その喧嘩は、一つの出会いが原因だった。
「……え?」
土方はデスクの上の書類にペンを走らせながら、眉を顰めた。
午後5時過ぎ。
先程おこった事件のため、このセクションもざわめいている。だが、彼自身が担当すべき事ではないため、無事間にあいそうだと安堵していたのだが……。
「キャンセルしたい?」
そう聞き返し、土方は目をあげた。携帯電話を耳にあてている。
相手は、むろんのこと総司だった。だが、それを知っているのか知らないのか、斉藤がすぐ傍に立って書類をさし出して来たのだ。
仕方なく受け取ったものの、到底納得できる内容ではなく、そのまま突き返してやる。
諦めたように斉藤が肩をすくめて立ち去るのを見送り、土方は会話をつづけた。
「キャンセルって、どういう事だ。急用でもできたのか」
そう訊ねた土方に、電話の向うで総司は『……あのね』と口ごもった。
『ごめんなさい。急用って云えば、急用なんだけど』
「何だ」
『その、さっきばったりお友達と会っちゃって……すっごく久し振りの』
「……」
『それで、久し振りだから色々話したい事があって、それで、今日逢うの日延べして貰えないかなぁと思ったのです。……だめ?』
総司が可愛らしく小首をかしげてる様が目にみえるようで、土方は思わずため息をついてしまった。
だが、怒る気にはなれない。
以前の彼なら、自分より友人を優先するのかと怒り、そんな事許さないとばかりに自分の気持ちを押しつけていただろうが、今は違っていた。
むろん、臆病になっているのではない。
ただ……総司の意志を、気持ちを、大事にしたいと思うのだ。
総司も、もう大人だった。
なら、自分の都合ばかり押しつける訳にはいかないし、総司には総司のつきあいも都合もあるだろう。
それは勿論、デートをキャンセルされるのは面白いはずがなかったが、久々に逢った友人と話したいという気持ちも理解できた。
総司だって、彼に悪いと思っているからこそ、こうして申し訳なさそうに電話してきているのだ。
「……わかったよ」
土方は苦笑し、なるべく優しい声で答えた。
「そういう事情じゃ仕方ないな」
『いいの?』
「あぁ。久しぶりに逢った友達なんだろう? ゆっくり楽しんでおいで」
そう云った土方の言葉に、総司は心底ほっとしたようだった。ごめんなさいを何度もくり返し、電話を切ろうとする。
その寸前、手元の書類に目を落しながら、土方は何気なく訊ねた。
「で、その友達ってのは」
『え?』
「高校時代のクラスメイトとかか?」
『ううん、違います。んーと……土方さん、覚えてるかなぁ』
「?」
『伊庭先生です。ほら、自動車教習所の』
「!」
弾かれたように、土方は顔をあげた。一瞬、目を見開き、唖然としてしまう。
だが、すぐ次の瞬間、叫んだ。
「覚えてるも何も……おまえ、何考えているんだ!」
『えっ? 何って?』
心底不思議そうに訊ねてくる総司の天然ぶりに、思わずため息がもれた。
いったい、何を考えているのか。
高校の友人などであればいい。大学の友達であったとしても、それでも。
だが、それがあの伊庭となると、話は全く違ってくるのだ。
伊庭が教習所で総司を教えていた時から、その手の感情をもっているのは確かな事だった。だが、それを指摘した土方に、総司は全く信じてないようで笑って流してしまったのだ。
それでも、総司はわかっているはずなのだ。土方が伊庭との関係に嫉妬している事を。
この場合、可愛い彼女から友達との約束を優先するからとデートをキャンセルされ、挙げ句、その友達というのが以前から彼女に片思いしている恋仇だとわかったようなものだった。
そんな事をされて、平気でいられる男がいるだろうか。
「総司、おまえは」
土方は怒鳴りつけたい気持ちを、必死になって抑えつけた。だが、自然と、その声音は低く剣呑なものになってしまう。
「俺との約束よりも、伊庭の方を優先するって事なのか」
『優先するって……でも』
総司は口ごもった。
『土方さんだって、さっき許してくれたじゃない』
「それは、伊庭だと知らなかったからだ」
『わからない。伊庭先生だったら、どうして駄目になっちゃうの?』
「何でわからないのか、こっちの方が聞きてぇよ」
『だから、何で? 伊庭先生でも、高校時代の友達でも、同じでしょう?』
「同じなはずがあるか。あいつはおまえに気があるんだぞ」
『そんな事あるはずないでしょう? ぼくは男ですよ』
「じゃあ、おまえを恋人としている俺は何なんだよ」
『……う、それは』
「見ろ、反論できねぇだろうが」
そう云ってから、土方は片手でくしゃりと前髪をかきあげた。
「とにかく、俺との約束を反故にしてまで、伊庭と会おうとするおまえの気持ちがわからねぇよ。約束はこっちの方が先だろ」
『だから、ごめんなさいって。それに、一度は許してくれたのに』
「……」
あくまで彼とのデートをキャンセルし、伊庭とのつきあいを優先させようとする総司に、土方はきつく唇を噛みしめた。
腹がたって仕方がないが、今ここで怒鳴りつけてもどうしようもない。
総司は、あぁ見えてもかなり強気だし意地っぱりなのだ。一度そうと決めたのなら、彼が何を云おうと変える事はないだろう。
なら、あれこれ云うのも馬鹿馬鹿しく、このまま話を打ち切るべきだと思った。
「わかったよ」
土方は低い声で云った。
「俺が何を云っても、おまえは決めちまったって訳だ。なら、仕方がねぇ」
『土方さん……』
「おまえの好きにしな」
そう云い切ると、土方はさっさと通話を切り、携帯電話をデスクの上に放り出した。
だが、それでも不愉快で眉を顰めていると、斉藤が顔を覗かせる。
「どうしました、喧嘩ですか」
「……タイミングいいな、おまえ」
「声聞こえてましたから」
悪びれる様子もなく云ってくる斉藤に肩をすくめ、土方は云った。
「デートのキャンセルだ。それも、あの教習所の教官に会ったからっていう理由でな」
「それは……」
斉藤は目を見開いた。一瞬、絶句してから、気の毒そうに土方を見やる。
「総司がそんな事をするなんて、ちょっと驚きですね。いつも、こっちが苛立つぐらいあなたの事を優先しているのに」
「それだけ、伊庭って奴の事が好きなんだろう」
「どっちにしろ、よく許可しましたね。オレだったら多分許しませんよ」
「俺だって許したくねぇが、あいつは意地っぱりだからな。云っても無駄なだけなのさ」
土方はため息まじりに呟くと、再び携帯電話を取り上げた。そして、総司が行きたいと云っていたレストランや、店の予約を取り消してゆく。
その事からも、彼がどれだけ総司とのデートを楽しみに大切に思っていたか、わかろうというものだ。なのに。
(総司も鈍感だからなぁ……)
一波乱ありそうな予感を覚えながら、斉藤はため息をついたのだった。
「そりゃ、総司が悪いんじゃないの?」
あっさり云いきった藤堂に、総司は頬をふくらませた。
場所は、大学の生協食堂だ。今日は講義が少ない日のため、学生の姿もまばらだった。そのため、二人は窓際のいい席に陣取り、あれこれ喋りながら食事をつづけている。
先日の事が気になって仕方なかった総司は、やっぱりいつもどおり藤堂に相談をもちかけたのだった。
久しぶりに会った伊庭と楽しい一時を過ごしはしたが、その間もずっと、胸の奥の方がちくりちくりと痛んでいた。
それが気になって仕方なく、あの時の彼の声音が思い出されたからこそ、話したのだが───
藤堂はAランチのエビフライをぱくっと食べてから、言葉をつづけた。
「そんな事されたら、土方さんが怒って当然だよ」
「だって!」
総司はぐっと箸を握りしめた。
「一度は許してくれたんだよ。いいよって云ってくれたのに、何で伊庭先生だとわかったとたんに怒りだすわけ? そんなの不公平じゃない」
「不公平も何も、総司は、ほんと男心ってのがわかってないなぁ。土方さんもよくそれで我慢して引き下がったものだよ」
「引き下がるというか、好きにしろって云われた」
「だから、それで済んだんだろ? 昔の土方さんなら、その場へ来て総司を連れ去っていたと思うぜ?」
総司は黙ったまま、ぷうっとふくれて俯いてしまった。
「……総司、さぁ」
そんな総司を、藤堂は呆れたように眺めた。
「土方さんに甘えすぎてない?」
「え」
「土方さんはおまえに甘甘で、その上、再会してから、オレが見てもびっくりするぐらい度量広くなって、けっこう何でも許してくれるし。すっごく大人の男だよね。けど、だからって、ちょっと甘えすぎている気がするんだ。大人だってやきもち焼くし、焼いて当然だろ? 怒る事もあるだろうし。けど、おまえは甘えまくって、土方さんの限界ためしまくってる気がするんだよ」
「でも、一度は許してくれたんだよ」
藤堂はため息をつき、頬杖をついた。ちょっと考えてから、あらたまった様子で云ってくる。
「じゃあ、聞くけどさ」
「うん」
「土方さんがおまえとのデートを、女友達と会うからってキャンセルしてきたら、怒らないで、いいですよってにこやかに云える? やきもち焼かない?」
「そ、れは、無理だと思うけど……」
「ほら」
「でも!」
総司は大きな瞳で藤堂を見つめ、叫んだ。
「女の人と会うからでしょ? ぼくは、それが土方さんの男友達だったら、何も云わないよ」
「それは恋愛対象になりえないと思っているからだろ。じゃあ、その男友達が、おまえみたいに可愛い感じの高校生だったりしたら? 誰が見てもアイドル顔負けの美少年だったら? しかも、その子がずっと土方さんに憧れ恋してきたと知っていたら?」
「そんなの……だめ! 我慢できないよ。だって、ぼくより、その子を選んだって事になるんでしょ? そんなの……っ」
云いかけて、総司はハッと我に返った。大きく目を見開く。
「ぼく……」
口ごもってしまった総司を、藤堂は眺めた。
「土方さんやおまえの場合、異性でも同性でも視点一緒なんだよ。友達にもなりうるし、恋愛対象にもなりうる。おまえが我慢できないって事は、土方さんだって我慢できなくて当然なんだ」
「でも……伊庭先生は別に……」
「あのさ。おまえがそうじゃないって思いこみたい気持ちはわかるけど、伊庭先生はおまえに気があるし、それを隠そうともしてないよ。恋敵である事が誰の目にも明らかだから、土方さんも怒ったんじゃないの?」
「平助……」
総司が震える声で、友人の名を呼んだ。それから、のろのろと両手で唇をおさえた。
小さな顔が青ざめている。
「どうしよう……平助、ぼく、どうしよう」
「総司」
「ぼく、土方さんに酷い事した。あの人を傷つけた。自分でされたら嫌なことを土方さんにするなんて……自分の気持ちばかり考えて、あの人が傍にいていつも優しく笑ってくれるのがあたり前みたいに思って……いつのまにか、土方さんの気持ちを考えなくなって……」
「まぁ、それは土方さんも悪いと思うけどね、ちょっと甘やかしすぎだから。けど」
藤堂は総司の手をとり、ぽんぽんと叩いた。
「ふたりが一緒にいる事はあたり前じゃないんだよ。お互いが努力してこその結果だろう? オレだって、いっちゃんと一緒にいてすげぇ楽しいけど、でも、それをあたり前だとは思ってないよ。こんな広い世界の中で、たった一人のだい好きな相手とめぐり逢えた、それこそが奇跡みたいなものなんだから」
「うん」
こくりと頷いた総司に、藤堂は明るく笑ってみせた。
「ほら、早く電話電話。ごめんって謝っちゃえば、土方さんの事だからすぐ許してくれるよ」
「うん……」
少し不安だったが、総司はおずおずと携帯電話を取り出した。
だが、直接彼の声を聞くのは、まだ怖い気がする。怒っているだろう彼の冷たい声音は、総司の心臓を凍りつかせてしまいそうだったから。
総司はしばらく躊躇っていたが、やがて、メールをおくった。
お話があるので、会って貰えませんか? というメールを。
何しろ、喧嘩中だ。すぐには返事は貰えないだろうと思っていた総司の予想を裏切り、速攻で返事はかえってきた。
だが、その内容に目を瞠ってしまう。
今日の昼過ぎから、出張の予定。
当分、会えない。
たった二行だけの、そっけないメール。
その言葉自体が、彼の怒りと冷ややかな拒絶を表わしているようで。
「……」
息をつめ、それを見つめた。
(本気で怒ってるんだ、土方さん……)
藤堂が「あーあ」と困ったように眺める中、総司は携帯電話を仕舞い込むと、テーブルに突っ伏してしまったのだった。
夕暮れ時。
仕事帰りの男たちが大勢とおる中、いかにも大学生らしい可愛らしい少年が立っていればよく目立つ。
それも、お固い警視庁の前であるのなら、尚のことだ。
(あぁ、疲れたなぁ……って、え?)
仕事の疲労を感じながらも、今日はでも早いから飲みにでも行こうかなどと考えつつ本庁から出てきた斉藤は、そこに総司の姿を見たとたん、尚更どっと疲労が増した気がした。
何しろ、先日の電話、土方とのやり取り、その直後に決まった出張から、いやぁな予感がしていたからだ。そして、いつものごとく自分が巻き込まれる予感も。
そして、それはきっぱりすっぱり的中なのだった。
「斉藤さん!」
案の定、彼の姿を見たとたん駆け寄ってくる総司に、回れ右したい気分になりながらも斉藤は男らしく踏みとどまった。やはり何だかんだ云っても、惚れた相手だ。長年にわたって、報われないとはいえ片思いしている相手だ。邪険にできるはずもない。
「や、やあ。どうしたんだ」
斉藤はぎこちないながらも、笑ってみせた。
「こんな所まで来るなんて、何かあったのか?」
そう訊ねた斉藤を、総司は大きな瞳でじいっと見つめた。それから、云った。
「……知っているんでしょ、斉藤さん」
「な、何が」
「ぼくと土方さんが喧嘩の真っ最中だって事」
「えーと、いや」
「嘘つかないで。ばればれなんだから」
つんっと桜色の唇をとがらせた総司は、云った。
「吐いて」
「は?」
「土方さんがどこへ出張したのか、ホテルの部屋番号まで全部吐いて」
「え、ええっ」
斉藤は思わず後ずさってしまった。
そりゃ、総司は土方の身内同様というか、奥さんも同然なのだから、云っても構わないかもしれなかった。
だが、今回の出張は色々あるのだ。色々あって、総司がこう聞いてきた以上、その出張先へ直接乗り込む気まんまんでいるとなれば、とんでもなくまずい気が……。
「それは、その出来ないよ」
「どうしてですか」
「だから、それは守秘義務だから」
「何で、土方さんの部屋番号が守秘義務になるの? ぼくは土方さんの住所も電話番号も全部知っているんだから」
「だから、その、仕事上の事だからさ」
つめよる総司に、斉藤は必死になって抗弁した。
ここは、本庁の近くだ。大勢の勤め人が行き過ぎてゆく。その誰もが、可愛らしい女の子(?)につめよられ、冷や汗かきまくってる斉藤を、気の毒そうに見ていった。
おそらく、浮気の証拠でも突きつけられ焦っているとでも思われたのだろう。
その方が余程マシだと思いながら、斉藤は言葉をつづけた。
「とにかく、これは土方さんの仕事に関係する事だから。危険だし、総司は知らなくていいんだよ」
「危険って……いったいどこへ行ったの? まさか、国外?」
「いや、国内だよ」
「すごく遠いの? 九州とか?」
「そこまでは行かないよ」
「飛行機で?」
「いや」
「ふうん。新幹線ってことは関西……わかった! サミット近いものね、京都でしょ」
「…………」
あっさり誘導尋問されてしまい、斉藤はその場で頭を抱え込みたくなった。
これでは、どっちが刑事かわからないではないか!
「斉藤さん」
総司はにこにこ笑いながら、斉藤の顔を覗き込んだ。
「ここまで云っちゃったんだから、もう全部吐いても同じでしょ」
「吐くって……おまえ」
「ほらほら、云っちゃって? どこのホテルか、部屋番号もついでにね♪」
「……」
斉藤はのろのろと顔をあげ、総司を見つめた。
それに、総司は上目遣いに見つめ、甘えるような表情でこちらを見上げている。ちょっと潤んだような瞳に、長い睫毛。微かに紅潮したすべすべのほっぺに、キスを求めるようにかるく開かれたベビーピンクの小さな唇。
そんじょそこらのアイドル顔負けの可愛さキュートさで、土方の気苦労が忍ばれるというものだったが、だが、しかし。ここでぐらついては、男がすたるというもの。
勇気をふり絞ってきっぱり断ろうとした斉藤は、自分の腕にそっとかけられた細い指さきに、どきりと心臓をはねあがらせた。
おそるおそる見れば、総司が斉藤のスーツの袖口を指さきで縋るように掴み、うるうる瞳で彼を見上げている。
「…………」
哀しいかな、惚れた相手のおねだりに勝てるはずがないのだ。
しかも、涙をうかべられちゃあ、ノックアウトだ。
所詮、男のさがというもの。
───結局。
斉藤が、ホテルの名から住所、電話番号、果ては土方が泊まっている部屋番号と日程まで、微に入り細にいりあらいざらい吐いてしまったのは、それから僅か3秒後の事だった……。
[あとがき]
本気にされる方はおられないと思いますが、念のため。あくまで、フィクションです。京都でサミットもフィクションです。
