雨が降っていた。
 それを眺めながら、総司はちょっと身をすくめた。
 最近、よく雨をこうして眺めている気がする。否、もしかすると、雨の記憶が強すぎるのかもしれなかった。
 湿った匂い。降りしきる雨音。
 濡れた感触。
 そのすべてが、一人の男の存在を総司に思い起こさせるのだ。
 痛いほど、切ないほど。
 忘れようとしても忘れられるはずのない、愛しい男だった。


(……土方さん……)


 思わず固く瞼を閉ざした。


 どうして……こんなに好きになってしまったのだろう。
 思い切れるものなら、いっそすべての記憶を消し去ってしまいたいのに。


 総司はため息をつきながら、空を見あげた。
 すぐ止むかと思っていたが、総司の今の心のように雲が暗く重くたちこめ、ますます雨脚は激しくなってゆく。
 いっそのこと、部屋まで走ろうかと思った。だが、かなり距離がある。
 ここは屯所の中でもかなり塀際にあり、庭奥に位置しているのだ。
 総司は今、屯所の裏口近くにある小さな蔵の中にいた。
 ここにある武具を探すため来て、いろいろ見ているうちに雨が降ってきてしまったのだ。
 その時に部屋まで走れば良かったのだが、すぐやむだろうと雨宿りしていたのだ。
「仕方ない……走ろうかな」
 そう呟いた総司は、ふと耳をすませた。
 雨音とは違う物音がしたのだ。
 幹部しか知らぬ裏口のくぐり戸を開ける音だった。その後、足音がこちらへ近づいてくる。
 否、正確には屯所へ向かうのだろうが、雨に降られているためか足早だ。
「!」
 次の瞬間、総司は鋭く息を呑んでいた。
 雨をくぐるようにして、いきなり一人の男が現れたのだ。蔵の中へ走りこんでくる。
 総司に気づいたとたん、その目を大きく見開いた。
「……総司」
「土方…さん……」
 思わず怯えたように後ずさった総司に、土方はふっと唇の端をつりあげた。ほろ苦い笑みがうかべられる。
 その姿は、傘を持って出なかったのか、全身ずぶ濡れだった。ぽたぽたと雫が彼の黒髪から滴り落ちる。
 総司ははっと我に返った。
 慌てて手拭いを取り出し、彼にさし出した。
「は、早くこれで拭いてください」
「すまん」
 頷き、土方は受け取った手拭いで濡れた顔や髪をぬぐった。その後、鬱陶しげに水を吸って重くなった羽織と袴を脱ぎ捨て、小袖だけを着流した格好になる。
「……」
 総司は慌てて視線をそらした。
 羽織と袴のおかげか小袖はそれほど濡れていなかったが、それでも彼の肌にはりついた様が、えもいわれぬ男の色気をかもし出していた。襟もとから覗く逞しい胸もとに、どきまぎしてしまう。
 濡れた黒髪が額に乱れ、端正な顔だちがより男らしく精悍に見えた。
 まるで、情事の時の彼を見るようで───
「……」
 思わず息をつめた総司を知っているのか知らないのか、土方は蔵の奥へ歩をすすめながら呟いた。
「以前、おまえに傘ぐらい持って出ろと云ったのに、この様だからな」
 くすっと笑った。
「まったく人の事は云えねぇよ。おまえもおかしいだろう」
「……いえ、そんな」
「えらく他人行儀な云い方だな」
 ちらりと視線を投げた。
「俺とおまえは……もう、そんな仲じゃねぇだろう?」
 揶揄するような口調に、びくりと総司の躯が震えた。何も答えられず、目を伏せる。
 それに言葉を重ねることなく、土方はゆっくりと視線を蔵の中へめぐらせた。
「こんな処で何をしていた」
「少し……武具を確かめていました」
「雨が降り出したのにも気づかずか?」
「えぇ……」
 こくりと頷いた総司に、土方は一つ息をついた。まだ濡れている髪をくしゃりと片手で煩げにかきあげ、目を細めた。
 しばらく黙った後、低い声で呟いた。
「……俺とおまえが逢うのは、雨の日が多いな」
「……」
「あの夜も雨が降っていた。もっとも、俺たちが睦みあう頃には、月明かりにかわっていたが……」
「!」
 総司は思わず息を呑んだ。


 あの事に言及されるのは、これが初めてだった。
 もうあれから数日がたっている。
 土方も忘れてくれた事だろうと思っていたのに……。


 躊躇いがちに彼の方をふり返ると、薄暗い中、土方は鋭い視線をこちらにむけていた。
 その逃げを許さないまなざしに、呼吸がとまった。
 思わず後ずさってしまう。
 だが、それを見てとると、土方は素早く手をのばした。あっと思った時には腕を掴まれ、引き寄せられてしまっている。
「や……!」
 思わず抗ったが、男の力に叶うはずもない。たちまち広くて逞しい胸もとに、きつく抱きこまれてしまった。
 息もとまりそうなほど、抱きしめられる。
 そして、あたえられた熱くてとろけそうな口づけ───
「……ん…ぅっ、ぁ…っ」
 いやいやと首をふったが、頬を手のひらでつつまれ仰向かされた。腰に男の力強い腕がまわされ、引き上げられる。
 自然と総司は爪先だった格好で、熱い口づけを受ける形となった。
 耳もとから首筋に、男の熱い吐息がふれた。狂おしいほど、むしゃぶりつくように唇をおしあててくる。
 男の大きな手が着物の間から滑りこみ、白い肌を愛でるように撫であげた。腰のくびれから腋下を何度も、しなやかな指さきがたどってゆく。
「ッぁ…は、ぁあ……っ」
 ぞくぞくとするような痺れが、背筋を突き抜けるのを感じた。
 もう何が何だかわからなくなってくる。
 あの夜のように、土方は何度も口づけをくり返しながら、総司の躯をそっと横たえた。蔵なので土間がほとんどだが、一部板間になっている処もあったのだ。
「!」
 ひんやりした感触が背にふれ、思わず身をすくめた。
 その事で、僅かながらも意識がはっきりし、今自分が何をしようとしているのか、何をされようとしているのか──その相手が誰なのかを、認識する。
 土方がのしかかってくる気配に、総司は「いや」と抗った。
 両手で男の胸を押し返し、首をふった。
「……こんな、駄目……いや」
「総司」
「だめなの、やめて下さい……お願い」


 罪なのだ。
 背徳なのだ。
 こんなこと許されていいはずがない。
 この人を愛してるからこそ、背徳の汚泥の中へ引きずり込みたくないから。
 だから。


「いや……!」
 抗った総司に、土方は何も云わなかった。ただ僅かに眉を顰めただけで、優しく抱きすくめてくる。
 甘い甘い口づけが、頬に額に唇に降らされた。
 宥めるように。
 彼の深い想いを、総司につたえるように。
「……ぁっ……」
 柔らかな愛撫を施され、思わず声をあげた。
 心は否定していても、躯は泣きたくなるくらい彼を覚え、求めてしまっているのだ。
 忘れる事なんて出来るはずもない。
 彼に忘れてもらうより先に、自分が忘れる事ができなかった。何度も何度も反芻してきたのだ、あの夜を。
 そして、彼だけを求めた。


 欲しい欲しい欲しい……!
 この世の誰よりも、この人だけがこんなにも愛おしくて。
 もう、狂ってしまいそうで───


(……土方さん……)


 総司はきつく目を閉じた。
 やがて。
 湿った匂いの中、甘い吐息とすすり泣きだけが蔵を満たしていった……。












 雨がやんだ後、土方は総司を部屋に送りとどけた。
 幸いにして誰とも行き会わず、二人は身を寄せあいながら部屋までたどりついた。
 しん──と静まり返った部屋は冷たく、まだ雨の空気にみちている。
 土方は手早く褥をひいてやると、総司の躯をそっとそこに横たえた。傍らに腰を下ろし、低い声で云った。
「あんな処で抱いて……悪かった」
「……」
 総司はきゅっと唇を噛みしめ、視線をそらした。
 だが、すぐ柔らかく頬にふれた彼の唇の感触に、びくりと躯を震わせてしまう。
 ふり向くと、土方は見たこともないほど優しい瞳で、総司を見つめていた。まるで包みこむような、深い静かな瞳だ。
 それを見た瞬間、総司は知った。


 この人の中に、もう迷いはないのだ。
 だからこそ、自分を再び抱いた。
 どんなに拒絶しても、忘れるつもりも離すつもりもないのだと、教えるかのように。


 実際、総司は拒絶したのだ。言葉でも躯でも。
 だが、そのすべてを無視し、大人の男の手管でとろかせ、強引に受け入れさせたのは土方だった。
 躯の苦痛は僅かだったが、それでも心の痛みの方が───
「すまなかった」
 土方はそっと総司の髪を指さきで撫でながら、囁いた。
「……」
 その謝意の言葉に、総司は少し安堵した。
 自分の躊躇いや不安、罪悪感を理解してくれたのかと思ったのだ。もうこれきりにしてくれるのかと。
 だが、その後つづけられた彼の言葉に、大きく目を見開いた。
「強引すぎたな。次からは、もっと優しくするよ……」
「──」
 息さえ、とまった。


 次なんて!
 そんなのあってはならないのに。
 こんな関係、もうこれきり終わりにしないといけないのに。
 なのに、どうして。
 どうして……なの?


 総司は首をふり、わななくように唇を震わせた。
「だ…め、だめ……絶対に駄目です」
「何故」
「あなただってわかっているでしょう。これがどんなに罪深いことか、間違っていることか」
「……」
 土方は黙ったまま僅かに目を細めた。
 それに、総司は必死になって懇願した。手をのばし、彼の袂を縋るように掴む。
「お願い……わかって下さい。こんな事をしていればいつか暴かれてしまう。指弾の的となります。近藤先生や彦五郎様……そして、何よりもお琴さんを裏切る事になる。それでも、あなたはいいのですか?」
「総司……」
 土方は自分の袂を掴んでいた総司の手をとると、緩やかにもちあげた。
 その白い手に柔らかく唇を押しあてながら、視線だけをあげて、ひっそりと笑ってみせる。
 どきりとするほど色香の漂う男の笑みに、思わず息を呑んだ。
「土方…さん……」
「俺は……かまわねぇよ」
 濡れたような黒い瞳で総司だけを見つめ、甘く笑んでみせながら、土方は囁いた。
「云いたい奴には、云わせておけばいい」
「……」
「おまえのためなら、誰に裏切り者だと罵られても構やしねぇさ」
「……っ」
 微かに総司の喉が鳴った。信じられないものを見たように、土方を見つめている。
 呆然とする総司を前に、土方はくっくっと喉奥で笑った。総司の細い指さきに唇をはわせながら、掠れた低い声で甘く囁きかける。
「総司……おまえは俺のものだ」
「……」
「俺を嫌いだと罵るおまえも、そうして拒みつづけるおまえも、俺の腕の中で可愛く鳴くおまえも……すべて、俺だけのものだ。俺にめちゃくちゃに乱されて、こんなふうに潤んだ瞳をしているおまえを、失ってたまるものか」
「……土方…さん……っ」
「離さない……おまえだけは、絶対に」
「!」
 思わず、祈るように目を閉じた。
 その躯に男の腕がまわされ、抱きおこされた。そのまま、きつく息もとまるほど抱きしめられる。
 まるで、男の執着と危うい愛を思い知らせるように。


 堕ちてゆく。
 堕ちてゆく。
 背徳の罪の底へ、どこまでも───


 身も心もからめとってゆく愛しい男を痛いほど感じながら、総司はこれから訪れるだろう修羅の予感に身を震わせた……。