その光景を見た瞬間、思わず足が竦んだ。
 夜の闇の中で青い青い水をたたえたプール。彼を招きよせる水面。
 さざ波。風。
 あの夜のデジャヴが凄まじい勢いで彼を襲った。
『歳……愛してるわ』
 そう囁き、彼を抱きしめてきた白い腕。
『あなたはあたしのものよ。あなただけが、あたしの生きた証。だから、あなたを残して逝く訳にはいかないの』
『母さん……っ』
『一人じゃ怖いのよ。お願い、ね? 一緒に死んでくれるでしょう? 可愛い歳……愛してるのよ』
 あの囁きが。
 彼を抱きしめた母の感触が。
 すべてが蘇った。全身の肌が総毛立ち、激しく身震いした。恐怖に叫び出しそうになる。
 が、それは一瞬のことだった。
「……琴美!」
 ふり返った琴美の、涙に濡れた瞳。
 絶望とパニック状態に陥った妹の──
 それを見た瞬間、理解した。
 総司はこのプールの水に落ちたのだ。今、水が激しく揺れているのもそのためだった。
「……っ!」
 躊躇いなどなかった。
 土方はスーツの上着を脱ぎ捨てると、プールサイドに走り寄った。そのまま、勢いよく水の中へ飛びこんだ。
 このプールはかなり深い。それはよく知っていた。だからこそ、何の構えもなく落ちた者は危ないのだ。早く助け出さなければいけなかった。
 いったん深く沈み込んでから、総司の姿を探した。
 青い青い水の中、力を失った少年の姿が見えた。それにむかって泳ぎ、手をのばした。ぐったり気を失った総司の躯を引き寄せ、きつく抱きしめた。
「……」
 総司の手が、彼の胸もとを僅かに掴んだ。
 だが、それを確かめる間もなく、土方は総司を抱えたまま上へと浮上した。ぐんぐん水面が近づいてくる。
「……っ」
 水面にあがると、斉藤の声が聞こえた。
「土方さん!」
 濡れた視界に、立ち尽くす琴美と斉藤の姿が映った。それに頷いてみせ、プールサイドにむかった。斉藤が引き上げてくれる。救急車の手配をする斉藤の声を聞きながら、土方は手早く救命措置を行った。
 馴れた手つきで総司の胸を押し、唇を重ねて空気を送り込む。
 やがて、ごほっと少年の唇から水があふれた。咳込み、正常に呼吸し始める。
「総司……!」
 安堵の息をついた土方の前で、総司はうすく目を開いた。
 濡れた瞳が、彼を見上げた。しばらく、ぼんやりと見つめていたが、やがて微かに唇を動かした。
「ごめん…なさい……」
 小さな声だった。
 目を見開いた土方に、弱々しく言葉をつづけた。
「心配ばかりかけて……ごめんなさい」
 いとけない総司の様子に、土方は泣き笑いのような表情になった。実際、彼の黒い瞳は潤んでいた。
 思わず総司の背中に手をまわして抱えおこし、ぎゅっと抱きしめた。
「謝るのは俺の方だ。心配ばかりかけてるのも」
「ほんと……?」
「あぁ」
 頷き、優しく総司の背中を手のひらで撫でた。
 その濡れた髪に顔をうずめ、固く目を閉じた。
 ……大切だった。
 何よりも、誰よりも。
 愛してる、愛してる、愛してる。
 そう──。
 いつだって、総司は俺のすべてだった。俺の命そのものだった。
 あの黒手団で傷つけあっていた時も、庇って撃たれた時も。
 二人過ごした、たくさんの日々。
 クリスマスも、大晦日の夜も、喧嘩した日も。
 二人歩んできた道は決して平坦ではなかったけれど、だが、それでも幸せだった。
 総司が居れば、強くなれた。
 愛する人と一緒に過ごす日々は、こんなにも輝いているのだと──
「……!」
 鋭く──息を呑んだ。
 それは、本当に突然だった。 
 次の瞬間、彼の脳裏に、様々な光景がもの凄い勢いで流れこんできたのだ。
 大きく目を見開いた───



『あなたを好きになって……ごめんなさい……!』
『生きててくれて……ありがとう』
『ぼくはあなたに囚われていたいの。ずっといつまでも、あなたの腕の中にいたいから』
『……ずっと…愛して……』
 声。
 抱きしめた細い体。 そして、こぼれる花のような笑顔──


『土方さん、だい好き……!』



「……総…司……っ」
 愛しい恋人の名を呼んだ。
 が、それは声にならなかった。次の瞬間、ぐるりと夜空が回った。
「土方さん……!?」
 突然、力を失った男の躯に、総司は悲鳴をあげた。
 ぐったりと凭れかかってきた土方を、慌てて両手でささえた。驚き、斉藤も駆け寄ってくる。
「土方さん! 土方さん……!?」
 その瞼は深く閉ざされていた。
 ぐっしょり濡れた頬に、長い睫毛が翳りを落とす。ひどく体中の体温が低下しているのがわかった。
 いくら呼んでも応えは返らなかった。
「土方さん……っ!」
 不安と恐れに震えながら、総司は愛しい男の体をきつく抱きしめた───

 

 

 

 ……どうして、忘れていたのだろう。
 どうして、あんなふうに思い込んでいたのだろう。
 自分を助け出したのは、父の義諄だった。見殺しにしようとした叔父の潤を突き飛ばし、黛と歳三を助けるため、義諄はプールに飛びこんだのだ。だが、黛は助からなかった。
 救い出され、朦朧とした意識の中で聞いた父の声。
『愛してるんだ……黛……!』
 もう息絶えた母の体を抱きしめ、低く啜り泣いていた。
『一人では逝かせない……死なせないよ。愛してる、おまえを愛してるんだ。待っててくれ、俺も今、逝くから……っ』
 そして。
 言葉どおり、父は後追い自殺したのだ。
 どれだけ、彼女を愛していたか。激しく愛するが故に、どうすることもできず。最期の最期で、ようやく告げられた愛。
 だが、俺はあんなふうにはなりたくなかった。
 悔いるような愛し方はしたくなかった。
 勇気を出して向きあっていれば、幸せになれたはずなのに。どんなに苦しくても辛くても、二人愛しあっていれば、何も恐れることはなかったのに。
 俺は……総司。
 おまえを愛することから、逃げたくないんだ。
 何があっても、どんな事があっても、おまえを愛したい。おまえだけと人生を共にしてゆきたい。
 たとえ、それが辛く厳しく困難な道であったとしても。
 それでも、おまえへの愛が心にあれば、俺は強くなれるから。
 おまえを愛することで、もっともっと強くなれる。
 そう、信じたいから──……


 

 


 ゆっくりと目を開いた。
 見慣れぬ白い天井が映った。ここが何処なのかさえ、よくわからない。
 不意に、周囲がざわざわつき、一つの声が彼の名を呼んだ。
「……土方さん──」
 視界の中に、愛しい少年が入ってきた。
 大きな瞳に涙をいっぱいため、自分を見つめている。桜色の唇が震え、何度も彼を呼んだ。
 一瞬、既視感が彼を襲った。
 が、すぐにそれが、昏睡状態から醒めて記憶喪失になった時の事だと、思いあたった。あの時も、総司は泣きながら彼の名を呼び、その手を握りしめてきたのだ。
 どうして──わからなかったのか。
 素直で優しくて、泣き虫で弱くて強くて、誰よりも愛しい総司が、確かにそこにいたのに。
 どうして、すぐわかってやれなかったのだろう。
 こんなにも愛されていたのに──
「総司……」
 そっと手をのばした土方に、総司は涙をこぼしながら微笑んだ。
「今度はちゃんと呼んでくれた……」
「あぁ……」
 頷き、土方は総司の細い体を抱きよせた。その柔らかな髪に顔をうずめた。
「おまえは……躯、大丈夫なのか」
「うん。あなたが助けてくれたから……もう何ともありません。それより、土方さんが急に倒れてびっくりして……」
「すまない」
 低く囁いてから、視線をめぐらせた土方は、入り口付近に斉藤が立っているのに気づいた。鳶色の瞳で、じっと彼を見つめている。
 土方は少年の肩に手をかけ、柔らかく引き離した。
「……総司」
「はい」
「少し斉藤と話をしたいんだ。席を外して貰えないか」
「……え」
 戸惑ったように総司は彼を見つめた。
 が、土方はそんな総司の額にキスを落とし、優しく微笑んだ。
「大丈夫だ。何も心配するな」
「……はい」
 躊躇いがちだったが頷き、総司は身を起こした。
 そっと静かに部屋を出ていった。扉が閉じられ、足音が遠ざかるのを確かめてから、土方は低い声で呼びかけた。
「斉藤」
「……」
「わかってるだろう、こっちへ来てくれ」
 斉藤は僅かに嘆息すると、部屋を横切った。ベッド脇に椅子を引き寄せ、それに腰かけた。
 土方は上半身を起こし、組んだ両手を膝上に置いた。
「琴美は……どうなった?」
「彼女は今、佐藤家の方です。ただ、総司をプールに突き落としたのは、あの娘だ。傷害で逮捕できますよ」
「総司は訴えると云ってるのか」
「いえ。そんな事しないでしょう」
「なら……見逃してやってくれ」
 静かな声で、土方は云った。
「身勝手な話だが、あれでも一緒に育った妹だ。俺にとっては大切な妹なんだ。琴美には俺がきちんと話をつける」
「おれがどうこう云う事じゃありませんよ」
「すまない」
 そう云ってから、土方は深く澄んだ黒い瞳でまっすぐ斉藤を見つめた。
「もう……わかっているのだろう?」
「えぇ」
「俺は記憶を全部取り戻した。だが、逆に……記憶を失っていた時のことが、あやふやなんだ。ある程度は覚えているが、どこか霞んでいる」
「……」
「斉藤、おまえが知ってる事だけでもいい。話してくれないか」
 そう云った土方に、斉藤は眉を顰めた。
「どれも、あなたにとっては辛い事ばかりですよ。今更……」
「だが、それでも俺がしたことだ。全部、しっかり知っておきたい」
 断固とした表情で、土方はきっぱりと云い切った。
 思わずため息をついたが、斉藤も彼には逆らえない。仕方なく、話し出した。土方が記憶を失ってからの言動、生活を、自分が知る範囲で、出来る限り詳しく話した。
 それを、土方は押し黙ったまま聞いていた。
 僅かに視線を落とし、静かな表情で聞いている。時折、斉藤も視線をやったが、その端正な顔には何の表情もなかった。話が進むにつれ、尚更、無表情になってゆく。それに一抹の不安を覚え、思わず最後に付けたした。
「おれも怒りましたがね、けど、結局、あなたは何も覚えていなかったんだ。どうしようもない事だったんだと思いますよ。過去はやり直せない。今更、あなたが悔いても……」
「……刻んだ傷は癒せないか」
 ほろ苦い口調で呟いた土方に、斉藤は思わず唇を噛んだ。
 おそらく、彼は自分が行った総司への仕打ちについて云っているのだ。もともと黒手団に潜入捜査していた時、土方は総司をレイプし、それは恋人同士になってからも彼の中に深い罪の意識を残した。そして、それを悔いながら、罪悪感に苦しみながら、また──くり返したのだ。
 誰よりも総司を愛し、大切に思っている土方が、そのことに平気でいられるはずがなかった。
「斉藤」
 黙りこんでしまった斉藤に、土方は静かな声で呼びかけた。
 僅かに乱れた黒髪を指さきでかきあげ、視線を部屋の中にすべらせた。
「服……俺の服は、どこにあるんだ」
「さっき、信子さんがもって来られましたよ。確か、あの紙袋だと……」
「姉さんは」
「さっきまで部屋におられましたけどね、たぶん、医者の所に」
「なら、総司を頼めるな」
「え?」
 土方はしなやかな動作でベッドから降りると、紙袋を取り上げた。中から服を取り出し、さっさと着替え始める。白いシャツにジーンズ姿になると、一緒に用意されてあったスニーカーを履いた。
 慌てて斉藤は立ち上がった。
「土方さん、何を……」
「ここからすぐ仕事へ向かう。どうせ今、大忙しなんだろう?」
「えぇ、大規模なテロ事件が三日前にあって、近藤さんもあの後すぐ本庁へ戻ったはずです」
「そんな時にすまなかったな。一緒に車にのせていってくれるか」
「それは構いませんけど。でも、大丈夫なんですか。それに、総司には……」
「記憶を取り戻したことなら、まだ云うつもりはない」
 きっぱりした口調で云った土方に、斉藤は驚いた。思わずつめ寄った。
「何で!? あんなに心配してる総司に、どうして……っ」
「しばらく距離をおいた方がいいんだ」
「距離って……別れるつもりですか!?」
「まさか」
 肩をすくめ、土方は目を伏せた。
「この俺が総司と別れられるはずがねぇだろ。ただ……少し時間が欲しいんだ。俺はまだ記憶を取り戻したばかりで、いろいろと気持ちの整理もついてない。こんな状態の俺が総司の傍にいたら、また傷つけちまうかもしれねぇ。だから……」
 僅かに唇を噛んだ。
「今の俺は……駄目だ。あいつに近づくべきじゃない」
「土方さん……」
 何と云ったらよいのかわからず立ち尽くす斉藤に、小さく笑ってみせてから土方は踵を返した。
 扉を開けて廊下に出ると、少し離れた所に坐っていた総司が目を丸くした。慌てて駆け寄ってくる。
「土方さん! その格好、どうしたの……っ?」
「今から斉藤と仕事に行くことになった。すまないが、総司……おまえは姉さんのところにいて貰えるか」
「信子さんのところに……? でも、土方さん、体は? 大丈夫なの?」
「あぁ、もう何ともない。大丈夫だ。色々と片付いたら、必ず迎えに行くから待っててくれ」
 そう云ってから、土方は総司の背中に腕をまわし、そっと抱き寄せた。さらりと髪をかきあげてから、柔らかく額に瞼に頬にキスを落とした。
「……」
 一瞬、総司は目を見開いた。が、すぐに黙ったまま長い睫毛を伏せると、男の胸もとに顔をうずめた。
 そっと優しく抱きすくめられた。
「……すまない」
 低い声が耳もとにふれた。
 それに答えようとしたとたん、柔らかく引き離された。見つめる総司から視線をそらし、土方は斉藤に言葉を投げた。
「車、すぐ回せるか」
「えぇ。一番近い駐車場にとめましたから──行きますか」
「特捜がたってるのは、何処の署だ」
 てきぱきと会話をかわしながら、土方は歩き出した。一瞬だけ、総司の頬を撫でてから、すっと離れてゆくしなやかな指さき。
 それに、思わず総司は縋りつきそうになった。
 行かないで。
 もう、どこにも行かないで。
 二度と、ぼくを一人にしないで。
 だが、そんなこと云えるはずもなくて。
(……土方さん……)
 総司はいつものように言葉を呑みこみ、きつく唇を噛みしめた。
 歩みさってゆく男の広い背を、今にも泣きだしそうな瞳で見つめながら───

 

 

 

「ごめんなさい」
 そう云った琴美に、土方は黙ったまま首をふった。
 成田空港の出発ロビーだった。留学先へ戻ることになった琴美を、土方は忙しい仕事の合間をぬって見送りにきたのだ。
 大勢の人が行きかう中、兄妹は互いを見つめあった。似たところなど全くない兄妹だった。だが、土方にとっては信子よりも近い肉親だった。幼い頃からずっと一緒に育ち、互いを庇いあってきたのだ。あの冷たい家の中、身を寄せあうようにして。
「俺が悪かったんだ」
 低い声で土方は云った。
「おまえを追いつめたのは、俺だ。俺がおまえを女として扱ったから」
「だけど、それはあたしが兄さんを騙したからだもの」
 琴美はきゅっと唇を噛みしめた。
「それに、あたし……少しの間でも、兄さんの恋人になれて幸せだった」
「琴美」
「ごめんなさい、わかってる。兄さんにすれば、ぞっとするような記憶だという事は。でも……それでも……あたし、兄さんを愛して……」
「俺も愛してるよ」
 土方は答えた。
 静かな、だが、揺るぎのない強さをもった口調で。
「兄として、おまえを愛してる」
「……」
「琴美。おまえがもし妹でなかったとしても、俺はおまえを恋人にしなかった。俺には総司がいるからな。だが……あの冷たい家で一緒に育った兄妹として、俺はおまえを愛している。いつも傷つき泣いていた俺を、小さな手で抱きしめてくれた優しいおまえを、愛してるんだ」
「兄さん……」
 手をのばし、土方は優しく妹の体を抱きしめた。
「それでは駄目か。兄として愛することでは駄目なのか……?」
「兄さん……っ」
 栗色の瞳に涙があふれ、唇が震えた。彼の胸もとに縋りついてくる。
「ごめんなさい……酷い事ばかりして、騙してごめんなさい。あの子にも酷い事して、あたし……っ」
「琴美……」
「わかってたの。自分が母さまの言葉に操られてるって、兄さんがどれだけあの子を愛してるかってこと。でも……どうしても、兄さんが欲しくて。兄さんにはあたしがう相応しいんだって、兄さんのためになると思い込んで……」
「……」
「だから、あんな事したの。でも、あたし……わかったから。あの子が云った言葉で目が覚めたから」
「言葉?」
 聞き返した土方に、琴美は目を伏せた。
「愛することに、役にたつからとか関係ないって。傍にいて愛してゆけば、それだけでいい。それだけで幸せになれるって……」
「……総司がそんな事を?」
「兄さん、すごく強い子を選んだのね。あれじゃ叶いっこないわ」
「あれでも、けっこう弱くて泣き虫なんだがな」
「惚気?」
 くすっと琴美は笑った。
 土方の胸に手をついて身をおこすと、まだ涙に濡れた瞳で兄を見上げた。
「見てて。あたしもちゃんと強くなるから。あの子みたいに愛せる人を見つけるから」
「あぁ」
「そうなってから、悔しがっても遅いんだからね」
 悪戯っぽく笑うと、琴美は片手をさし出した。子供の頃、何度もつなぎあって歩いた手。それをそっと握ってやりながら、土方は妹の瞳を覗きこんだ。
 琴美の瞳が彼を見つめた。
「……だい好きよ、兄さん」
「俺もだ、琴美」
 優しい声で答えた土方に、琴美は綺麗に微笑んだ。
 静かに手を離すと、足元に置いていた小さなトランクを取り上げた。踵を返し、ゆっくりと歩き出してゆく。
 ゲートをくぐる手前で、琴美は一度だけふり返った。何も云わず、彼の姿を記憶にとどめるよう見つめてから、また背をむけた。そして、それきりゲートの中に消えていった。
「……」
 しばらくの間、土方はそこに佇んでいた。琴美の姿が消えても、ゲートを見つめていた。
 様々な想いが胸奥にあり、それが彼の心を強く揺さぶった。
 琴美への愛情を、恋愛と思ったことは一度もなかった。だが、総司を傷つけた琴美を責める気にはなれなかった。琴美は彼にとって大切な妹だった。あの冷たく淋しい家で、身を寄せあうようにして育った兄妹なのだ。
 総司への愛情とは全く別の形で、琴美を愛していた。大切に思っていた。
 だから、琴美が立ち直り、自分の足で歩き出していってくれたことは嬉しかった。そして、その切欠となった総司の言葉も──  
「……それだけで幸せになれる、か」
 確かに、そのとおりだった。
 その言葉どおりだった。
 愛することで強くなれると、わかったはずだった。
 逃げても仕方ないのだ。愛することは、幸せなのだから。不幸になるため、互いを愛しあった訳では決してないのだから……。
「俺もいい加減……覚悟きめねぇとな」
 過去はやり直せなかった。いくら記憶を失っていたとはいえ、総司を傷つけたのは自分なのだ。そこから逃げる訳にはいかなかった。しっかり自分の罪と向きあい、できることなら償いたかった。
 そして。もう一度、総司が赦してくれるのなら。
 愛したかった……。
 この腕の総司を抱きしめ、愛してると囁きたかった。
 もう二度と離さない、ずっと傍にいると、そう約束してやりたかった。
 記憶を失ったことで、俺は過去へ戻ることになった。過去に囚われ、あの悪夢をくり返した。総司を琴美を傷つけ、姉や斉藤、近藤さんまで巻き込み、文字どおり暗闇の迷路であがき続けた。
 だが、あれはある意味、必要なことだったんだ。
 俺が過去ときちんと向きあうために。そのことで強くなるために。この俺が近親相姦の子であっても、そうでなくても、どうでも良かった。ただ、もう過去には囚われたくなかった。
 総司を愛した時、俺は思ったのだ。これからは後ろをふり返ることはやめよう、前だけを見てゆこうと。一緒に歩いてくれる、共に生きてくれる大切な存在を、俺はようやく見つけ出せたのだから。
「……総司……」
 その名を呼ぶだけで、胸が熱くなった。
 一瞬でも早く逢いたい。この腕に抱きしめ、ふれたい。
 そう……こんなにも、自分は総司を求めているのだ。総司しか望まないのだ。
 総司が手に入るなら、世界中の何もかもを捨ててしまってもいい程に。
 何よりも、誰よりも。
 

 

 

 
「……はふ」
 総司は濡れた髪をタオルで拭いながら、小さく息をついた。
 広いバスルームから歩み出て、寝室の大きなベッドの上にぽんっと飛び乗った。
 あれから十日の時が過ぎていた。
 彼の言葉どおり、信子の家で世話になっている。さすがに広い屋敷で、総司は驚き戸惑ってしまった。何しろ、総司のためにと用意された部屋には、寝室から洗面浴室、書斎や居間までついているのだ。どう見ても、土方と住んでいる官舎より広かった。
 が、こういう贅沢な生活ができるはずの彼は、それらを嫌い、あの小さな部屋で暮らし刑事として働いているのだ。信子からも聞かされてわかった事だが、土方は両親の遺産自体を酷く嫌悪していた。ほとんど手もつけてないのだという。今回の事で、その遺産はすべて寄付する事にしたと聞いた。
 もう彼の中で、あの両親との確執や不幸な過去は、決着がついたのだ。
 その事は、別のことをも示していた。
「……土方さん……」
 総司は白いパジャマ姿のまま、ベッドの上で膝を抱え込んだ。 
 わかっていた。
 彼はもう記憶を取り戻しているのだ。
 あのキスの仕方。額に、右の瞼だけにキスして、それから、両頬に柔らかく。
 癖だった。いつも、あぁしてキスしてくれたのだ。
 それに、彼の黒い瞳……。
 目覚めた時、自分を見つめた瞳がまるで違っていた。どこか熱をおびた、激しさを孕んだ瞳。
 ぼくを愛してくれている、土方さんの瞳だった。
 唇で告げなくても、抱きしめてくれなくても。いつでも、彼の瞳は素直に愛をつたえてくれたから。
 ぼくを愛してる。
 世界中の誰よりも愛してると。
 だから、廊下でキスされた瞬間、確信した。
 土方さんはもう記憶を取り戻しているのだと。
 でも。なら……どうして? どうして、ぼくには何も云ってくれないの?
 わかってる。
 彼はまた……罪の意識に苛まれているんだ。記憶を失っている間の行動をすべて覚えていて、ぼくにした事を深く悔やんでいる。罪に思っている。
 でも、それに対してどうすればいいのか、全くわからなかった。
 記憶を失っていた時なら、不安に揺れる彼なら、ぼくの言葉をそのまま聞いてくれた。が、今の彼は──あの土方さんなのだ。
 大人で強くて、脆くて、優しくて冷たくて。
 誰よりも誇り高く、真摯な彼。
 一度、あの人が決めたなら、それを揺るがすことは誰にもできない。しなやかな獣のような強靭さを、彼はその身の内に秘めているのだから。
「……土方さん」
 その名をもう一度呼んだ時だった。
 コンコンと小さな音が鳴った。扉へのノックかと思ったが、違うようだった。音が違う。
 なら、これは──?
 もう一度鳴った音に、総司はふり返った。
 そして、大きく目を見開いた。
「!」
 テラスに通じる窓の向こう。スーツ姿の彼がそこに立ち、悪戯っぽい笑みをうかべていたのだ。
 闇にとけこむような、黒い髪。黒い瞳。
 それは──総司の愛しい男だった。
「土方さん……!」
 思わずベッドから飛び降り、駆け寄った。震える手で鍵を外すと、窓を大きく押し開く。たまらず、その腕の中へ飛び込んだ。
「土方さん、土方さん……!」
 むしゃぶりつくように、その胸もとに頭を擦りつけた。もう離れたくないと、背中にまわした両手にぎゅっと力をこめた。
 それに、土方が僅かに苦笑した。
「……総司、これじゃ動けねぇよ」
「だって……」
「そんなに俺に逢いたかったのか?」
「あたり前でしょう!」
 思わず叫び、顔をあげた。
 が、自分を見つめる優しい黒い瞳を見たとたん、胸奥が熱くなった。涙がこみあげるのを感じた。
「逢いたかった……逢いたかったんです、土方さん」
「総司……」
「もうどこにも行かないで。ぼくを一人にしないで……お願い」
 そう云った総司を、しばらくの間、土方は黙ったまま見つめていた。
 やがて、静かに体を離すと、思わず縋ろうとした総司の瞳を覗きこんだ。じっと見つめあいながら、顔を近づけてゆく。
 吐息が頬にふれた瞬間、総司は目を閉じた。
 そっと──唇が重ねられた。
 初めは柔らかく唇を擦りあわせ、舐めあげた。やがて、舌がさし入れられ、次第にその口づけは深いものになってゆく。甘ったるく濃厚なキス。体の芯までとろけてしまいそうな……。
 角度をかえて何度も唇を深く重ね、総司の身も心もとろかせてから、土方は優しく少年の体を抱きしめた。
 そっと耳もとに囁いた。
「……総司」
「はい」
「俺と一緒に帰ってくれないか」
「え……?」
「あんな酷い事をしておいて、身勝手な男だと思うが、それでもおまえを愛してるんだ」
 土方は静かな声でつづけた。
 そっと指さきで、総司のなめらかな頬を撫でた。
「もう……わかっているんだろう? 俺が記憶を取り戻してること」
「……えぇ」
「なら、おまえに俺は赦しを乞うべきだな。すまない、本当に酷い事をしたと思っているんだ」
「でも、あれは土方さん、ぼくも……」
「いや……あの事だけじゃない。これは、記憶を失ってからの俺の行動すべてに対しての謝罪だ」
 土方はきつく唇を噛みしめ、総司を見つめた。
 黒い瞳に悔恨と苦痛の色がうかんだ。
「おまえを忘れた。そのこと自体が俺は赦せないんだ。忘れて、そして、おまえをさんざん傷つけ苦しめた。今でも……覚えている。いつも、おまえは悲しそうな瞳で俺を見ていた。あの時は全くわからなかったが、今となっては想い出すだけで胸が締め付けられるんだ。なんて酷い事をしたのかと。どうして、こんなにも愛してるおまえを苦しめるようなことを、俺は……」
「土方さん、違うから!」
 総司は思わず叫び、彼の腕を掴んだ。
「ぼくはあなたを愛してるの! だから、あなたになら何をされてもいいの。それは辛くて悲しかったけど……でも、あなたの傍にいれるだけで幸せだったから。いつか、かえってきてくれると、心のどこかで信じていたから。それに、記憶を失ったのはあなたのせいじゃない。あれは事故だったの。だから、お願い。そんなふうに自分を責めないで……!」
「赦してくれるのか……?」
「あの時も云ったでしょう? 赦すとかそういう事じゃないって。ぼくはあなたを愛してるの。そして、あなたもぼくを愛してくれているのでしょう……?」
「あぁ」
 頷き、土方は一瞬だけ躊躇った。だが、意を決すると静かな声で云った。
「おまえを愛してる。だから……総司、帰ってきてくれないか。俺はおまえの傍にいたいんだ。あの家に、おまえと二人で帰りたいんだ」
「ほんと……に?」
 総司は涙に潤んだ瞳で彼を見上げた。
「ほんとに、帰っていいの? あそこが……ぼくたちの家だと信じていいの? 二人一緒にいても構わないの?」
「あそこは俺たちの家だ。ずっと求めてきた、家だ。総司……おまえがいないと駄目なんだ。おまえが一緒にいてくれることで、あそこは家になる」
 土方は総司の手をとり、その細い指さきにそっと口づけた。
「おまえは俺の恋人で……伴侶で、大切な家族だ。何よりも……金とか地位なんかより、ずっと求めつづけてきた存在なんだ。おまえのいる場所が俺の家だから、俺のかえるべき処だと信じてるから……」
「土方さん……!」
 総司は両手をのばし、つまさき立ちになった。細い両腕で男の首をかき抱き、ぎゅっとしがみついた。
 だい好きな人。
 好きで好きでたまらない、彼。
 この人がぼくを選んでくれたこと、それは奇跡みたいな幸せだったけれど。でも、きっと、ぼくもこの人を幸せにしてあげられるはずだから。
 愛することがぼくを彼を強くし、そして、二人幸せになれるはずだから。
 ぼくも信じてる。
 ぼくがかえる場所もまた、この人の傍しかあり得ないのだと──
「つれてって」
 総司は掠れた声で云った。
「あなたが好きだから、愛してるから。いつまでも、あなたと一緒にいたいの」
「総司……」
「お願い、もう二度と放さないで……!」
「放さない、放すものか」
 土方は総司をきつく抱きしめ、その髪に頬にキスの雨を降らせた。首筋に唇をすべらせ、甘く咬みつく。それに少年の体がぴくんっと震え、桜色の唇から甘い吐息がもれた。そんな仕草一つにも、男の欲望が熱く刺激された。
 思わず舌うちした。
「ちくしょうっ……可愛くてたまらねぇよ」
「土方…さん、ぁあ……ぁ、んっ……」
 もっとふれあいたかった。
 彼を深く感じたかった。
 何度も何度も愛しあいたかった。
 身も心もとけあわせるように───
「……好き、愛してる……土方さん……っ」
「総司……俺も愛してる……!」
 甘く深く、激しく。
 狂おしいほどに。 
 口づけあい抱きしめあう至福の恋人たちを、白い月だけが静かに見つめていた……。

 

 


 
『何、考えてるのっ!?』
 いきなりそう怒鳴られ、土方は思わず携帯電話を耳から離してしまった。
 少し距離をおいた電話から、信子の声が響いてくる。それに、ため息をついた。
 警視庁の組織犯罪対策部のセクションルームだった。信子の電話に応じている土方の隣で、斉藤が立ち、にやにや笑いながら珈琲を飲んでいる。それを手で追い払いながら、答えた。
「何を考えてるって云われても……」
『なーんにも考えてないんでしょっ? あんたのせいで、うちのセキュリティめちゃくちゃよ!』
「……悪かった」
『総ちゃんを迎えにくるなら、玄関から来ればいいでしょ。それを、泥棒まがいに侵入するなんて、しかもセキュリティぶっ壊して』
「あぁ、あれさ、すげぇ簡単に壊せたぜ。丸一晩、姉さんたち気づかなかったんだろ? 別のメーカーに替えた方が……」
『そういうこと聞いてるんじゃないわよッ! こういうの、あんた知ってる? 恩を仇で返すって云うのよ! 全部、しっかり請求させてもらうからね』
「勘弁してくれよ。ただでさえ、給料前で金ないんだからさ」
『何を云ってるのよ。あんたには幾らでも……あ、全部寄付したんだったわね。こっちにはなーんにも相談しないで』
「勝手に決めてごめん。けど、俺もこれ以上過去に囚われたくなかったんだ」
 そう云った土方に、信子はため息をついた。
 しばらく黙ってから、静かな声で云った。
『そうね……もう過去に囚われちゃ駄目ね。あんたはちゃんと、人が生きていく上で一番大切なもの見つけたんだから。お金なんかじゃ買えない、父さんや黛さんが手にいれられなかったものを』
「そうだな……姉さん」
『なぁに?』
「ありがとう」
 受話器の向こうで、信子が小さく笑った。
『お礼言うより、これ弁償してよ』
「そっちは勘弁してくれ……あ」
 土方は目をあげ、向こうで呼んでいる近藤に手をあげた。
「仕事だ。また電話するよ」
『あ! 歳』
 信子が明るい声で云った。
『総ちゃんを大切にしなさいよ。それからね、幸せになるのよ』
「あぁ、姉さんも義兄さんを大切にな」
『偉そうに云ってるんじゃないわよ』
 そう笑う信子の声は少し照れくさそうだった。それに苦笑しながら電話を切った土方は、手早く書類を鞄に詰めこんだ。今から所轄に行かなければならないのだ。慌しく仕度する土方を眺め、斉藤が声をかけてきた。
「で、総司は元気にしてるんですか」
「いや……それが全然逢ってねぇんだ」
「はあ?」
「あの日、姉さんの家から帰ったら玄関前で呼び出しくらって、それきりだ」
「……土方さん」
 斉藤の声が凄味を帯びたのを感じ取り、土方は苦笑した。ちょっと悪戯っぽい瞳で長年の友人を眺めた。
「あの宣言どおり殴るか?」
「そう云えば……忘れてました。一発借りがあるんでしたっけ」
「俺は構わねぇぜ」
 そう云った土方に、斉藤は肩をすくめた。ひょいっと両手をあげてみせる。
「こっちがお断りですよ。こんな所であなたを殴ったら、おれの出世にも響いてしまいます」
「なるほど」
「でも、これだけは云っておきますよ」
 斉藤は重々しく断言した。
「今日は定時厳守で帰ること。泊まりこみは厳禁です」
 一瞬、土方は目を見開いた。が、すぐ、にやりと笑った。
「……了解」
 云いざま、ぱんっと斉藤と手を打ちあわせた。そのまま、すれ違ってゆく。斉藤もふり返ることなく、仕事へとむかった。
 十年来の絆はそう簡単に揺るぎはしないのだ。二人はまた以前と同じように最高のコンビに戻れるはずだった。
 そんな二人のやりとりを傍で眺めていた永倉は、やれやれと肩をすくめながら呟いた。
「これで一件落着ってね」







 電車から降りた土方は小さく吐息をもらした。
 久しぶりの帰宅だ。結局、定時は守れず、それどころか終電になってしまった。遅くなるが帰れそうだと8時頃に電話を入れておいたが、総司はまだ待ってくれているだろうか。それとも眠ってしまっただろうか。
 どのみち、久しぶりに総司と逢えることが嬉しかった。
 あの日、さらうように佐藤家から連れさって。だが、官舎へ着いたところで電話が入り、一緒に帰ることができなかった。淋しそうな瞳の総司にキスし、一人残して仕事へ向かう他なかったのだ。
 だから、あの記憶を失い二人離れてから、あの家へ帰るのは初めてだった。
 短い間だったが同居してから幸せな日々を過ごし、その後、彼が記憶を失ったせいでたくさん辛いことや苦しい時を刻んだ。彼に傷つけられた総司が去ってしまい、その事に耐えられず彼も部屋を出たため、空っぽになってしまった家。
 だが、今、ようやく二人の家へ帰れるのだ。
 もう一度、ここから始められるはずだった。
 今度こそ幸せになるために──
「……」
 土方は僅かに乱れた黒髪を片手でかきあげ、階段を降りた。
 終電のためか意外と人数は多い。その中を改札口へむかいながら、パスケースを取り出した。改札をくぐり、そのまま駅の外へ出る。
「!」
 とたん、土方は大きく目を見開いた。
 もう大抵の店も閉まってしまっている真夜中の町。ぽつんとコンビニの明かりと、点滅する信号の黄色だけが目をひいた。
 そんな夜の光景の中、誰よりも愛しい少年の姿がそこにあったのだ。
 不安そうな瞳で、じっと駅の方を見つめている。
 まだ彼に気づいてないのか、両手を握りあわせ、きつく唇を噛みしめていた。
(……総司……)
 総司も、不安でたまらなかったのだ。
 本当に彼が帰ってくるのか、今度こそ一緒に帰ってくれるのか。
 二人のあの家へ……。
 ゆっくりと土方は歩き出した。
 世界中の誰よりも愛しい存在にむかって。
「……」
 その時、総司の瞳が彼をとらえた。とたん、大きく見開かれる。
 そして、ぱっと花が綻ぶように微笑った。
 幸せそうに、嬉しそうに。
 それを見た瞬間、土方はこみ上げる愛しさに体中が熱くなるのを感じた。
 心が体が、何もかもが。
 総司だけを強く激しく求めてしまう。
「──総司……!」 
 思わず駆け出していた。
 人がふり返るのも構わず、彼は総司にむかって走った。総司もたまらず駆け寄ってくる。
 あと少しでふれるというところで両手をのばした。腕を掴んで引き寄せ、飛びついてきた総司を思いっきり抱きしめた。
「総司……総司……っ」
 その柔らかな髪に顔をうずめた。
 彼の腕の中で、総司が悪戯っぽく笑った。
「びっくりした? でも、迎えに来たかったから……」
「……おまえ、いつから待ってたんだ。まさか、電話した時からか?」
「ごめんなさい」
 総司はちょっと不安げに瞳を揺らし、土方を見上げた。
「怒ってる……?」
「いや、怒ってない。こんな夜に危ないが……けど、迎えにきてくれて嬉しかった」
 正直な気持ちを告げた土方に、総司はにっこり笑った。彼の手をとり、指をからめて握りしめてくる。
 それを柔らかく握り返してやると、総司は頬をぱっと染めた。
 真夜中の町を、彼らは手をつないで歩き出した。二人の家へむかって。
 帰路、さまざまな話をした。
 仕事のこと、大学のことや家のこと。
 そして、過去のことや彼の罪のことも。
 辛い話をする時も、二人の表情は穏やかだった。いつまでもふり返るべきでない事は、二人ともよくわかっているのだ。過去にとらわれるより、未来を見つめたかった。
 官舎が見えるところまで来ると、不意に総司が立ち止まった。
「……土方さん」
「え?」
 ふり返った土方を見上げた。その彼の手をひっぱってつま先立ちになる。訝しげに首をかしげる男の耳もとに、総司は唇を寄せた。
 そして。
 明るい声で告げたのだった。
「お帰りなさい、土方さん……!」






──愛しい総司。
世界中の誰よりも何よりも。
愛しくて愛しくてたまらない、大切な総司。
俺はおまえを傷つけた。
二人、たくさん傷つき苦しんだ。そして──これからも。
多くのものを背負っている俺とおまえだ。この先もまだ色んなことがあるのだろう。
だが、おまえと一緒なら大丈夫だと信じてるから。 
いつまでも一緒に歩いてゆこう。
そして、家族になろう。
恋人に、伴侶に、家族に。
互いが互いをずっと愛してゆけるように。
もう二度と離れないように。
この先どんなに辛く厳しい茨の道であっても、それでも。
二人一緒なら、強く生きてゆけると信じたいから──







 土方は思わず微笑んだ。
 柔らかく総司の腰に腕をまわし、そっと抱き寄せる。
 そして、甘くキスした。
 愛を。
 心を。 
 想いをこめて。
「……ただいま、総司」
 そう囁いた瞬間。
 彼の腕の中で。
 いとおしい少年は。
 世界中の誰よりも、幸せそうに微笑んだのだった……。











 
……傍にいるよ
優しい春の日も
冷たい雨の日も
いつまでも傍にいる
おまえだけを愛してる

だから
もう……泣かないで

どんなに離れても
俺の愛は
俺の心は
 
いつか必ず 
かえってゆくから

……総司
愛するおまえのもとに──……
















[あとがき]
 「かくれんぼの恋U」完結です。ね? ちゃんと予告どおりハッピーエンドだったでしょう。皆様もほっとされた事と思います。個人的に好きなのは、土方さんが総司を迎えにくるシーンと、土方さんが斉藤さんと手を打ちあわせるシーンです。いい男同士のコンビってのはだい好きなので♪
 このお話は私自身、いろいろ考えさせられるお話でした。「愛の形」というものに対して、あぁでもこうでもないと考えて。でも、気がつくと、土方さんと総司が勝手に答えを出しちゃってました。いやはや不思議。Tは出逢い編、Uは恋愛編と書いてるように、二人の気持ちがより深まり、恋愛から家族愛にも似た深く静かな愛情へかわってゆく経緯を書いたつもりです。少しでも、皆様に伝われば嬉しいのですが。
 最終話、とんでもなく長くなってしまい、すみませんでした。そして、また、最後までおつきあい下さり、本当にありがとうございました。このお話が少しでも皆様の心に残ることを祈りつつ、筆をおかせて頂きます。

文責 葉月雛


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