ある程度新入り隊士の募集にめどがつくと、土方はようやく日野へ向かった。
 手早く済ませたかったため、馬で向かった。
 日野は春の緑にみちあふれていた。青空が広く高く、とても心地よい。
 土方は久しぶりの日野に、やはり心がうきたつのを感じた。だが、それも佐藤家の屋敷が見えるまでだった。
 その立派な門構えが見えたとたん、土方の端正な顔は鋭く引き締まった。
 先に文をやってあるので、おそらく彦五郎やおのぶは勿論、お琴も待ちかまえている事だろう。
「……」
 固い表情のまま、土方は門内へ馬を乗り入れた。ひらりと飛び降りると、慌てて下男が駆け寄ってくる。
「……姉貴たちは」
 そう訊ねた土方の背に、声がかけられた。
「歳三さま」
「……」
 きつく唇が結ばれた。が、ゆっくりとした動作でふり返った。
 玄関に、美しい娘が佇んでいた。静かな瞳をこちらへ向けている。
 お琴だった。
 彼のために毒をあおったというが、少し青ざめている他は何も変わらなかった。
 土方は僅かに目を細めた。
「……病に倒れたと聞いたが、具合は」
「こうして外出できる迄になりました」
「そうか」
 静かな口調で答えると、土方の彼女の後ろへ視線を走らせた。
 馬の蹄の音を聞いて出てきたのか、彦五郎とおのぶが立っている。二人とも見た事ないほど固い表情だった。
 それに、土方は無言のまま目礼した。が、胸中では様々な思惑が渦巻いている。
 屋敷に入って奥へ通された土方は、ゆっくりと腰を下ろした。
 その姿や態度は、昔とは明らかに異なっていた。
 昔ならば小袖を着流し、こうしておのぶや彦五郎の前なら、くつろいで胡座をかきながら軽口を飛ばしていた彼だった。
 だが、今は、その端正な顔に怜悧な表情をうかべ、じっと押し黙っている。
 質のよい黒の小袖に、袴を身につけたその姿は一分の隙もなく、修羅場をくぐってきた者だけが持ち得る凄味さえ漂わせていた。
 その変化は、誰の目にも明らかだった。
「……歳、おまえは変わったな」
 そう呟いた彦五郎に、土方は切れの長い目をあげた。ふっと微かに唇の端をあげる。
「人は変わるものでしょう」
「だが、おまえほど変わるのも珍しい。この間来た勇さんはあまり変わっていなかった」
「そうですか」
 かるく肩をすくめた後、土方はふと目を伏せた。しばらく黙ってから、ゆっくりとした口調で云った。
「いや、実際……俺は変わったのかもしれませんね」
「……」
「男は本当に大切なものを手に入れた時、それを守るためなら、いやでも変わらざるを得ないのでしょう」
「本当に大切な……ものか」
「えぇ」
 頷いた土方に、彦五郎はそれきり何も云わなかった。懐手で黙したまま、目の前に端座する義弟を眺めている。
 そのまなざしを一度受け止めてから、土方はお琴に視線をうつした。お琴も黙って見返す。
「お琴さん」
 静かな声で呼びかけた。
「はい」
 と頷いたお琴に、言葉をつづける。
「お琴さんは、俺が今どんな仕事をしているか、知っているのか」
「……おのぶさまから、お話は伺っております」
 そう答えたお琴に、土方は目を細めた。
「伺っている、か。だが、それは華々しい部分ばかりだろう」
 ほろ苦い笑みが口許に浮かんだ。
「実際は、残酷な仕事ばかりだ。つまりは、人を斬ってまわり、挙げ句、味方の隊士たちをも処刑する。それらの裁量をしているのが、この俺だ」
「……」
「正直、鬼にならないとやっていけない仕事だ。だからこそ、俺は変わったとも云える。だが……どんなに心を鬼にしても、所詮は人だ。やはり辛い。恐れもするし、傷つきもする」
 土方は一つ息をつくと、言葉をつづけた。お琴はいつのまにか俯き、じっと聞いている。
「それでも、俺は何とかやって来た。それは……そんな鬼にならざるを得なかった俺を、ずっと傍で支え続けてきてくれた存在があったからだ」
「歳三さま!……それは……」
「すまない」
 弾かれたように顔をあげたお琴に、土方は静かな声で云った。
「今は何も云わず俺の話を聞いてくれないか」
 お琴は息を呑み、土方を見つめた。が、やがて、こくりと頷いた。
 それに視線をあててから、土方は言葉をつづけた。
「その者は俺を支え続けたと云ったが、実際は顔をあわせれば喧嘩ばかりだった。傷つけあってばかりだった。だが、それでも……何か事があった時、いつも一番に支えてくれたのは、あいつだった」
「……」
「俺は江戸へ発つ前、あいつに問いかけた。もしもこの世が明日滅ぶなら、誰の傍にいたいと願うか。俺はおまえの傍を願うが、おまえは違うのかと」
 そう云ってから、土方は微かな笑みをうかべた。
「答えは……京に戻ってから貰う事になっている。あいつがどんな答を出すのか、それはわからない。だが、これだけは確かに云える。俺はあいつしか望まないのだ。この世の終わりに、あいつといる事ができるのなら……他の何を引き替えにしても構わない」
「……」
 お琴は息をつめるようにして、彼の言葉を聞いていた。何も云わず、ただ土方を見つめている。
 それは、彼の話が終わった後も変わらなかった。
 そして。
 土方が一礼し、静かに部屋を出ていった時、お琴はそっと瞼を閉ざした……。













「……歳」
 後ろから掛けられた声に、土方はふり返った。
 そこに姉の姿を見たとたん、微かに瞳を翳らせる。
 だが、それに、おのぶは首をふってみせた。
「安心なさい。お琴さんはこの縁談なかった事にと……そう云っていたわ」
「……そう、ですか」
 頷いた土方に、おのぶは微かに目を伏せた。
「仕方ない…わね」
「……」
「わたし達はずっと、あなたがただ所帯をもつ面倒さのためと、仕事の多忙さを理由に断り続けていると思っていたのよ。でも、本当は……そうじゃなかった」
「……姉さん」
「大切な人がいるなら……一生を共にしたい人がいるなら、それでいいの。わたし達は、あなたの幸せを一番に願っているのだから」
「姉さん、すみません」
 そう云って頭を下げた土方に、おのぶは小さく笑った。それは、彼が思わず息を呑んだほど、慈愛にみちた優しい微笑みだった。
「何を謝ってるの。悪い事をした訳でもなし……そりゃ、お琴さんには気の毒したわ。でも、おまえみたいな男の許に嫁いでも、苦労するだけだったでしょうしね」
「俺にはもったいない女性だと思っています」
「本当よ。後で、悔やんでも知らないから」
 それに、土方は苦笑した。が、きっぱりと云いきる。
「いえ、絶対に悔やみません。俺があいつを選んだ事を悔やむ日など、永久に来ない」
 黒い瞳をまっすぐ姉にむけ、断言した。僅かに頬を紅潮させている様が、まるで少年の頃に戻ったようだった。
 そんな弟の様に、おのぶは静かに微笑んだ。
 馬の鐙に足をかけ、ひらりと跨った土方を、見あげた。
 それから、訊ねた。
「後どれぐらい江戸にいるつもりなの?」
「新入り隊士たちの募集が終われば、すぐ京に戻ります」
「道中気をつけてね。近藤さんにもよろしく」
 そう云ってから、おのぶは一瞬言葉を途切らせた。僅かに躊躇うように、視線を伏せる。
 やがて、顔をあげて弟をまっすぐ見つめると、優しい声で云った。
「それから……総司さんにも、よろしくね」
「……」
 土方は無言のまま、おのぶを見返した。だが、すぐ微かな笑みを口許にうかべると、静かに頷いた。
 馬の手綱を握り直し、走らせ始める。
 青空の下、門をくぐる時にふり返って見た姉の姿は、土方の目に、小さく淋しげに映った……。












 総司は微かにため息をついた。
 ここの処あまり行っていなかった医者の処へ、ようやく足を運んだのだ。
 医者は診察し始めてすぐ眉を顰めたが、最中は何もいわず手を動かしつづけた。
 診察が終わると、医者はゆっくりと云った。
「……はっきり云わせて頂きましょう」
「はい……」
「あなたは本気でこの病を治す気がおありなのか」
「……」
 黙り込んでしまった総司に、医者は口許を引き締めた。
「この病が完治しないものである事は、確かだ。さりながら、本人の心がけ次第では、進行を遅らせる事もできる。だが、あなたはその努力を全くされる気がないようだ」 
「……すみません」
「謝って欲しい訳ではない。あなた自身の体の事ですからな」
 そう云ってため息をついた医者は、まっすぐ総司を見据えた。
「今の隊から出て養生する事は、本当に出来ませんか」
「出来ません」
「……あなたの命が、もってあと二年だと聞いても尚ですか」
 はっとしたように、総司の目が瞠られた。そのきれいな顔がすうっと青ざめる。
「それは……事実なのでしょうか」
「医者が患者に虚言を云うと、お思いか」
「いえ、申し訳ありません。でも……」
 総司は僅かに目を伏せた。その細い指さきがぎゅっと袴を握りしめた。
「私は、それでも、応と答えるしかないのです……」
「つまり、今の隊を出る気は全くないと」
「はい」
 揺るぎない総司の答えに、医者は深く嘆息した。しばらく黙ってから、もう一度念押すように云った。
「残酷な宣告だが……このままの生活を続ければ、二年後、あなたは確実に死んでいるでしょう」
「……」
「もっと……生きたいと願わないのですか」
「思います。でも、床に伏せたまま命を長らえるより、私は、今この時を精一杯生きたいと願っているのです」
「……」
 医者はもう何も云わなかった。無言のまま微かに頷くと、後で薬を出すゆえ必ず持って帰って飲むようにとだけ告げた。
 総司は丁寧に一礼すると、医者の前から辞した。
 薬を受け取ってから外へ、町中へ出たとたん、不意に実感が込みあげた。


(……もってあと二年……)


 不思議と、怖くはなかった。
 自分の身が労咳に冒されていると知った時から、ある程度覚悟していた事なのだ。
 今更、涙もこぼれなかった。
 だが───


(……土方さん)


 突然。
 先日に囁かれた彼の言葉が、息をのむほど鮮烈によみがえった。 


 この世が終わると知った時、誰の傍へ行きたいと思うか。
 自分の最期を誰と迎えたいと望むのか……それをよく考えて欲しいんだ。


(土方さん……その最期、意外と早くなってしまったみたい)


 総司は目を伏せると、小さく笑った。
 なぜだか、笑いがこみあげたのだ。偶然だと思うが、奇妙なほど可笑しかった。
 あの人もまさか、こんな事になると思わず告げたのだろう。だが、実際、自分は二年後の死を宣告されてしまったのだ。
 二年。
 二年の時が過ぎた時、この世に自分はもういない。
 その事は怖くないと思っても、それでも、その最期を思うと心が沈んだ。
 最期を迎える時、私にとってのこの世が終わる瞬間。
 私は、あの人の傍にいられるのだろうか。
 本当に、それを望んでもかまわないのだろうか。
 あの人の愛を疑う訳ではないが、でも、病に斃れ死に逝く私がこんな贅沢な願いを、本当に抱いていいのか。
 こんなにも罪深い、私が。
 望むべくもない事を願い、渇望している滑稽さ。
 だが、それでも望んでしまうのだ。
 二年という限られた時を告げられたからこそ、尚。


 この世が終わる時。
 私が死にゆく時。
 土方さん、あなたにいて欲しい、と。


 心から……。












 土方が明日には戻ってくるという知らせが、京にいる近藤の元へ届けられた。
 それを聞いた総司は、黙ったまま目を伏せただけだった。
 近藤は気遣わしげに弟子を眺めると、静かに呼びかけた。
「……総司」
 局長室だった。
 奥まった場所にあるこの部屋へ、隊士たちがやって来るのは稀なことだ。むしろ、近藤の方がこの室に腰を落ち着ける暇もなかった。様々な外向きの仕事に追われているのだ。
 だが、今日は珍しく朝から居室していた。
 近藤はゆっくりと言葉をつづけた。
「歳の縁談……なくなったそうだ」
「──」
 弾かれたように、総司が顔をあげた。
 大きな瞳が見開かれ、信じられぬ事を聞いたように息をつめている。
「……そん…な……」
「おまえの名は一切出さず、破談にしたと書いてきた。お琴さんの方から断ってきたらしい」
「だ…って、お琴さん、自害までしたのに……なのに……っ」
「詳しい事情はわからんが、これで歳も自由の身だ」
 そう云ってから、近藤は穏やかな目で総司を見つめた。
「あの時、あれほど反対したのは、歳が許婚のある身だったこともあるが、おまえの事も心配だったのだ。おまえが歳と一緒にいて、幸せになれるとは到底思えんかったからな」
「……」
「いずれ、しかるべき家のいい娘を世話し、おまえに娶せようと思っていた。それがいきなり、歳が相手だ。驚いて当然だろう」
 近藤は苦笑し、手元の湯飲みを取り上げた。
 一口飲んでから、再び総司を見た。
「あいつと歩む道は決して平坦ではないぞ。幸せどころか、むしろ茨だらけの道かもしれん」
「……」
「それでも望むのか。歳と共に生きる覚悟がもう出来ているのか」
「出来ています」
 きっぱりとした口調で、総司は云い切った。
 綺麗に澄んだ瞳でまっすぐ近藤を見つめ返し、告げた。
「近藤先生のおっしゃられるとおり、あの人と歩む道はおそらく茨だらけのものでしょう。でも、それでも私は土方さんと共に生きたいのです。あの人の傍にいられるなら、他の何を失っても構いません」
 しばらく間、近藤は黙ったまま弟子を見つめていた。何を思うのか、じっと無言のままでいる。
 それを見返した総司は、小さく息を呑んだ。
「──」
 その目に、微かに光るものがあったのだ。が、それを総司に気づかれたと知ったとたん、近藤はすっと顔をそむけた。
 微かな苦笑をうかべる。
「……ならば、もう何も云うまい」
「近藤先生……」
「総司、おまえの人生だ。好きになさい」
「……はい」
 総司は深々と頭を下げると、立ち上がった。障子に手をかけ、部屋から歩み出てゆく。
 ふり返ってみた近藤は腕を組み、瞑目していた。そんな師の姿に何か云いたくなる。だが、言葉が見つからなかった。
 もう一度だけ頭を下げると、総司は静かに障子を閉めた……。












 日が沈んだ頃、土方は京に戻ってきた。
 もう夕闇がみち、空には淡い月の光がぼんやりと浮かんでいる。
 朧月だった。
 それを見あげながら、土方は屯所の門をくぐった。待ちかまえていた近藤が喜びと安堵の表情で迎えてくれる。
 土方は近藤に、こんな時刻になってしまった事を詫びた。やはり、彼一人の旅ではなく、また行きと違い、新入り隊士たちを連れての旅だ。なかなか上手く捗らぬ事もあったのだ。
「そんなもの構わん。無事で戻ってきたのが一番だ」
 穏やかに答えてくれた近藤に、思わず微笑んだ。
 ふと、視線がその後ろへむかう。だが、そこに総司の姿はなかった。さり気なく視線を走らせてみても、どこにもいない。


(……出迎えてもくれねぇのか)


 見送る時は、近藤の後ろに立ち、ひっそりと見送ってくれたのに。
 ほんの僅かな間に、総司の心はもう自分から離れてしまったのだろうか。
 ならば、あの問いかけに対する答えは?
 やはり否なのか。
 出迎えない。そのこと自体が否ということなのか──。
「……」
 思わず眉を顰めた。ぐっと口許を引き締める。
 そんな土方の心情を察したのか、近藤が微かに苦笑した。框をあがった土方と肩を並べながら、云った。
「とりあえず風呂にでも入って、躯を休めろ。話はそれからだ」
「……あぁ」
「後で着替えを持っていかせる。ほら、行ってこい」
 近藤の気遣いに感謝しながら、土方は風呂場へ向かった。手早く着物を脱ぎ捨てると、裸になり風呂へ入った。
 髪と躯を洗ってから湯につかると、実際、かなり自分が疲れていたのだとわかる。思わず吐息がもれた。
 そろそろ上がろうかと思った頃だった。
 からりと脱衣場の戸が開く音がした。誰かが入ってきて着物を置く。
 それから、小さな声で云った。
「……お着替え、ここに置いておきます」
「!」
 鋭く息を呑んだ。
 聞き間違えるはずもない、その甘く澄んだ声は総司のものだったのだ。
 狂おしいほど、愛しい恋人の。
「……総司!」
 思わず土方は立ち上がり、湯から出た。大股に風呂場を横切り、戸を引き開ける。
 ふわっと白い湯気が脱衣所にもたちこめた。
「──」
 目を瞬いた。
 そこには、誰もいなかったのだ。
 先程の声は、総司を恋うあまりの幻聴かと、思わず己自身を疑ってしまう。
 だが、視線を落としたそこには、入浴前にはなかった着物があった。籠の中にきちんと畳まれてある。かわりに彼が着ていた着物が消えていた。
 一瞬だけ現れ、彼の心を翻弄した挙げ句、去っていったのか。
「……本当に、蝶だな」
 思わず苦笑した。


 ひらひらと舞う、美しい蝶。
 つかまえた──と、そう歓びに胸を熱くしたその瞬間には、ひらりと舞い上がってしまう。
 それに慌てて手をのばし、再びとらえようとしても、その姿はもう空高く遙かで。
 愚かな男は、息苦しいほどの切なさを噛みしめ、立ち尽くすしかないのだ。


 土方は着物を手にとりながら、僅かに目を伏せた。
 そして、思ったのだった。




 いつか、俺はつかまえる事ができるのだろうか──?
 あの美しい蝶を。
 この手の中に……。