先に我に返ったのは、総司の方だった。
しばらくの間、二人はそうやって抱きあっていたのだが、車内放送で突然現実へと引き戻されたのだ。
「あ、ご……ごめんなさい!」
いきなり総司が大声で叫んだものだから、土方は驚いた。呆気にとられて見下ろすと、総司は彼から身を離し、わたわたと慌てふためいている。
「ぼく、そのっ、こんな大それた事するつもりじゃ」
「……どういう意味だよ」
「え、だから、こんな土方さんの旅行の邪魔をするつもりじゃなくて、そのっ」
総司はきょろきょろと周囲を見回した。
「えっと、次はどこの駅に停まるのですか?」
「立川だろう」
「じゃあ、そこで降ります。これ以上、ご迷惑をおかけする訳にはいかないですから」
そう云って、総司は土方から一歩離れた。いくら他に人の姿がないと云っても、これ以上、土方の好意に甘えている訳にはいかない。
とたん、土方の手がのび、強引に総司の腕を掴んだ。ぐっと引き寄せられる。
驚いて見上げると、彼は形のよい眉を顰めていた。真っ黒い瞳がこちらを見据えている。
「ひ、土方さん?」
「迷惑って何だ」
「え、だから、この列車にまで乗り込んじゃった事ですよ」
「俺が引っぱりこんだからだろう」
「そうだけど。でも、もとはと云えば、ぼくがあんな事を云ったから」
「あんな事って何だよ。おまえ、あれがあの時だけのでまかせだったって云うのか?」
「でまかせって……そんな事あるはずないでしょう!」
思わず叫んでしまった総司は、土方の顔を見上げてから、「え?」と小首をかしげた。じっと彼を見つめてから、やがて、おずおずと訊ねる。
「……あのぅ、土方さん……もしかして怒ってます?」
それに答えは返らなかった。無言のまま、見下ろしている。
総司はますます慌ててしまった。
「怒ってる……やっぱり、怒ってますよね。ごめんなさい!」
総司は勢いよく頭を下げた。
「こんな図々しい事するつもりなかったのです。ただ、ぼく、自分の気持ちをあなたに告げたくて、それで……」
「それで終わりにしようと思った訳か」
土方は吐き出すように呟くと、突然、総司の躯を少し乱暴に突き放した。そのまま傍らの壁に背を凭せかけ、腕を組む。
男の手が離れてしまったとたん、総司はとんでもなく不安定な場所へ放り出された気がした。
何だか、ぐらぐらして足下が安定してないみたいで怖い。まるで綱渡りの最中のような気分だ。
「違うのです」
総司はぎゅっと両手を握りしめた。
「そんなつもりじゃなくて……」
「なら、終わりにするつもりはないんだな」
「ぼくがそうでなくても……土方さんはそれを望んでいたのじゃありませんか? 実際、終わりにしようとしたし……」
「俺が今聞いているのは、おまえの気持ちだ。おまえは俺とのことを、終わりにしたいのか」
それに、総司は即座に首を横にふった。
終わりになんか、したいはずがない。
この人と一緒にいたいから、自分の気持ちを叫んだのだ。
「終わりになんか、したくありません」
「だったら、次の駅で降りるな」
土方にしては珍しく強引な言葉に、総司は目を瞠った。驚いた表情で、彼を見上げる。
「え……でも」
「俺は迷惑だなんて思っていない。おまえを離したくない、一緒にいたいと思ったから、連れてきたんだ。でなかったら、こんな事するものか」
眉を顰め、土方は苛立ちをかくせぬ表情で云い捨てた。それに、総司は戸惑う。
そんな不機嫌そうに云われても、はいそうですかと喜べるはずもないはないか。それに。
「……あの、それは……」
総司は視線をさまよわせた。緊張のため、指さきを何度も握りこみ開いてしまう。
桜色の唇が微かに震えた。
「それは、ぼくの気持ちを……受けいれてくれる、という事ですか?」
「……」
それに、答は返らなかった。
しばらく黙った後、土方は凭れかかっていた壁から身を起した。ゆっくりと手をのばし、総司の背に手をまわして引き寄せる。思わず見上げると、柔らかなキスがそっと頬に落とされた。
総司は驚いたように目を瞬いてから、きゅっと唇を噛んだ。声が微かに震える。
「……こんな事されたら、都合のいいように考えちゃいますよ」
「いいように考えればいい」
「でも……」
「おまえと一緒にいるのは、好きだ。迷惑なんかじゃない。だから、俺の旅に少しだけつきあってくれないか」
「土方さん……」
総司は土方をまっすぐ見つめた。
何を想っているのか、どんな事を考えているのか。
どうして今、そんなことを云うのか。
懸命に探ろうとしても、彼の表情からは何一つ読み取れなかった。もともとポーカーフェイスが得意な彼に、太刀打ちできるはずもないのだ。
だが、だからこそ、総司はその冷たく装った男の中にある、熱にふれたいと思った。
この旅で、土方とのことが、真実が明らかになるのなら、それはむしろ望んだ事なのだ。確かにまだ怖いと思う不安があるけれど、でも、いつまでもこのままで済むはずがないのだから。
「……わかりました」
総司はこくりと頷いた。
「あなたと一緒に、旅をします」
そう告げた総司に、土方は切れの長い目を細めた。柔らかな笑みをうかべる。
「ありがとう」
静かな低い声で云いながら、そっと髪を撫でられた。しなやかな指さきが髪にさし入れられ、優しく梳かれる。
その心地よさに目を閉じると、再び柔らかく抱きしめられた。すっぽりとあたたかい腕の中におさめられる。
「土方さん……」
胸もとに顔をうずめると、セーターの布地ごしに彼の鼓動とぬくもりが伝わってきた。それがたまらなく嬉しく、愛おしい。
確かな、証。
今ここに、この人がいてくれるという、証。
恋しい、懐かしいぬくもり。
安堵の吐息をもらしながら目を閉じた総司の頬に、土方はもう一度だけキスを落とした。それから、すっと身をひくと、柔らかく手を握りしめてくる。
驚いて見上げた総司に、悪戯っぽく笑った。
「そろそろ、行こうか」
「え?」
「ずっと、ここにいる訳にはいかないだろう」
「あ、そ……そうですよね」
慌てて頷いた総司の手をひき、土方はゆっくりと歩き出した。
自分の指定席へ着くと、ちょうど切符を確かめに来た車掌から、空いている隣の席の切符を総司のために買った。平日の昼間のためかさして混んでおらず、席の手配もしやすい。その証拠に、二人がいる車両もまばらにしか席は埋まっていなかった。
総司は土方の隣に坐ると、ぐるりと列車の中を見回した。ロマンスシートの列車だ。
窓ガラスのむこうを、景色が通り過ぎてゆく。
肘かけの上に彼の手が置かれてあった。それをじっと見つめる。
しなやかで長い指。きちんと整えられた爪の形。
男にしては、とてもきれいな手だ。だけど、大人の男の人らしい、しっかりと大きな手。
さっきみたいに手を繋いで欲しいな……と思った。子どもみたいだけど、でも。
あやふやな記憶のせいか、ずっとぐらぐらし続けてる──いつもいつも綱渡りみたいな世界の中で、唯一、彼の手だけは確かな気がしたから。
「……手、繋ごうか」
不意にそう云われ、総司は驚いた。
びっくりして見上げると、土方が優しく微笑みながらこちらを見下ろしていた。総司がだい好きな、あのきれいな笑顔だ。
戸惑っているうちに膝上に置いていた手を、そっと取り上げられた。それも、指の間に指をさしいれ、柔らかく握りしめられる。
「……ぁ」
小さく声をあげて頬を染めた総司に、土方はくすっと笑った。周囲に人がいないのをいいことに、手を持ち上げて指さきに甘いキスの雨を降らせてくる。
たちまち、総司の顔が真っ赤になってしまった。
「も、もう……そういう事しちゃ駄目です」
「どうして」
「だって、さっきも云ったでしょう? 都合のいいように解釈しちゃうって」
「俺も云ったはずだ。いいように考えればいいと」
そう云ってから、土方は悪戯っぽい笑みを含んだ瞳で、総司を見つめた。僅かに身を傾けたかと思うと、耳もとに唇を寄せた。驚いたことに耳朶をきゅっと甘咬みしてくる。
「! きゃっ」
総司は思わず飛び上がってしまった。慌てて口をおさえて周囲を見回したが、それ程響かなかったようだ。
どきどきする胸をおさえ、半ば涙目になりながら総司は土方をかるく睨んだ。
「土方さん……!」
「ごめん」
肩をすくめるようにして笑い、土方は謝った。それが本気の謝意なのかどうかもよくわからない。
総司はため息をつき、土方の肩口に頭を凭せかけた。それでも、手は繋いだままだ。
今までとは全く違う土方を見せられても、どうしてだから驚きはなかった。何故か、わかっていたのだ。こういう子どもっぽい処もある人なのだと。
愛すべき少年っぽさ。
脆さや弱さ、心優しさも全部───
「……少し眠るか?」
髪を撫でながら、土方が問いかけた。それに、ゆるゆると首をふる。
「長野に着いたら……起してやるから」
「でも……」
総司は躊躇い、口ごもった。
何を思い煩っているのか、わかったのだろう。
少し黙ってから、土方が柔らかく低めた声で囁いた。
「……大丈夫だ。俺はどこにも行かない」
「本当…に?」
そう訊ねた総司に、土方は繋いだ手をもちあげながら、くすっと笑った。
「これじゃあ逃げようがないよ」
「じゃあ……ぼくが眠っても、手を離さないで」
「あぁ、ずっと捕まえていればいいさ」
男の声音に、どこか翳りがなかったか──?
それを確かに感じとりながら、総司はそっと唇を噛みしめた。
優しくて純粋で、でも、心の奥底は決して見せてくれない人。
二人一緒に過ごせることは幸せだと微笑みながら、そのくせ、いつか逃げる事を、自分の前から姿を消すことを考えている男。
どこにも行って欲しくない。
あなたと、ずっと一緒にいたい。
でも、だけど。
あなたは、ぼくが手を離したら最後、どこかへまた逃げてしまうの?
今の言葉は、そういう意味なの……?
(……土方さん……)
心の中で愛しい男の名を呼ぶと、総司は静かに目を閉じた。
松本に着いたのは、2時前頃だった。
駅に降り立った土方は腕時計を見ながら、云った。
「ここからは車になるんだが……どこかで先に昼飯を食べようか」
「そうですね」
総司はこくりと頷いた。
列車の中であれこれ話したりしてるうちに、何だかんだいって、昼食を食べ損ねてしまったのだ。
「だが、この時間ではランチタイムが終わってしまっているな」
土方は改札口を出ながら、困惑したように呟いた。
「かと云って、別荘までおまえもたないだろう?」
「ぼくがじゃなくて、土方さんも……って、え? 別荘?」
「あぁ、ホテルどまりは面倒だったから、別荘にしたんだ」
ごく当然のように答えた土方は、はっと我に返ったようだった。どこか慌てた口調でつけ加える。
「俺のじゃないぞ。えっと……その、知人のを借りたんだ。ただで貸してくれるというから」
「お金持ちの人なんですね」
「……まぁな」
ぎこちなく頷き、土方は視線を周囲へとむけた。それから、ふと気づいたようにある店を指さす。
「とりあえず、あそこで済ませようか」
「え?」
総司は彼が指さした方を見て、驚いた。なんというか、土方には全く似つかわしくない印象の店だったからだ。
「……あそこって、ファーストフードの店ですよ」
わかってます?と云いたげな表情で念押しした総司を、土方は不思議そうに見下ろした。
「嫌か?」
「ぼくが嫌って事じゃなくて……なんか、土方さんがあぁいう所に入るというのが、その……」
「俺だって、ファーストフードぐらい利用するさ。それとも、何か? おまえは、俺が気取ったレストランとかしか行かないと思っているのか?」
「……だって……」
今までも、そうだったのだ。
土方が連れていってくれる店は皆、とても居心地はいいが、サービスも料理も質の高いレストランばかりだったのだ。ましてや、ファーストフードなど、行った事もない。
「いつもそうだったから……だから」
「あれは、おまえとのデートだったからに決まってるだろ。そりゃ、今だっておまえとのデートだが、たまにはこういうのもいいんじゃねぇか」
肩をすくめながらそう云うと、土方はさっさと店内に入っていってしまった。慌てて後を追うと、慣れた様子であれこれ注文を始めている。
総司は駆け寄り、メニューを覗き込んだ。
「ぼく、辛いの駄目ですからね。スパイシーなんて絶対無理」
「わかってるよ。おまえの好きなもの、デザートも好きなだけ頼んでいいから」
「えっ、いいの?」
総司は弾んだ声で確かめると、メニューをじいっと見つめた。うきうきした様子でさっそく頼みはじめる。
「じゃあね、サウザン野菜バーガーと、ポテトと……」
───結局。
こんなに食べきれるのか?というぐらい、サラダやポテト、はてはデザートまでしっかり頼んだ総司は、土方と一緒にそれを窓際のテーブルまで運んだ。
二人でむきあい、しばらくの間、無言のまま空腹をみたす。
ひととおり食べてから、総司はコーラをストローでちゅーっと飲みながら、云った。
「意外と、お腹すいてたんですね」
「だから、もたないって云っただろ」
「土方さんも同じだったくせに」
総司はくすくす笑い、ポテトをつまんだ。ぱくっと食べてから、大きな瞳で彼をじっと見つめる。
店内はそれ程混んではいなかったが、そこにいる女性のほとんどは、土方の方ばかりをちらちらふり返っていた。角にいる大学生らしい女の子達など、頬を染め見惚れているのが丸わかりだ。
だが、それも当然のことだろうと、総司は思った。
昼下がりのどこかけだるい時間。窓際の席で、ファーストフード店の椅子に腰かけ、すらりとした足を組んで珈琲を飲んでいる男。
セーターにジーンズという姿が若々しく、とてもよく似合っていた。
かるく後ろへかきあげただけの黒髪も、こちらを見つめる黒い瞳も、息を呑むほど魅力的だ。端正な顔だちはともすれば冷ややかだが、今のように柔らかな笑みをうかべていると優しく、そして、とても綺麗だった。
そんな彼を、総司はうっとりと見つめながら、呟いた。
「……なんか、不思議」
「何が?」
小首をかしげた土方に、総司は言葉をつづけた。
「今朝までものすっごく悩んで決心して、新宿駅に来たのに……なのに、今、ファーストフード店の窓際の席で、土方さんとふたりでバーガー食べてるなんて」
「……」
「とても不思議な気持ちです」
「俺だって不思議さ」
総司の言葉に、土方はかるく肩をすくめた。その目が伏せられ、僅かな苦笑が口許にうかべられる。
「おまえとこうしている事……全部、初めから不思議の連続だよ」
「? どういう意味ですか?」
「いや、こっちの話。それより、そのレアチーズうまいか?」
「え、これ?」
突然変わった話題に、総司はきょとんとした。今、自分が食べていたバーの形をしたレアチーズを見下ろす。
「えぇ、とってもおいしいですよ。あ、土方さんも食べます?」
「いらないよ。もっと欲しいなら、買ってきてやろうかと思って」
「んー、向こうで食べたいかも。今度は苺のショートケーキがいいな。あと、ティラミスも」
「出る時でいいだろ?」
「うん」
こっくり頷いてから、総司はかるく小首をかしげた。レアチーズを彼の方にさし出しながら、問いかける。
「本当にいらないのですか? とってもおいしいですよ」
「いらないって。甘いものは苦手なんだ」
「じゃあ、お菓子とか、全然食べた事ないのですか?」
「そりゃ、あるさ」
土方は肩をすくめ、僅かに苦笑した。
「甘さ控えめのなら……」
「お気にいりの店か何か、あるのですか?」
「いや、店じゃなく……あれは……」
云いかけ、土方は口をつぐむと、総司を見つめた。
どこか憂いをおびた、濡れたような黒い瞳で見つめられ、どきどきする。
思わず息をつめた総司に、土方はしばらく黙ってから、小さく笑ってみせた。そのまま目を伏せると、珈琲を飲みはじめる。
(……土方さん)
総司はきゅっと唇を噛みしめた。
一緒にいたいと囁きながら、一方で、この旅を終わらせることを──総司との繋がりを絶とうとしている男。
この旅の終わりに何があるのかわからないけれど、彼が、幸せな結末を望んでいるようには到底思えなかった。それどころか、絶望の気配さえ感じてしまうのだ。
今も、土方はふと昏く翳った瞳を見せた。余人にはわからない彼自身の秘密と心の闇を抱え込み、一人その中へ沈んでいこうとしている。
それが総司にはたまらなかった。
彼の闇が、総司自身に起因しているだろうからこそ、尚、切なくてたまらない。
「土方さん」
不意に、総司は彼の名を呼んだ。
え?と顔をあげた土方にむかって身をのりだし、手にしていたレアチーズを口の中へ押し込む。
「!?」
土方は呆気にとられ、だが、あわててそれを咀嚼した。それに、総司はにっこりと笑いかける。
「ね? おいしいでしょ」
「……総司」
「レアチーズだから、あんまり甘くないと思うんだけど」
そう云った総司に、土方は思わず苦笑した。口の中にはチーズの酸味と、やはり甘さが広がっている。だが、総司の手からさし出されたものだからか、おいしく感じられた。
「そうだな……ちょうどいい甘さだな」
「でしょう?」
総司は嬉しそうに微笑むと、またレアチーズやらショコラやらを、ぱくぱく食べ始めた。時折、ベビーピンクの唇に、無邪気で可愛い笑みをうかべる。
甘く澄んだ声で大学の事やこの店のメニューについて色々お喋りしたり、不意に頬杖をついたかと思うと、澄んだ瞳でじっと彼を見つめたり。
「……何だ?」
「うん」
総司は頬杖をついたまま、ふふっと笑った。
「あのね、とっても幸せだなぁと思って。土方さんと一緒に過ごせるなんて、とっても幸せ。ハッピーホリデーってとこかな」
「総司」
土方は微笑むと、手をのばした。そっと少年のなめらかな頬にふれてやりながら、囁きかけた。
「俺も……幸せだ」
……たぶん。
きみが想っているよりも、ずっと。
終わりが見えているからこその、小さな幸せだけれど……
「うわー、大きな家!」
総司は車から降りると、びっくりしたように目を丸くして叫んだ。
目の前には、総司の言葉どおり、別荘としても立派な建物が建っている。
木と石と白塗りの壁で造られたそれは重厚感があり、だが、どこかあたたかい雰囲気を漂わせていた。森のすぐ近くにあるため、雪のつもった針葉樹を背景にしたロッジは、まるで外国の絵はがきのようだ。
「おとぎ話の世界みたいですね。とっても綺麗」
うっとりと見惚れる総司の後ろで、土方は荷物を下ろしながら云った。
「ここは湖も近いから、明日にでも遊びに行ってみようか」
「え? 湖があるのですか」
「小さなのがあるよ」
「うわー、綺麗だろうなぁ。行きたいです、明日行きましょうね」
土方と総司は、街で買い込んだ食料や、総司の着替え、土方の荷物を持って、別荘の中へ入った。
ここは土方の姉である信子所有の別荘なのだが、もちろん、総司はそんな事は全く知らない。物珍しそうにロッジの中を歩いてまわった。
広いその家は、別荘というより一軒の瀟洒な邸だ。
しっくいの壁はあわい卵色で、あたたかな雰囲気を醸し出している。リビングの吹き抜けを走るどっしりとした梁、大きな石づくりの暖炉、窓の向こうにはデッキがあり、森のむこうに湖が広がっているのが見えた。
「あそこ、あれが湖ですよね?」
「あぁ」
土方はキッチンの冷蔵庫に食料をつめこんでいたが、バタンと閉めると、総司の傍へ歩み寄ってきた。ふたり並んで窓際に佇む。
森の向うに湖が広がっているのが見えた。その上の空は、柔らかな乳白色とオレンジ色に染まりつつある。
日射しが傾く中、針葉樹の影が長く細くなっていた。
「綺麗な夕焼け……」
小さく呟いた総司に、土方は「あぁ」と頷いた。ふと目を細める。
「こうして夕焼けを見るっていうのは、いいな。生きてるって気がするよ」
「夕焼けが?」
「おまえと一緒に綺麗なものを見るのは、俺にとってそれぐらい幸せな事だってことさ」
「そうですね……あなたと一緒だから」
総司はそっと傍らの土方に寄り添った。しばらくの間、二人して身を寄せあい、沈みゆく夕陽を見つめつづける。
やがて、陽が沈んでしまうと、あっという間に部屋の中は薄暗くなった。明かりをつけなければ、互いの顔も捉えにくい。
土方が明かりをつけながら、呟いた。
「時間がたつのは早いな。もう夜になっちまった」
「あ、夕食は、ぼくがつくりますね」
「え?」
驚いた顔になった土方に、総司はぷうっと頬をふくらませた。
「何です、その顔。こう見えても、ぼくの料理は割合いけるんですよ」
「……」
「土方さん?」
「……いや」
土方はちょっと黙ってから、微かに笑ってみせた。
「もう……食べられないと思っていたからさ」
「え?」
「何でもない。こっちの話だ」
ゆるく首をふると、土方は踵を返した。
「おまえが夕食を用意してくれるなら、その間に、俺は暖炉の火をおこしてくるよ。このあたりは、日が沈むと、一気に寒くなるからな」
「はい」
こくりと頷いた総司に、かるく手をあげてから、土方は外へ出ていった。薪をとってくるつもりなのだろう。
総司はそれを見送り、小さく呟いた。
「……もう、食べられないって……」
じゃあ、過去には食べた事があるってことなのだろうか。
ぼくがご飯をつくるぐらい、親しい間柄だったってこと?
なら、どうして。
どうして、ぼくは何も覚えてないのだろう──?
こんなにも好きになった人のことを、覚えてないなんて。
思い出せないなんて。
そう考えた瞬間、総司はきつく唇を噛みしめていた。
思い出せないのではない、思い出したくないのだ。
誰も──総司も、土方も、思いだすことを望んではいなかった。むしろ、その事を恐れている。
土方は、総司が記憶をとり戻すことを望んでいない。
そして、総司自身も、ある種の恐れを抱いていた。彼に対する記憶を失ったということは、それだけ恐ろしい目にあったという事だ。ショックを受けたり、苦しみ傷ついたりしたからだ。
でなければ、どうして記憶を失ったりするだろう。
何か……恐ろしい秘密があるのだ。
知ってはいけない。
思い出してはいけない。
禁忌の記憶が。
(……恐ろしい何かが、ぼくの中で息を殺している……)
総司はのろのろとその場に蹲ると、世界中から守るように己の肩を抱きしめた。
