人の声で目が覚めた。
ぼんやりした意識のまま天井を見上げ、それから頭をめぐらせてみたが、部屋には誰もいない。
だが、確かに誰かの声が聞こえた。
(……あれ? ここ……)
見覚えのない部屋だった。土方の部屋と造りは同じなのだが、カーテンの色や家具が違う。
のろのろとベッドの上に身を起こし、総司は部屋の中を見回した。
やっぱり、見覚えのない部屋だ。
だが、ならどうして自分はここにいるのだろう?
彼の部屋を出て、官舎の門から出て、それから──それから……?
「──最低じゃないかッ!」
突然の声に、総司はびくっと躯を震わせた。
驚いてふり返ってみると、扉のむこうから聞こえてくる。それも、よく知った声だった。
(……斉藤さん?)
ベッドから降りて、そろそろと歩いた。静かに扉を開き、リビングの方を覗いてみる。
そこで、二人の男が何か言い争っていた。
声高に責めたてる斉藤と、それにじっと押し黙っている土方。
(……あ……)
小さく息を呑んだ総司に気づくことなく、斉藤は叫んだ。
「そんな事するなんて、最低だ! いくら記憶がないからって、その不安や恐れを総司に向けることはないでしょうっ」
「……」
「あなたは絶対に後悔する。記憶を取り戻したら、めちゃくちゃ後悔しますよ!」
「……もう後悔してる」
低い声で土方が呟いた。
目を伏せたまま、言葉をつづけた。
「事の最中から後悔していた。だが……もう今更どうしようもない」
「そうですね、終わってしまったことだ。あなたが総司に刻みつけた心の傷はもう治らない。癒してやれない……」
斉藤は両手を握りしめた。
「おれは前に云いましたよね。一番大切なものが壊れてゆこうとしているのに、気づかないのかと」
「……あぁ」
「その一番大切なものを……総司を、あなたは自分自身の手で壊したんだ! 総司はあなたに無理やりあんな事をされ、そのショックで部屋を出た。挙句、おれの車に轢かれそうになるなんて……最悪だ」
呻くような声で呟き、斉藤は顔をあげた。
挑戦的な表情で、土方を睨むように見据えた。
「もう、あなたには任せておけない。おれが総司を守ります。ちゃんとこの手で守って愛してゆく」
「おまえが……?」
一瞬、土方の黒い瞳が底光りした。思わず、ぐっと拳を固める。そんな彼から視線をそらさぬまま、斉藤はつづけた。
「これも前に云いました。後で返せと云われても絶対に返さないと。総司はもう絶対に返しません」
「……」
「おれは、あなたといることが総司の幸せだと信じたから、ずっと傍で見守ってきた。総司が幸せであってくれさえすればいいと、そう思っていた。だけど、その総司を、あなたは傷つけたんだ! あなたが記憶を失ってから苦しんで泣いて、それでも必死に頑張ってきた総司を、あなたは……!」
激情のあまり、斉藤は声をつまらせた。
そのまま激しく顔をそむけると、寝室の方へ向かおうとする。そうしてから、ようやく総司の存在に気がついた。
「……総司」
思わずその名を呼んだ斉藤に、躯を震わせたのは土方だった。弾かれたようにふり返り、僅かに見開いた瞳で見つめてくる。
「……」
土方の瞳には、今、総司しか映っていなかった。他の何もかもが無色になってしまい、総司だけが彼のすべてを惹きつけるのだ。
強く、激しく、せつなく。
だが、それは総司も同じだった。どんなことがあっても尚、世界中でただ一人、彼しか求められなかった。
「総司……」
思わずとも云うように歩みよろうとした土方に、斉藤はきつい視線をむけた。さっと彼の前に立ちふさがり、総司を彼の視界から隠した。
「云ったはずです。もう、あなたには返さないと」
「俺は総司と話をしたいんだ」
「あんな事をしたくせに? ここまで総司を追い込んだくせに?」
矢継ぎ早に斉藤は責めたてた。
「今更、何の話をするんですか。これ以上、総司を傷つけることは、このおれが許さない……!」
「……」
二人はまるで仇同士のように睨みあった。緊迫した空気が互いの身を斬りつけるようだ。それに、総司は堪らなくなった。
全部、自分のせいなのだ。
斉藤は土方の大切な友人だったのに、一番の理解者であったのに。なのに、こんなふうに二人の関係を壊してしまったのは、自分自身だ。それが堪らなく辛かった。
「……斉藤さん」
少し躊躇ったが、総司は静かに呼びかけた。
斉藤はふり返らぬまま「何だ」と答えた。彼のむこうで、土方がちらりと視線をこちらへむけるのがわかった。だが、それでも告げた。
「ぼくは……土方さんと別れます」
「!」
驚き、斉藤がふり返った。
その決断を、総司がするとは思っていなかったのだ。
土方が無言のまま目を細めた。固く唇を引き結んでいる。
「ごめんなさい……」
総司は小さな声で謝り、目を伏せた。
「いろいろ頑張ったけど……もう限界なんです。これ以上、土方さんの傍にいるのは辛すぎます」
「総司……」
「だから、もう言い争ったりしないで。これはぼくの問題だから。ぼくが決めたことだから……もう全部終わりにさせて下さい。お願いします」
そう云ってから、総司は頭を下げた。
じっとそのままの姿勢で、目を閉じている。
そんな総司に、土方も斉藤もしばらくの間、無言だった。押し黙ったまま、総司を見つめている。
やがて、土方は僅かにため息をついた。
「……わかった」
低い、落ちついた声が響いた。
顔をあげた総司を、その深く澄んだ黒い瞳で見つめた。
「それがおまえの決めたことなら……仕方ない。俺に引きとめる資格はないだろう」
「……土方さん……」
「荷物は後で取りに来い。直接がいやなら、業者に頼んで運ばせる」
「……はい」
頷いた総司に、土方は一瞬、辛そうに顔を歪めた。が、ふりきるように視線をそらすと、踵を返した。そのまま大股にリビングから廊下に出て、玄関へ向かう。
「あ……」
それを、総司は思わず追っていた。
遠ざかる男の背。
だい好きな彼だった。
世界中の誰よりも愛した、今でも愛しくて愛しくてたまらない人だった。
なのに……。
「……っ」
思わずその背に縋りそうになった。両手をのばしかける。
その瞬間だった。
土方がふり返らぬまま、静かな声で云った。
「……ありがとう」
え? と目を見開いた総司に、もう一度くり返した。
「今まで傍にいてくれて……ありがとう」
「……土方…さん……っ」
涙がこみあげた。
が、それを土方は見ることはなかった。静かに扉を押し開けると、ふり返ることもなく出ていった。
僅かな音をたてて、扉が閉じられた。
まるで──二人を永遠に隔てるように。
それを見つめながら、総司は告げていた。
彼の中にいる、あなたに。
だい好きな土方さん。
今まで愛してくれてありがとう。
愛させてくれてありがとう。
そして───
「……さよなら」
その声は涙でふるえ、やがて、小さな嗚咽にかわった……。
斉藤は自分の部屋にいろと云ってくれたが、それも辛かった。
何しろ、少し離れたところに土方と暮らした部屋があり、彼がそこにいるのだ。あまりにも近すぎた。
結局、前々から誘ってくれていた近藤のところで世話になる事にした。むろん、ほんの数日のつもりだった。早めに部屋を見つけ、そこへ荷物も全部移すつもりだ。
当座の衣服や大学の持ち物だけを、斉藤が土方の部屋から運び出してくれた。それを車にのせ、近藤の家へむかった。
「……正直、心臓がとまるかと思ったんだ」
ハンドルをきりながら、斉藤は苦笑した。
「仕事帰りに戻ってきたら、いきなり人が飛び出してきて倒れるわ、轢いたのかっと駆け寄ってみれば、おまえだし。あと少しでおれがおまえを殺すところだったんだぞ」
「すみません」
総司は目を伏せた。
「あの時、ぼく、もう土方さんから逃げることしか考えてなくて……」
「その……土方さんだけどな」
斉藤はちょっと躊躇ってから、云った。
「おまえを部屋へ運んだのはあの人なんだ。たぶん、おまえを追ってきたんだろう。車から降りて見たら、おまえを抱きかかえていた。一瞬、この人、記憶が戻ったのかと思ったぐらい取り乱して、すごい必死の様子で……」
「土方さんが……」
総司は目を見開いた。
なら、あの時、自分の名を叫んだ声は。
あの悲鳴のような声は、彼のものだったのだ……。
「……総司」
静かな声で斉藤が云った。
「おまえ、今も土方さんを愛してるんだろ? 今でも本当は傍にいたいんだろ?」
「……」
「おれはおまえが傷つく様を見てられなくて、あの人から引き離した。だが、それでおまえがまた傷つくなら……」
「いいんです、もう」
総司は顔をあげ、できるだけ明るい声で云った。
小さく笑ってみせた。
「全部、終わりにしたかったから。ずっと前から、あの人と別れるべきだったんだから」
「けど……もし今、あの人の記憶が戻ったら? おまえはどうするんだ」
「それでも……別れます」
淡々とした口調で総司は云った。
「あの人には、ぼくなんか相応しくないんです。ぼくがいれば必ず足手まといになる、足枷になる。それをわかっていながら、今まで傍にいたぼくが間違っていたのだから……」
「総司」
「これでよかったんです。今は辛くても、いつかきっとそう思える日がくるはずだから……」
そう呟き、総司は目を伏せた。
涙をためた長い睫毛を震わせ、じっと唇を噛んでこらえている。
「……」
それを痛ましげに見つめ、斉藤は吐息をもらした。
ゆっくりと引き戸を開いた。
土方は誰もいない和室を眺め、ため息をついた。
まだ幾らか物は残されてあるが、主のいなくなった部屋はどこか冷たかった。だが、近いうちに、その僅かに残ったものもすべて運び出されてしまうのだ。
「……総司」
少年の名を呼び、土方は畳の上に膝をついた。
もう何も考えられなかった。考えたくなかった。
記憶を失い、挙句、その恋人まで失ってしまい、彼にはもう何も残されていなかった。
夢も希望も愛も、何もかも。
「……」
ふと、視線がある箇所でとまった。
何かが小さな和箪笥の下にあるのだ。畳との僅かな隙間から、端だけ覗かせていた。
土方は傍へ寄ると手をのばし、それを引き出した。
とたん、息を呑んだ。
「!」
それは、一枚の写真だった。
どこかの美しい緑の光景の中、彼自身と総司が微笑っていた。
幸せそうに寄りそっている。
土方の手は少年の細い肩を抱き、総司も嬉しそうに彼の肩へ頭を凭せかけていた。誰が見ても、至福の恋人たちだった。幸せそのものだった。
「……5月……今年の5月の写真か」
なら、ごく最近のものだった。おそらく、記憶を失った事故の少し前の写真だろう。
どう見ても、別れる寸前の恋人たちには見えなかった。
互いが互いを愛しあい、幸せそのものだった。なのに……。
──記憶を失う前から、ぼくはあなたと別れようって思っていた。別れるべきだった。だから、あなたが記憶を失ったのはいい機会だったんです。
あの言葉は何だったんだ。
別れの予感など微塵も感じさせない、この写真。
なのに、別れようと思っていたと叫んだ総司。
「……」
土方は僅かに眉を顰めた。
突然、ある光景が脳裏をよぎったのだ。
あれは──確か、冬だった。
寒くて凍えるような、冷たい夜。だが、自分たちは公園にいた……?
公園のベンチに坐って寄りそい、互いのぬくもりだけを感じて──……
『でも……もう少しだけ待って欲しいんです』
腕の中、視線を落としていた総司。
不安げに揺れたきれいな瞳。
『もうちょっとだけ考えたいから、まだ決心がつかないから……だから……』
『待ったら、おまえはいつか頷いてくれるのか?』
『たぶん……』
『なら、待つよ。幾らでも俺は待ってやる……』
そう囁いて、答えながら。
総司の不安を強く感じていた。ふたりの関係の終わりへの不安を。
だが、それを少しずつ取り除いていってやろうと、あの時、自分は思っていた。
いつか、自分を本当に信じてくれるように。
心から安心して、この腕の中で幸せに愛してやれるように。
そう、思っていたのに──
あぁ……そうだ。
だからこそ、総司はあんな事を云ったのだ。
幸せに微笑みながら、いつでも不安を感じていたから。
彼の恋人として愛される日々に、いつか終わりがくるのだと、ずっと予感しつづけていたから。だから……。
「……総司……っ」
土方は写真を手にしたまま、ぎりっと奥歯を噛みしめた。
まだ断片的な記憶しか戻らない。確かに恋人だったという実感さえない。
だが、それでも、総司が大切だった。
自分の酷い仕打ちのせいで傷ついた総司を、この手で癒してやりたかった。拒絶されるかもしれない、嫌悪されてるかもしれない。だが、それでも抱きしめたいという気持ちは、愛しいという気持ちは、どうして消せなかった。
総司を、いとおしいと想う気持ちだけは───
近藤はあたたかく迎えてくれた。
その妻であるつねも優しく、一人娘の珠子もたちまち総司に懐いてしまった。
が、その好意にいつまでも甘える訳にはいかなかった。
これからは、一人で生きていかなければならないのだ。もう、彼は傍にいてくれないのだから……。
大学から戻り、夜、レポートを仕上げていると、近藤が遠慮がちに声をかけてきた。
総司は恐縮してしまったことに、一室を与えられていた。空いてる部屋だから使って欲しいとつねも優しく笑ってくれたが、申し訳なさがつのるばかりだった。
「はい、何でしょうか」
総司は慌てて立ち上がり、近藤を見つめた。
それに近藤はちょっと苦笑してから、総司に坐るよう促した。自分も手近な椅子に腰かけ、静かな表情で話しかけてくる。
親しく知り合うようになってから知ったのだが、近藤は包容力のある穏やかであたたかい人柄の男だった。それでいて決断力と行動力もあり、彼を親友として上司として大切に思っていた土方の気持ちが、総司もよく理解できた。
「歳のことなんだが……」
「はい」
「官舎を出たらしい。しばらく、信子さんの佐藤家にいるという話だ」
「そう……ですか」
総司は僅かに目を伏せた。
あの、官舎の部屋には今、誰もいないのだ。
二人過ごした、ささやかだけど幸せな思い出がたくさんあった、あの部屋には……。
「総司、きみはどうしたい」
「え?」
「歳と別れると決めたそうだが、それはきみにとって辛いことだろう。おそらく、きみのことだ。歳のことを、歳の将来のことを、思って、別れを決めたに違いないと私は思っているのだが……」
「……」
「確かに、以前から反対していた私が云うことではないと思う。だが、きみは歳の将来を案じはしただろうが、歳の……気持ちは考えてくれたのだろうか」
「……え」
総司は驚き、顔をあげた。思ってもみなかったことを告げられ、大きく目を見開いている。
「土方さんの……気持ち?」
「あいつも、生半可な気持ちできみと一緒に住むことを、きみと一生を共にすることを、決めた訳ではない。あぁ見えても、あいつはどこか脆くて弱いからな。おそらく、きみのことで躊躇ったり不安になったりもしただろう。だが、それでも歳はきみを選んだ。きみを愛し、守り、一緒に生きてゆくと心に決めていた。それは、きみを誰よりも大切に思い、愛していたからだ」
「……」
「きみは今回、歳と別れることを決めた。だが、なら……歳の意思は? 気持ちは? 今まで必死になってきみを守り愛し、一つずつきみとの生活をつみ重ねようとしてきた歳の想いは、どこへいってしまうのだろう」
「近藤さん……」
「確かに、歳は『わかった』と云っただろう。たとえ記憶があったとしても、どうしてもきみが別れたいと云えば、あいつは必ず承諾したと思う。歳はきみの意思を大切にし、きみの幸せだけを考えていたからな」
そう一気に話してから、近藤は僅かに嘆息した。
「わかっている。きみが歳のためを思って、別れを決めたことは。だが……今までの歳を思うと、やるせなくなるんだ。それに、歳の気持ちはもとより……きみ自身の幸せを考えると……」
「……」
「本当に歳との別れを望んでるわけではないだろう。なら、きみの幸せはどうなってしまう? 歳のことばかり考えて、きみ自身の幸せは後回しにされる──そんなこと、あいつ自身も決して望まぬはずだ。誰よりもきみを愛し、きみの幸せだけを願っていた歳なら……」
「……」
黙ったまま俯いている総司を、近藤は静かに見下ろした。
膝上におかれた細い手が微かに震えているのに気づき、可哀想でたまらなくなった。
おそらく、総司自身にとって、今、土方と別れる方が楽なのだろう。
そうすれば、彼の足枷になると苦しんだり、彼のことで泣いたりしないで済む。
だが、それでは逃げ──だった。愛してるからこそ苦しむのだ、今ここで逃げたら後で必ず後悔する。どんなに苦しんでも傷ついても、愛しあっていれば必ず幸せを掴めるはずだった。
だが、これ以上は言葉にすべきではなかった。総司の意思をいつも尊重していた土方も、それは望まないだろう。
近藤は立ち上がると、そっと総司の肩に手をおいた。
静かな声で云った。
「色々ときつい事を云った。だが、後悔はして欲しくないんだ。きみにも……歳にも」
「近藤さん……」
「よく考えて……自分なりの答えを出しなさい」
そう云った近藤に、総司は目を伏せたまま頷いた……。
「……また、そんな顔して」
信子は土方の頬を指さきでひっぱった。
顔を顰める彼にも構わず、つけつけした口調で云った。
「うちに居候してるんだから、ちゃんとやる事やって貰うわよ」
「別に俺が望んだことじゃねぇだろ」
「あーら、私が姉だということも思い出せないのに、いっぱしの口はきくのね」
「何となく覚えてるさ。口の悪い男勝りの姉さんのことは」
「口の悪さはあなたも同じでしょ」
そう笑ってから、信子は彼とよく似た黒い瞳で弟を覗きこんだ。
白いふっくらした指さきが、今度は、そっと土方の頬にふれた。
「じゃあ……少しは思い出してきてるのね」
「あぁ」
「総ちゃんのことは?」
「そう……あぁ、総司のことか。いや、まだ……」
目を伏せた土方に、信子は肩をすくめた。長い艶やかな黒髪を背中にはらいながら、悪戯っぽく瞳をきらめかせた。
「肝心なことは駄目なのね。歳っていつもそうなんだから」
「いつもって何だよ」
「だって昔から、頭もよくて何でもできて、なのに肝心な処はどこか抜けてるんだから。だいたい、出生のことだって……あなたがまさか父さんの子供じゃないと思ってるなんて、考えもしなかったわ。まぁ、噂を煽った周囲も悪いんだけど」
「その事については、俺もまだよく思い出してないんだ。自分の親がどうのと云われても実感わかねぇし」
「でしょうね」
信子はため息をもらし、部屋を横切ると、開いていた窓ガラスを閉じた。しばらく美しい庭を眺めていたが、ふり返り、土方に笑いかけた。
「さぁ、話は終わりよ。お客さまたちが待ってるわ」
「ぞっとしねぇな」
「小さなお茶会よ。でも、久しぶりに歳がくると聞いて、たくさん可愛いお嬢さんたちがいらしてるわ」
含み笑いをうかべながら云った信子に、土方は眉を顰めた。
「姉さん、俺には……」
「総司がいる、でしょ?」
そう聞き返し、信子はきらめく瞳でじっと弟を見つめた。
しばらく黙ってから、低い声で呟いた。
「ほら……ちゃんと肝心なことも思い出しかけてるじゃない」
「え?」
「あの子が恋人だと実感わかなくても、思い出を取り戻せなくても、あの子を大切に想ってる……自分にはちゃんと守るべき愛すべき人がいるのだと、ちゃんとわかってるじゃない」
「……けど、俺は総司を傷つけた」
「そうね。でも、あなたはあの子を愛してるわ。記憶を失っても、あの子のことも皆忘れてしまっても……それでも、あの子への愛情だけは消えなかった」
「いや、消えてたんだ」
土方はきつく唇を噛みしめ、いらただしげに前髪をかきあげた。せっかくきれいに整えられた艶やかな黒髪が乱れたが、そんなこと意に介さなかった。
「俺はあいつのことも、あいつへの愛情も……みんな忘れていた。確かに、ずっと誰かの存在を感じてはいたさ。自分は誰かを愛していて、そして幸せだったと。けど、それでも……それが総司だなんて一度も……」
「一度も思わなかった? でも、それでも今、あなたはあの子を愛してるのでしょう? 自分が愛していた誰かがあの子だと、わかっているのでしょう?」
突然、信子は土方の腕をぐっと掴み、自分の方へ向き直らせた。
そして、鞭うつような鋭い口調でぴしゃりと言い放った。
「しっかりなさい! 歳」
「……姉さん」
驚いて目を見開く土方に、信子は言葉をつづけた。
「あなたはね、今、大きな岐路にたってるのよ。このまま何もかも諦めて愛することをやめてしまうか、それとも、どんなに自分も相手も傷つき苦しんででも愛しつづけてゆくか。それは、あなた自身が選ぶことだわ。でも、これだけは云わせて頂戴」
「……」
「後でどんなに悔いても、時は戻らないのよ。時間が過ぎて、あの子の心があなたから完全に離れてしまってから、傷つくことを恐れたばかりに失ったものの大きさに気づいて。それで、どんなに取り戻したいと願っても、もう二度と愛せない、愛されないの! そんな絶望を……あなたには味わって欲しくないのよ」
「……姉さん?」
「私たちの父さんがそうだったから……」
信子は土方が見下ろす中、そっと目を伏せた。
「父さんは私の母や琴美の母と浮気をくり返して、それでも本当は黛さんだけを愛していた。狂ったように愛していたの。でも、黛さんが愛してるのは潤さんだと思っていたから、そう信じていたから……だから、自分の本当の気持ちも告げず背を向けていた。お互い傷つくことを恐れて、ちゃんと向きあおうとしなかったのよ」
「……」
「黛さんも同じだったと思うわ。長い年月の中で、きっと……黛さんはいつか父さんを愛していたのだと思う。でも、二人とも素直になれず、お互いが想いあってることにも気づかず、溝はどんどん深まって、その挙句……」
そっと信子は唇を噛んだ。
しばらく黙って視線を落としていたが、やがて小さくため息をついた。土方の襟もとを直してやりながら、呟いた。
「あなたには……同じ轍を踏んでほしくないのよ」
「……」
土方は黙ったまま信子を見つめた。
それから、静かに身をかがめると、そっと彼女の頬にキスした。
「歳……」
驚いたように顔をあげた信子に、土方は微笑んだ。
「ありがとう、姉さん。姉さんは昔からいつも、俺のことを一番に考えてくれるんだな」
「歳……」
「わかったよ。俺は……もう逃げない」
深く澄んだ黒い瞳が、まっすぐ信子を見つめていた。
真摯な、強い輝きを宿した瞳だった。彼自身が本来もっている強靭さ、誇り高さそのままの──
「歳、あなた……」
思わず云いかけた信子に、土方は腕をさし出した。
「さぁ、行こう。姉さん、そろそろ行かねぇと下で義兄さんがしびれきらしてるぜ」
「……そう、ね。わかったわ」
信子は頷き、彼の腕に手をからめた。部屋を出て廊下から階段へさしかかった時、ふと見ると、窓ガラスを風が激しく叩いていた。
嵐になりそうな雲行きだった。
土方はそれを見やり、僅かに眉を顰めた。
(……総司……)
だが、今はまだ迎えに行くべき時ではなかった。逃げる時でないのも確かだが。
土方は一瞬だけ瞼を閉じ、そして、ゆっくりとその目をあげた。
それは──静かな瞳だった。
ゆるぎない決意を宿した、強く激しい彼の本質そのままの。
深く澄んだ黒い瞳──
ゆっくりと歩き出した男のまなざしに、もう迷いはなかった……。
雨が激しく窓ガラスを叩いていた。
外は嵐の夜だ。
ベッドの中で小さく身を丸め、総司はきつく唇を噛みしめた。
昔から、嵐が嫌いだった。怖かった。
それは大きくなってからも同じで、よく土方の腕の中にもぐりこんだ。怖がりながらその胸に縋りつくと、いつも彼は目をさまし、優しく微笑いながら抱きしめてくれた。そっと髪を撫でて──
「大丈夫だ……総司、俺がここにいる。俺がおまえを守っているよ……」
そう、静かな低い声で囁いてくれた。
いつでも、そうだった。
いつもいつも、彼は自分を守ってきてくれたのだ。
甘えたくない、一人で生きてる、自分の足で立ちたいと、強がってる自分を決して否定したりせず。認めて受けとめ、優しいまなざしで見つめてくれながら。
そして、総司が気づかぬうちに、まるで空気のように寄りそってくれていた。
あの優しい瞳で見つめ、彼のすべてで自分を守ってくれていた。
(なのに、ぼくは……)
──逃げていたのだ。
甘えたくないと云いながら、本当は甘えきって守られて。
彼のためにならない、彼の足枷になると云いながら、その実、自分の弱さや不安と向きあうのが怖かった。
誰でも恋愛で不安になるのは当然なのに。永遠の繋がりなんか、誰にも約束できないのに。
なのに、土方さんにぼくは相応しくない、ずっと傍にいられないと云いながら、ぼくは土方さんに「永遠」を求めていたんだ。
本当は、ずっとずっと傍にいて欲しかった。
いつまでも愛して欲しかった。
だけど、そんなこと云うのが怖くて。切り捨てられる前に、傷つく前に、自分から防波堤をつくっていた。
いつまでも一緒にいられる訳がない、いつまでも愛されるはずがないと、逃げ道をつくって、弱い自分に言い訳だけして。
土方さんはずっと前に、覚悟を決めてくれていたのに。
ぼくを受けとめるって、何があっても一緒にいるって。
これから二人が味わうかもしれない苦しさも辛さも、挫折も悲しみも全部ひっくるめ、理解した上で、ぼくと一緒に生きていこうと決めてくれていた。そして、その上でぼくを受けとめ、守り、愛してくれた。
決意が足りなかったのはぼくだった。覚悟してなかったのはぼくだった。
逃げてばかりいたのは──ぼくだった。
そのことがやっとわかった今、もう……逃げたら駄目だと思った。
自分の気持ちからも、あの人からも。
土方さんを愛しいと思う、この気持ちから絶対に──
(……土方さん……)
総司は愛する男への想いだけを抱きしめ、そっと目を閉じた……。
[あとがき]
土方さん、ようやく記憶を取り戻しかけてます。今回はちょっと中継ぎ的な感じかな。あまり展開もなかったし。いや、別れてるんですから、展開がなかったとは云いませんか(笑)。また、今回、色んな人たちに二人を応援して貰いました。やっぱり、人生、二人だけで生きてるはずがないですから。さぁ、あと二話です。もうこの先は、だだだーっとジェットコースター展開でラストまでいきます。もちろん、一波乱も二波乱もあります。また、ぜひ読んでやって下さいね♪
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