ソファに身を沈め、土方はため息をついた。
 豪奢に整えられたホテルの一室だ。
 今日のパーティに出席する信子が、休憩のためにとった部屋だった。
 無理やりここに連れてこられた土方も、先ほどまでそのパーティに出席していたのだ。もっとも始まって20分程で嫌気がさし、この部屋へ逃げてきてしまったのだが。
 パーティでは、綺麗に着飾った娘たちに囲まれ、うんざりした。
 いくら現在刑事という職についてるとはいえ、莫大な財産をもち、その気になれば佐藤グループ傘下の企業の半分を切り離し、一大グループのトップに立てる身だ。その上、独身でこれだけ容姿端麗となれば、娘たちが群がるのも無理はなかった。
 が、土方自身にとっては、かなり不愉快で迷惑な話だ。
 昔はそれなりに遊びもしたが、総司と逢ってからは他の誰にも見向きしなかった。
 記憶をなくしてから琴美とつきあったのも、むしろアクシデントみたいなものだ。流されるままだったが、キスも抱擁も何の感慨もわかなかった。
 ましてや、総司への愛情を取り戻しかけている今の彼からすれば、どうしてあんな事をしたのかわからない程だった。
 少し前までの自分の行動や感情が、まるで紗がかかったように感じられるのだ。奇妙なほど実感が薄かった。
(……まだ完全に記憶が戻ってねぇから、尚更か)
 立ち上がり、土方は水でも飲もうとチェストの前に歩み寄った。そこで、ふとチェストの上に置かれた大きな鏡に目をとめた。
 一人の若い男が映っていた。
 それを僅かに眉を顰めつつ、眺めた。
 さっぱり整えた艶やかな黒髪に、黒い瞳。典型的な日本人の顔だ。
 男にしては長い睫毛にふちどられた、切れの長い目。すうっと通った鼻筋に、引き締まった頬から顎にかけてのライン。
 誰が見ても、端正だと断言するだろう顔だちだった。
 実際、記憶を失った当初、土方自身も鏡を見て驚いたのだ。
 自分は随分、整った顔をしているのだな──と。
 だが、あの頃は記憶がほとんどなかったからか、どこか表情がなかった。戸惑うような、不安げな瞳をしていた。
 しかし、今は違う。
 その瞳には彼本来の力が宿り、そして、言い知れぬ苦痛があった。
 愛しいものと引き離されながら、取り戻せぬ焦りと苦しみが。
(……総司……!)
 チェストに肘をつき、組んだ両手を額に押しあてた。
 自分が情けなかった。
 あの時のことを思い出すと、自分で自分を殺してやりたいくらいだった。
 あんなにも愛しい存在を傷つけたのだ。
 愛してるのに。
 一生、大切にしていこうと誓ったはずなのに。
 どうして、あんな事をしたのか。いや、理由はわかっている。記憶を失った自分は総司に縋り、挙句、思い出せぬ苛立ちを、誰よりも大切にするべき総司に向けたのだ。男の欲望と暴力という形で。
 もっとも忌むべき行為だった。自分でも最低な男だと思った。
 あの時、あの瞬間の、総司の悲鳴が泣き声が、彼を苛んだ。
 悔やんでも悔やみきれぬ過去に、己を責めつづけた。どう総司に償えばいいのか、それさえわからなかった。
 だが、それでも──
(俺は総司に逢いたい……!)
 固く目を閉じ、ぎりっと歯を食いしばった。
 逢ってどうするのか。
 土下座でもして謝るのか、それとも別れをまた突きつけられるのか。
 何もわからない。わからないが、それでも逢いたかった。逢いたくて逢いたくてたまらなかった。
 あの綺麗な瞳に自分を映して欲しい。
 あの優しい声で自分を呼んで欲しい。
 それしか、もう──望まなかった……。
「……っ」
 土方は全身で深く吐息をもらした。
 その時、背後で微かな音が鳴った。誰かが部屋に入ってきた気配がする。ここの部屋の鍵をもっているのは、姉の信子だけだ。パーティに戻るよう呼びに来たのだろうと、物憂い気持ちで顔をあげた。
 目の前の鏡に、誰かの姿が映る。
「!」
 その瞬間、土方は弾かれたようにふり返っていた。
 信じられない……!
 だが、確かに、そこにいたのは。
 ホテルの仄かな明かりの中、ひっそりと立っていたのは──
「……総…司……!」
 思わず掠れた声で呼んだ土方に、総司は潤んだ瞳をむけた。
 柔らかな髪が細い肩口で揺れている。しなやかな躯をシャツとジーンズに包んだ少年は、まるで瑞々しい若鹿のようだった。
「どうして、ここに……」
 呆然と呟いた彼に、総司は目を伏せた。
「……近藤さんに……連れてきて貰いました」
 そう答えると、少し躊躇ってから、おずおずと歩みよってきた。そして、彼にむけて柔らかく手をのばしながら、訊ねた。
「……まだ、ありますか……?」
「え?」
「あなたの心の中に……」
 不安そうに長い睫毛が瞬いた。
 小さな声がつづけた。
「ぼくの居場所は……ある……?」
「……!」
 もう声にもならなかった。
 愛しくて、愛しくて。
 この世には、こんなにも愛しいものがいるのだ。
 それを今、土方は心から実感していた。
「総司……っ」
 思わず両手をのばし、総司の細い体を腕の中に引き込んだ。そのまま、きつく抱きしめる。男の腕の中、総司は小さく安堵の吐息をもらした。
「……土方さん……」
「総司、総司……」
「好き……だい好き……」
「あぁ、俺もだ。俺も好きだ、おまえを愛してる……!」
 互いの体をきつく抱きしめあい、何度も口づけあった。そのまま、二人してもつれるように傍らのソファへ倒れこんだ。
 深く唇を重ね、互いだけを求めあう。
 やがて、男の手が躊躇いがちにだが肌にふれるのを感じ、一瞬息を呑んだ。が、総司はすぐ従順に体を開いた。
 自分も彼が欲しいのだ、彼に抱かれたかった。
 それを示すため、総司は手をのばし、土方のネクタイをゆるめて引き抜き、シャツの釦を外した。あたたかい素肌が擦れ、互いのぬくもりを感じあう。
「総司、総司……愛してる……」
 それだけをくり返しながら、土方はその白い肌に唇を押しあてた。柔らかく総司の膝を抱えて押し広げ、下肢に顔をうずめた。
「ぁ…んんっ!」
 己のものを熱い感触に包み込まれ、総司は体を仰け反らせた。太腿に彼の黒髪がさらさらと触れる。それがまた心地よかった。
 男の舌が優しく総司のものを愛撫した。唇で何度も吸い上げられ、甘い甘い疼きが背筋を突き上げてくる。
「ん…ふっ! んんっ…ぁ、ぁあッ」
 総司の手が男の黒髪にからめられ、くしゃくしゃにかき乱した。やがて、男の唇の中に吐精してしまう。土方は綺麗に舌で清めてから顔をあげ、乱された黒髪を指さきでかき上げた。
 熱っぽい瞳で総司を見つめ、また首筋や胸もとに熱いキスの雨を降らした。手のひらが優しくすべり、ぞくぞくするような快感を残してゆく。やがて、男のしなやかな指さきが蕾にそっとふれた。
「ぁ……土方…さん……」
 思わずそう呼んだ総司に、土方は眉を顰めた。
「いやか? やめておこうか?」
「そうじゃなくて……っ」
 総司はふるふると首をふった。もどかしげに両手をのばすと、男の首に抱きついた。
「あなたが欲しいの、早く…お願い……っ」
「総司……」
 一瞬、土方は目を見開いた。が、優しく微笑むと、総司の背中を手のひらで撫でた。
「準備をしねぇとおまえを傷つけちまう。少しだけ待ってくれ」
「だって……」
「いい子だから、な?」
 土方は己の指に唾液をからめると、それを総司の蕾に挿入した。くちゅくちゅと音を鳴らしながら、奥へ埋め込んでゆく。
「ぁ…はぁっ、ぁあっ」
 総司の桜色の唇から熱い喘ぎがもれた。男の指さきが柔らかくポイントを擦り上げたのだ。何度もそこだけを指で擽られ、総司は思わず腰を揺らめかした。どんどん我慢できなくなってくる。
「も、いいから……お願い、早く……」
「総司……」
「あなたをぼくに下さい……っ」
 艶かしくねだる総司に、土方は息をつめた。躯中がかっと熱くなる。が、それでも必死に衝動を抑制した。この間のように傷つけることだけは絶対にしたくなかったのだ。
 充分に馴らしてから、指を引き抜いた。
 総司の膝を抱え込み、その濡れそぼった蕾に己の猛りを押しあてた。
「総司……好きだ」
「ぼくも、ぼくも好き……愛してる」
 ずっとずっと、逢いたくてたまらなかった。
 好きで好きでたまらなかった。
 一瞬でも早く、こうして抱きあって、互いのぬくもりを感じあいたかった。
 二人遠く離れて、生きてゆけるはずもないのに。
 世界中の誰よりも。
 互いだけを感じて、互いだけを愛して。
 それしか叶えられれば、他にはもう何も望まない──……
「ぁ…ぁああぁー…ッ!」
 ようやく入ってきた土方の熱に、総司は甲高い声をあげた。
 だが、苦痛の色はない。ぱあっと頬が紅潮し、その大きな瞳が熱に潤んだ。
 土方はそれを確かめ、総司の両足を肩にあげた。そのままのしかかり、ずぶりと奥まで一気に貫いた。
「ひぃっ…ぁあッ!」
 総司の甘い悲鳴を聞きながら、土方は白い肌のあちこちに優しく口づけた。少し総司が落ち着いたのを見てとり、ゆっくりと腰を動かし始める。ぎりぎりまで抜いては、また深く奥を穿った。
「ぁあっ…はぁっ! んんっ、ぁあッ」
 次第に激しくなってゆく男の動きに、総司は泣きじゃくった。ソファの上、何度も体の中心に男の楔を打ち込まれるたび、熱く甘い快感が体を痺れさせた。無意識のうちに体が一緒に動いてしまう。
「い、いいっ…気持ち、いッ…ぁあっんんぅッ」
「俺もだ…総司、すげぇいい……っ」
「ぁ、ぁあっ、もっと…ぁあっ、もっとしてぇっ……!」
 総司は泣きじゃくりながら、土方の首に細い両腕をまわして抱きついた。その甘えるような仕草に刺激された男が、より激しく躯を動かし始める。
 愛しい男の腕の中、総司は久しぶりの快感に我を忘れて泣き叫んだ。
 気持ち良くて熱くてとろけそうで、たまらない。
 愛する人と体を繋げることは、こんなにも幸せなことなのだ。
「総司……愛してる……っ」
 激しく総司を抱きながら、土方が掠れた声で囁いた。
 その声を、彼の熱を、彼の愛を、感じながら。
 総司は土方の背中に手をまわした。ぎゅっとしがみつき、深く深く彼を受けいれた。
 そして、答えた。
「ぼくも…愛してる…あなただけ……っ」
「総司……!」
 次の瞬間、目も眩むような熱が二人をさらった。
 土方は僅かに震える総司の躯を抱きしめると、きつく目を閉じたのだった……。

 

 

 
 
 夢のような時間が過ぎた後、二人はソファの上で抱きあっていた。
 少し乱れてはいたが、もう二人とも衣服を身につけている。土方はきちんとネクタイまで締めていた。シャワーを浴びたので僅かに濡れた黒髪を、指さきでかきあげる。
 そんな土方の膝上に抱かれた総司は、先ほどから彼の手首に口づけていた。それを土方は苦笑しながら、見下ろした。
「痕ついちまうだろ」
「いいの。つけたいんだから」
「そんな事しなくても、俺はもう逃げねぇよ」
 そう云ってから、土方を不意に総司の躯をそっと持ち上げた。ソファの上に下ろし、自分自身も坐り直す。
 不思議そうに見上げる総司を、まっすぐ見つめた。
「……すまなかった」
 土方は低い声で云った。
 何が?と問い返す必要のない、言葉だった。
「……」
 総司は思わずシャツを細い指で掴みしめた。それを見つめながら、静かに言葉をつづけた。
「あんな酷い事をして……悪かったと思っている。最低の男だと反省している……いや、こんな言葉で謝っても駄目だな」
「……」
「もし、おまえが望むなら訴訟を起こしてくれても構わない。俺はおまえの要求に全て応じるつもりだ。もちろん、それでおまえの傷が癒されるとは思っていないが、他に償う方法が思いつかないんだ。申し訳ない」
 土方はそう一気に言い切ると、潔く頭を下げた。
「……土方さん」
 思わず総司は彼の肩に手をかけた。
「顔をあげて下さい。そんなふうに謝らないで」
 そう云った総司に、土方は視線を落としたまま言葉をつづけた。悔恨と苦痛にみちた声音だった。
「記憶を失ってから、俺は……ずっと誰かを探していた。誰かと愛しあい、幸せな日々を過ごした──その事だけは覚えていたんだ。だが、長い間、それがおまえだとは思わなかった。おまえはいつも冷ややかで、拒絶されてるようで、俺に何の感情もないように感じられたんだ。いや、もちろん今ならわかる……俺のせいだな。記憶をなくした俺に、おまえはそういう態度をとるしかなかった。だが、それでも、俺はおまえに引っぱたかれるまで、本当のことに気づけなかった」
「……」
「あの時、初めてわかったんだ。あれは、おまえなんだと。俺が愛していた、ずっと探していたのはおまえだったと。だから……俺はおまえを愛してゆこうと思った。おまえと一緒にいることで、記憶も取り戻せると信じた。だが、おまえは俺と別れるつもりだった、記憶を失ったのはいい機会だと云い出して……俺は頭の中がまっ白になっちまったんだ。おまえが俺を捨てる、捨てて斉藤のもとへ行ってしまう、もう愛されてなんかいないのだと……絶望して──」
「土方さん、そんな……」
 思わず云いかけた総司に、土方は首をふった。
「わかってる。身勝手な言い草だと、最低だとわかってるんだ。もし、本当におまえが俺を捨てようとしていても、それでも、あれはおまえへの八つ当たりだった。あんな暴力を振るうべきではなかった。やってはいけない事をした。本当に、俺は……最低の男だ」
 そう呟き、土方はきつく唇を噛みしめた。悔恨の表情で、じっと視線を落としている。
 そんな彼に、総司はたまらなくなった。
 この人だけが悪いんじゃないのに。
 逃げようとしたぼくだって、間違っていたのに。
 なのに今また、この人は全部自分で背負い込み、深い罪悪感に囚われてしまっているのだ。
 確かに、酷い行為だったけれど、深く傷つけられたけど──でも、あの頃と同じなんだ。この人も同じように傷ついたんだ。
 あがいて苦しんで、どうする事もできなくて。
 ぼくを愛してくれているから、愛してゆこうと思ってくれたからこそ、ぼくの言葉に傷ついてあんな事をして、そして又、自分自身に深い傷を罪悪感とともに刻みこんでしまった。
(……この人は何も変わってない……)
 胸の奥が熱くなり、涙があふれそうになった。
 愛しくて愛しくてたまらない人。
 世界中の誰よりも、だい好きな彼。
 記憶を失っても、あの幸せな日々も何も覚えてなくても、この人は何一つ変わっていないのだ。
 一番大切な、彼の本質は──
「……」
 総司は手をのばした。そっと彼の髪にふれ、頬を細い指さきで包み込んだ。
 驚いたように、土方が顔をあげた。
「……総司……?」
「愛してます……」
 静かな声で、総司は囁いた。
「ぼくはあなたを愛してる……昔も、今も、同じように愛してる。だって、あなたは土方さんだから……記憶を失っても、それでもやっぱり、ぼくが愛した人だから……」
「総司……」
 おずおずと、躊躇いがちに彼の腕が総司の躯にまわされた。甘えるように胸もとに寄りそうと、優しく抱きすくめてくれた。
「だい好き、土方さん……」
「総司……おまえ、赦してくれるのか? 俺を赦してくれるのか」
「赦すとかそういう事じゃなく、ぼくも悪かったんです。ぼくも狡かったから……」
 彼の胸もとに顔をうずめたまま、言葉をつづけた。
「傷つくことが怖くて逃げて、あなたを傷つけた。あなたのためにと言いながら別れて、でも、本当は勇気がなくて弱いだけだったんです」
「総司、おまえは強いよ。強くて……とても綺麗だ」
 そう云ってから、土方は総司を見下ろした。しばらく黙ってから、ふと苦笑した。
 手のひらでなめらかな頬をつつみこみ、そっと、恋人の瞳を覗きこんだ。
「いや……違うな。おまえは強いけれど、弱いんだ。泣き虫で、すぐ落ち込んだりしょげたりして、俺はそのたびに抱きしめ宥めていた。だが、それでいいんだ。俺の前では泣いていいし、弱くなっても構わないから……」
「土方…さん……」
 驚き、総司は彼を見上げた。
 記憶が戻ったのかと思い、訊ねかけた。それに土方は微笑み、総司の唇に柔らかく指さきをあてた。
「もう少しだけ待ってくれ」
「え?」
「完全じゃないんだ。だが、断片的な記憶が戻ってきてる……それだけでもマシな方だろ?」
「土方さん……本当に?」
 嬉しさに、総司は声を弾ませた。
 その少年の頬に柔らかくキスし、土方は囁いた。
「嘘ついても仕方ねぇさ。おまえは俺の恋人なんだから」
「うん……」
「もう絶対離さない……」
「二度と……離さないで」
 甘く囁き返した総司に、土方は微笑んだ。優しいキスを頬におとした。
「なぁ、このまま一緒に官舎の方へ帰ろう。荷物は後で送らせればいい」
「え、でも、ぼく、何の用意も……」
「足りないものがあれば、買っちまえばいいさ」
「買ってって……そんなもったいないですよ」
「大丈夫だって。よし、決まりだな」
 彼特有の強引さで言い切った土方を、総司はちょっと呆れたように見上げた。
 本当にこれで記憶戻ってないの?
 だが、彼の言葉に従おうと思った。総司自身も、彼ともうこれ以上離れていたくなかったのだ。
「一緒に……帰ります」
 ぼくたちの家に。
 二人過ごした、あの部屋に。
 これからも苦しいこと辛いことがあるかもしれないけど。
 でも、もう逃げたくないから。
 この人を愛してる。
 それだけで強くなれる自分を知ったから──
「総司……愛してる」
 優しく囁いてくれる愛しい男の腕の中、総司はようやく取り戻せた幸せに目を閉じた。
 

 

 


 パーティを抜け出した形なので、土方はいったんホールに戻らなければならなかった。
 信子と、ここに総司を連れてきてくれた近藤に告げてくるからと、ホールへ戻っていった。強引だが、そういう律儀な彼が好きだった。
 総司はロビーで待ってることにし、一つのソファに腰かけた。思わず気持ちが緩み、ほっと息をついてしまう。
 まだ信じられない気がした。彼が再び自分を愛してくれたことが。
 もちろん、よくわかっている。
 今の彼はまだ完全ではないのだ。記憶も曖昧で、総司への愛情も自覚したばかりだ。だが、それでもよかった。
 少しずつ育ててゆけばいいのだ。彼と一緒に、二人の愛を育ててゆけばいい。
 もう二度と逃げないと、誓ったのだから──
「……まだかな」
 総司は小さく呟き、ぐるりと周囲を見回した。
 壁にかけられた大きな金色の時計は、7時半をさした処だった。ガラス越しに見える外はもう夜の闇と、都会のイルミネーションに満ちている。時折、車が横づけにされ、扉を人々がくぐっていった。
 それらをぼんやり眺めていた総司は、不意に大きく目を見開いた。
「!」
 何か見た訳ではなかった。
 突然、背中に異物を感じたのだ。シャツ越しにひやりと冷たい刃物の感触……!
「……動くんじゃないわよ」
 押し殺された声で囁かれ、鋭く息を呑んだ。
 目の前のガラスに映った人影。自分の傍に立ち、薄い笑みをうかべ見下ろしている娘──
「……琴美、さん……っ」
 思わず呻くように呼んだ総司に、琴美は冷たく笑った。
「覚えててくれた? 兄さんとうまくいって、あたしのことなんか忘れてると思っていたわ」
「いったい何を……!」
「さぁ、何かしらね。すぐわかるわ……ほら、立ちなさい」
 ぴしゃりとした口調で命じられ、総司はのろのろと立ち上がった。すぐさま琴美が寄り添い、腕をからめてきた。
 一見すれば仲の良い恋人たちのように見えるのだろう。だが、彼女の手は見えない場所でナイフを総司に突きつけていた。
「歩くのよ、さっさとして……!」
「どこへ……行くつもりですか」
「あたしが答えると思ってるの?」
 嘲りにみちた口調でいい放ち、琴美は歩き出した。
 黒いブランドもののスーツを纏い、育ちもよさげで美しい彼女を、不審に思う者はいない。それどころか、ドアボーイは恭しく扉を開けて二人を外へ通した。
 ホテルの前に横づけされてあったタクシーに乗り込み、総司を奥に坐らせると、琴美は何処かの住所を告げた。
 タクシーが滑るように走り出した。
 その瞬間だった。
 総司は、ホテルのロビーに土方の姿を見た気がした。思わず窓に縋りついたが、あっという間に見えなくなってしまう。
(……土方さん……!)
 きつく目を閉じた総司の傍で、琴美が低く笑い声をたてた……。
 

 

 

「近藤さん!」
 ホールに響いた大声に、近藤は驚いてふり返った。
 見ると、人波をぬうようにして土方が走り寄ってくる処だった。それに、かるく目を見開いた。
「歳?」
 息を弾ませる親友の姿に、近藤は眉を顰めた。
「おまえ、総司と一緒に帰ったのではなかったのか」
「その総司が……連れさられたんだ!」
「何だと!?」
 近藤は驚き、絶句した。が、すぐに我に返り、土方の腕を引いてホールの片隅へ誘った。
「詳しく話せ。いったい、どういう事なんだ」
「だから……っ」
 土方はいらただしげに乱れた前髪を片手でかきあげた。
「ロビーへ迎えに行ったら姿がなくて……ホテルの人間に訊ねたんだ。こういう容姿の少年を見なかったかと」
「それで」
「答えは、見ただった。それも、琴美らしい女と一緒にタクシーに乗り込んだらしくて」
「琴美って……おまえの異母妹の?」
「あぁ」
 僅かに、土方は目を伏せた。
「俺……琴美のことも完全に忘れていて、あいつを女として扱っちまったんだ。つまり、その……まだ躯の関係はもってなかったが、近親相姦に近いことはやっちまった訳だ」
「歳! おまえ……っ」
「わかってる。近藤さん、あんたの云いたい事は。記憶が戻りかけてる今の俺からすれば、何であんな事したのかわからねぇくらいだ。琴美は我儘だが、俺の大切な妹だった。なのに、あんな関係になっちまうなんて……心底、自分を罵りたい気分だよ。琴美をここまで追いつめたのは俺自身だ」
 沈痛な表情で押し黙った近藤に、土方は言葉をつづけた。
「琴美は俺に恋愛感情を抱いていた。いや、愛してるつもりになっている。総司を拉致したのもそのためだろう。俺と総司が縒りを戻そうとしたから……」
「どこへ行ったのか、わからないのか」
「わからねぇよ! だから、こうして……」
 そう云いかけ、不意に土方は言葉を途切らせた。
 鋭く息を呑んだ。
「……そうだ、あれだ……!」
「え?」
「ブレスレットだ。あれは確か……俺が総司につけた発信機だ。そうだろう?」
「あ、あぁ。おまえが総司を繋ぐためにつけたものだ」
「あの発信機は何から探れるんだ。パソコンか?」
「違う、おまえの携帯電話からだ」
 それを聞くなり、土方はスーツの胸ポケットから携帯電話を取り出した。慌しく操作し始める。それに、近藤は首をかしげた。
「そう云えば、おまえの携帯に総司とのメールや記録が入っていただろう。それさえ見れば、あいつがおまえの恋人だともっと早く……」
「全部消してあった。おそらく、総司がやったんだろう。だが、この発信機の画面だけは消せなかったようだ。何しろ、こっちはパスワードかけまくってあるからな」
 悪戯っぽい瞳で答えた土方に、近藤は「やれやれ」と肩をすくめた。
 土方はすぐ真剣な表情に戻り、画面を見つめた。僅かに眉を顰めつつ、画面をスクロールさせている。
 その親友の姿を眺めながら、近藤も携帯電話を取り出した。ある男を呼び出し、このホテルへ来るよう告げると、たまたま近くにいるので5分後には到着できるという事だった。
「……場所がわかった。まだ移動中だが」
 携帯電話を手にしたままふり返った土方に、近藤は頷いた。
「そうか。なら、すぐに助けに行け」
「あぁ」
「それから、歳。今、ホテルの玄関口に斉藤を呼んだ。あいつの車にピックアップしてもらえ」
「斉藤が……?」
 僅かに、土方は眉を顰めた。ちょっと肩をすくめ、苦笑いした。
「俺、今あいつとすげぇ険悪なんだけどな」
「わかってる。だから、呼んだんだ」
「仲直りしろって訳か。近藤さん、あんた、いつからそんなお節介になったんだ?」
「昔からだ。でなきゃ、おまえとつき合ったりできんだろう」
「だな」
 小さく笑い、土方はその黒い瞳でまっすぐ近藤を見つめた。
「感謝するよ、近藤さん。総司をここに連れてきてくれた事も……斉藤のことも。あんたはいつも、俺の背を正しい方向に押してくれる」
 それに、近藤は穏やかに微笑んだ。
「それでも……歳、選びとってきたのはおまえだ。しっかりと歩み、どんなに苦しくても力強く生きてきたのも、おまえ自身の力だ。おれはそんなおまえを誇りに思うし、いつでも一番の友でありたいと願っている」
「ありがとう……俺も同じだ」
 土方は頷き、踵を返した。
 パーティ会場を横切ろうとして、ふとふり返った。
 不敵な笑みをうかべ、近藤にむけて片手をあげた。
「これの礼は仕事で返させて貰うぜ! 近藤さん」
 言葉を投げかけると、背をむけた。あとはもうふり返らず、足早に人波を抜けてゆく。
 そんな親友の背を見送り、近藤はふっと苦笑いを口許にうかべた。
「……本当に記憶戻ってないのか、あいつは」

 


 

 
 玄関口に、一台の車が止まっていた。
 斉藤が乗りまわしているボルボだ。その前で、斉藤は両腕を組み、仁王立ちになっていた。無表情のまま、現れた土方にきつい視線をむけた。
 つり上がり気味の目が、いっそうつり上がってる。
 それを眺め、土方は肩をすくめた。
「……こんな所でガン飛ばすな。あっち方面の兄さんに間違われて通報されるぞ」
「……」
 斉藤の表情が僅かに動いた。
「……記憶戻ったんですか」
「半分ぐらいな」
「おれのことは」
「ガキの時からさんざん一緒に悪さした仲だろ」
 そう云い、土方は車の助手席に身を滑りこませた。相変わらず、しなやかで敏捷な身ごなしだ。それに、斉藤は舌打ちしながら運転席へ回った。
 エンジンをかけてから、押し殺した声で云った。
「土方さん」
「何だ」
「記憶が完全に戻ったら、頼みがあるんですが」
 そう云った斉藤に、土方は低く笑った。
「いいぜ。一発ぐらい殴らせてやる」
「……わかってるなら、いいです」
 ようやく、斉藤も笑った。
 アクセルを踏み込み、道路へと車を滑り出させてゆく。
 次第にスピードアップする車の中、土方は携帯の画面に視線を落とした。とたん、鋭く息を呑んだ。
(……総司……!)
 点滅する表示はある場所で停止していた。
 そこは、土方もよく知っている場所だった。恐らく、一生忘れえぬ記憶の──
 場所を告げた土方に、斉藤も一瞬、息を呑んだ。が、すぐに鋭い視線を前方に向け、より強くアクセルを踏み込んだ。
 都会の夜の底を、二人をのせた車は疾走していった───
 

 

 


「……ここは?」
 訊ねた総司に、琴美は小さく笑った。
 青い青い水が二人の前に広がっていた。
 夜なので周囲は庭の外灯があちこち燈されている。プールの水中照明が美しく、輝くような青が夜の闇にうかびあがっていた。じっと見つめていると、引き込まれそうな美しい青の光景だ。
 土方が生まれ育った邸宅だった。
 そして、このプールは黛が彼と一緒に心中をはかった場所だった。今も土方の心奥に深い傷となって残された、悪夢のような記憶──
 母親に殺されそうになったのだ。しかも、父親には見殺しにされた。
 14才の少年だった彼にとって、それがどれ程のショックだったか。
 いくら近親相姦ゆえの子だと噂されても、それでも信じていたはずだ。自分は両親の子供だと。それが目の前で無惨に叩き壊されたのだ。
 十年以上たってからも、このプール際に立っただけで倒れて当然のことだった。
 プールから目をそらした総司に、琴美は冷ややかな瞳をむけた。
「ここは、母さまが亡くなった場所よ」
 そう答えてから、琴美はプールサイドをゆっくり歩きだした。黒いスーツの裾が揺れた。
「母さまは潤おじさまを愛していた。兄妹であるが故に許されなかった愛に泣いていた。そんな母さまから、あたしは兄さんと結婚することを望まれた」
「……」
「もしかすると、母さまはわかっていたのかもしれないわね。兄さんとあたしが血の繋がった兄妹なのだと。だからこそ、尚更、あたしたちの結婚を望んだ。自分が果たせなかった恋を、母さまにそっくりのあたしで成就させるために。でもね」
 琴美は総司をふり返り、栗色の瞳で見つめた。
「あたしは母さまの人形じゃないわ。あたしは自分の意思で、兄さんを愛したのよ! だって、兄さんにはあたしがふさわしいから、あたしと結婚すればすべてが取り戻せる。この邸宅だって昔の輝きをとり戻し、あたしたちはまた昔のように暮らせるのよ。あたしは兄さんのためになる、兄さんのいい妻になれるわ。なのに……っ」
 きつく両手を握りしめた。
「兄さんはあたしを女として絶対に愛してくれなかった。それは記憶をなくしても同じだった。どんなに求めても、心は手に入らなかった」
 そう云ってから、琴美は憎悪にみちた瞳で総司を見据えた。
 嫉妬と憤怒と絶望で、その愛らしい顔は引きつり、唇が微かに戦慄いていた。一種のヒステリー状態に陥っているのだ。それを見てとり、総司は困惑した。
 琴美の云うことはわかる。
 だが、どう見ても、琴美は土方への愛をはき違えていた。愛してると思い込んでいるのだ。
「琴美さん……」
 思わず手をのばした総司を乱暴に払いのけ、琴美は叫んだ。
「なんでよ? どうして、あなたなんかがいいのよっ?」
「……」
「もう覚えてなかったのに、記憶を失ったのに。何で、やっぱりあなたが愛されるのよ……!」
 それに、総司は静かな声で答えた。
「確かにあなたに云われたとおり、ぼくたちはアブノーマルな関係だし、世間では認められないと思います。でも、それでも、ぼくはあの人を愛してるし、あの人もぼくを愛してくれた」
 ゆっくりと、自分に言い聞かせるように言葉をつづけた。
「ずっと思っていた。ぼくはあの人にふさわしくないと。いつか別れなきゃいけない、あの人の幸せのためだって。でも、やっとわかったんだ。土方さんはぼくのたった一つの幸せで、あの人にとっても、ぼくは幸せなんだって。一緒にいてあげたら、ただそれだけで、あの人は幸せだと笑ってくれる。そんなあの人の傍で、ぼくも本当に幸せだから」
 深く澄んだ瞳がまっすぐ琴美を見つめた。
 何者にも冒されることのない、強さを宿した瞳が。
「愛することに、役にたつからとか為になるとか、関係ないんだ。傍にいてあげるだけでいい。あの人を愛してゆけば、それだけでいい。それだけで……幸せになれるんだ」
「……っ」
 琴美は怯えたような表情で総司を見た。
 彼女から見ても、今の総司はこの事件が起こる前の少年とは違っていた。
 愛する人を愛してゆこう、守ってゆこうと決めた強靭さがあった。
 そこには、誰にも引き離せない、彼との強い絆が確かに存在していた。
 それが悔しかった。叶わないと、自分が間違ってる、自分はただ駄々をこねてるだけだと、わかっていたから。
 彼を兄としてしか愛してない。こんな風に想うことなんか出来やしない。ずっと目を背けていた真実を突きつけられた気がして、躯中が激しく震えた。
 それに、総司も気がついた。
 気遣わしげに、そっと手をのばしてくる。
「大丈夫……? 気分が悪いの……?」
「……さわらないで」
 琴美は涙に濡れた瞳で総司を睨みつけた。
「あなたさえいなければ、こんな事にならなかったのに! ずっと、兄さんを愛してゆけたのに……っ!」
「琴美さん」
「あなたなんか、消えればいいのよ……!」
 そう叫んだ瞬間だった。
 彼女の手にあの銀色のナイフがきらめいた。風を切り、それが総司に襲いかかる。反射的にそれを避けるため、総司は一歩後ろに下がった。
 が、そこに地面はなかった。
「──ッ!?」
 もの凄い水飛沫があがった。
 あっという間に、プールの底へ引き込まれてゆく。
(!)
 水の中に落ちたことに気づいた総司は、慌てて浮き上がろうとした。が、このプールは深い。その上、着ている服が躯に纏わりつき、無我夢中でもがく総司を、水底へ引きずり込んだ。
 思わず喘いだ瞬間、ごぼっと鳴った。空気がどんどん失われてゆく。
 息ができない。苦しい。
 死んじゃう。
 助けて。
 助けて。
(……土方…さん……!)
 愛する男だけを想った。
 やっと幸せになれると思ったのに。やっと、愛しあえると思ったのに。
 それとも、これは罰なのかな。
 ずっとあなたを傷つけ、苦しめてきたぼくの。
 あなたと生きてゆく決心ができなくて、あなたが与えてくれる愛を信じようとしなかったぼくに、神さまから与えられた罰……
 なら、仕方ないね。
 もっと早く、あなたと向きあえば良かったのに。素直になればよかったのに。
 ごめんなさい、土方さん。
 ……ごめん…なさい……。
 

 

 


 きんと頭の奥が冷たくなり、躯中から力が抜けた。
 何もかも消え去り、意識も想いも遠ざかってゆく。
 そのぼんやりした視界の中、突然、水面に誰かの影がさした。そして、次の瞬間、凄まじい水音があがった。
 総司の周囲で水が渦巻き、泡立つ。
 力強い腕が、少年の体を荒々しく引き寄せた。そして、きつく抱きしめた。
(……土方…さん……)
 総司は静かに目を閉じた。



 青い青い水の中で。
 愛することだけを、ただ信じながら──……












 

[あとがき]
 次で完結です。やれやれ、ようやくここまで来ました。今回書きたかったシーンは、土方さんと総司の再会シーンです。鏡越しの再会って絵になる気がするんですけど。
 尚、医学的な事はわかりませんから、こんなふうに少しずつ思い出してゆく記憶喪失があるのか全く謎です。そのあたり、くれぐれも追求されませんように(笑)。
 次で最終話! まだ色々展開ありますので、最後まで読んでやって下さいね♪


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