、すぐ我に返った。
「ご、ごめんなさいっ。ぼくがしますから」
「二人でした方が早いだろ? ほら、スープを入れてくれ」
「はい」
 やがて、二人は席につくと食事を始めた。
 他愛もない話をつづけながら、食事をつづけてゆく。
 だが、それでも、総司の頭の中は伊東のことでいっぱいだった。考えないでおこうとしても、どうしても気になってしまうのだ。
 躊躇いはしたが、結局、おずおずと問いかけてしまった。
「あの……土方さん?」
「うん?」
「あのね……お休みの後、また忙しいの?」
「あぁ、ちょっとな」
 土方はサラダにドレッシングをからめながら、答えた。視線は落とされている。
「そんなに色々、事件が起こってるんだ……」
「まぁな。最近、妙に激化してきてな。あまり大きなものはないが、それでもこの間のは怪我人も出た。あれは、おまえもニュースで見ただろ?」
「うん……あれって、声明文は出てたりするの、かな」
「いや、出てねぇよ。だから、余計に不気味だというか……」
 云いかけ、土方はふと顔をあげた。僅かに苦笑する。
「けど、珍しいな。おまえが俺の仕事のことを気にするなんて」
「……っ」
 一瞬、言葉に詰まった。
 が、すぐに総司はその白い頬に笑みをうかべてみせた。
「ううん、お仕事というより、土方さんのお休みが気になって。また早く帰ってきてくれたらいいなぁって」
「何だ、どこかへ行きたい所でもあるのか?」
「そうじゃないけど、あなたと少しでも一緒にいたいもの」
「俺もだ。ごめんな……いつも淋しい想いばかりさせて」
「いいんです、謝らないで。ぼくの方こそ、ごめんなさい。家に帰ってきてまでお仕事の話なんか……」
「いや、構わねぇよ」
「あ、お茶……入れるね」
 総司はかたんと音をたてて立ち上がり、棚から茶筒を取り出した。
 そうしながら、土方が今の会話に何の疑いも抱かず食事をつづけている事を確認し、ほっと息をついた。

(……ごめんなさい……)

 一緒にいたいというのは嘘ではなかった。
 だが、それでも、誤魔化したのだ。自分の言葉を、気持ちを、偽ったのだ。たまらなく罪深い事に思えた。
 総司は急須に茶の葉を入れながら、目を伏せた。ポットから湯を注ぐと、それをもってテーブルに戻る。
 土方が微笑み、色々と話しかけてくれた。
 それに何とか言葉を返すだけで、総司はもう精一杯だった。

(……本当に、ごめんなさい)

 彼の優しい笑顔が、涙がでそうなほど辛く切なかった……。










 大学を出ると、総司はまっすぐある場所へ向かった。
 少しだけ離れた場所にある、雑居ビルの傍。そこに、一台の車が停まっていた。
 黒いBMWだ。
 その車体に凭れかかり煙草を吸っていた男は、総司に気づくと火を消した。少年の気管支が弱い事を、よく知っているのだ。
 黙って見つめる総司に微笑みかけ、静かに助手席のドアを開いた。乗るように視線で促してくる。
 総司は一瞬躊躇ったが、すぐ助手席に躯を滑り込ませた。
 男は運転席にまわると、静かに車を発進させた。
「……兄さん」
 総司がそう呼びかけたのは、車がかなりの距離を走ってからだった。
 それに、伊東はハンドルを操りながら、僅かに小首をかしげた。
「何?」
「どこへ……行くの?」
「さぁ、どこだろう」
「ふざけないで。ちゃんと答えて」
「怖いね、総司は」
 くすっと笑い、伊東は視線を投げた。鳶色の瞳がきらりと光った。
「そんなに警戒しなくても、いきなり浚ったりしないよ。私だって、おまえを大切に思っている」
「なら、どうして……」
「どうして逢いに来るかと? それは当然だろう。私はおまえの兄だ、可愛い弟に逢って何が悪い?」
「……」
 総司は長い睫毛を伏せた。


 今日の昼過ぎに連絡があったのだ。大学の近くで待っているから来て欲しいと。兄からの誘いを断れるはずもなかった。
 もともと、総司はこの兄に依存していた。何しろ、両親亡き後、彼の手で育てられたのだ。その存在はあまりにも大きく、総司の心を支配していた。
 土方と出逢い恋した事でその呪縛から抜け出せたのだが、それでも完全に拭いきれるはずがなかった。
 伊東の存在は、まるで抜けない棘のようだった。
 鋭く深く、総司の心の柔らかな部分に食い込んだ棘───


 やがて、車はどこかの港の倉庫の一角に停められた。まったく人気はなく、時折、船の汽笛だけが聞こえてくる。
 伊東は車から降りる事もなく、エンジンを切った。そのままシートに凭れ、押し黙っている。
「ここは……?」
 たまらず、総司は問いかけた。
「ここは……どこ?」
「どこだと思う?」
「兄さん、お願いだからふざけないで」
「ふざけてなんかいないよ。私は真剣だ」
 伊東はフロントガラス越しに港の向こうを見つめたまま、静かな声で云った。港と云っても小さな湾になっているので、対岸に幾つかのビルが見える。
「本気で、おまえをあの刑事のもとから助け出したいと思っている」
「兄さん! ぼくは何度も云ったでしょう? ぼくたちは恋人同士だと、何もかも合意の上なんだと」
「なるほど、合意の上ね」
 くっくっと伊東は笑った。どこか残忍な笑い声。
 思わず息をつめた総司を、深く澄んだ鳶色の瞳が見据えた。
「合意……ね」
「兄さん……」
「では、これは? 嫌がるおまえをレイプしたことも……監禁し、肉体関係を強制したことも合意になるのかな」
「──!」
 総司の目が大きく見開かれた。
 まさか、そこまでこの兄が知っているとは思わなかったのだ。
「あ、あれは……っ」
「現職刑事──それも、警視庁のキャリア、将来の警察官僚たる彼があんな事を未成年に行ったんだ。立派な犯罪だと私は思うがね」
「まさか、リークするつもりなの!?」
 思わず叫んだ総司に、伊東は苦笑した。
「そんな事しないよ。おまえの立場が傷つくし、それに……被害者であるおまえ自身が否定すればどうにもならない。出来るはずもないだろう」
「よかった……」
 安堵の息をついた総司を、伊東は酷く冷めた瞳で見つめていた。
 やがて、ゆっくりと呟いた。
「そんなに……あの男が大事か?」
「……」
 総司は目を伏せ、こくりと頷いた。
 それに、伊東はどこか痛むように顔を歪めた。だが、すぐに手をのばすと、少年の項を掴んで引き寄せた。
「兄さん……っ?」
 驚いたように見上げる綺麗な顔を見下ろし、伊東は薄く笑った。
「昔は、私だけの可愛い総司だったのにね。おまえの中には、もう私の存在などないのだろう」
「そんなこと……兄さんは兄さんだし、あの人はあの人だ。比べられないよ」
「じゃあ、どちらかを選べと云ったら?」
 思わず言葉に窮した。長い睫毛を震わせてしまう。
 それに、伊東はゆっくりと身をかがめ、抱きすくめた。


 昔も今も、この小柄な弟は自分の腕の中にすっぽりとおさまってしまう。
 この愛しくも華奢な躯をあの男が抱いたと思えば、憎悪と怒りでこの身が燃え立ちそうだが、まだ手遅れではないはずだった。
 今からでも遅くはない。
 この手に取り戻し、また愛すればいいのだ。
 もう二度と兄弟の間に誰も分け入れられぬよう、狂おしくも深い絆を結んでしまえばいい───


「総司……愛してるよ」
 囁きざま、その白い首筋に顔をうずめた。それに、総司がぴくんっと震えたが、抵抗はなかった。昔から、この程度の愛撫は行われてきたのだ。
 伊東の指さきが総司のシャツの釦を外し、前をくつろげた。その時になって、総司が僅かに身を捩る。
「や……だめ……」
「なぜ? 昔もこうしてキスしていただろう? おまえが私のものである証をたてるために」
「だ、だって……こんなのおかしい……あっ!」
 不意に、総司は鋭い悲鳴をあげた。
 伊東が少年の白い胸に顔をうずめたかと思うと、いきなりキツく歯をたてたのだ。
「やっ、痛いッ……!」
 悲鳴をあげる総司に構わず、伊東は白い肌のあちこちを咬んだ。血まで滲んでしまったそれを、愛しそうに舌で舐めあげる。
 うっとりと口づけながら、囁いた。
「あの男に二度と抱かれてはいけないよ……」
 そう囁かれ、総司は大きく目を見開いた。
 慌てて身を起こすと、開かれたシャツを両手でたぐり寄せた。
「まさか、そのために咬んだの……っ?」
「もちろん。でなければ、私がおまえを傷つけるはずがない」
「兄さん……」
「こんな咬み傷を、あの男に見せる訳にはいかないだろう?」
 くすくすと笑い、伊東は躯を運転席に戻した。ハンドルに寄りかかりながら、その鳶色の瞳で総司を愛おしそうに見つめる。
「まぁ、もっとも……すぐにあの男から奪い返してやるけどね」
「兄さん、お願いだから、もうぼくの事は放っておいて」
「そんな事できるはずがない。私はおまえを愛してるんだよ」
 秀麗な顔に穏やかな笑みをうかべ、伊東はゆっくりと囁いた。
 だが、総司は知っている。
 その綺麗な鳶色の瞳の奥に秘められた、激しさと狂気のかげろいを───
 思わず息をつめた総司の前で、伊東はふと何かに気づいたように腕時計に視線を落とした。小さく笑う。
「あぁ、ちょうどよかった。……時間だ」
「え?」
 そう聞き返した瞬間だった。
 突然、轟音が響きわたった。
「!」
 驚いて見やると、対岸のビルの一つが燃えていた。
 激しい焔が吹き出し、やがて、それは凄まじいまでの黒煙となった。
「……まさか……っ」
 総司は愕然とし、伊東をふり返った。思わず、兄の腕を掴んでしまう。
「まさか、あれは兄さんがしたの!? 狼火の仕業なのっ!?」
「そうだよ」
 さも何でもない事のように、伊東は答えた。その鳶色の瞳はうっとりと細められ、対岸の爆発を見つめている。
「私が命じたことだ。なかなか上手くいったようじゃないか」
「兄さん……っ!」
「そんなに心配することはない。あのビルは警察の犬に成り下がった連中しかいない場所だ。大義ある我々を裏切り、汚い取引をしている奴らのアジトの一つ。当然の報いだよ」 
 伊東は淡々とした口調で告げると、手をのばした。そっと総司の細い肩を抱き寄せ、その耳もとに唇を寄せて囁きかけた。
「ほら、ご覧……よく燃えている」
「……っ」
「あれだと中規模クラスのテロかな。おまえの大切な男も、また家に戻ってこれなくなるね」
「──」
 総司は思わず伊東を見上げた。その視線を感じた伊東は腕の中の弟を見下ろし、優しく微笑んだ。
 だが、その言葉は決して優しいものではなかった。
 それどころか──
「おまえがあまり強情をはるようなら、テロの標的を彼にするかもしれないよ」
「!?」
「もともと、警察には何らかの報復をしようと思っていたしね。手始めに、あの男を血祭りにあげるのも妙案かな」
「やめてッ!」
 切り裂くような声で、総司は叫んでいた。思わず伊東の腕に縋り付き、懇願した。
「お願い、そんなことしないで! あの人に危害を加えないで!」
「……」
「お願いだから……兄さんっ!」
 縋り付いてくる総司を、伊東は優しく抱きすくめた。くすくす笑いながら、その頬にキスを落とした。
「おまえが私の元へ帰ってくるなら、やめてあげてもいいよ」
「兄さん……」
「すべては、おまえ次第だ。さぁ……どうする?」
「──」
 総司は呆然と目を見開いた。
 愛しい人の命を救う条件に、彼との別れを突きつけられたのだ。
 いったい、どうすればいいのかわからなかった。
 あの人と離れて、生きてゆける自分ではないのに……。

(……あぁ、土方さん……!)

 総司はすべてを拒絶するように目を閉じた───