「……おはようございます」
総司はスライドドアを開けると、静かな声で挨拶した。
それにベッドで本を読んでいた男が顔をあげた。黒い瞳が総司を一瞥した。
「おはよう」
一言だけ答えると、そのまま再び手元の本へ視線を落とした。その端正な顔には、何の表情もない。
それに総司はきつく唇を噛んだが、すぐいつものように病室の中を片付け始めた。洗濯物を入れかえ、グラスや水差しを洗うため持ち出した。
炊事場でグラスを洗いながら、総司は思わず吐息をもらした。
もう一週間の時が過ぎていたが、土方の記憶が戻る様子は全くない。だが、それでも毎朝、期待してしまう自分が悲しかった。
毎朝、病室のドアを開ける瞬間、祈るように願ってしまうのだ。
ぼくを思い出して……! と。
喧嘩してもいい、怒られてもいい。
でも、お願いだから、あなたの中からぼくを消さないで。二人すごした日々を全部、消してしまわないで。
愛してるの。
世界中で、あなただけを誰よりも。
ずっと逃げてきたぼくだけど、あなたがぼくを愛してくれたから、生きることから逃げるなと云ってくれたから。
だから、生きてゆこうと思ったのに……。
「……っ」
総司はきつく唇を噛みしめた。
また涙がこみあげそうになったのだ。だが、それを必死にこらえ、グラスを布巾で綺麗に拭いた。
その時、傍から声がかけられた。
「……総司」
呼びかけにふり返ると、そこには心配そうな顔をした近藤が立っていた。
もともと近藤は土方と総司のつきあいに反対していた男だった。だが、こんな事になってからは、何くれと心を砕いてくれていた。そのため、総司もかなり近藤に懐くようになっていた。
総司は小さく笑ってみせた。
「おはようございます、近藤さん」
「あぁ、おはよう」
そう云ってから、近藤はちらりと視線を病室の方へやった。
「相変わらず……か?」
「……えぇ」
「そうか……」
沈んだ表情で頷いてから、近藤は痛ましげに総司を見た。
「本当にこれで良かったのか?」
「何がですか」
「だから、歳に本当のことを言わなくて良かったのかと……」
「もちろんです」
総司は目を伏せ、自嘲するような笑みをうかべた。
「こんなぼくが、あの人の恋人なんて……どれだけ嫌悪されるか。今でも、他人を見るような土方さんが怖いのに、そんなこと……とても云えません」
「総司……」
「近藤さんには感謝してるんです」
大きな瞳で近藤を見上げ、総司は云った。
「ぼくを甥だと云って下さり、その上、下宿先が見つかるまで土方さんと同居させてると説明して下さったおかげで、こうしてあの人の傍にいられます。たとえ、ぼくを他人としか扱わない土方さんでも、それでも、ぼくは……あの人の傍にいたいから……」
「総司……無理だけはするな」
静かな声で近藤は云った。手をのばし、総司の頭をかるく撫でた。
「以前、おれは歳から聞いたんだ。きみは我慢強くて、いつも自分のことより歳のことを優先ばかりしてしまう。もっと頼って欲しいのに、辛くても苦しくても黙って堪えている……それが心配なのだと」
「土方さんがそんなことを……」
思わず胸が熱くなった。
本当に愛されていたのだと思った。
彼は深く自分を理解し、そして、いつも思いやってくれていたのだ。
「だから、総司……無理だけはするな」
ゆっくりと近藤は言葉をつづけた。
「辛くなったら、我慢できなくなったら、いつでも逃げてくればいい。きみは一人じゃない。おれも、信子さんも、永倉も斉藤も、みんながついているんだ。それを頼むから、忘れないでいてくれ」
「ありがとうございます」
総司はこみあげる涙をこらえ、頭を下げた。
頑張ってゆこうと思った。
この人たちのためにも、そして、何よりも愛する彼のために。
いつか、彼があの優しい瞳で自分を見てくれる。
そんな日が再び訪れることを、願いながら──
数日後、土方は退院した。
が、そうは云っても今の彼の状態だ、仕事にすぐ復帰できる訳ではなかった。しばらく様子を見ようと、近藤は彼に休暇をとらせた。
土方と総司は、官舎で日々を過ごした。
こんな事でなければ、幸せな休日だっただろう。だが、そこには重い沈黙しかなかった。
相変わらず土方は何も思い出さず、総司のことは預かり者の同居人としか扱わなかった。総司の方も、あくまで他人として接した。真実を知られないよう、彼との間に自ら溝をひき、務めて冷たい態度をとりつづけた。
初めて彼との関係を聞かれた時、総司はさり気ない口調で答えた。
「家事をすることで、家賃を免除してもらってるんです。ハウスキーパーみたいなものですよ」
それに土方は納得したようだったが、総司自身は自分の言葉に傷ついていた。
ハウスキーパー。
他人から見れば、そのとおりだった。している事も何も変わっていなかった。
相変わらず、土方のために料理を作り、掃除や洗濯をこなしている。だが、決定的なものが違っていた。
そこには、大切なものがかけていたのだ。
以前、白いワイシャツにプレスをする時、総司はいつも小さく唄を歌っていた。彼が着るものにふれる事が嬉しかったのだが、そのうきうきした様子に苦笑した土方が、背中から抱きすくめてくれたりした。時折、一緒に歌って笑いあった。
料理も一生懸命頑張れば頑張るほど、おいしいと喜んでくれた。
休日の朝、二人でキッチンにならび、朝食の用意をしたこともあった。悪戯っぽい瞳でのぞきこみ、キスばかりしてくる土方に、ちょっと怒って、でも嬉しくて。あの時、飲んだ珈琲はブラックだったのに、すごく甘く感じた。
いってらっしゃいのキスも、おやすみなさいのキスも。
甘くて優しくて、とろけそうで。
あたたかい彼の腕の中、優しく抱きしめられていれば、何の不安もなかった。
まるで、夢のように幸せだった。
それとも、あれは夢だったのだろうか。
あの優しい日々は、全部、夢──?
「……」
総司はぎゅっと目を閉じ、首をふった。
ううん、夢なんかじゃない。
土方さんとぼくは、ちゃんと愛しあっていたんだ。たとえ、あの事故の直前、喧嘩をしていても。別れ話が出る寸前だったとしても、それでも──ぼくとあの人が愛しあった日々だけは消せない。
せめて、ぼくの記憶の中でだけは……。
「……」
総司は小さく息をつき、珈琲をのせたトレイを手に、書斎のドアをノックした。
応えを受けて入ると、土方はこちらに背をむけ、何かぶ厚い本を熱心に読んでいた。
記憶を取り戻すためか、それとも早く仕事に復帰したいためか、退院してからずっと、土方は毎日、自分の蔵書に目を通しつづけている。それも、総司から見れば、とんでもなく難しい法学書や判例集、経済学の本ばかりだった。
もともと、土方の知識は多岐にわたっていた。多忙の間をぬい、法律のことから経済まで様々な事を、貪欲なほど吸収しつづけていたのだ。総司の事があるので出世は望めないかもしれない、だが、それでも土方は上にのぼる事を決して諦めてはいなかった。いつかは必ず、警察官僚として大勢の人の上に立つ男なのだ。それを近藤も自分の右腕として望んでいた。
「……土方さん」
そっと声をかけると、土方が僅かにふり返った。傍らに珈琲を置いた総司に、小さく礼を云った。が、すぐに視線を本へ戻してしまう。この素っ気ない態度は入院時から何ら変わることなかった。土方にとって、総司は、近藤からあずかった同居人兼ハウスキーパーに過ぎないのだ。
総司は彼の背中を見つめ、唇を噛んだ。
思わず、縋ってしまいそうになる。
両手をのばし、その背中に抱きついて。彼の体の感触を求めたかった。
お願い、ぼくを見て──と。
今にも泣きながら懇願してしまいそうで……。
「……っ」
総司は顔をそむけると、小走りに部屋を出た。扉を閉める瞬間にふり返って見た彼の背中は、酷く遠かった……。
その朝、総司は目を覚ますとベッドから抜け出し、カーテンを開けた。
外は曇り空だった。まるで総司の気持ちにあわせたように、ここのところ晴れた空を見た覚えがない。
総司は手早く身支度を始めた。もちろん、二人の寝室は別々にしてある。総司は六畳の和室で寝起きしていた。寝室に置いてあった自分のものは綺麗に片付けてしまってある。二人の関係を示すようなものも隠していた。
それをふと思い出し、押入れに入れた箱から取り出した。
たとえば、このお揃いのマグカップ。二人で一緒に買ったものだった。可愛いピンク色とブルーの花柄に、ちょっと土方は困った顔をしていたが、それでもいつもちゃんと使ってくれた。それから、これもお揃いの箸に、朝食用プレート。綺麗なガラスのコップは、土方がお揃いで出張のお土産に買ってきてくれたものだった。
あと、もちろん、写真。たくさんの。二人寄り添い、笑いあっているものばかりだ。自分でプリントするからいいんだと、頬にキスされてる写真もあった。
「……っ」
涙がこぼれそうになった。
が、総司はゆるく首をふると、それらを仕舞いこんだ。急いで立ち上がり、朝食の用意をするためダイニングに立った。
土方が起きてきて挨拶をかわし、いつもどおり無言の食事になった。そして、それは食事も終わりかけた時に起こった。
突然、玄関の呼び鈴が鳴ったのだ。
思わず立ち上がりかけた総司に、土方は目をあげた。
「……いい。俺の客だ」
「土方さんのお客さんって……」
「数日前に電話があって、それから何度か外で逢った。今朝、ここへ来る予定になっていた」
「……」
意味がわからず見つめていると、土方は静かに立ち上がった。そのまま、玄関へと向かってしまう。
気にはなったが、追うことも出来ず、総司は食事を済ませた。彼の分も片付けようとしていると、土方が部屋に戻ってきた。寝室に入り、上着に腕をとおしながら出てきた。
「……出掛けてくる」
「え、あの……どこへ」
「……?」
土方がふり返り、訝しげに総司を見た。
その表情に、すぐ気がついた。自分はただの同居人なのだ。彼の行き先まであれこれ問いただす権利などなかった。
黙りこんだ総司にかるく肩をすくめると、土方はさっさと踵を返した。総司は玄関の鍵をかけるため、それを追った。だが、玄関まで行きついたとたん、鋭く息を呑んだ。
「……琴美…さん……!」
思わず呻いた総司に、琴美はきらめく栗色の瞳をむけた。
相変わらず美しい彼女だ。まるで、艶かしいベビーローズの薔薇が咲き誇るようだった。
一瞬、挑戦的な笑みをうかべたが、すぐになめらかな口調で話し始めた。
「おはよう。今度のことでは、あなたも大変だったわね」
「……」
「歳三さんが迷惑かけてるみたいで、ごめんなさい。本当なら、婚約者であるあたしがすべきことを、ただ同居してるだけのあなたにさせてしまって。本当に申し訳ないと思っているのよ」
総司は思わず叫び出しそうなった。
そんなふうに云わないで!
この人は、ぼくのものなのに。ぼくの恋人だったはずなのに。
なのに、まるで、土方さんの恋人が自分であるような、そんな……っ。
「総司」
不意に土方が低い声で呼びかけた。
それに、え?と見上げると、黒い瞳がまっすぐ総司を見ていた。
「今日は遅くなると思うから、夕食はいらない」
「……はい」
「じゃあ、行ってくる」
そう云うと、玄関のドアを開けた。それに琴美がつづきざま、総司にちらりと視線を投げかけた。
くすっと笑う。
勝ち誇った笑みだった。
どう? 自分の立場を少しは思い知った?
そう云いたげな──
「……っ」
総司は思わず顔をそむけた。二人が出ていく物音を聞きながら、リビングへと戻った。が、結局、どうしても気になって、窓からそっと下を覗いてしまった。
やはり記憶を失ってるから危険だと思ったのか、車ではなかった。が、二人は官舎を出ると、仲良さそうに寄りそい歩き始めた。あの日のように、琴美が土方の腕に手をからめた。どこから見ても似合いの恋人同士だった。
「……い…や……」
思わず両手で口をおおっていた。だが、それでも、言葉はあふれてしまう。
押し殺された、ずっとずっと堪えてきた想いがあふれた。
「いやだ……いや! 土方さん、土方さん……どうして……っ?」
総司は泣きながら、窓からのろのろと離れた。そのまま狂ったように部屋を横切ると、和室に飛びこんだ。あの箱を引っぱり出し、写真の束を掴みとった。
「……嘘つき……っ!」
叫びざま、その写真を思いっきり投げた。ぱあっと音をたてて、写真が部屋中に散らばった。
総司は大声で泣き叫んだ。
「どうして!? あんなに約束してくれたのに、ぼくだけ愛してるって、ぼくの傍にずっといるって……なのに……っ」
ぽろぽろ涙がこぼれた。
畳の上に突っ伏し、激しく泣きじゃくった。
「帰ってきて、土方さん……っ! 帰ってきて、お願い……ぼくを愛してよぉ……っ!」
あの頃のように。
愛してると、ずっと傍にいると囁いて。
優しく抱きしめて。
嘘でもいいから、夢でもかまわないから。
お願い──
「……土方…さん……っ」
泣きじゃくる総司の手元で、一枚の写真が涙に濡れた。
それは、柔らかな春の陽射しの中、土方と総司が寄りそっている写真だった。
二人とも、何の不安もなく幸せそうに微笑っていた。
数ヶ月後の悲劇の予感など、どこにもない。
心から愛しあう、幸せそうな恋人たちの写真だった……。
「……おまえ、大丈夫か」
逢ったとたん、斉藤は思わず問いかけていた。
今日、ドイツから帰国したばかりなので、まだ傍にはトランクがあった。
あるカフェの窓際の席だった。
斉藤から帰国の連絡を受けた総司が、どうしてもすぐ逢って欲しいと頼んだのだ。むろん、斉藤は二つ返事でOKし、このカフェで待ち合わせることにしたのだが。
「何でそんなに顔色悪いんだ……それに、えらく痩せてしまって……」
「……斉藤さんがドイツに行ってる間、いろいろあったんです」
季節は六月の半ばを迎えようとしていた。予定より少し早く帰国したので、日本はまだ梅雨の最中だ。今日も外は雨が降っていた。
斉藤は僅かに眉を顰めた。
「土方さんのことか?」
そう訊ねられ、総司はぱっと顔をあげた。
「全部、聞いているんですか?」
「いや……負傷したという事だけだ。だが、もう退院したんだろ? それとも、そんなに酷い怪我だったのか?」
「……斉藤さん……」
総司はきつく唇を噛みしめた。
テーブルの上に置いた手をぎゅっと固く握りしめた。
「もう……ぼく、どうしたらいいのか……」
「総司……?」
「何もかも、わからなくて……斉藤さん、研修から帰ったばかりで疲れてるとわかってるけど、でも……助けて欲しくて……っ」
「いったい、何があったんだ」
斉藤は心配そうな声で訊ねた。そっと手を重ね、静かな鳶色の瞳で総司を覗きこんだ。
「話してみろよ。おれがちゃんと力になってやるから」
「斉藤さん……」
「わかってるだろ? おれはいつも総司の味方だ。何があっても、おまえの味方だから」
胸にしみ入るような斉藤の優しい声に、総司は瞳を潤ませた。
嬉しくて嬉しくて、たまらなかった。
いつでも、あの頃も自分を支えてくれた優しい友人だった。
この人は何一つ変わらず、ぼくの傍にいてくれる……。
「……斉藤さん」
総司はかるく坐り直すと、斉藤をまっすぐ見つめた。
そして、すべてを話し出そうとした。が、次の瞬間、その目が大きく見開かれた。
「──」
鋭く息を呑み、そちらを見つめた。まるで凍りついたように身動き一つしない。
それを訝しく思った斉藤が、後ろをふり返った。かるく息を呑んだ。
「……土方さん」
確かに、そこにいるのは土方だった。
カフェの入り口付近に立っている。しかも、傍にはあの琴美を連れていた。ウェイターに案内され、こちらへ近づいてくる。思わず総司は目を伏せてしまった。
「……」
土方は総司に気づいたが、立ち止まることさえしなかった。かるく目礼し、傍を通り過ぎてゆく。むろん、斉藤の方を見ることさえなかった。
奥の方の席へ案内される彼らを、斉藤は呆然と見送っていた。が、我に返ると、思わず鋭い口調で問いかけた。
「あれは、いったい何なんだ」
「……」
「おれが総司といるのを見ても、顔色一つ変えないなんて。それも無視じゃない、おまえ相手にまるで他人相手みたいな目礼なんかして……」
「……他人なんですよ」
総司はぽつりと云った。
それに、え?と聞き返した斉藤に、小さく微笑んでみせた。
「だから、今のあの人にとって、ぼくは赤の他人なんです。ただの同居人、ハウスキーパーとしか思っていないから」
「いったい、何の話……」
「土方さんは……記憶を失ったんです」
静かな声で、総司は云った。
もう何度も自分に言い聞かせた事実だった。だが、それでも、引き裂かれるように胸が痛んだ。
「今の土方さんは、自分の名前も過去も仕事も何もかも覚えていません。もちろん、ぼくのことも……」
「……」
「ぼくは近藤さんの計らいで、近藤さんの甥という事にしてもらい、下宿先が見つかるまで土方さんの部屋に同居している大学生という事になっています。さっき一緒にいた女の人は琴美さんといって、土方さんの婚約者で……」
「ちょっと待てよ」
斉藤は手をあげ、総司の言葉を遮った。
しばらく眉根を寄せて考え込んでいたが、やがて、顔をあげると一つ一つ確かめるように訊ね始めた。
「じゃあ、何か。土方さんはあの事件で怪我をし、記憶まで失ってしまったのか? それも全部」
「そうです」
「おまえの事も覚えてなくて。それで、今、土方さんにとって、おまえは同居人という立場で、あんな女を傍において……」
「……そうです」
「そうですって。そんなの……許されるはずないだろっ!」
思わず、斉藤は声を荒げた。
いつも物静かな斉藤にしては珍しく激していた。怒りのあまりカッとなった。
自分がドイツに行ってる間に、とんでもない事になっていたのだ。研修なんかに行くんじゃなかったと深く悔やんだが、今更どうしようもない。
「おまえは土方さんの恋人だ。あれだけ苦しい想いをして、ようやく幸せになれたんだろうが。それが、こんな……」
「……」
「総司、おまえが本当の関係を告げない理由はわかっている」
斉藤は鳶色の瞳でまっすぐ総司を見つめながら、言葉をつづけた。
「土方さんが男の恋人にショックを受けるだろうとか、この際別れた方がいいんだとか、そんなふうに考えての事なんだろう? だが、総司、おまえはそれでいいのか? それで苦しくないのか?」
「……苦しい、です。でも……」
「だが、それでも云わないか。あんなに土方さんのことばかり優先して、いつもあの人のことばかり想ってるおまえだものな。そんなこと出来るはずがないって、おれもわかってるよ。けど……」
斉藤は辛そうに眉を顰めた。ぐっと拳を固めた。
「けど、おまえ、考えたことないのか? これで……もし、土方さんが記憶を取り戻したら、その時、一番苦しむのはあの人だということを」
「!」
はっとしたように総司は顔をあげた。
そんな事、一度も考えたことがなかったのだ。
だが、斉藤の云うとおりだった。記憶を取り戻した時、もし総司が彼と別れていたら? 他人として接した日々を覚えていたら? あの優しい彼のことだ、どれだけ傷つき苦しみ、自分を責めることか。
「だけど……でも……」
総司はゆるゆると首をふった。
「記憶……取り戻しそうにないもの。このまま、ずっとぼくのことも、幸せだったこともみんな忘れて……」
「それであんな女と一緒になる、か。冗談じゃない……!」
突然、斉藤は立ち上がった。
驚く総司を一瞥だけしてから、歩き出した。そのまま凄い勢いで店の奥へと向かってゆく。呆然と見ていた総司だったが、斉藤の意図に気づき、慌てて立ち上がった。
「……斉藤さん!」
追いつくと、斉藤はもう土方と琴美の席の前に立っていた。鋭い目で見下ろしている。
土方も訝しげに眉を顰め、斉藤を見上げた。
「……何か?」
それに、斉藤は嘆息した。腕を胸の前で組んだまま、傲然とした口調で云い捨てた。
「本当に何もかも忘れてしまった訳ですね」
「? きみも俺の知り合いか?」
「知り合いも知り合い、さんざん一緒になって悪さしまくった仲ですよ。しかも、現在はあなたの同僚だ」
「じゃあ、刑事仲間か」
「えぇ、斉藤はじめと云います。今更、自己紹介するのもおかしいですがね」
そう云った斉藤の瞳は、押さえ切れぬ怒りと侮蔑に満ちていた。ちらりと琴美を眺め、馬鹿にしきった様子で、くっと笑った。
傍で見ていた総司は思わず息を呑んだ。
こんな冷ややかな表情をうかべた斉藤を見たことがなかったのだ。彼は今、本当に心底怒っていた。静かな、だが、激しい怒りの炎を斉藤から感じた。
「……こんな女を相手にして」
斉藤は嘲りにみちた口調で云い放った。
「こんな事してる間にも、あなたが一番大切にしていたものが壊れてゆく事に気づいてないんですか」
「……どういう意味だ」
土方は眉を顰めた。
それに、斉藤は肩をすくめた。
「さぁ? その出来のいい頭で考えられたら如何です。もっとも、おれがちゃんと壊さないよう守りますけどね。自分のものとして大事に大切に」
「……」
「後で返せと云われても、絶対に返しませんから。その辺り、よくご了承願いますよ」
そう云って、斉藤は薄く笑ってみせた。
が、その鳶色の瞳は冷たかった。挑戦的に土方を見据えている。
「斉藤さん……」
たまらず、総司は斉藤の腕を引いた。それに斉藤は視線をうつし、表情を和らげた。
「……総司」
「もう、やめて下さい。ね……行きましょう?」
「あぁ……わかった」
頷き、総司の細い肩を抱いた。そのまま歩き出す。彼につれられて歩きながら、総司は思わず土方の方をふり返った。
(……土方さん……)
彼は僅かに目を伏せていた。
何か考え込むように、かるく唇を噛んで視線を落としている。傍から琴美が何を云っても聞こえていないようだった。
だが、それでも、彼は違うのだ。
何も覚えてない。あの頃の彼ではないのだ。
斉藤の腕に抱かれながら、総司はそっと吐息をもらした……。
結局、官舎の斉藤の部屋に戻ってきた。
同じ階に彼の部屋があると思うと少し複雑だが、それでも大きなトランクを引いて街をあちこち歩き回る訳にはいかなかったのだ。
「……悪かった」
斉藤は着替え、ソファに坐った総司に紅茶を入れてくれてから、ぽつりと云った。
目をあげた総司に、沈痛な表情でつづけた。
「おれも感情的になりすぎたな。おまえの前でけっこうな醜態をさらしてしまった」
「そんな……斉藤さんが悪いんじゃないんです」
そう──誰が悪い訳でもなかった。土方だって失いたくて記憶をなくした訳じゃない。すべてが、悪い方へ悪い方へ転がっていってしまった結果なのだ。
斉藤はソファに腰かけると、吐息をもらした。
しばらく黙っていたが、やがて、静かな声で云った。
「総司……話しておきたい事があるんだ」
「? はい」
「土方さんの生いたちについてなんだが……」
「……」
総司は黙ったまま、斉藤の顔を見つめた。それに、斉藤は僅かに唇を噛んだ。
「おれが話すこともないだろうと思っていた。いずれ、土方さんが自分で話すだろうと……だが、それでも、今の状況じゃ到底無理だ。おれからちゃんと話しておいた方がいいと思ったんだが……」
「今、聞いた方がいい話ですか」
「たぶん」
「じゃあ……聞きます」
静かに答えた総司を、斉藤は鳶色の瞳で見た。
いざ話すとなれば、どこから話せばいいのか。しばらく考え込んでいたが、意を決すると、ゆっくりした口調で話し始めた。
「まず、土方さんの姉さんなんだが……信子さんの姓は、佐藤だ。佐藤信子。あの佐藤グループの会長の奥方なんだ」
「佐藤グループって、あのおっきなグループ企業の?」
驚き、総司は思わず聞き返した。それに、斉藤は頷いた。
「あぁ。その佐藤グループは十年ぐらい前に、吸収合併をした。スキャンダルとトップの死で潰れる寸前だったため、もともと縁つづきだった佐藤家が動いた。その吸収合併されたグループが、土方家だ。土方さんはその本家の長男なんだ」
「……え……?」
「つまり、土方さんは今現在、土方家唯一の後継ぎなんだ。成人時に莫大な遺産を受け継いでいるし、いつでも佐藤グループから多数の企業を切り離し、そのトップに立つことも出来る。佐藤会長夫婦は土方さんを14の時から引き取り育てたので、かなり可愛がっているから、喜んで了承するだろうしな」
「……じゃあ、何? 土方さんは、会社の社長とかになれる立場なの? そうなるべき人だったの?」
「会社じゃない、グループ……いわゆる財閥のトップだ」
「……」
あまりに桁違いの話に、総司は呆然としてしまった。
だが、そう云えば思いあたる事もあったのだ。
ふと感じた育ちの良さ。お金に対する執着のなさ。どこか常識外れていた経済観念──
「もっとも、土方さんはそっちの道を選ぶ気は全くなかったらしい。おれと逢った頃、かなり荒れていたし……」
「荒れていた……?」
「そう、自暴自棄になって、何もかも投げやりになっていた。あんな過去があれば無理はない事だ。実を云うと、おれは土方家の遠縁にあたってて、そのせいで、あの頃流れていた噂も、あの事件のこともよく知っている。後で土方さん自身からも聞かされたし」
「斉藤さんが遠縁……」
「ま、相当離れてるんで、ほとんど他人に等しいけどな」
肩をすくめ、斉藤は紅茶のカップに口をつけた。それから、また話をつづけた。
「当時、土方家のトップは、義諄さんといって、まだ38才の若さだった」
「義諄さん……それが、土方さんのお父さんですね?」
「そうだ。で、義諄さんには子供が三人いて、一人目は結婚前、19才の時に生まれた信子さん。実は、彼女の認知は母親である佐藤家の令嬢が拒否したので、信子さん自身も佐藤家で育てられた。三人目は28才の時に、義諄さんの従兄妹が産んだ琴美──今日、あった女だな。こっちは認知されたが、すぐに母親が死んだので、土方さんの母である正妻の黛さんが育てたと聞いている」
「ちょっと待って!」
総司は思わず大声をあげていた。
さらりと斉藤は云ったが、今、とんでもない事を聞いた気がしたのだ。
あの琴美が、土方家の子供。義諄という人の子供。
だとしたら、母は違うが、土方と琴美は兄妹という事になるのではないか。
だが、琴美は許婚だとはっきり言い切った。生まれながら認められていたのだと。なのに、どうして──
「琴美と土方さんに、血の繋がりはない」
きっぱりと断言した斉藤に、総司は目を見開いた。
「どうして? だって、琴美さんはその義諄さんって人の子供なんでしょう? だったら……」
「土方さんの方が、義諄さんの子供じゃないんだ」
静かな声で、斉藤はつづけた。
「土方さんは、黛さんと、黛さんの兄である潤さんの間に生まれた子供だ。つまり……兄妹の近親相姦で生まれた子供なんだ」
「──」
総司は鋭く息を呑んだ。
愕然とした表情で、斉藤を見た。
(……あの土方さんが? 近親相姦で生まれた子供……?)
とても、すぐに信じられる話ではなかった。
呆然としている総司を前に、斉藤は目を伏せた。
「あの当時……かなり噂にもなっていたからな。義諄さんと結婚しながら、黛さんは兄である潤さんと愛しあいつづけてきたと。それに、三人は従兄妹同士なので、義諄さんと潤さんはよく似てたんだ。だから、黛さんは義諄さんと結婚したのだとまで云われていた。義諄さんと潤さんは兄弟のように育った仲だったが、黛さんのことで完全に決裂したらしい」
「それを……土方さんは知っていたの? 子供の時から……」
「知っていた。周囲の人間が口さがなく噂していたからな」
「そんな……酷い!」
思わず総司は両手で口をおおった。
可哀想でたまらなくなる。
幼い子供だった彼がどんなに傷ついていたか、苦しみ泣いていたか。
想像するだけで、胸が痛くなった。涙がこみあげ、あふれそうになった。
きつく唇を噛みしめた総司に、斉藤は吐息をもらした。
「もともと血族結婚をくり返してきた一族なんだ。そのため、皆、どこか容姿が似通っていて……。あの琴美って女も、土方さんの母親である黛さんに生き写しらしい。だから、黛さんも愛人の子供を手元において可愛がったんだろう」
「……」
「それでも、しばらくは平穏な日々がつづいていた。表面上は穏やかな家庭を演じ続けていたんだ。だが、土方さんが14才だったあるパーティの夜、すべては壊れた……」
斉藤は深くため息をつき、ソファに凭れかかった。
それを総司は見つめた。
正直な話、次から次へと明かされる彼の過去に、驚き戸惑うばかりだった。これ以上、聞きたくないとも思った。だが、それでは駄目なのだ。あの人のためにも、愛する男を少しでも理解するためにも、知らなければならない事実だった。
「……話して下さい。全部」
静かな声で総司は云った。
「総司……」
「もう何を聞いても驚かない。ぼくは今でもあの人を愛してるから。少しでも、あの人の力になりたいから。そんな悲惨な過去を……もし、あの人がまた思い出したら、その時、何も知らないぼくじゃ支えてあげれない。あの人のためになれない。だから……お願いです、全部話して下さい」
真剣な表情だった。
愛する男を守るため、戦い抜いてゆこうとする強い瞳だった。
それを斉藤は見返し、固く唇を引き結んだ。
しばらく黙っていたが、やがて、ソファに坐り直した。
そして──静かに話し出したのだった。
14才の少年だった土方の身におこった、悲劇を……。
[あとがき]
ようやく土方さんの過去を少し書けました。こういう理由で財力があった訳です。ふつうの企業とかにしようかと思ったのですが。より土方さんがお金の力を嫌悪し、無頓着になるには、この設定が必要でした。斉藤さん頑張りまくってますが、あくまでこれは土沖ですからねぇ(笑)。次からどんどん展開ジェットコースターになっていきます。もう、ばんばんいきましょう!って奴です(笑)。また読んでやって下さいね♪
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