ふわりと意識がうかびあがった。
 でも……それはいつもの事で。
 総司にとって、目覚めとはそういうものだった。


     最近は、夢さえ見ない。
     夢にも見ることができない。


 江戸にいた頃は、まだ夢で感じることができた彼の存在。
 夢の中なら、どんな願いでも叶えられると、眠る前の一時、彼の恋人になれる事だけを願って瞼を閉じた。
 でも、そんな幼い日はもう切ないほど彼方で。
 今の自分は、身を斬るような恋の痛みに震えながら、夢さえ見ることができなくなっている。


     彼の夢を見るのが、今は怖い。
     幸せな夢など見れば、残酷な現をもっと思い知らされるから。
     彼に子供だと嘲られ、嫌われている現を……。










「……」
 うっすらと目を開いた総司は、細い眉を微かに顰めた。
 何だろう。
 よくわからない。
 見あげたそこは、全く見知らぬものだった。
 明らかに屯所の天井ではなく、むろん、懐かしい試衛館の天井でもない。どこか艶めかしささえ感じさせる、美しい細工の施された天井だ。
「……」
 それをぼんやり見あげるうち、ようやく意識がはっきりしてきた。





 ……そうだ。
 昨夜、新撰組は宴のために角屋へあがったのだ。
 もともと酒宴など好きでも何でもなかったが、これでも隊の幹部だ。出ない訳にはいかず、仕方なく皆とともに参加した。
 適当に料理を食べ、酒を少しだけ飲んでさっさと帰るつもりだった。なのに、そうでなくなってしまったのは、彼──土方の存在だった。
 自分より離れた上席で、近藤とともに酒をかわしていた男。
 その端麗なまでの容姿は、自分の視線だけでなく、当然のことながら女達の心も惹きつけ、相変わらず彼の傍には美しい女が侍っていた。


 彼の腕に、頬に、さり気なくふれる白い指。
 何か囁くためか、耳もとに寄せられる紅い唇。


 それを見るともなしに見ているうちに──心底、吐き気がした。
 女にではない。
 彼らを見て激しく狂おしいほど嫉妬してしまっている自分に、吐き気を覚えたのだ。
 いつのまに、こんなにも好きになってしまったのだろう。
 そんな問いかけをしても、今更始まらなくて。


 いつだとか、どうしてだとか。
 理由も何も、もうどうだっていい。
 ただ、ただ、確かなのは、今、私があの人に気も狂いそうなぐらい恋してるという事だけなのだ。
 嫌い! という言葉で。
 そんな無駄なあがきで、彼の目をを少しでもこちらに向けようとする、情けないほど幼い私。
 まるで、子供が駄々をこねているみたいな態度しかとれないくせに、、彼が欲しくて欲しくてたまらなくて。
 でも、絶対に手に入らないから、私のものにはなってくれないから、笑顔一つ見せてくれたこともない彼を、ほんの少しでもふり向かせたくて、また酷い言葉を吐き出す。
 そんな惨めな自分が、つくづく嫌だった。
 そのくせ、こうして嫉妬している自分の醜さに、吐き気さえしてしまう。


「……総司? 大丈夫か」
 傍にいた斉藤が気づかうように声をかけてきたが、総司はただ頷くだけで杯を口にはこんだ。
 いったい、何杯飲んでしまったのか、わからない。
 あんなにもお酒を飲んだのは初めてだったと、総司は褥に横たわったまま、ぼんやりした意識の中で思った。
 きっと酔ってしまった自分を、誰かがここに運んでくれたのだろう。
 辺りはまだ薄暗い。
 きっと、夜明けではないのだろう。
 もう少しだけ眠ろうと、総司は瞼を閉ざしかけた。
 その瞬間だった。
 静かな声が訊ねた。


「……また眠るのか」








「!」
 一瞬で目が覚めた。
 信じられない声に、呆然となる。
 そこにいるはずのない、響くはずもない声。
 聞き慣れた、低くて冷たい、だが、深く澄んだ張りのある声。
 それが今、己のすぐ間近で聞こえたのだ。
「……っ」
 総司は慌てて手をついて身をおこし、声がした方をふり返った。
 とたん、大きく目を見開いた。
「ひ、土方さん……!」
 そこにいたのは、確かに彼だった。
 物憂げに褥へ躯を横たえ、肩肘をついた自堕落な姿勢で総司を眺めている。
 僅かに乱れた黒髪や、くつろげられた襟元が、男の艶をたまらなく感じさせた。濡れたような黒い瞳が総司を見つめ、そのまなざしに、息さえとまりそうになってしまう。
「な…なっ……何で……っ」
 思わずそう問いかけてしまった総司に、土方はゆっくりと笑った。
 形のよい唇の端がつりあがり、冷ややかな嘲るような笑みがうかべられる。
 いつも総司にむけられる冷笑だ。
 だが、こんな場所で見るからなのか、どこか妖しげで艶めいているように感じられた。
「さぁ……何でだろうな」
 揶揄するような口調に、総司はぎゅっと両手を握りしめた。
 驚きにまだ動悸はおさまらない。
 だが、それでも問わずにはいられなかった。
「どうして? なぜ……土方さんがここに……」
「俺がいては駄目なのか」
「そうではなくて……何で、私……」
 総司は思わず口ごもってしまった。


 何しろ、二人は一つの褥に身を横たえていたのだ。
 二人とも袴を脱ぎ捨て、小袖だけを着流した姿であり、しかも帯までゆるめられている。
 その上、酒のせいなのか何なのか、よくわからないが、躯中が甘やかに痺れているような心地さえした……。


 戸惑っている総司に、土方は呼びかけた。
「総司……」
「は、はい」
「どうして、ここに俺がいると思う?」
「……わかりません……」
 思わず怯えたようにふるふると首をふった総司に、土方は喉奥でくっと低く笑った。黙ったまま手をのばし、だが、びくりと身を竦めた総司を見てとり、肌にふれるのはやめた。
 かわりに、褥に乱れている艶やかな黒髪を一筋すくいあげ、口許にはこぶ。
 そうしながら、囁いた。
「なら……教えてやるよ」
「……」
「おまえはな、昨夜……俺と契りを交わしたんだ」
「……え?」
 一瞬、総司は男の言葉の意味が理解できなかった。
 契りという言葉と、自分たちの関係がすぐには結びつかなかったのだ。
 そんな事、二人の間でありえるはずがなかったのだから。
 だが、それらが頭の中でまざりあった瞬間、総司は鋭く息を呑んだ。
「ッ!? ぅ…そ……っ」
 総司の目が大きく見開かれた。のろのろと手をあげ、口をおおう。
 それを冷ややかなまなざしで眺めながら、土方は容赦なく言葉をつづけた。
「嘘じゃねぇよ。おまえは酒の勢いで、この世で一番嫌いな男と躯を重ねちまった訳さ」
「そんな…そんなこと、あるはず……っ」
「嘘だと思うなら、自分の躯に聞いてみな」
 男の言葉に、総司は困惑した。
 聞いてみろと云われても、男との契りどころか女との契りもまともに交わしたことのない総司には、確かめようもないことなのだ。
 薄明かりの中で、土方の端正な顔を見あげたまま、しばらくの間、総司は呆然となっていた。
 だが、やがて、彼の言葉が胸に浸透してゆくと、じわじわと恐れとも困惑とも全く違う感情が、躯の奥からわきおこってくる。


(……本当、に……?)


 思わず、そう問いかけた。


 本当に、昨夜、私はこの人に抱かれたのだろうか。
 酒の勢いであっても。
 その場の雰囲気に流された、ただの遊び、気まぐれであったとしても。
 この人は、私を抱いて…くれた──?


 かぁっと頬が熱くなるのを感じた。
 胸の鼓動が速くなり、彼の顔が恥ずかしくて見られなくなってしまう。
 総司は俯き、ゆるく躯を丸めた。
 羞恥と喜びと、まぎれもない幸せを、深く感じながら。





「……」
 だが、そんな総司を前にして、土方は苦々しい表情をうかべていた。
 その黒い瞳が深く翳る。
 彼の目から見れば、総司の態度はまた彼を拒絶しているようにしか見えなかったのだ。
 今、彼から顔をそむけ、自分の身を守るように躯を丸めた姿は、まるで卵の殻の中へ再び戻ろうとするひな鳥のようだ。




 可愛い、愛おしいと。
 狂おしいほどの激しさで思う一方、こうしていつも彼を拒絶する総司がたまらなく憎らしかった。
 いっそ、無理やりその手を掴んで引き寄せ、激しく叫んでやりたいのに。


 俺を見ろ!
 おまえだけを愛している俺を見てくれ!
 ……そして。
 ほんの少しでいいから、おまえの心を開いて欲しい──


 あんなにも冷たく接しながら、その実、そんな事を切望する己は、傍から見ればどれほど滑稽な男なのか……。





「……まぁ」
 土方は嘲るような笑みをうかべた。
「信じられねぇのも、無理はねぇけどな」
 土方はどこか自虐的な想いのまま呟いた。
「おまえにすれば、嘘だ、夢だと思いたいばずだ」
 ゆっくりと身を起こした土方は、突然、しなやかな動作で総司の上にのしかかった。その華奢な躯を仰向かせ、細い手首を掴んで褥に押しつける。
「……っ」
 驚いたように目を瞠る総司を、酷薄な光をうかべた瞳で見下ろした。
 ふっと唇の端をつりあげてみせた。
 低い、掠れた声で囁きかける。
「この世で一番嫌いな男に抱かれた、気分は?」 
「……ぁ……」
「最低な気分だろうな」
 くっくっと喉奥で嗤った。
「身の毛もよだつって訳だ」
「…ちが……っ」
「なぁ、いっそ手込めにされた生娘みたいに自害してみるか?」
「……っ」
 とたん、総司の大きな瞳に涙がもりあがった。
 それでも冷ややかに見下ろしていると、大粒の涙がぽろぽろと頬をこぼれ落ちてゆく。
 なめらかな白い頬をこぼれ落ちる、涙。


 綺麗だ……と、心から思った。
 まるで真珠のような、涙だ。
 穢れ一つ知らぬ、清らかで無垢な総司そのままに───


「……泣くな」
 思わず、そう優しく囁いていた。
 そっと総司の頬にふれ、指さきで涙をぬぐいとってやる。
「泣いても……何もかわらない」
「……そん、なの……っ」
 総司は涙に濡れた声で、小さく答えた。


 こんな状況でも律儀に答を返してくるあたりが、いかにも素直な総司らしい。
 時折、それが腹ただしくなる事もあるが、今はそれよりも……


「そんなの……わかって、ます……」
 ゆるく首をふると、また、涙がつうっとつたい落ちた。
「泣いてもかわらない……どんなに願っても、何もかわらないって……」
「だったら、泣くな」
「でも……勝手に、涙が出てくるんだもの……」
 総司はどこか拗ねたような、甘さのある口調で返した。


 不意にあたえられた彼の優しい声に、気持ちがゆるんでしまったのだ。
 彼に抱かれたのなら、いっそこのまま思いきり甘えてしまいたかった。
 男の胸にすがり、優しくされたいと望んだ……。


 総司の甘やかな口調に、土方は一瞬、目を見開いた。
 だが、すぐ微かに笑うと、静かに身を倒した。え?と思った時には、柔らかく抱きすくめられている。
「……っ」
 総司の目が瞠られた。
 あたたかな腕の中に抱きこまれ、彼の鼓動を彼のぬくもりを感じる。
 それに息を呑んだが、逃げなかった。それどころか、おずおずと彼の胸もとへ身を寄せる。
 ほっそりとした躯が、不意にあたえられた僥倖に震えた。
 身も心も、愛しい彼にふれられた歓びに熱くなった。幸せのあまり、涙があふれてしまう。
 それに気づいた土方が囁いた。
「……泣くなと云っただろう」
「だって……」
 総司はふるりと首をふった。


 このまま、夢の中へ落ちてしまいたい。
 突然あたえられた甘い夢に、いっそ二人で。
 土方さん、あなたといつまでも……


「涙がでて……とまらないの」
「……」
「どうしても…泣いてしまうのです……」
 そう答えた総司に、しばらくの間、土方は黙っていた。
 やがて、ゆっくりと呟いた。
「……だから、おまえは子供なんだ」
「その子供を抱いたのは……誰ですか」
 即座に、総司はそう云い返した。
 むろん、「俺だ」という答が返ってくるのを予期している。
 だが、土方は何故か、さもおかしそうに笑っただけだった。


 ──それも。
 先程までの優しい声音が聞き違えだったとしか思えぬ。
 冷たく……嘲りにみちた嗤い。


「……土方…さん……?」



 突然豹変した彼に、総司は目を見開いた。