そっと指さきでふれると、儚くこぼれ落ちた。
花の命は短い。
それをまるで己自身が縮めてしまったような気がして、総司は思わず身をすくめた。
(……お琴さん……)
おのぶからの知らせには、お琴が自害を計ったこと、そして、からくも一命をとりとめた事が記されてあった。
どこから手に入れたのか、毒を含んだらしい。だが、発見が早かったこと、また、致死量に至っていなかった事が幸いだった。もっとも、お琴の体力次第ではかなり危なかったらしいのだが。
それらの事柄はすべて内密にされ、お琴は表向き病に伏せた事になっていると、おのぶは綴っていた。
だが、同時に鋭い非難が土方に向けられていた。
祝言寸前で許婚を突き放し、破談にしてくれと告げた不実な男。
あまりにもお琴が哀れではないかと、おのぶは切々と訴えていた。
それを読んだ土方がどう思ったか、総司は知らない。だが、それでも、胸奥に刺さった罪悪感と身震いするような恐怖は、誤魔化しようもなかった。
どんなに目をそらしても、歴然としたものが在るのだ。
自分は許婚のある男に抱かれ、挙げ句、その恋を成就させようとした。許されるはずがなかった。
これは背徳の恋なのだから。
そして、こんな身勝手な恋のために、一人の娘が命を絶とうとしたのだ。
総司自身、新撰組一番隊隊長として、多くの命を殺めている若者だ。だが、それとこれは全く意味合いが違っていた。
もっと重く──辛い。
「……」
総司は身を刺すような痛みを感じ、思わず両手で肩を抱きしめた。
その濡れた瞳に、美しく咲き乱れる花が映った。
それに、ひらひらと戯れる艶やかな蝶も───
土方は筆を置くと、深く嘆息した。
端正な顔に、疲労の色が濃い。だが、休む訳にはいかなかった。まだまだ片付けておかなければならない事があるのだ。
近藤の強い主張を聞き入れ、急遽江戸へ下る事になっていた。
もともと予定されていた事だが、あと二十日ほど間があるはずだったのだ。それが二日後と決まったため、土方は今、支度や引き継ぎの仕事に追われている。
すべて、お琴のためだった。
許婚が自害を計ったのに放っておいていいのかと、近藤が語気強く詰め寄ったのだ。あまりにもいい加減ではないかと。
それに、土方も返す言葉がなかった。
黙ったまま目を伏せ、頷いたのだ。
江戸へ行ってくる──と。
だが、彼の心中は近藤の思惑とは全く違っていた。
直接逢って、今度こそ決着をつけるつもりだったのだ。お琴を妻に娶る気など、さらさらない。
哀れだとは思うが、それでも、心を捩じ曲げ、愛してもいない女と祝言を挙げて、いったい何になるのか。
それこそ不実そのものだった。
土方は文机に肘をつき、目を伏せた。
わかっていた。
己の云っている事が、お琴にとってどんなに冷たく残酷か。
だが、誠実でありたいと願ったからこそ、縁談を断ろうとしたのだ。偽りの愛など告げられぬと。
総司以外、愛せるはずがなかった。
この手は永遠に。
あの愛しい存在にだけ、繋がれているのだから……。
明日が出立という夜だった。
人目を忍ぶようにして、総司が土方の部屋を訪れてきた。
するりと部屋に入りこみ、障子を閉めたとたん、きつく抱きしめられた。
熱く狂おしい抱擁。
まるで、あの日と同じだった。伏見の宿で落ち合った夜と……。
「……っ…ぁ……」
吐息まで奪うような口づけに、総司は陶然となった。無我夢中で男の広い背に両手をまわし、甘く激しい口づけに溺れこむ。
いっそのこと、身も心もとけあわせてしまいたかった。
この世でただ一人。
あなたしか感じていたくないのに……。
「……土方さん」
口づけの後、優しく頬を撫でられながら、総司は囁いた。
潤んだ瞳が男を見あげる。
「道中、お気をつけて……」
「あぁ」
頷いた土方は、腕の中にいる恋人の顔を見つめた。
その綺麗な顔を覚えこませるように、指さきで頬をなぞってゆく。
「江戸で話をつけてくる。絶対に……おまえを泣かせたりしない」
「……」
「総司、俺を信じて待っていてくれ」
そう云った土方に、しばらくの間、総司は黙っていた。
不安を覚えた土方が、「総司……?」と問いかけると、微かに顔を俯かせた。長い睫毛が伏せられる。
沈黙の後、桜色の唇が呟いた。
「……この頃、思うのです」
「何を」
「永遠って……あるのかな、と」
「……」
「愛に永遠など、あるのでしょうか。ううん……永遠でなくとも、ずっといつまでも死ぬまで愛しつづけるなんて。そんなこと、本当に出来るのでしょうか」
「……」
土方は思わず唇を噛みしめた。
できる、と云ってやりたかった。
きっぱりと断言し、総司の不安をはらってやりたかった。
だが、何故かできない。
喉奥を締め付けられるような心地のまま、土方は総司を見つめた。
その前で、総司はゆっくりとした調子で話してゆく。まるで、己自身の心に問いかけるような話し方だった。
「ほんの少し前まで、あなたと私……心がすれ違っていましたよね。お互い、顔をあわせれば喧嘩ばかりで、険悪そのものだった」
「あぁ……そうだったな」
「今となればまるで遠い昔のようだけど、ほんの少し前の事なのです。でも、私はそのずっと前から、あなたを愛していました。それこそ、初めて逢った瞬間から、土方さん、あなただけを……」
「──」
総司の言葉に、土方の目が見開かれた。
まさか、そんなこと考えもしなかったのだ。
この愛へ無理やり引きずりこんだのだと、思っていた。
総司の想いを強引にこじあけ、抱いたのだと。
だが、総司は彼を以前から───
「本当……か?」
思わず鋭い口調で問いかけていた。
とても信じられない。
あれほど罵り、嫌悪の表情を見せてきたのに、なのに。
「それは、本当の事なのか」
「本当…です」
総司はこくりと頷き、淋しそうに笑ってみせた。
「あんな酷い事をさんざん云って……あなたを傷つけて、今更信じてもらえないでしょうけれど」
「信じるも何も……」
歓びのあまり、土方は絶句した。
だが、すぐさま熱い想いが胸にこみあげた。
「総司……!」
思わず、総司の躯をより強く抱きしめてしまう。背中がしなるほど抱きしめ、その柔らかな髪に頬を擦りよせた。
「俺の方こそだ。俺こそ、おまえに初めて逢った瞬間から、愛してきた。ずっと、おまえだけを見つめてきたんだ……」
「……っ」
総司の躯が震え、その瞳から涙がこぼれた。なめらかな頬を、ぽろぽろとこぼれ落ちてゆく。
その手が男の背にまわされ、ぎゅっとしがみついた。
「土方…さん、愛してます……」
「総司……」
「だけど、でも……怖かった。あなたの愛がどうしても信じられなくて……」
「……」
「ましてや、あなたは許婚がある人。私なんかを選んでくれる事が信じられなくて、いつかこの夢が覚める気がしていました。だから……ずっと拒みつづけていたのです。あなたを愛してないと拒み、逃げて……」
「なら、何故」
土方は身を起こすと、総司の細い肩を掴んだ。その瞳を覗き込む。
「どうして、俺を受け入れてくれたんだ。愛してると、云ってくれたんだ」
「それは……」
総司は静かな声で、答えた。
「土方さん、あなたを愛さずにいられなかったから……」
潤んだ瞳で彼を見つめながら、言葉をつづけた。
「愛してはいけないとわかっていながら、それでも、愛さずにはいられなかった。もう堪える事ができなかった。優しく愛してくれるあなたを、拒絶する事で、あなたを傷つけるなんて……これ以上、できなかったのです」
総司は、そっと土方の胸もとに手を押しあてた。
「私はあなたを愛してます。あなたが苦しめば、私も苦しいの。あなたの傷は、私の傷」
「……」
「私は、あなたをいつまでも愛してる。たとえ……あなたが私から去っても。もう二度と、私を見ることがなくても……」
「! 総司」
思わず土方は総司の肩に指を食いこませていた。ぐいっと引き寄せ、燃えるような瞳で見据える。
知らず知らずのうちに、口調が激しくなった。
「おまえ、俺がそんな男だと思っているのか!」
総司が目を閉じ、顔をそむけた。それに、土方は荒い声音でつづけた。
「おまえを捨てたり、見向きもしなくなったりするような、そんな男だと本気で思っているのか!?」
「……だって……」
総司はそっと目を伏せた。
「永遠なんて、どこにもないから……ましてや、人の気持ちなんて一番うつろいやすいものだから……」
「総司」
土方は己を落ち着かせようと一呼吸した。それから、低い声で云った。
「俺はおまえが何を根拠にそんな事を云っているのか、わからねぇが」
「……」
「これだけは云っておく。俺は絶対に、おまえを手離さない。おまえしか愛せない」
「土方…さん……」
「それとも、おまえはそうじゃねぇのか。おまえは俺をそこまで想っていてくれねぇのか」
「……」
総司は押し黙り、俯いてしまった。その綺麗な顔には戸惑いの色が濃い。
それに、土方は小さく吐息をもらした。
少し急ぎすぎてしまった。
総司に初めて逢った時から愛されていたと知り、頭に血がのぼってしまったようだ。
愛の深さなど、人に強制するものではないだろうに。
「……総司」
そっと両頬を手のひらで包みこみ、顔をあげさせた。潤んだ瞳が不安に揺れながら、土方を見つめてくる。
それは、まるで白い花のようだった。
凜と美しい、清楚な一輪の花。
この世のどこにも、これほどまでに、彼の心を切なく甘く狂わせる存在はありえない……。
「もしも……もしもだ」
低い声で、ゆっくりと囁きかけた。
「明日、この世が終わりをむかえるなら……おまえは誰の傍にいたい?」
「……」
突然の問いかけに、総司は驚いた。目を見開き、彼を見あげている。
それに、くすっと笑った。
優しく頬を撫でてやりながら、土方は囁きかけた。
「もちろん、俺はおまえだ。だが、おまえはその答を、俺が江戸へ行っている間に考えていてくれないか」
「……」
「この世が終わると知った時、誰の傍へ行きたいと思うか。自分の最期を誰と迎えたいと望むのか……それをよく考えて欲しいんだ」
「……土方…さん……」
「俺が帰ってきたら、答えてくれ。ただ、俺もおまえに惚れてる男だ。否定の答なんざ聞きたくない」
「だって、そんな……」
「だから」
云いかけた総司に、おっかぶせるように言葉をつづけた。
「俺の存在を否と思った時は、答えないでくれ。その時には……黙って俺から解放してやるよ」
「……」
「だが、もしも……」
土方はそっと総司の背に手をまわし、引き寄せた。包みこむように抱きしめられる。
「そこに愛があるのなら……答えてくれ」
「……」
総司は目を見開いた。
震えるような声だと思った。
彼の不安と愛と切なさを感じさせる声だった。
「……」
総司は黙ったまま土方の背に手をまわし、そっと抱き返した。男の腕に力がこもり、より深く抱きしめられる。
自然と涙があふれた。嗚咽をあげて泣き出してしまう。
(……土方さん、愛してる……)
このぬくもりが、何よりも愛しかった。
こんなにも、誰かを愛しいと思ったことはなかった。
幼い頃からずっと憧れ、恋してきたのだ。いつかふり返って欲しいと、彼の背だけを見つめていた。
そして、今。
この人はふり返り、こうして手をさしのべてくれたのに。
願いは叶ったはずなのに。
どうして、今、私は泣いているの……?
いつまでも抱きあう二人を、窓の隙間から、春の月だけがひっそりと見つめていた……。
翌朝、土方は江戸へ発った。
それを、総司は多くの隊士たちとともに見送った。
土方は編み笠の顎紐をしっかり締めると、彼らをふり返った。
春の柔らかな日射しの中、そうして旅装に身を固めた彼は水際立っていた。
この人は、本当に誰をも惹きつける華をもっているのだ。
そんな事を思いながら見つめる総司の視界の中で、土方は低い声で云った。
「では、行ってくる」
近藤が鷹揚に頷いた。
「道中、気をつけてな」
「あぁ」
土方は頷くと、近藤の背後へすっと視線を流した。むろん、その意味を近藤もわかっている。
ほんの一瞬、だった。
視線が絡み合った瞬間、土方の黒い瞳が和らいだ。ふっと微かな笑みをうかべる。
「……」
総司は思わず、両手をきつく組みあわせてしまった。
一瞬だけ向けられた優しい笑みに、なぜだか、たまらなく泣きだしたくなったのだ。
これが永の別れという訳でもないのに。
否──もしかしたら、そうかもしれなかった。
愛しい恋人として見られる、最後の笑顔。
だからこそ、こんなにも切なく感じるのかもしれなかった……。
総司はきつく唇を噛みしめた。
江戸から京へ戻ってくる時、あの人はもう他の人のものかもしれないのだ。
どんなに彼が拒んでも、周囲が許さなければどうにもならないのだろう。
土方自身、恩あるおのぶや彦五郎に説得され、心が動いてしまうかもしれない。
その上、あの美しいお琴だ。
彼を想うあまり自害まで計った娘。
そんな激しい愛をむけられて、心動かされない男がいるだろうか?
(……土方さん……)
総司は後を追いかけ縋りたい気持ちを必死におさえながら、旅立ってゆく男の背を見つめた。
柔らかな春の日射しの中で。
泣きだしたいぐらい、彼だけが恋しかった……。
江戸へ着いた土方は、まっすぐ牛込の道場へ向かった。
そこで、新入隊士の募集、考試に没頭する。
日野へは文一つ送らなかった。むろん、許婚のお琴を訪ねようともしない。
そんな彼を見かねたのか、ある日のこと、書類を持ってきたついでに斉藤が口火を切った。
総司の態度などから、ある程度の事情を察しているのだ。
「……このままでいいのですか」
昼下がりだった。
江戸も春をむかえ、どこか華やいだ雰囲気にみちている。
だが、今、文机に向かっている男の表情には、厳しさしかなかった。その黒い瞳も怜悧そのものだ。
「何のことだ」
土方は新入隊士たちの書類に目をとおしながら、答えた。顔をあげようともしない。
そんな男の端正な横顔に視線をあてつつ、斉藤は言葉をつづけた。
「許婚の方のことですよ。放っておいて構わないんですか」
「……」
「祝言を挙げる予定だったんじゃないですか。それとも、本気で断るつもりですか」
「……斉藤」
ようやく土方が顔をあげた。
が、その黒い瞳は鋭い光をうかべ、凄味さえ漂わせている。
「おまえ……何が云いたい」
「……」
斉藤は黙ったまま、鳶色の瞳で土方を見返した。その表情がすべてを物語っている。
土方は文机に寄りかかると、ふっと苦笑した。
書類をしなやかな指さきで弄びながら、ゆっくりとした口調で云った。
「云っておくがな……おまえがどんなに奪おうとしても、俺は絶対に総司を離さねぇぞ。何があってもだ」
「横恋慕の挙げ句、横取りするつもりなんかありませんよ」
「ならいい」
「ですが、これだけはオレも云わせてもらいます」
斉藤はまっすぐ土方を見据えると、はっきり云いきった。
「総司を泣かせるのは、やめて下さい」
「……」
「あなたは昔から、さんざん総司を泣かせてきたのです。これ以上、あいつを傷つけないで下さい」
そう云うと、斉藤は土方の返事も待たず立ち上がった。
これでも忙しい身なのだ。新入り隊士たちの考試のため、やる事が山ほどある。
斉藤は踵を返すと、足早に部屋を出ていった。
その遠ざかる足音を聞きながら、土方は視線を落とした。その黒い瞳が昏く翳る。
「……そんな事、おまえに云われなくともわかっているさ」
ぐっと拳を固めた。
きつく眉根を寄せ、瞼を閉じる。
「……誰が…泣かせたいものか……っ」
苦渋に満ちた声は、昼下がりの空気に溶けた……。
