まずは、発声練習をしてみましょう。
 鏡の前で、はいどうぞ!


「あーいーうーえーおー」


 出来ましたか?

 いやいや、出来てあたり前とは思わずに。
 現実に、たった今。
 これが出来ずに困りきっている男が、ここに一人……。








(……困った)


 土方はもうかれこれ20分も鏡の前に立ちつくしていた。
 自宅たる官舎の一室、その洗面所だ。
 毎日、総司がせっせと磨いているため、ぴかぴかの鏡。
 それに、白いカッターシャツにネクタイを締め、スーツのボトムを身につけた長身の男が映っていた。
 先程整えた黒髪は艶やかに、じっと鏡を見つめる黒い瞳。
 男にしては長い睫毛も、形のよい唇も。
 何もかもモデルばりの端正さで、すれ違う女が皆ふり返ること確実の男ぶりだ。
 だが、今、その容姿抜群、頭の切れもよくて行動力もあって、警視庁キャリア組刑事なーんてお仕事をこなしている彼は、朝の忙しいこの一時に鏡の前、眉間に深い皺を刻んで立ちつくしていた。
 よくよく見れば、常の彼とは違う箇所もある。
 頬が僅かに上気しているし、いつも鋭い光をうかべている瞳はどこか熱っぽく潤んでいた。
 動作もどことなく気怠げだ。
 そう、彼はきっぱりすっぱり風邪をひいていた。
 熱も測ってないが、けっこうあるのだろう。
 だったらお仕事を休めばいいのだが、今日はとても重要な捜査会議がある上に、彼は異様なほど責任感が強い。
 体調管理は社会人の勤めと常々思っている事もあって、休む気などさらさらなかった。
 では、何で困っているかと云えば。
「……」
 土方は、はぁっとため息をつくと、のろのろとした足取りで洗面所を出た。リビングに放り出してあったスーツの上着をとりあげる。
 それに、キッチンで朝食の用意をしていた総司が顔をあげた。
 テーブルの上を見れば、いつもの朝食が二人分用意されてある。
「……」
 だが、土方は無言で顔をそむけた。というか、食欲など全くなかった。



「土方さん」
 小さな声で、総司が云った。
 それに、ふり返って視線を向けると、何故だか、総司は今にも泣き出しそうな顔になった。大きな瞳はもう潤んでいる。
 土方はそれでようやく気がついた。
 風邪をひいている事を悟られまいとするあまり、常より無表情になっているのだろう。それが、総司にはまだ怒っているのだと取れたに違いあるまい。
 もっとも、まだ怒っていることは確かなのだが。
 むろん、当然ながら理由はあるし、今回ばかりは土方の方から折れる気はさらさらない。
 だが、無視する気は全くなかった。そこまで意地悪するつもりもなかったのだ。
 しかし。


(……困ったな)


 土方は歩み寄ってきた総司を見下ろし、考えた。
 声が出せない事を告げれば、総司はひどく心配するだろうし、熱だ医者だと大騒ぎになるだろう。仕事にも行かせて貰えないに決まっている。
 かと云ってこのままでは、喧嘩続行だ。
 どうしたものかと考えた土方は、だが、やはり熱で頭が朦朧としているのだろう。
 あれこれ考えようとしてみても、一向に考えがまとまらなかった。
 仕方なく、時間が来たことだし仕事へ向かう事にする。
「……あ」
 踵を返した土方に、総司は小さく声をあげた。慌てて追いかけてくる。
「あの、あの……朝ご飯は?」
「……」
「食べないの、食べたく……ないの?」
「……」
 土方は一瞬だけ、総司をふり返った。だが、結局は無言のまま背をむける。
 コートに腕を通してから靴を履き、鞄を手にした。当然のことながら「いってらっしゃい」「いってきます」のキスもなく、玄関から出てゆく。
 むろん、それは総司に風邪をうつさないためだった。
 喧嘩をしていても、結局はいつも総司を一番に考えてしまう男なのだ。


(心配かけたくねぇし、とにかく風邪を治すのが先決だ)
(今日は帰ったら、こっちも云い過ぎたと謝って、仲直りして……)


 ぼーっとしている頭の中でつらつらとそんな事を考えつつ、土方はエレベーターへ向かった。扉が開き、中へ入ったとたん、壁に凭れかかってしまう。
 はぁぁっと吐息をもらし、階数の表示板を見あげた。


(体、だるいなぁ……)


 何だかエレベーターが下がるにつれ、熱の方は、どんどん上がってきている気がした……。








 こうなった原因のすべては、昨夜の出来事にあったのである。



 昨夜、土方が帰宅してみると、総司はまだ帰っていなかった。
 しんと静まり返った部屋。腕時計を見れば、夜の10時を回っている。
 土方は僅かに眉を顰めたが、今日帰宅する予定ではなかったのだし、総司には総司の都合があるだろうと、さっさとシャワーをあびて普段着に着替えた。
 濡れた黒髪をタオルで拭いていると、玄関の方でガチャガチャと音が鳴った。
 それに総司が帰ってきたのかと出ていった土方は、唖然となった。


「──えぇー、大丈夫ですよぉ」
「駄目だってば。ほら、支えてあげなくちゃ、ふらふらしてるでしょ」
「でも、一人でちゃんと歩けますからぁ」


 舌ったらずな声で喋っているのは、総司だ。どこからどう見てもかなり酔っぱらっている。
 だが、問題はそこではなかった。
 総司は一人ではなかったのだ!
 いかにも場馴れした感じの年上美女とこれ以上ないぐらい体をひっつけ、土方から見れば「いい加減にしろっ」と怒鳴りたくなるほど、べたべたいちゃつきまくっている。
 廊下に立ちつくしたまま、土方が無言でそれを見据えていると、女の方が彼に気がついた。ちょっとびっくりした顔になったが、嫣然と笑ってみせる。
「あらぁ、あなた、この子のお兄さん?」
「……」
「こんばんは。あのね、弟さんが酔っぱらったから送って来たんだけど」
「……それはどうも」
 土方は低い声で答えると、静かに歩み寄った。顔には表れていなかったが、黒い瞳は暗い光を湛えていた。
 正直な話、総司への怒りと嫉妬と独占欲で、気が狂ってしまいそうだ。
 彼の様子とそのとんでもない状況に、さすがに総司も酔いが覚めたようだった。壁に背をはりつけたまま、大きく見開いた目で彼を見つめている。
 その怯えきった様子に、ますます腹がたった。
 女はちらりと二人を見やってから、くすっと笑った。不意に手をのばして総司の肩を抱くと、その頬にキスを落とす。
 あっと息を呑んだ総司に、甘い声で囁いた。
「じゃ、またね」
 ひらりと手をふり、女は歩み去っていった。
 ピンヒールの音も軽やかに去ってゆく女を忌々しげに見送り、土方は手をのばしてドアを閉めた。ご丁寧に鍵もチェーンもかける。
 それを、総司は大きな瞳でじっと見つめていた。
 土方はそれに声をかける事なく玄関からリビングへ戻ると、ダイニングの椅子に腰かけた。
 まだ部屋の中はあたためていなかったので、冷え切っている。だが、暖房を入れようというところまで、彼も頭が回っていなかった。
 しばらくすると、コートを脱いだ総司がおずおずとリビングへ入ってくる。
 それに、低い声で云った。
「……まずは、弁明を聞こうか」
「べ、弁明って……」
「言い訳、釈明、何でもいいが。何か云うことがあるなら、さっさと云えよ」
「だから、その……っ」
 総司はぎゅっと両手を握りしめた。 
「今日、コンパに誘われて……で、土方さん、今日帰ってこないって聞いてたし、一人じゃ淋しいし……それで、ぼく、行ったんです」
「……」
「他の大学の人もたくさん来てて、お酒呑んで、あの……さっきの女の人も他大学の人なんですけど、色々お喋りして、同じ方向だからってタクシー一緒に乗って……」
「で、部屋まで送って貰ったって訳か」
「うん……」
「なるほど、ね」
 土方は肩をすくめ、唇の端をつり上げてみせた。あからさまな冷笑とともに、云い放つ。
「俺はてっきり、おまえがあの女を部屋に連れ込もうとしたのかと思ったぜ?」
「なっ……! そ、そんな事する訳ないでしょっ!?」
 総司は顔を真っ赤にして、叫んだ。さすがに怒ったらしい。
 それに、土方はぷいっと顔をそむけた。
「どうだか。俺が留守だと思っての行為だろ? 実際、もし俺が帰ってなかったら、何がどうなってたかわかったものじゃねぇよな」
「土方さんは、ぼくがそんな事すると本気で思ってるの?」
「あのな」
 土方はうんざりしたようにため息をつくと、片手で煩わしげに濡れた黒髪をかきあげた。ひんやり冷たい感触が指の間をすりぬける。
「思うか思わないか、じゃねぇんだよ。おまえ、すげぇ酔ってただろ? 下手すりゃ何も覚えてない状態で、翌朝、あの女とここのベッドでお目覚めって状況だったかもしれねぇんだぞ」
「そんな……」
「おまえ、隙ありすぎなんだよ。だいたい、前から云っておいただろ? コンパとかには行くな。万が一行っても、絶対、酒呑むなって。酒呑まされてつぶされたら、何をどうされても抵抗できねぇんだ。今回は女相手だったし、俺も家にいたから良かったようなものの、相手が男だったらどうなってたかなんて、想像すりゃわかる事だろ」
「でも……!」
 総司はふるりと首をふった。
「ぼくだって、友達が欲しいもの。楽しくお喋りしたりしたいもの。隙だとかそんなの、お友達相手に考えたくないし、そんなの……」
「だから何も、俺だって友人づきあいやめろとか云ってるんじゃねぇよ」
 土方は苛立った口調で答えた。
「酒は呑むなって云ってるんだ。コンパにも行くな」
「いやです」
「何だと」
 即座に返ってきた総司の答えに、土方は目を細めた。自分でも視線が鋭くなっているのがわかる。
 それに、総司は気の強い気性のまま、激しく云い返した。
「ぼくは確かにあなたの恋人だけど、そこまで命令される謂れはないもの!」
「総司!」
「ぼく自身のことはぼくが一番よくわかっているし、自分でちゃんと守っていけます。それに、ぼくもう大人なんだから、土方さんにあれこれ云われる筋合いない!」
「どこが大人だよ」
 土方は立ち上がり、総司へと歩み寄った。それに後ずさりしつつも、大きな瞳で睨みつけてくる。
「大人です」
「酔っぱらった挙げ句、女にしけこまれかけた奴のどこが大人だよ。どこからどう見てても子どもさ」
「そ、そんなのっ、土方さんに云われる事じゃないからッ!」
 顔を真っ赤にして叫んだ総司は、いきなり手にしていたコートを彼に投げつけた。そのまま、ぱっと身をひるがえすと、寝室へ駆け込んでしまう。
 思わず追いかけようとした土方に、扉を開いたまま総司はふり返った。
 びしっと指さして、きっぱり云いきってくる。
「今夜は、家庭内別居!」
「はあ!? 何だよ、それ」
「だから、家庭内別居です。もし無理やり入ってきたりしたら、二度と口きいてあげませんからね! それぐらい、ぼく、怒っているんだから!」
「怒ってるって……」
「ぼくが大人じゃないって云うなら、子どもだって云うなら、夜のことも全部おあずけです! だって、そんなのとーぜんですよね? 子どもにあんな事しちゃ駄目ですものね?」
「…………」
「では、おやすみなさい!」
 そっけなく云うなり、総司はバタンッとドアを締めてしまった。
 それを土方はしばらく眺めていたが、やがて、はぁあっとため息をついた。


 いつのまにやら、土方の発言に、総司の方が怒ってしまったが。
 そりゃ、もしかすると、云い過ぎたのかもしれないが。
 だが、しかし。


「……怒ってるのは、俺の方なんだぞ」
 土方はぶつぶつ呟きながら、和室へ向かった。
 前に記憶喪失になった時、総司が使っていた布団一式が押し入れにある。それを引き出して寝ようと思ったのだ。
 パジャマに着替えてから、冷たい布団にもぐりこんで。
 土方は目を閉じると、何でだか妙に痛い頭を感じながら、眠りへと落ちていったのだった。
 むろん。
 濡れた髪のままでいた事、湯冷めした事、挙げ句、冷え切った布団で眠った事、それらもろもろが風邪をひく原因になったことは、云うまでもない。
 翌朝、土方はそれらの事をふかーく後悔したのだが、時既に遅し、なのであった。








 一方、土方が出ていった官舎の一室では。



「ど、どうしよう……っ」
 総司はバタンッと閉まった扉を見つめ、呆然とその場に立ちつくしていた。
 先ほどの彼のすべてを思い出し、ついでに昨夜のもろもろも思い出して、ただもう「どうしよう」とばかりおろおろしてしまう。


 本気で、怒っているのだ。
 自分とはもう口もききたくないほど、自分がつくったご飯を食べたくないほど。
 そんなにも、怒ってしまったのだ。


 総司は出かける寸前に見た土方の表情を思い出し、ぶるっと身震いした。
 一切の表情がかき消されてしまうと、あんなにも冷たい印象になるなんて。
 いつも優しく微笑みかけてくれていたから、すっかり忘れていたのだ。
 彼の中にある一面、冷たさや激しさ、拒絶やプライドの高さ──そのすべてを、忘れていた。
 喧嘩はしたけれど、いつものように許してくれると思っていたから。
 翌朝、ごめんなさいと謝れば、すぐに全部おわるのだと。
 なのに。
「……も、嫌われ、ちゃった……?」
 総司はぺたんと床の上に坐り込むと、両手をぎゅうっと握りしめた。たちまち視界が霞み、涙がぽろぽろ零れ落ちてゆく。
 子どものように嗚咽をあげて泣きじゃくりながら、俯いた。


 本当は、わかってる。
 土方さんの云ってたことの方が正しいってことは。
 昨夜の事も、あの人は独占欲や嫉妬だけで云ったんじゃない。
 ぼくのことを本当に心配して、云ってくれた。
 なのに、自分はそれを子ども扱いしていると撥ね付けてしまって。勝手に拗ねて怒って、挙げ句、寝室から土方さんを追い出して……


「……嫌われて、呆れられて、当然だよね……」
 総司はぐすぐす泣きながら、ため息をついた。
 自分であらためて云ってみると、ますます涙がこみあげてくる。
「あ、謝ろう……!」
 ぐぐっと両手を握りしめ、総司は固く決意した。
 どんなに無視されても怒られても、ひたすら謝りつづければ、もしかしたら彼も許してくれるかもしれない。
 いつもの彼に戻ってくれるかも。
「……戻ってくれる、よね……?」
 不安げに呟いた総司だったが、もちろん、まったく自信なんかなかった……。








「? 土方さん?」
 斉藤は会議室へ入って席についてから、隣の土方の姿に小首をかしげた。
 何だか、いつもと違う印象を受けたのだ。


 というより、へたばっている? 
 この人が?


 いつもなら会議前、熱心に書類に目を通したりしている土方が、デスクに突っ伏しているのだ。
「土方さん?」
 肩に手をおいて軽く揺すると、土方はのろのろと気怠げに身を起こした。斉藤の方を見た黒い瞳も、とろんとしている。
「え、もしかして……体調悪いんですか?」
 そう訊ねた斉藤に、土方は黙ったまま頷いた。それから、喉元を指さしてから、×マークをつくってくる。
「声が出ない?」
「……」
「じゃあ、会議中どうするんです」
 土方は肩をすくめ、書類の裏白にとろとろとペンを走らせた。それを、斉藤は覗きこみ、脱力した。


 黙ってる。もしくは、おまえが通訳しろ。


「……通訳って何ですか。いつから、土方さんは外国人になったんです」
「……」
「いや、冗談ですよ。けど……そんなに体調悪いなら休めば良かったじゃないですか」
「……」
「大事な会議だから? その責任感の強さはわかりますけど、もしオレとかにうつしたらどう責任とってくれるんです」
「……」
「風邪ひくような人間かって、失礼な! でもねぇ、土方さんにとりついたウィルスですよ、どれだけ強力か……って、あ、永倉さん、おはようございます」
「おっはよー!」
 永倉はいつもの軽い調子で挨拶しながらやって来ると、土方の肩をばんっと叩いた。
 とたん、土方がげほげほげほーっと咳き込み始める。涙目にまでなって、かなり苦しそうだ。
 斉藤は慌ててその背中をさすってやった。
 それに永倉が目を丸くする。
「どーしたの、いったい」
「風邪ひいてるんですよ、声も出ないみたいで」
「うわ。まさに鬼の霍乱だね〜」
「ですよねぇ」
 あははははっと笑いあう二人を睨む気力もなく、土方はまたデスクに突っ伏した。
 とにかく会議が始まるまで、少しでも体を休めようと思ったのだ。
 というか、体を起こしているのも辛い。
 全然、頭が回らない。


(……どんどん…熱、あがってる気が……)


 突っ伏しているデスクがまるでメリーゴーランドのごとく、ぐーるぐる回り出した感覚を味わう土方の、遙か遠くの方で、会議開始を告げる声が高らかに響いた。