……傍にいるよ
優しい春の日も
冷たい雨の日も
いつまでも傍にいる
おまえだけを愛してる
だから
もう……泣かないで
どんなに離れても
俺の愛は
俺の心は
愛するおまえのもとに
いつか必ず
かえってゆくのだから───
もがいても、もがいても。
水の中、落ちていった。沈んでいった。
まきついた白い腕が、少年を水の底へ引きずりこんでゆく。
必死に抗い、もがいて。
だが、狂ったように抱きしめる白い腕は、少年を離さなかった。
苦しくて思わず喘いだ瞬間、泡がごぼっと鳴った。呼吸ができず、頭の芯が鈍く痺れた。
その時、影が差した。
霞む視界の中、水のむこう。
一人の男が彼らを見下ろしていた。
静かに、そこに佇んで。
(助けて……さん……!)
思わずさし出した手がとられる事はなくて。
そればかりか、もがく少年を見下ろし、男は薄く嗤った。
満足そうに、愉しそうに。
(……さん……っ)
少年は絶望した。
やはり、そうだったのだ。あの噂は真実だったのだ。
嘘だと思いたかったのに。
そう──信じたかったのに……。
次の瞬間、躯中から力が抜けた。そして、自分を抱きしめる白い腕にすべてをまかせた。
あとはもう。
深い深い昏闇だけが、少年を静かに呑み込もうとしていた──……
頭上に五月の青空が広がっていた。
総司は講義の間に、外に出て空を見上げると、気持ちよさそうに深呼吸した。
清々しい午後だった。
講義へ向かうため歩き出しながら、総司はうきうきした気分で考えた。
久しぶりに土方が帰ってくるのだ。この三月にようやく同居した二人だったが、すれ違いは多かった。刑事という多忙な職にいる土方なのだから仕方ないと思うが、やはり少し淋しい。
だが、今日は帰ってきてくれるのだ。もっとも特捜がたってるため、明日からはまたすぐ泊り込みだと聞いていた。それでも、総司は嬉しかった。だい好きな彼に、少しでも逢えるのだから。
(今日は、何の晩御飯にしようかなぁ)
うきうきと考えながら、総司は歩いた。彼の好きな料理のレパートリーを頭の中でずらっと並べ、どれにしようかあれこれ考えるのが楽しい。まるで新婚夫婦みたいだと思うが、まだ同居して二ヶ月だった。だい好きな彼のためなら、何でもしてあげたかった。
総司は幸せだった。
こうして念願の大学に通え、そして、愛する人と一緒に暮らせて。
彼のワイシャツにアイロンをかけたり、いってらっしゃいのキスをしたり。おままごとのように、二人は新婚ごっこをしていたのかもしれない。だが、それでも二人は幸せだった。
愛する人とともに過ごす世界は、こんなにも輝いているのだ。
「……」
総司は頬に両手をあて、幸せそうに微笑んだ。
その時だった。
突然、誰かがスッと立ちふさがった。甘い香りが漂う。
「……?」
総司は顔をあげ、小首をかしげた。
目の前には、一人の娘が立っていた。柔らかくウェーブした栗色の髪を背中に流し、同じ栗色の瞳でまっすぐ総司を見つめている。居心地が悪くなるほど、まっすぐ向けてくる鋭い視線だった。
美しい娘だ。二十代前半か、小柄だが、まるでモデルのような均整のとれた体に、黒いレースが袖口についたワンピースを纏っていた。どこか妖しい小悪魔のような印象をあたえる娘だった。
「……あの……?」
総司はおずおずと問いかけた。
「どなたですか? ぼくに何か……」
「あなた、沖田総司さんでしょう?」
はっきりした口調で、娘は云った。訊ねるというより、念押しのような口調だった。
「そう……ですけど」
「歳三さんと同居してる、そうよね」
「──」
総司は思わず息を呑んだ。
まさか、ここで土方の名が出てくるとは思わなかったのだ。無意識のうちに、警戒の色が瞳に浮かんだのだろう。娘は総司を見つめ、くすっと笑った。
「よろしく、あたし、土方琴美というの」
「え、土方……?」
「歳三さんの血縁者よ。それから……」
琴美は綺麗にルージュをひいた唇に笑みをうかべた。
「彼の許婚なの」
「──」
一瞬、総司はその意味がわからなかった。
ぼんやりと、告げられた言葉をくり返した。
「……許婚……?」
「そう。生まれた時から、彼のお母さまが決められた許婚よ。あたしが24才になったら結婚する事になってたんだけど……」
くすくすと、琴美は愛らしく──だが、残酷に笑った。
「驚いちゃった。彼の部屋へ行ってみたら、あなたみたいな人と同居してるんだもの。ううん、同棲って云うべきかしら?」
「……っ」
「アブノーマルな関係なんでしょ? 歳三さんも趣味悪いわね」
琴美は冷ややかに呟き、あげた手でさらりと栗色の髪を背中へやった。侮蔑にみちた目で総司を見据えた。
「あなたみたいな少年と、そんな関係を結ぶなんて。ねぇ、異常な関係だと思わなかったの?」
「異常なって……そんな……」
口ごもった総司に、琴美は肩をすくめた。
「まぁ、そんな事どうでもいいわ。過去のことだもの」
そう言いきるなり、琴美はまっすぐ総司を見据えた。そして、ぴしゃりとした口調で命じた。
「さっさと別れて」
「!」
「あの人はね、あなたみたいなのと一緒にいる人じゃないのよ。本当なら刑事なんて仕事だって相応しくないのに、亡くなられたお母さまがご覧になったら、どんなに嘆かれるかしら」
「刑事に相応しくない? 亡くなられた……?」
そう呟いた総司に、琴美は呆れ返った。
「あなた、あの人のこと何も知らないのね。それで、よくつきあってるなんて云えるわ」
「……」
「もう、何でもいいから、さっさと別れて。鬱陶しいのよ。こっちも忙しいんだし」
「……」
「とにかく、言いたい事はそれだけ。わかった? 理解した? じゃあ、あたしも忙しいから行くわよ」
琴美は己のいい分だけをまくしたてると、さっさと踵を返した。長い栗色の髪を波うたせ、足早に歩み去ってゆく。
それを、総司は呆然と見送った。
まるで──突然、足元の地面が消えたような感覚だった。今まで拠り所にしていたものがすべて、脆くも壊れてゆくような……。
(……許婚……異常な関係……そんな……っ)
わかっていた。
彼との関係が、世間一般的に認められるものではない事ぐらい。
だが、それでも、不思議と総司の周囲の人々は皆、優しく受け入れてくれたのだ。誰もが、二人の恋を応援し、微笑んでくれた。だからなのか、総司もそれに馴れきってしまっていた。悪意を向けられる事に馴れていなかった。
総司はきつく唇を噛みしめた。
さんざん罵られたが、それでも、心は傷ついていなかった。確かにショックだったが、驚いたが、あんな悪意ぐらいで傷つくほど、総司はもう弱くなかったのだ。
だが──許婚の話だけは別だった。
生まれた時から決められていた許婚。そんな話、聞いたこともなかった。
土方から、一度も聞いたことがなかったのだ。
のろのろと総司は顔をあげ、青空を見上げた。
先ほどと何一つ変わることなく、綺麗に澄み渡った五月の空。
だが、もう同じものとは思えなかった……。
その日の夕食は妙に静かだった。
総司は昼間のことがあったので、どうしても塞ぎがちになっていたのだが、土方がそれを咎めることはなかった。
彼も僅かに目を伏せ、黙り込んだまま食事をつづけていた。
初め、総司は自分の想いばかりの囚われていたのだが、あまりにつづく沈黙にようやく気がついた。顔をあげてじっと彼を見つめても、何の反応も返らなかった。
機械的に手を動かしているようにしか見えなかった。その端正な顔には疲労の色が濃かった。
「……土方さん」
とうとう、総司は声をかけた。それにも答えは返らない。
たまらずもう一度声をかけると、土方の肩がびくっと震えた。驚いたような表情で顔をあげ、その黒い瞳で総司を見た。
「……何だ」
喉にからんだような声だった。
それに、総司は不安になった。
もしかして、今日の昼間のこと? あれは真実なの?
土方さんは……あの娘と結婚するの? ぼくと別れようとしている……?
そう思ったとたん、胸の奥がズキンッと痛くなった。思わず両手で胸あたりを掴み、俯いた。それに、土方は慌てて手をのばしてきた。
「総司? どうした……どこか具合でも悪いのか?」
「……っ」
何も答えられずにいると、土方は立ち上がり総司が坐っている側へ回った。傍らに跪き、心配そうに眉を顰めて総司の顔を覗きこんだ。
「大丈夫か……?」
「……土方さん」
思わず両手をのばし、彼の胸もとに縋りついた。その白いワイシャツに額を押しつけ、ぎゅっと目を閉じた。
「土方さん……ぼくのこと愛してる?」
「あたり前だろ」
驚き、土方は目を見開いた。それに、言葉をつづけた。
「じゃあ、ずっと一緒にいてくれる? ぼくを……ぼくを捨てたりしない……?」
「何を云ってるんだ!」
土方は叫び、総司の細い肩を掴んで引き起こそうとした。が、それに総司は抗い、激しく首をふって土方の躯にしがみついた。彼の胸もとに顔をうずめ、縋るように背中へ両手をまわした。
「お願い、放さないで! ぼくをずっと愛してるって、約束して……!」
「総司? 総司……いったい何があった。何で、そんなことを云うんだ」
「だって……土方さん、土方さんが……っ」
総司は喘いだ。
言葉がこぼれそうになる。
許婚って、どういうこと? あの琴美という人と結婚するの?
そんなの聞いてない、ぼく、あなたのこと何も知らない。知らなかったのに……!
「……っ」
だが、どうしても聞けなかった。怖くて、聞くことができなかった。
もし、そうだと言われたら? 本当のことだと、告げられたら?
そうなったら、本当に終わりになってしまう。すぐにもこの愛しい人と別れることになってしまうのだ。決定打を自分で打つ勇気などなかった。
総司は一つ息を吸うと、僅かに目を伏せた。
「……土方さんの態度が……何だか、いつもと違っていて……」
「……」
「それで、不安になって……ぼくのこと、嫌になったのかと……ごめんなさい……」
「……すまない」
土方は低い声で謝った。
それにはっと顔をあげた総司に、土方は静かな瞳をむけた。しばらく黙って見つめていたが、やがて、総司を抱えるようにして立ち上がらせると、リビングへ連れていった。ラグマットの上に坐らせ、自分もその前に腰を下ろした。
そっと総司の両手をとって握りしめると、土方は僅かに視線を落とした。
「……おまえに余計な不安をかけちまって、すまない。実は……おまえに話さなきゃいけねぇ事があるんだ」
総司は僅かに息を吸い込んだ。
が、それに気づくことなく、土方は静かに言葉をつづけた。
「この間、仕事の方でいろいろあってさ。その……容疑者が目の前で死んだんだ。追ってる最中に、近くのプールに落ちて……そこがまた深いプールで、溺れ死んでしまった。俺は助けることができなかったし……」
「……そう……だったんですか……」
「追跡方法に問題はなかったとされたが、それでもちょっとな……。で、またそれが原因で、その日から子供の時の夢を見るようになっちまって……」
「夢?」
思わず聞き返した総司に、土方は頷いた。その黒い瞳がどこか遠くを見つめた。
「そうだ……俺が14才の時の夢だ」
「いったい、どんな夢なんですか」
「水の夢だな……」
ぼんやりと、土方は呟いた。
「青い青い水……夜、水中照明……」
「それって、プールってこと? どこかの?」
「あぁ、それに……白い手……男……」
「白い手? 男?」
訝しげに訊ねた総司は、突然、土方の様子に気がついた。
いつのまにか、土方は前かがみになり、己を守るように両手で自分の体を抱きしめていたのだ。きつく目を閉じ、唇をわななかせている。その躯が震えていることに気づき、総司は驚いた。
「土方さん!」
慌てて両手をさしのべ、男の躯にふれた。寄りそい、背中に細い両腕をまわして、抱きすくめた。
「土方さん……土方さん……っ?」
「……っ……」
土方は喘ぎ、きつく唇を噛みしめた。何とか必死に平常心を取り戻そうとしているのがわかる。眉を顰め、荒く喘いでいた。彼の中で激しい感情と衝動がせめぎ合っているのだ。それが痛ましいほどだった。
総司は必死に土方の背中を撫でさすり、囁いた。
「土方さん、大丈夫……ぼくがいるよ。ぼくがここにいるから……」
「……総…司……?」
土方が薄く目を開いた。
そして、ぼんやり総司を見つめていたかと思うと、いきなり両手をのばした。総司の細い腰に両腕をまきつけ、抱きしめてくる。膝だちになった総司の腰あたりに頭を押しつけ、きつく目を閉じた。
「土方さん?」
「……頼むから……少しだけ……」
「え……?」
「もう少しだけ、こうさせていてくれ……っ」
掠れた声だった。
懇願するようなその声に、総司は思わず胸が痛くなった。
愛しくて愛しくてたまらなかった……。
たとえ、いつか愛されることがなくなっても。悲しい別れを突きつけられる日が来たとしても、それでも、自分はこの人を愛しているだろう。
この人の瞳が、自分を映さなくなっても。
この人が、ぼくを愛さなくなったとしても。それでも……
「……愛してる……」
優しい声で総司は囁いた。
土方の躯を柔らかく抱きすくめ、身をかがめた。愛しげにその頬を男の黒髪にすり寄せた。
「愛してる……愛してる、いつまでも……」
「総司……」
いったい何が互いの身に起こったのか。
それとも、この時の不安は、これから起こる悲劇への予感だったのか。
何も聞けず、何も聞かず。
二人は、互いの存在だけを確かめあうように、冷たい外界から互いを守りあうように、いつまでも抱きあっていた……。
その日、総司は官舎近くからバスに乗り込んだ。
成田空港へ向かうためだった。斉藤が研修で二ヶ月ほどドイツへ行くのだ。その見送りに行くつもりだった。
むろん、斉藤はいいと言っていたし、土方からも止められていた。だが、総司にとって斉藤は土方とはまた違う特別な存在だった。あの苦しかった頃、土方とわかりあえず泣いていた日々、自分の心に寄り添うようにして支えてくれたのは斉藤なのだ。かけがえのない大切な友人だった。
総司はバスを降りてから成田エクスプレスに乗るため、東京駅の雑踏の中を歩いた。平日なのだが、かなりの人出だ。総司は人とぶつからないよう気をつけながら、歩きつづけた。
が、その足が不意にとまった。思わず、ふり返ってしまう。
「……土方さん……?」
小さく呟いた。
見間違うはずがない。東京駅の雑踏の中、土方がいた。カフェの傍の壁に凭れるようにして立っている。一分の隙もないスーツ姿の彼は、遠目に見ても端正で水際だっていた。ちらちらと近くを通る女たちもふり返っていく。
総司は声をかけようと、歩き出した。が、次の瞬間、鋭く息を呑んだ。
「──」
待ち合わせでもしていたのか、土方の前に一人の娘が駆け寄ったのだ。
それは──あの琴美だった。
琴美は柔らかな栗色の髪を、背中に波打たせていた。今日は黒いアニエスbの姿だ。こうして改めて見ても、モデルばりの美しい娘だった。端正な容姿をもつ土方に寄りそう様は、誰が見ても似合いだった。
琴美は土方に何か話しかけ、彼もそれに頷いた。苦笑し、かるく手をのばして琴美の髪にふれる。その行為に、総司は大きく目を見開いた。胸の奥を錐で刺し貫かれたように鋭く痛んだ。
(いやだ! 土方さん……っ)
心を許した表情だった。くすくす笑いながら琴美は土方の腕に手をからめた。それを土方もとめようとしない。
優しく微笑み、琴美と一緒に歩き出した。腕を組んで遠ざかってゆく二人は、誰が見ても恋人同士のようだった。いや、そうなのだ。琴美が云ったことは本当だったのだ。
彼女は、確かに土方の許婚だった……。
「……」
しばらくの間、総司は呆然と立ちつくしていた。が、東京駅の雑踏の中だ。誰かにどんっとぶつかられ、よろめき膝をついてしまった。
膝が痛かった。が、それ以上に胸が痛かった。痛くて痛くて、張り裂けてしまいそうだった。
やがて、総司は立ち上がると、のろのろと歩き出した。頭の中がぼうっとして何も考えられなかった。考えたくなかった。
(……土方さん……土方さん……!)
くり返し思うのは、愛しい男の名だけだった。
それしか、もう──思えなかった。
機械的に歩き、切符を買い、総司は電車に乗り込んだ。
電車の中でも、総司はただぼんやりと外を見つめているだけだった。頭が考えることすべてを拒否していた。もう何も考えたくなかった。頬が燃えるように熱く、そのくせ、指さきだけが氷のように冷たかった。
成田空港に着くと、総司はそのまま三階の出発ロビーへ向かった。
そこに斉藤がいるはずだった。ただもう、斉藤に逢うことだけを考えたかった。
だが、その一方で怖くもあった。あの優しい友人はとても鋭い。総司に何かあったことなどすぐ見抜いてしまうだろうし、それに、総司も彼の前で気持ちを押さえられる自信がなかった。
そして、その予感はあたった。
「……何か、あったのか?」
斉藤は顔をあわせたとたん、心配そうに問いかけてきた。
どちらかと言えば、きつい印象をあたえるが、本当は心優しい男だった。鳶色の瞳が総司を見つめ、その手が柔らかく頬にふれた。
「総司……?」
そっと呼びかけられた瞬間、総司の箍が外れた。
いきなり斉藤の腕の中に飛びこむと、せきを切ったように泣き出したのだ。斉藤は驚き、慌てて総司の顔を覗きこんだ。
「総司? 総司……どうしたんだ、いったい」
「……っ……」
総司は涙をぽろぽろこぼし、斉藤の胸もとに抱きついた。それを斉藤は強く抱きしめた。両腕でその細い体をすっぽりと抱きすくめ、額や髪に唇を押しあてた。
それでも泣きじゃくる総司に、斉藤は胸が痛くなった。
いったい、何があったのか。こんなにも総司が泣くなど、土方のこと以外考えられなかった。だが、最近は同居もしてうまくいっていると聞いていたのに……。
「総司……」
そっと頬を手のひらで包んで、顔をあげさせた。頬にこぼれた涙を、優しく唇で拭ってやった。総司は黙って目を閉じ、されるがままになっている。
「……総司、何があったんだ」
静かな声で訊ねた。それに総司がぎゅっと斉藤の胸もとにまた縋りついた。
「斉藤さん……」
「全部話してみろ、どうせ土方さんのことなんだろう?」
「……」
「総司、時間がないんだ」
「……ごめん、なさい」
総司は顔をあげ、泣き濡れた瞳で斉藤を見つめた。
「今は……話せない。斉藤さんが帰ってきたら、まだ困ってたらその時に……」
「本当だな? それまでにも何かあったら必ず連絡するんだ」
「ドイツまで? そんなこと出来ませんよ」
「いいから、ちゃんと電話してくれ」
斉藤は研修先で泊まるホテル名と電話番号を書き記した名刺を、総司に手渡した。
むろん、そんなことでどうなるとも思っていなかった。ただ、心配でたまらなかったのだ。こんな総司を置いて日本を離れることなど……。
そう思った時、斉藤が乗る飛行機の搭乗を促すアナウンスがくり返された。
「いってらっしゃい、斉藤さん」
「あぁ、……総司」
「心配ばかりかけてごめんなさい。でも、大丈夫だから」
「……」
「研修頑張って下さいね。気をつけて」
「あぁ、おまえも……無理はするなよ。じゃあ、いってくる」
「いってらっしゃい」
総司は微笑み、手をふった。斉藤はまだ心配げな表情だったが、これ以上引き止める訳にはいかなかった。
それに、これは自分と彼との問題なのだ。きちんと自分で解決したかった。斉藤には迷惑をかけたくなかった。
斉藤は総司に手をふると、歩き出していった。その姿がゲートの向こうに消えてもしばらく見送っていたが、やがて、総司は踵を返した。
とりあえず帰ろうと思った。
そして、彼の帰りを待とうと思った。
今日はたぶん無理だろうが、今週中には帰ってくるはずだった。その時、きちんと話し合えばいいのだ。これからの事を。そう、これから、ぼくたちがどうするべきなのかを……。
帰りの電車の中、そんなふうに考えていた総司はふと気づいた。
……どうするべきか、なんて。
そんなのもうわかりきってるのに。未来は定められているのに……。
いつか必ず訪れるはずだった別れ、それが少し早まっただけだ。それだけのことなんだ。
総司は窓ガラスに頭を凭せかけた。そして、きつく目を閉じた。
結局、帰宅は夜遅くになってしまった。
官舎まで辿りついて扉をあけた瞬間、総司は複雑な表情になった。
玄関のたたきに、男の靴があったのだ。土方が帰宅している証拠だった。
いつもなら嬉しい彼の帰宅も複雑な気持ちだった。喜ぶ一方で、どんな顔で接すればいいのか、そして、最後通告を突きつけられるだろう不安と恐れ。そんな感情が複雑に絡みあい、総司は思わず躊躇った。
が、意を決すると、唇を固く引き結んだ。部屋にあがり、廊下を歩いてゆく。静かにリビングの扉を開けると、ダイニングの椅子に坐っていた土方が顔をあげた。なぜか、スーツの上着さえ脱いでいなかった。まっすぐ視線があった。
「……」
思わず立ち止まってしまった。
何故かわからないが、土方は怒っていたのだ。僅かに眉を顰め、こちらを見据えてくる黒い瞳には明らかな怒りの色があった。
「……帰ってたんですね」
総司は戸惑いながらも、小さく呟いた。リビングに入り、のろのろとコートを脱いだ。買ってきたものを冷蔵庫に仕舞っていく。そのすべてに男の鋭い視線を感じた。無言のまま、じっと見つめている。
それが酷く怖かった。彼の端正な顔は冷たいほど無表情で、あの辛かった頃を思い出させた。
「え…と、ご飯はまだですよね? すぐ何か作るから」
「……」
「それとも、着替えを取りに来ただけ? プレスしたワイシャツとかは……」
「……総司」
低い声でさえぎられた。それに、思わずびくんっと肩を震わせた。怯えた表情で土方の方を見てしまう。そんな総司に、土方は冷ややかに片頬を歪めた。
「おまえ、何を怯えているんだ」
「……え、だって……」
「だって、何だ。怯えなきゃならねぇような、やましい事があるのか?」
「や、やましい事なんか……っ」
慌てて首をふった総司を、土方は黒い瞳でじっと見つめた。そして、ふっと笑うと、テーブルの上に肘をついた。ゆっくりした口調で問いかけた。
「今日……おまえ、どこに行っていた」
「え。あの……」
「どこへ行っていた? 正直に答えろ」
「……ごめんなさい。空港に……斉藤さんの見送りに行ってました」
総司は小さな声で謝った。
とめられてはいたのだ。土方に駄目だと云われていたのだ。
本当は大事な講義があった。が、それを休んででも斉藤を見送ってあげたかったのだが、土方には止められていたのだ。二重の意味で。講義を休むなという意味と、そんなにも斉藤が大事かという意味あいから。
土方はきっと唇を固く引き結んだ。
「やめろと云っただろ」
「ごめんなさい。でも、斉藤さんは大切な友人だから……」
「……友人、ね」
くすっと土方は笑った。それはどこか暗い翳りのある嗤いだった。
総司は不安そうに彼を見てしまった。まるで、いつもの彼と違うのだ。
「……土方…さん……?」
「俺だって、こんなこと云いたくねぇさ」
土方は鬱陶しげに、前髪を片手でかきあげた。目を細め、総司を見つめた。
「いや、見送りに行ったぐらいならまだ許せる。だが、総司……これは何なんだ」
ばさっと音が鳴った。
土方が無造作に一つの茶封筒をテーブルの上に放り投げたのだ。落ちた拍子に、中身が出てばら撒かれた。
それは写真だった。十数枚に及ぶ写真。
明らかに隠し撮りとわかる、それは──
「!」
総司は大きく目を見開いた。
どれも、今日の空港での写真だった。斉藤と総司が抱きあってる写真ばかりだ。
総司が斉藤の胸に顔をうずめて泣く写真。
自分から抱きついていく姿。
斉藤が総司の頬を手のひらで包みこみ、頬にキスしている。
どう見ても、それは逢引だった。恋人たちの別れの光景だった……。
「土方さん……これ……っ」
「さっき帰ってきたら、ポストに入っていた」
あっさり答えた土方は一枚の写真を手にとり、眺めた。唇を冷ややかに歪める。
「よく撮れてるじゃねぇか。なぁ?」
「土方さん、ぼくは……っ」
「浮気なんかしてませんってか。あぁ、そうだ。おまえはそんな事してねぇよな」
くっくっと土方は喉を鳴らして笑った。が、その黒い瞳は冷たかった。ぞっとするほど酷薄な表情をうかべ、総司を見つめていた。
「だが、この写真はおまえが斉藤と抱きあって、キスまでされてるものだ。生憎……こんな恋人の写真を見せられても平気でいられる程、俺は人間できてねぇんだよ!」
こみ上げる感情に、土方はとうとう声を荒げた。写真を放り出し、腕を組んだ。
それに、総司はきつく唇を噛みしめた。
説明しないと、ちゃんと誤解をとかないと駄目だと思った。
だが、その一方で、自分でも理解できない感情がこみ上げたのだ。
──じゃあ、そうしてぼくを責めるあなたは何なの?
ぼくに秘密で、あの娘と逢って、しかも彼女はあなたの婚約者で、いずれぼくを捨てて結婚するつもりで。
なのに、そんなあなたがぼくを責めるの? ぼくを責められるの!?
「……あなたには関係ないじゃない」
思わず言葉が口を突いて出ていた。
自分でも思ってもいない言葉だった。だが、土方にも聞こえたらしい。
土方の表情が変わった。一瞬、驚いたように総司を見た後、ゆっくりとその目が細められた。
低い声が聞き返した。
「……何だと」
「……」
「今、何と云った? 答えろ、総司」
「だから……っ」
総司はぎゅっと両手を握りしめた。そして、叫んだ。
「だから……あなたには関係ない!」
「総司っ!」
「だって、そうでしょう? ぼくだって一人の人間だもの。あなたの所有物じゃないし、色んなことをする自由だってあるんだから。何もかも、あなたの思い通りになるなんて思わないで……!」
「総司、おまえ……っ」
思わず土方は立ち上がった。大股に部屋を横切ると、手をのばして総司の腕を乱暴に掴んだ。ぐいっと引き寄せた。
「よくもそんな事が云えるな。色んなことをする自由だと? なら、おまえは浮気するのも自由だと言い切るのか。他の男の腕に抱かれるのも自分の自由だと……!」
「だから、浮気じゃないって言ってるでしょう? ただ、斉藤さんと抱きあっただけ、頬にキスされただけ。それのどこが悪いの? 絶対、ぼくは悪くないんだから……っ」
そう叫びながら、でも、総司は思っていた。
本当は悪いのだと。もし逆の立場なら、自分だって怒っただろう。傷つき、悲しんだだろう。
なのに、どうして? どうして、こんなふうにしか云えないの?
ごめんなさいと云えば、理由を話せば、きっと彼はわかってくれるのに。なのに、どうして、ぼくは……。
自分でもコントロールできない激しく渦巻く感情に、息がつまりそうだった。頭の奥がつんと痛くなった。
「……」
硬い表情で顔をそむけた総司に、土方はきつく唇を噛みしめた。
しばらく少年を見つめたまま、じっと身動き一つしなかった。が、やがて、ゆっくりと手の力を緩めた。おずおずと見上げた総司を、酷く冷ややかな瞳が見下ろした。
「……わかった」
その一言だけ低く答えると、土方は手を離した。
すっと踵を返すと、そのままリビングを横切り部屋を出ていった。廊下をゆく足音が聞こえ、しばらくすると、玄関のドアの開閉音が響いた。
「……」
それをぼんやり聞いていた総司は、不意に鋭く息を呑んだ。
突然、強い不安に襲われたのだ。胸の奥が重く、息さえできなかった。
彼が帰ってこない気がしたのだ。
自分のもとへも、この部屋へも。
もう二度と、彼は帰ってこない──?
「……土方さん……!」
思わず総司は走り出していた。廊下を駆け抜け、靴に足を突っ込むと急いでドアを開けた。廊下に飛び出したが、そこにはもう誰の姿もない。手すりから見下ろすと、ちょうど土方の車が駐車場から道路へ滑り出していくところだった。
「土方さん……!」
もちろん、その声は彼にとどかない。だが、それでも叫ばずにはいられなかった。
怖くて怖くてたまらなかった。
不安でたまらなかった。
総司の視界の中、車は夜の闇へと消えていった。僅かに見えたテールランプもやがて角を曲がり、消えてしまう。
「……土方さん……土方さん、ごめんなさい……っ」
その場に坐りこみ、総司はすすり泣いた。
何度も何度も、謝った。
だが、その言葉が彼にとどくはずもなく───
そして。
数日後、総司の予感は現実となった……。
[あとがき]
ようやく本編Uスタート致しました。とにかくもう、番外編とは全く違うシリアスです。この後どんどん修羅場になっていきますので。次は、というか、メインは同人お約束の展開です。一度使ってみたかったのさ〜。斉藤さんと総司の空港のシーンは、おわかりでしょうが、あのキリリクの「祈り」のシーンです。つづき頑張って書きますので、また読んでやって下さいね♪
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