土方がそっと片手をさし出してやると、蝶は手の中へひらりと舞い降りた。
 まるで、定められた事のように。
 薄い紫を帯びた、儚い羽。
 夢幻のような美しい存在。
 手のひらを柔らかな感触がくすぐった。


(……総司……)


 何故か、そこにいるのが総司自身であるように思え、土方は目を細めた。
 むろん、これは願いだ。
 己の手の中にいて欲しいと、逃げないで欲しいと。
 心から願っているからこそ、こんな事を思ってしまうのだ。


 もう一度こんなふうに、俺の手の中へ舞い降りてくれたのなら……。











「おや、蝶ですか」
 気がつくと、公用方の外島が戻ってきていた。傍らから物珍しそうに覗き込む。
 だが、その気配に驚いたのか、蝶は舞い上がってしまった。ひらひらと羽ばたき、庭の外へと逃れ出てゆく。
 一瞬にして、遠ざかってしまった存在。
 無言のままそれを見送っている土方に、外島が申し訳なさそうに云った。
「すまん事をしましたかな」
「……いえ」
 首をふると、外島は言葉をつづけた。
「それと、もう一つ。今宵の予定がなくなった……土方殿には申し訳ないが」
「……」
 土方は切れの長い目で一瞬、外島を見た。だが、すぐに穏やかな笑みをうかべ、頷く。
「わかりました。それでは又の機会に」
 しきりに謝る外島に応えながら、土方は頭の隅で考えていた。
 突然消えた予定。
 ならば、あの宴へ行く事ができるのだ。
 むろん、宴自体は面白くとも何ともないが。


 あそこには、総司がいる。
 俺の、愛しい蝶が───


 土方は薄い笑みをうかべると、静かに袴の裾を払い、立ち上がった。













 酒宴は苦手だ。
 総司はそれほど酒が強い方でもないし、好きでもなかった。
 その上、女にからみつかれるのも苦手となれば、宴など楽しいはずもない。
 だが、それでも、土方がいないのならば、少しは救いになった。彼がいない宴に出ることで、いずれまたあるだろう宴での、彼との同席を避ける事ができるのだ。出席しないで済む。
 それはむろん、あの夜から土方を避けつづけているがゆえでもあったが、それ以上に、艶やかな女にまとわりつかれ、時折何の罪の意識もなく女と同衾する彼を見たくないためでもあった。
 総司自身は気づいてない事だったが、二人の関係が深まってから、土方は一切女遊びもやめてしまっていた。だが、それでも、今まで長い間、総司は彼の行為に苦しんできたのだ。
 女と部屋へ引き取ってゆく土方を見るたび、息もとまるほど胸が締めつけられた。
 醜い嫉妬に、我を忘れて叫び出しそうになった。


 行かないで。
 私を見て、と。


 だが、そんな事できるはずもなかった。
 それどころか、あの頃、彼と自分は険悪な関係であり、この恋が成就することなどありえなかったのだから。冷たく無視され拒絶されつづけた頃。そんな彼の態度に接するのが辛くて悲しくて、冷たい水の中をくぐるような日々に疲れ果てていた。
 愛しい男と顔をあわせる事が、苦痛でさえあった。だが、その一方で、この耳が彼の声を拾う事に、この瞳が彼を映す事に、身の内が震えるほどの歓喜を覚えて。矛盾した己の気持ちに泣いて、苦しんで。
 今は違った意味で、土方を避けている。
 むろん、今夜の宴に彼の姿はない。
 そのことにあらためて安堵しながら、総司は広間を見回した。
 皆かなり酒が入っていると見えて、無礼講になってきていた。そのうち部屋へ女となだれこむ者も出てくるだろう。その頃合いを見計らい、そっと静かに帰ればいい。
 とは云っても、まだまだ時がかかりそうだ。
「……」
 総司は杯を置くと、静かに立ち上がった。それに、隣にいた斉藤が目をあげる。
「どうした」
「ちょっと……お酒に酔ったみたいです。少し外の風にあたってきます」
「一人で大丈夫か?」
「大丈夫ですよ」
 くすっと肩をすくめるようにして、総司は笑った。そのなめらかな頬は酔いのためか淡く上気し、艶めかしい。
 そんな総司に、斉藤は黙ったまま目を細めた。



 最近、総司は綺麗になった。
 そんな噂が隊の中に広がっていた。
 もともと玲瓏とした容姿をもつ若者だったが、それが最近、まるで孵化した蝶のように、より美しく艶やかになったのだ。
 あれは男を知った──と、まことしやかに囁く者もいた。
 でなければ、あれほど美しくなるはずもないのだ、と。 



 斉藤はその噂を信じた訳ではなかったが、総司の様子から恋の匂いを感じとってはいた。
 今まで見た事もなかった、ひどく大人びた表情。憂いをおびたまなざし。
 そっと長い睫毛を伏せ、桜色の唇から吐息をもらしながら、いったい誰を想っているのか。
 片思いしている斉藤にすれば、それが誰であるかわかっているが故に確かめてみたかったが、総司が口を割るとも思えなかった。知ってどうなるとも思えない。
「少しだけ席を外しますね」
 総司はいつもどおり丁寧な口調で云うと、踵を返した。賑やかな宴の中をしなやかに歩き、広間を出てゆく。
 それを見送った斉藤はため息をつきながら、再び杯を口に運んだ。












 広間を出ると、総司は少し迷って周囲を見回した。
 慣れぬ場所だ。外の風にあたりたいと出てみたが、どこへ行けばいいのかわからない。
 仕方なく一階に降りて外へ出ようと思った。
 だが、たくさんの男女が行き交う階段と廊下に、気後れしてしまった。外へ出れば喧噪は尚の事だろう。
 花街の妖しい華やかさが苦手だった。
 繊細な質の総司はどうしても、その裏にある闇を感じとってしまうのだ。土方という愛する男がいるから、尚のことだった。
 いったい幾度、女を抱く彼の姿に、人知れず涙をこぼしたことか。
 総司はため息をつくと、廊下を奥まで歩いていった。
 そこはどうやら物置などに使われているようで、角を曲がると驚くほど静かな空間が広がっていた。
 廊下奥にぽつりとある窓から、白い月が見える。
「……」
 総司はそこに佇み、ぼんやりと月を眺めた。
 だが、月を愛でる気には到底なれなかった。それどころか、月明かりにふれたとたん、あの夜の事をまざまざと思い出してしまう。



 ずっと避けて。
 とにかく出来るだけ、土方と顔をあわさないようにして。
 だが、それでいったいどうなるのか。
 逃げつづけているだけでは、何の解決にもならない。
 こんな歪んだ関係は、早く壊さなければならないのに……。


 でも、どうしてだろう。
 壊さなければ、終わりにしなければと。
 そう思う傍から、心の奥が淋しいと悲鳴をあげる。
 愛しい彼にふれたい、抱きしめられたいと。
 そう、願ってしまうのだ。


(私は……なんて身勝手なの)


 総司は吐息をもらし、目を伏せた。
 桜色の唇に、微かな苦笑がうかぶ。


 どうする事もできない、絶望的な恋なのに。
 彼を本当に愛してるのなら、自分から身を引くべきなのに。
 決して、あの手をとってはいけないのに。
 なのに……本当は、愛されたいと願っている。抱きしめられたいと求めている。
 ずっと逃げつづけているくせに。
 否、もしかすると、自分は終わりを見るのが怖くて逃げているのかもしれなかった。決定的な言葉を、終わりを告げられる事に怯え、彼から逃げつづけているのかもしれない。
 はじまってさえいない、恋なのに……。






 総司は物思いにふけりながら、瞼を閉ざした。
 だが──次の瞬間、弾かれたように目を開いていた。
 不意に訪れた、背後からの足音。
 気配。
 それは、総司がよく知ったものだったのだ。
「!」
 血の気がひいた。


 そんな……まさか!
 あの人は来ないはずなのに。
 今夜は黒谷にいるはずなのに……どうして!?


 ……ゆっくりと。
 凍りついたように立ちつくす総司の躯に、男の腕がまわされた。
 びくんっと竦みあがるのにも構わず、胸の前で腕を交差させるようにして、きつく狂おしく抱きすくめられる。
「……っ」
 総司は声さえ出せなかった。ただ、追いつめられた小動物さながらに小さく震えている。
 それに、男がふっと笑った気配がした。
 背後から、項に、頬に、柔らかな口づけがおとされる。
 やがて。
 男の低い声が、そっと囁きかけた。
「……つかまえた」
「──」
 総司は半ば気を失うように、土方の腕の中へ抱きこまれた……。













 まるで、美しい蝶が身もだえるようだった。
 狂った蜘蛛の巣にとらえられた、美しく艶やかな蝶。
 土方は、そんな事をふと思った。
 この部屋に無理やり連れこんでから、だが、一切手荒なことはしなかった。
 ただ柔らかく抱きしめ、優しい口づけと睦言、愛撫だけをあたえたのだ。
 なのに、総司は頑なにそれらを拒んだ。
 泣きながら男の胸を押し返し、何度も叫んだのだ。
 こんな事が許されるはずがない──と。


 罪なのだ、背徳なのだ。
 皆への裏切りになる。
 だから、お願い。
 もう忘れてください……!


 そんな事、できるはずがない。
 簡単に忘れ去れるぐらいなら、こんなに俺も苦しみはしなかっただろう。
 思い切れるなら、とっくの昔に諦めていた。
 だが、それでも。
 おまえしか欲しくなくて。
 ずっと昔から、おまえを見つめてきた。
 嫌われても憎まれても、それでも、おまえだけが愛しかった……。


 そう告げた瞬間、総司は大きく目を瞠った。
 しばらく彼だけを見つめていたが、やがて、その瞳に涙があふれてくる。
 ぽろりと一粒の涙がこぼれ落ちた。
「……総司」
 土方はたまらず呼びかけた。
 抱きしめ、もう一度、想いを告げた。


「愛してる……」


 不思議だった。
 告げる事などできぬと自嘲したのは、つい先刻の事なのに。
 今の自分は、長年秘めてきたはずの想いを告げてしまっている。
 愛してる、と何度も囁いて。
 おそらく箍が外れてしまったのだ。


 この角屋へ来たとたん目にした、総司の細い背。どことなく頼りなげな様子で角をまがってゆく姿に、追わずにはいられなかった。
 そして、見たのだ。
 月明かりの中に佇む、愛しい若者を。
 その姿は、あの夜の総司を思い起こさせた。
 初めて抱いた夜の。
 己の腕の中、柔らかな花のようにしなり、甘く彼の名を囁いてくれた総司。
 愛しくて愛しくて、気が狂いそうだと思った。
 否、もう狂ってしまっているのかもしれない。


 この、愛しい若者に。
 この、凶暴な愛に。


 そして、気がつけば、後ろから抱きすくめていた。
 腕の中、総司が怯えているのを知っていたが、それでも逃がしてやるつもりはさらさらなかった。


 この髪一筋まで、俺のものだ。
 他の誰にも渡したくない。
 おまえだけを愛してる───


 そう、心から告げたかった。
 どれほど激しく拒絶されようとも、二度と手放すつもりはなかったのだから。
 もう戻れない事を、今こそ思い知らされたのだから。







「……総司」
 土方は腕の中、すすり泣く総司の耳もとに唇を寄せた。
 その貝殻のように美しい耳朶に、かるく歯をたててやれば、びくりと躯を震わせる。潤んだ瞳が戸惑ったように彼を見上げた。
 綺麗な瞳が己をうつす事に、土方は、身の内が震えるほどの歓喜を覚えた。それは、今、その華奢な躯に己を埋めてゆく快楽にも劣らない。
「ぁ…ゃ、ぁあッ」
 総司が掠れた悲鳴をあげ、仰け反った。いや、と首をふり、細い指さきで男の腕にしがみつく。
 その痛みさえ快楽だと感じながら、土方は華奢な躯を膝上に抱きあげた。深く男のものを受け入れた事で、桜色の唇から悲鳴があがる。それをすばやく口づけでおおった。
 男の膝上で、若者の身の内に秘めた快楽が暴かれてゆく。
 その事に怯え、総司は激しく首をふった。汗ばんだ首筋に髪がまとわりつき、艶めかしい。
「ぃ、や…ぁっ」
 涙がこぼれた。震えながら、男の胸もとに縋りついた。
「いやっ、や、土方さ……っ」
「総司……」
「こん、な…ぁ、も、許し…っ」
 未だ逃げようと、終わりにしようと抗いつづける総司の躯を、土方はきつく抱きしめた。
 囚われの蝶を。
 何よりも、愛しい若者を。
 背徳の夜へ共に堕ちてゆく、永遠の恋人を。
「……総司……っ」
 不意に、土方は総司の躯を畳の上に押し倒した。そのまま息もとまるほどの激しさで、深く突き入れる。
 痛々しい悲鳴が部屋の空気を引き裂いた。
 懸命に逃れようとする総司の細い肩を掴んで引き戻し、その躯の奥深くに楔を打ち込んだ
「ぃ、ゃッ…土方…さんっ……」
 助けを求めるように、総司が彼の名を呼んだ。きれぎれに、彼の名だけを口にする。
 そうして名を呼ばれるだけで感じる、狂いそうなほどの愛おしさ。


(……総司……!)


 最愛の恋人の躯を抱きしめ、土方は固く瞼を閉ざした。








 もう……戻れない。
 戻る事など、出来はしないのだ。
 この罪ゆえに、たとえ煉獄の焔に灼かれたとしても、俺は構わない。
 おまえと共にあるのなら。
 身勝手だとわかっている。男の傲慢さだと罵られてもいい。
 戻る勇気も覚悟も捨てたからこそ、俺は、おまえを抱きしめるのだから。


 そして、囁くのだ。
 狂気にも似た激しさで。

 総司。
 おまえだけを、誰よりも。






       「……愛してる……」















 

[あとがき]
 追いつめてゆく土方さんですが、総司はまだ逃げようとしています。でも、次ぐらいで、総司の中でも答えが出るはずです。