……だから
あなたも、愛してると云わないで
愛してる、と。
心の中で何度も何度も叫びながら、そのくせ。
一度だって、彼の前で口にした事がなかった。
そんな事をすれば、何もかもが壊れてしまう気がして怖かった。
この手の中にあるものは、あまりにも儚くて。
なのに、彼を拒みながらも、それに縋りついてしまう私がまぎれもなく存在している。
他のすべてを捨て去っても、裏切り者だと卑怯だと罵られても、背徳の夜に堕ちることになっても。
それでも、彼を愛さずにはいられない私が、つらく哀しい。
怖くて怖くて怖くて。
彼を拒みさえすれば逃げられると、まるで囚われた蝶のように激しくもがく私を、抱きしめてくれる彼。
その力強い腕に抱きしめられていれば、一瞬の幸せは感じられるけれど。
それでも、やはり、それは背徳と裏切りにみちていて。
もしも二人の関係が暴かれたら──。
その破滅の時を思うと、私は背筋が凍りつく気がする。
恩ある──心から尊敬している近藤先生。
世話になり、いつも私が稽古に行くと温かく迎えてくれた彦五郎さま、おのぶさん。
彼の許婚である美しい人、お琴さん。
あの人たちを欺き、裏切っているのだと思うと、私は気が狂いそうになる。あまりの罪深さに、恐ろしくてたまらなくなる。
そして、思うのだ。
……いっそ。
この恋が成就しなければよかった。
罵りあい傷つけあっていた頃の方が、よかっただなんて……。
「……莫迦みたいだ」
総司は窓枠に凭れかかりながら、小さく呟いた。
自分の部屋だった。隊士たちのたまり場からは離れているため、喧噪も届かない。何よりも、土方の部屋から遠く離れていた。
ここにいれば、土方に捉えられる事もない。
何故なら、先日、斉藤と同室にしてもらったのだ。
躊躇いつつも、総司がそれを申し出た時、土方は一瞬だけ不快そうな表情を見せた。黒い瞳がどこか探るように、総司を見つめる。
それに息をつめて俯いたとたん、微かな苦笑の気配がした。
「……わかった」
低い声が答えた。
はっと顔をあげたとたん、また、冷たく澄んだ黒い瞳に見つめられた。
冷たさも、怒りも、愛しさも。
すべて含んだ濡れたような瞳で見つめられ、躯の奥が熱く火照った。身も心も囚われてしまう。
だが、一方でそれがたまらなく怖かった。
「……」
怯えた表情で見つめ返す総司に、土方はゆっくりと目をそらせた。手許の書類へ視線を落しながら、言葉を続ける。
「許可する……それで良いだろう」
「はい」
頷いた総司に、土方はもう一瞥さえ与えなかった。そんな彼の態度に、まるで自分が拒まれたような気がして、逃げるようにその場から立ち去ったのだ。
それでも、許可を得た事は確かだった。総司は逃げこむ場所を得たのだ。
むろん、それは斉藤も共に申し出てくれたからだろう。
でなければ、却下されていたかもしれない。
心のどこかで、総司は、土方の想いをよく理解していた。思い知らされていた。
だが、一方で認めようとしないのも事実であり、だからこそ、こうして逃げ続けているのだ。
後に一度だけ、土方がそれに言及した事があった。
廊下ですれ違った時、揶揄するような口調で云ったのだ。むろん、周囲に人影はなかった。
「あの時、云っただろう……?」
「え?」と見あげれば、土方の端正な顔にはほろ苦い笑みがうかべられていた。
その切れの長い目で総司を見つめながら、言葉をつづける。
「あんな場所で抱いて悪かったと」
「……っ」
かっと総司の頬が熱く燃えた。怒っていいのか、怯んでいいのかさえわからず、視線を彷徨わせてしまう。
男の低い声が、くすっと笑った。
「心配するな。もう二度と屯所なんざで手を出したりしねぇよ」
「土方…さん……っ」
「怒るな」
土方はかるく肩をすくめた。
「俺も怒っているんだ。何しろ、おまえが他の男と同室になっちまったんだからな」
「だって……それは……」
「あぁ、俺も許可はしたさ。だが、公の副長としてと、おまえの男であるのは全く別の話だ。嫉妬して当然のことだろうが」
「嫉妬……」
思わず呟いた総司に、土方は口角をあげた。
「今更、何を驚いているんだ。俺はけっこう嫉妬深い男だぜ。独占欲も強いし、今までだっておまえにさんざん皮肉を云ってきたのは、たいがい嫉妬が原因だ」
「う…そ……」
思ってもみなかった事を云われ、総司は目を瞠った。大きな瞳で彼を見あげ、桜色の唇を半開きにしている。
そんな表情までも愛おしいと、土方は思わず目を細めた。
手をのばし、すっとなめらかな頬を指さきで撫であげる。とたん、ぴくんっと総司の躯が震えた。
彼を見上げる瞳が、僅かに潤む。
まるで、誘いこむように──甘えるように。
「……土方さん……」
小さく囁く声に、たまらなくなった。いっそ、この場で抱きしめてしまいたくなる。
だが、そんな事できるはずもなくて。
せめて、何か優しい言葉でもかけてやろうと、土方は身をかがめかけた。
だが、その瞬間、角のむこうで彼を呼ぶ声が響いた。
「──副長……」
はっと我に返った総司が、素早く身をひいた。
まるで逃げるような動作だった。否、実際、彼から逃げたのだ。
一瞬だけ土方を見上げてから、総司はすぐに視線をおとした。その場から、足早に立ち去ってゆく。
「……」
それを土方もとめなかった。
彼がもらした僅かな嘆息が耳にとどいたが、総司は決してふり返らなかった。本当は戻って抱きしめられたいと望んだが、そんな事許されるはずがない。
総司は堪えるように、きつく唇を噛みしめた。
「……いっそ、嫌いと云った方がいいのかな」
思わずほろ苦く笑った。
久しぶりに口にした、彼への言葉。
だが、もはや云えるはずもなかった。それに、彼も今更信じたりしないだろう。
あれだけ決意を固めてしまっている土方なのだ。
あっさり受け流してしまい、あの優しい笑みをうかべて抱きしめてくるに違いなかった。
今まで想像する事さえ出来なかった、甘やかな声。
優しい抱擁。
やわらかな微笑み。
それにとろかされ溺れこまされ、挙げ句、自分は再び、なし崩しに身をまかせてしまうのだ。
だめだ、いけない──と。
何度も心の中でくり返しながら、それでも。
彼を愛さずにはいられないのだから……。
(……土方さん……)
総司は窓枠の上に顔を伏せると、固く瞼を閉ざした。
総司が自分を避けてるのは、よくわかっていた。
もう、ここ数日、顔をあわせてもいないのだ。打ち合わせがなかったという事もあるが、ここまで逢わないとなると偶然ではなかった。
意図的に、総司は自分を避けているのだ。
それが何故なのかは、よくわかっていた。
いやという程、土方は知っていたのだ。
総司の不安も恐れも。
愛を告げないまま抱きしめてしまう、己の卑怯さも。
それでも、今、愛してると告げる事はできなかった。
自分は許婚のいる立場であり、間もなく婚儀をあげる身の上だ。そんな状態で愛を告げたとして、いったい誰が信じるだろう。
だが、やはり、総司が愛しくて。
見れば欲しくてたまらなくなり、その細い指さき一つにまで口づけたくなる。
手をのばしたとたん、その気配を察し、身をかわしてゆく愛しい若者。
(まるで……美しい蝶だな)
この手の中に捉えたと喜べば、次の瞬間、それが幻だったと思い知らされる。
どんなに求めても欲しても。
決して手に入らない美しい蝶。
だが──あの夜。
一瞬だけ、蝶は、この手の中へ舞い降りてきてくれたのだ。
夢のような一夜。
たとえ、それが総司にとって過ちだったとしても、忘れる事などできるはずもなかった。
勿論、総司の戸惑い、不安、様々なしがらみはよくわかっているのだ。どれだけ互いに抱きあおうとしても、その足もとには多くのしがらみが執拗に絡みついている。
だが、土方はそれを一つずつ外してゆくつもりだった。
総司を手にいれるためなら、何を捨て去ってもかまわない。
もしも望まれるなら、この命をくれてやってもいい。
その事がどうして、わからないのか──?
「……わかっていたら逃げねぇよな」
土方は呟き、茜色に染まりはじめた庭へ視線をやった。
屯所の西本願寺と違い、美しく整えられた庭だ。所用で黒谷に来ていた。
先程まで公用方と話していたが、相手が人に呼ばれ席を外したため、一人この座敷に座っているのだ。
静かな夕暮れだった。
もしかすると、久方ぶりにこんな静寂を味わったのかもしれない。
土方はそんな事を思いながら、手元の椀をとりあげた。茶を口に含む。
(……そう云えば……)
ふと、思い出した。
今朝方、久しぶりに総司の姿を見かけた。原田や永倉たちに囲まれ、玄関近くで話し込んでいたのだ。
どうやら宴会に誘われているようだった。
今日、角屋で久しぶりの宴会があるのだ。土方は黒谷で様々な所用があるため出るつもりはなかったが、大多数の幹部たちは出るようだった。
「なぁ、たまには行こうぜ。皆、出るんだぜ」
「……でも……私はあまりそういうものは……」
その時、しぶる総司を誘っていた原田が、ふと顔をあげた。土方に気づき、声をかけてくる。
「よう、今からお出かけかい」
「……あぁ」
土方の声を聞いたとたん、びくんっと総司の肩が震えた。
決してこちらをふり返らぬ細い背。
固く息をつめているらしく、強ばっている。
それを目の端でとらえながら、土方は低い声で答えた。
「今から黒谷だ。帰りは夜になるだろう」
「ご苦労なこったね。けど、宴会の方はどうするんだい?」
「出ない。そんな暇ねぇからな」
すげなく云いきると、土方はさっさと踵を返した。框を降り、草履に足を突っ込む。
その時、彼らの会話が耳に届いた。
「総司はどうする?」
「……え、その……」
「行くだろう? 泊まりはなしで帰ればいいんだからさ」
「そう…ですね。じゃあ、行きます」
総司は躊躇いがちにだったが、はっきりと答えた。
その会話を背中で聞きながら、土方はきつく唇を噛みしめた。
(……俺が行かないと答えたから、総司は出る事にしたのか)
穿ちすぎだと思うが、それでも、考えずにはいられない。
今ここで突然、ふり返り「やはり出る」と云ってやれば、どうするのだろう?
おまえは怯えた顔で俺を見て、また逃げるのか。
そんなにも、俺が嫌なのか。怖いのか。
前のように酷く嫌われているとは思わない。躯まで繋げた仲なのだから。だが、それでも、好かれてはいないだろう。
その事も、土方が総司に愛を囁くことが出来ない理由の一つだった。
彼も人の子だ。
愛しい者に拒絶されれば、傷つくのだ。
自分の方が強引に、騙すようにして躯を繋いだと思っているから尚のことだった。
今更、手放す事などできない愛しい存在。
だが、それを繋ぎとめる術は、どこにもなくて───
茶碗を置きながら嘆息した時、ふと視界の端を小さな影が掠めた。
驚いて見やると、蝶だ。
迷い込んでしまったのか、部屋の片隅で、美しい蝶がひらひらと舞っていた。それは少しずつ少しずつ、彼の方へ近づいてくる。
「……」
無意識のうちに、土方は手をのばしていた……。
