……眠る事など出来なかった。










 夢のような夜の後。
 総司は腕の中で小さな眠りに落ちたようだが、それを見守っていた土方は一睡もしていなかった。
 だから、知っていたのだ。
 明け方。
 土方が眠っているとばかり思いこみ、総司がそっと彼の腕から抜け出し、身支度を整えてから部屋を出ていったことを。
 静かに閉められた襖。
 遠ざかってゆく足音。
「……」
 それらを確かめてから、ゆっくりと目を開いた。寝乱れた褥の中で仰向けになり、ぼんやりと天井を見あげる。


(……総司……)


 先ほどまであった愛しいぬくもりは、もうなかった。その腕の中は空っぽだった。
 あまりの空虚さに、土方は己の胸を掻きむしりたくなった。苦しくて苦しくてたまらなくなる。
 今すぐ総司を追いかけたいと願った。その細い躯をもう一度、この腕に抱きしめたくて堪らなかった。
 だが、そうするには、あまりにも総司を愛しすぎていた。
 総司が何を思って彼を残し出ていったのかは、わからない。だが、それもまた、総司の一つの意思なのだ。
 追いかけても、泣かせるだけだった。


 今は、ただ──一人にしてやった方がいい。
 成り行きとはいえ、好きでもない男に抱かれたのだ。混乱しているに違いなかった……。








 むろん、土方もこの行為がどんな意味をもっているのか、わかっていた。
 いくら何でも、嫌いな男と契りをかわしはしないという事も。
 昨夜の会話から、思っていたほど総司に嫌われていたのではない事がわかった。だが、それでも、あくまで嫌われていない、だ。
 土方が抱えている愛とは、果てしないほどの差があった。
 総司は戸惑いながら、流されるように抱かれたのだ。好きでもない男に。
 おそらく今頃は激しく後悔し、いっそ夢であればいいと望んでいる事だろう。
 だが、土方は夢にする気などさらさらなかった。
 夢として思い出にするには、不意に目の前にさし出された禁断の実は、あまりにも甘美だった。
 その甘美な実を貪った瞬間、背徳の味を感じた。
 甘やかで切ない背徳の味。
 罪深さも裏切りも何もかもわかっていた。
 だが、それでも尚、総司をこの身が心が狂おしいほど欲していたのだ。


 総司が欲しい。
 総司だけが欲しいのだ。
 もしも真実、総司が己だけのものになってくれるなら、他の何もかもくれてやって構わない。
 総司だけが愛しくてたまらなかった。


 この手でふれた、なめらかな肌の感触。
 この耳で聞いた、甘く掠れた声。
 震えながら自分を見つめていた、潤んだ瞳。
 彼を優しく包みこんでくれた、その細い躯。
 思わず抱きしめ、口づけた唇はまるで夢のように甘くて───








「……総司……」
 諦められるはずがない。
 忘れられるはずがない。
 もう、すべては走り出してしまったのだ。今更、後戻りなど出来るはずもなかった。
 この愛がどれほど周囲を裏切り、そして又、彼の行動が──心から愛する総司自身を傷つける事になったとしても。
「……」
 土方はゆっくりと身を起こした。黒髪を片手でかきあげてから、一つ息をもらした。立ち上がり、部屋を横切ると障子をからりと開け放つ。
 彼がむけた視線の先、宿の庭の向うにひろがる空が白々と明け始めていた……。














 当時、新撰組の屯所は、西本願寺にあった。
 壬生の頃とくらべれば広大なものだ。だが、それでも同じ屋根の下で暮らしている以上、顔をあわさずに済むはずもなかった。
 あの日、総司は屯所へ戻るとすぐ自室で着替え、稽古に出た。
 すべてを忘れるように、己を律するために。
 自分の躯に残った彼の熱い痕跡を消し去るように、稽古へ打ち込んだのだ。一心に剣術に励むことで、彼への想いを己の中から消そうとした。
 だが、それが無駄なあがきだったと思い知らされたのは、その午後の事だった。
「!」
 巡察へ向かおうと自室を出て、廊下を歩きだした時だった。
 不意に角を曲がり、土方が現れたのだ。総司を見た瞬間、すっと僅かに目を細める。
 総司は思わず立ち止まってしまい、周囲を見回した。だが、どこにも逃げ道はないし、戻る事もできない。
「……っ」
 どうすればいいのかわからぬまま呆然と突っ立っていると、土方は何食わぬ顔で歩み寄ってきた。いつもの副長の厳しい怜悧な表情だ。
 その端正な顔を見あげ、総司は僅かに目を伏せた。礼儀として黙礼をする。
「!」
 すれ違いかけたとたん、だった。
 土方がすぐ傍で足をとめたかと思うと、総司の手を不意に掴みとったのだ。
 きつく──痛いほど指を絡めてくる。
 驚きに、息を呑んだ。かぁっと頬が熱くなる。
 耳奥に己の鼓動だけが響き、どうにかなってしまいそうだった。躯中が熱くて熱くてたまらない。
「……ぁ」
 思わずもれそうになった喘ぎを押し殺し、土方を見あげた。もしかすると、縋るような表情をしていたのかもしれない。
 それを見た土方は微かに眉を顰め、どこか切なげな瞳になった。
 しばらく黙ってから身をかがめ、耳元に唇を寄せる。男の低めた声が柔らかく囁いた。
「そんな顔をするな……」
「……土方…さん」
「今すぐ……抱いてしまいたくなる」
「……っ」
 総司は目を瞠り、怯えたように首をふった。
 それに、土方はくすっと笑い、身を起こした。その時、彼の吐息が頬にふれ、ぞくりとするような熱い痺れが背筋を走る。
 もう一度だけ指を深く絡めてから、土方は手を離した。それきりもう言葉をかける事なく、歩み去ってゆく。
 ふわりと、黒い袂がひるがえった。
「……」
 遠ざかる彼の足音を聞きながら、しばらくの間、総司はそこから動けなかった。
 先程まで彼に絡められていた指が熱い。
 その手を胸もとに抱きしめ、瞼を固く閉ざした。


(……土方…さん……!)


 忘れる事など出来るはずがなかった。
 ましてや消し去るなど、出来るはずもない。
 ほんの少し指を絡められただけで、彼の吐息が頬にふれただけで、こんなにもまざまざと身の内に蘇ってしまうのだから。
 彼の手の感触、その指がたどったすべて。
 彼の熱も吐息も、掠れた声も、欲望に濡れていた瞳も。
 何もかも痛いぐらい総司の中に残り、今も鮮やかに息づいているのだ。
 簡単に忘れることなど、出来るはずもなかった。夢だと割り切れるほど、総司は大人ではなかった。


(でも、だけど……)


 総司はきつく唇を噛みしめた。


 許される事ではないから。
 あれは背徳だった。罪深い行為だったのだ。
 もしも自分が娘だったなら、たとえば遊女などであったなら、遊びとして妾として、彼と過ごす事も出来ただろう。
 だが、自分はこの新撰組の一番隊隊長であり、土方とは上司と部下の関係だ。正真正銘男であり、今度の縁談を勧めている近藤の愛弟子で、尚かつ土方の義兄佐藤彦五郎にも随分と世話になった。
 そんな関係の中で、二人が抱きあう事など許されるはずもないのだ。
「……お願いだから」
 総司は俯き、小さく呟いた。
 切なくて切なくて、息がとまりそうだ。
 だが、それでも、この恋は殺さなければならなかった。
「もう……忘れて」


 私の中に在るあの夜を忘れるから。
 たとえ忘れられなくても、せめて忘れたふりをするから。
 だから、お願い。


(……あなたも忘れて……)


 祈るように目を閉じ立ちつくす総司の髪を、風がさらさらと梳いていった……。 














 それから数日が過ぎたが、二人の関係に変化がおこる事はなかった。
 総司の不安は外れ、意外にも、土方は今までの態度を崩さなかったのだ。あくまで副長として振る舞い、公の場で総司にも厳しい態度で接してくる。
 ただ一つ違う事をあげるなら、険悪さが消えた事だった。
 仕事に関して厳しく冷徹である事は変わらぬが、今まで総司にむけてきた棘を刺すような口調は消えた。
 時折、苛立った総司が反抗的な口調で意見しても、表情一つかえず、さらりとかわされてしまう。
 子供だと莫迦にされているのかと、一時は尚更かっとなったが、土方の様子から悪意は全く感じられなかった。大人の男らしい態度で、他の隊士たちに対するのと変わらぬ態度で接されれば、もう俯くより他なかった。


(……私が子供そのものみたいじゃない)


 総司はきゅっと桜色の唇を噛みしめた。


(まるで、自分の願う事がうまくいかなくて、駄々をこねている子供みたいだ。でも、願う事って何なの? 今の状態は、私自身が望んでいた事じゃない)
(あの夜の事も皆、何もなかったことに。忘れたふりをして、今までどおり過ごしてゆく。それで……いいはずなのに)
(今の土方さんの態度は、私にとって喜ぶべきことなのに……)


 ……なのに。
 心の奥底を冷たい風が吹きすぎてゆくような心地がするのは、何故だろう。
 まったく忘れたと云わんばかりの彼の態度に、傷ついてしまうのは何故なのか。
 だが、土方にとっても当然のことなのだ。
 あんな夜、彼にすれば幾つもあった気まぐれな夜の一つにすぎないに違いなかった。
 気が向いたまま、流されるように総司を抱いたのだ。もしかすると、興味本位で手を出したのかもしれない。
 それなら、それでいいはずだった。
 自分も二十歳を過ぎた大人なら、そういう遊びの関係と割り切らなければならないのだ。
 そこに愛があったことを知っているのは、自分だけなのだから。
 あくまでも、一方的な総司だけの愛だったが……。
「……」
 不意に、総司は思わず泣きだしたくなった。慌てて、長い睫毛を瞬く。
 一瞬、ぶわっと視界がゆがんだ。
 とたん、その様子に気づいたのか、隣に坐っていた斉藤が呼びかけてきた。
「……総司?」
「!」
 はっと我に返った。
 ここは広間であり、幹部のみの打ち合わせのまっ最中なのだ。
 己の想いに沈み込んだ挙げ句、自分自身の心の欠片をこぼすなど許される場所ではなかった。
 その上、総司は隊の要とも云える一番隊隊長なのだ。その心の隙につけ入り足下をすくおうとしている者は、幾らでもいる。敵は隊内にも大勢いるのだ。
 それは、総司のみならず、土方にも云える事だった。否、副長である彼の場合、より危険は大きいだろう。
 だからこそ、土方も隊内に身を置く時も一切気をぬかず、冷徹な副長として振る舞いつづけているのだ。人前でくつろいだ姿など、京に来てから見た事もない。


(私も……あなたも、様々な事に絡みつかれている……)


 あの夜の事は、何があっても秘してゆかなければならないのだ。
 様々に絡みあった人間関係、過去、今の立場。
 どれもが、二人の関係を許すものではなかった。それどころか、糾弾の的となる事は間違いない。
 そうであるのなら。


(……これでいいんだ)


 総司はきつく唇を噛みしめながら、目を伏せた。


(あの人も私もあの夜の事は忘れ去る。何もなかった事にする。それでいいんだ……それで……)


 青ざめた表情で、何度も何度も己に云い聞かせた。
 なのに、胸の奥に刺さった鋭い棘は、決して抜けなくて……。
「……」
 祈るように、思わず固く瞼を閉ざした。
 そんな総司を、土方が深い瞳で見つめていた事など知らぬまま───