木漏れ日が眩しかった。
陽光に若葉がきらきらと輝き、青空に映える。
季節は春へ移ろうとしていた。それはとりもなおさず、土方の江戸行きが近づいている事を意味している。
彼の祝言が近づいている事も。
「……」
土方は筆を置くと、小さく嘆息した。文机に肘をついて寄りかかり、こめかみを押さえる。
ここのところ仕事に忙殺され、休む間もなかった。
疲れがたまっているようで、頭が鈍く重い。
だが、疲れの理由は仕事ばかりではなかった。
土方は江戸にいるおのぶや彦五郎とのやりとりに、ほとほと嫌気がさしていた。もう何度文を往復させたことか。
破談にしてくれと告げる土方に、今更できるものかという彦五郎たち。
いつまでたっても埒のあかぬやりとりに、精神的にも疲れがたまり始めていた。つくづく婚姻というものは、本人同士の意思などでなく、家同士のものなのだと思い知らされる。
(疲労がたまった挙げ句、いっそ病にでもなって、江戸へ行けなくなればいいのだが)
そんな事まで考えてしまい、思わず苦笑した。
(ふつうなら、喜び勇んで行くところだろうな……)
お琴のことはよく知っていた。
美しいし、気だてもよい。出自も申し分なかった。
何一つ不足のない娘だ。むしろ、不足があるとしたら、自分の方だろう。
だが、どうしても愛情を感じることができなかった。好きか嫌いかと答えれば、好きだと答えるだろうが、それは花や草木の好みを聞かれるようなものだ。
土方が心から愛することができるのは、この世でただ一人。
総司、だけだったのだから……。
「……失礼します」
静かな声が廊下からかかり、すっと障子が開かれた。
ふり向くと、総司が部屋に入ってきた処だった。気遣わしげな表情で、彼を見ている。
「大丈夫ですか?」
「おまえに躯の調子を聞かれるとはな」
「ふざけてる場合ですか」
そう答えた総司の声音は、だが、心やすく柔らかい。
そっと湯飲みを彼の前にさし出した。
「梅湯を入れてきましたから、飲んで下さい」
「あぁ……ありがとう」
土方はその酸っぱい湯を飲み干し、微かに息をついた。疲れにいいと聞いた総司が、彼のために何度かつくるようになったのだ。
湯飲みを盆に戻しながら、切れの長い目で恋人を見やった。
「俺の事よりも……おまえはどうなんだ。医者の方にはちゃんと行っているのか」
「行っていますよ。大丈夫です」
「どうだかな」
「大丈夫ですって。それに、私の躯が調子いいかなんて……」
ちょっと口ごもってから、総司はちらりと目をあげた。大きな瞳で、目の前に坐る土方を見つめる。
「土方さんが……一番よく知っているでしょう?」
「……」
土方の目がかるく見開かれた。
まさか、こんな事を総司が口にするとは思わなかったのだ。だが、それだけ心許してくれているという事だろう。
ようやく手にいれた恋人を前に、土方は気持ちが浮き立つのを抑えられなかった。
あの伏見での夜から、総司は彼を拒まなくなった。少なくとも彼の愛情には素直に応えてくれる。
これ以上望んだら望みすぎだと、思っていた。
ほんの少しずつでいい。
自分に心を開いてくれればいい───
「……総司」
思わず両手をのばしてしまった。
「あ、だめ」
慌てて逃れようとする総司を抱きあげ、己の膝上に坐らせる。細い腰を腕でかき抱き、背中に手をあててかるく支えた。
障子が固く閉められているのを確かめてから、深く──唇を重ねる。
「ぁ、ん……っ」
総司はまだ微かに抗っていたが、より口づけが深くなると、その抵抗もやんだ。
震える細い指さきで彼の肩にしがみつき、瞼を閉ざしている。
おずおずとであったが、懸命に彼に応えようとしているところが、たまらなく可愛かった。
思わず艶やかな髪に指をさし入れ、かき乱してしまう。
ふたりは口づけに夢中になり、きつく互いを求めあった。次第に息が乱れ、甘やかな口づけと抱擁だけに溺れこんでゆく。
その、瞬間だった。
カタンッと微かな音が鳴ったのだ。
それに土方は気づき、視線をあげた。とたん、鋭く息を呑む。
「!」
いつのまにか障子が細く開かれ、そこに近藤が立っていたのだ。
愕然とした表情で、二人を見下ろしている。その厳つい顔は青ざめてさえいた。
「……っ」
土方は膝上から素早く総司を抱きおろした。それに、え?と総司が小首をかしげる。何も気づいていないのだ。
だが、彼の固い表情に何かを察してふり返ったとたん、ひゅうっと喉を鳴らした。その目が大きく瞠られる。
思わず縋るように、土方の腕にしがみついた。
「こ、近藤先生……っ」
怯えきった総司の声に、土方は我に返った。すぐさま総司を己の背へ押しやると、切れの長い目でまっすぐ近藤を見返した。
「……何か用か」
そう低い声で訊ねた土方に、近藤は何も答えなかった。
ただ信じられぬものを見たように、寄りそう二人を凝視している。
それに、土方は言葉をつづけた。
「話は局長室で聞くよ。とにかく、今は出ていってくれねぇか」
「……」
近藤は何も云わず立っていたが、やがて、応とも否とも答えぬまま踵を返した。
彼にしては荒い足音をたて、歩み去ってゆく。
それを聞きながら、土方はゆっくりと立ち上がった。静かに障子を閉めながら、思わず嘆息してしまう。
気がつけば、背後で総司が啜り泣いていた。
ふり返った土方は、それに歩み寄った。傍らに跪き、その細い肩に手をかける。
総司が顔をあげた。
もう、その瞳は涙でいっぱいだ。
「土方…さん……っ」
「……」
「どうすれば…いいのですか? 近藤先生に知られて、私たち……どうしたら……っ」
「何も心配するな」
土方はおっかぶせるように云いきった。
「俺がうまく始末つけるから、おまえは何も心配する事ねぇんだ」
「土方…さん……」
「それより悪かった。俺は、おまえとの仲を伏せたまま事を納めるつもりだったのに……」
「そんな……いいのです!」
総司は激しく首をふると、土方の胸もとに飛び込んできた。ぎゅっとしがみつき、涙まじりの声で懸命に告げる。
「私は、あなたを受け入れると決めた時から、覚悟していました。あの日……伏見の宿へ行った時、何があってもあなたを愛したいと思っていたのです。だから……」
「総司……」
土方の胸に熱いほどの想いがこみあげた。
腕の中にいる総司が、愛しくて愛しくてたまらない。
何があっても、失いたくなかった。
もしも、この腕の中から総司が失われるような事があれば、きっと自分は狂い死んでしまうだろう。
総司がいなければ、もう──生きてゆけないのだ。
「……愛してる」
心からの想いをこめて囁いた土方に、総司は目をあげた。
そして。
涙に濡れた瞳で彼を見つめると、震える声でそっと答えたのだった。
「……愛しています……」
局長室には重苦しい沈黙が落ちていた。
近藤は黙り込んだまま、手にした扇子を開いては閉じるをくり返していた。
そのパチンという音だけが部屋に響く。
近藤の前に端座した土方は僅かに視線を落としたまま、押し黙っていた。その端正な顔には、決意の色が濃い。
膝上で固められた拳が彼の強い意志をあらわしているようで、近藤は思わず嘆息した。
だが、それにしても、このまま見過ごす訳にはいかないのだ。
笑って済ませられるような問題ではなかった。
「……歳」
呼びかけた近藤に、土方は顔をあげた。
それに、言葉をつづけた。
「おまえは分っているのだろうな。事の重大さを」
「あぁ」
「おまえは仮にも許婚がいる身で、しかも翌月には祝言を挙げるのだぞ。なのに……」
「破談にしてくれるよう、文を出した」
「──」
突然の言葉に、近藤は目を剥いた。絶句してしまっている。
それに、土方は静かな声でつづけた。
「義兄や姉貴とも、もう何度も文をやり取りしている。もっとも、話は頓挫しちまっているが」
「いつのまに……」
「あんたに云えば、迷惑がかかると思った。心配をかけたくなかったんだ」
「今この状況がそうでないと思っているのか!」
思わず近藤は声を荒げた。
「あんな事をして、いったいどうなると云うのだ。立派な縁談を蹴ってまで、おまえは……っ」
「……」
「それに、総司も何を考えている! おまえが許婚のある身でわかっていながら、しかも男相手に……」
「総司に罪はない」
はっきりと土方は云いきった。
燃えるような黒い瞳を近藤にむけながら、告げた。
「俺があいつに手を出したんだ。拒むあいつを無理やり俺のものにした」
「なん…だと」
彼の言葉に、近藤は息を呑んだ。ぐっと拳が固められる。
「おまえ……まさか総司を手込めにしたのか!」
「それに近い事はした」
「歳ッ!」
「だから、非難するのは俺だけにしてくれ。頼むから、総司には何も云わないでくれねぇか。ただでさえ……こたえているんだ」
そう云ってから、土方は僅かに目を伏せた。その口許が引き締められ、黒い瞳が深く翳った。
「さっき……あいつ泣いていたからな。あんたに知られた事が余程、辛かったらしい」
「……総司が……」
「俺はあいつに泣かれるのが、一番辛い」
土方はほろ苦い笑みを口許にうかべ、片手で目元をおおった。
「これ以上、傷つけたくなかった。だからこそ、総司の名だけは出さぬように事を納めたかったんだ」
「なら……日野の方には、明かしてないのか」
「当然だ。云えるものか」
「だろうな」
そう呟いた近藤は、深く嘆息した。それきり黙ってしまう。
腕組みをすると、難しい顔で考え込んだ。もう何も云うつもりはないらしい。
それを見てとった土方は、静かに立ち上がった。
今更、言い訳も謝罪も何も通らない。そんなもの何の助けにもならぬとよくわかっていた。
すべて初めから覚悟していた事なのだ。
裏切りも罪も何もかも。
総司をこの腕に抱いた時から───
土方はきつく唇を引き結ぶと、踵を返した。
「……土方さん」
副長室へ戻ると、総司はまだそこにいてくれた。
今まで泣いていたのか、その目は赤く腫れている。何度も噛みしめたらしい唇も血がにじみ、痛々しい。
それらを目にしたとたん、土方の胸は鋭く痛んだ。
わかっていた事とはいえ、こんな地獄へ総司を引きずり込んだのは己自身なのだ。
それも無理やり愛をこじあけての結果だった。
罪に問われるのは、自分だけでよかったはずなのに……。
後ろ手に障子を閉めた土方に、総司は駆け寄ってきた。
不安そうな瞳で見つめられる。
それを柔らかく抱きよせ、微笑みかけた。そっと額に口づける。
「大丈夫だと、云っただろう……?」
「でも……」
「おまえは何も知らなかった事にするんだ。近藤さんと顔をあわせても、絶対この事は口にするな」
「そんなの……できません」
ふるふると総司は首をふった。
土方の胸もとを縋るように掴みながら、言葉をつづけた。
「何も知らなかったなんて……私も当事者です。そんなこと……」
「俺は、おまえを巻き込みたくない」
そう答えてから、土方はふっと唇を歪めた。
「とことんまで巻き込んじまってから云う台詞ではないが、とにかく……おまえをこれ以上傷つけたくない。いや、傷ついてほしくねぇんだ」
そっと指さきで、総司の唇にふれた。
痛ましげに、眉を顰める。
「こんなに噛んで……血が滲んでいるぞ」
「……」
「もう泣くな。俺はおまえの涙が一番辛い……」
優しい声で囁いた土方に、総司は唇を震わせた。が、やがて黙ったまま頷くと、彼の胸もとに凭れかかった。
長い睫毛を伏せ、小さく唇を噛んでいる。
そんなふうに噛みしめれば、また切れてしまうのに。
思わず眉を顰めた土方の前で、総司はそっと睫毛を瞬かせた。
なめらかな頬を、また一粒の涙がぽろりと零れ落ちる。
儚く、そして、何よりも美しい表情。
「──」
一瞬、息がとまった。
(……まるで、今にも消えてしまいそうだ)
思わず、総司の躯を両腕できつく抱きすくめた。
だが、それでも。
今この瞬間にも、総司が消えてしまいそうな不安は、かき消される事はなかったのだった……。
その知らせをもたらしたのは、近藤だった。
数日後の夕刻、土方が局長室に呼ばれ行ってみれば、難しい顔の近藤と、俯く総司がそこにいた。
「……土方さん」
部屋に入ってきた土方に、総司は小さく目を瞠った。が、すぐ項垂れるように視線をおとしてしまう。
その儚げな様子に、嫌な予感を覚えた。
思わず声を荒げた。
「近藤さん、あんた……!」
ぴしゃりと障子を閉めると、土方は大股に部屋を横切った。
部屋の中央で仁王立ちになり、鋭い瞳を近藤にむけた。
「話が違うだろう! 総司には何も云わないと約束したはずだ」
「歳、落ち着け」
嘆息まじりに、近藤は云った。
とにかく坐るよう促してから、ちらりと総司の方へ視線をやる。
「総司がここにいるのは偶然だ。隊のことで話があって呼び寄せていたら、ちょうど……これが来たのだ」
そう云いながら目の前にさし出してきたものを、土方は眺めた。
腰を下ろしながら、眉を顰める。
「? それは……」
「文だ」
「そんなもの見ればわかるさ。だが、誰からの?」
「おのぶさんからだ」
「何で、姉貴からあんたの処に……」
そう云いかけ、はっと気づいた。
いつまでたっても堂々巡りのやり取りに腹をたて、姉は近藤に助けを求めてきたのではないか。
だが、近藤はゆるく首をふった。
「向こうから火急の知らせとして来たのだ。さすがに、おまえへ直接伝えるのは憚られたのだろう」
「……どういう意味だ」
「読めばわかる」
さし出された文を、土方は口許を引き締めながら受け取った。はらりと開き、目を通しはじめる。
とたん、鋭く息を呑んだ。
「……」
読みすすめるうちに顔色が変わってゆく土方を、総司は不安そうに見つめた。縋りついて訊ねたいが、近藤の前だ。それも憚られ、黙って見つめるしか出来なかった。
やがて、読み終わった土方は、長いため息をもらした。文を丁寧に折り畳んで近藤へ返すと、じっと瞑目してしまう。
「……歳」
静かな声で呼びかけた近藤に、土方はゆっくりと目を開いた。
しばらく黙ってから、総司の方へは視線を向けぬまま、低い声で命じた。
「総司……席を外せ」
「え?」
目を瞬いた総司に、言葉を重ねた。
「席を外せと云っているんだ。俺は今から近藤さんと話がある」
「……い、いやです」
総司は思わず激しく首をふった。
彼の様子から良い知らせではない事もわかる。それに、自分にも何らかの関係がある事も。
なのに、知らぬ顔で出てゆけるはずがない。
「いやです。私はここにいます」
「駄目だ」
「どうしてですか? 私ももう二十歳を過ぎてます、立派な大人です。また子供扱いするのですか?」
「そういう事じゃねぇんだ。云っただろう? 俺はおまえを巻き込みたくない」
土方は厳しい表情で、きっぱり云いきった。
「おまえが知らない方がいい事もあるんだ。知ってどうにかなる事でもない」
「……」
「とにかく、今は席を外せ」
「いやです」
「総司ッ!」
とうとう一喝した土方に、総司はびくんっと身をすくめた。大きな瞳を見開き、唇を震わせながら彼だけを見つめている。
まるで怯えた小動物のような様子に、土方は思わず嘆息してしまった。
額にかかる髪を片手でかきあげ、忌々しげに舌打ちする。
それにまた、総司が泣きそうな顔をしたのも目の端でとらえていたが、近藤の前で慰めてやる訳にもいかなかった。きつく奥歯を食いしばる。
「……」
そんな二人の様子を黙って眺めていた近藤が、不意に口を開いた。
「……歳」
「……」
「総司の云うとおり、総司も子供ではないのだ。それに、隠そうとしても人の噂に聞いてしまうかもしれん。その方が余程傷つくと思わんか」
「……」
近藤の言葉に、土方は虚をつかれたような表情になった。
考えこむように目を伏せたが、やがて、低い声で呟いた。
「そう…かもしれねぇな。いずれ知れる事なら、いっそ今知った方がいいのか」
「……」
「総司」
土方はゆっくりと総司の方へ向き直った。
それから、近藤の前である事も構わず、総司の手をとり握りしめた。そっと瞳を覗き込みながら、真摯な口調で話しかける。
「いいか? これだけは覚えていてくれ」
「……土方さん」
「俺はおまえを大切に思っている。何があっても手放さない。それは、たとえ……おまえ自身が拒んでもだ」
「……」
「おまえを手にいれるためなら、誰を傷つけてもいい。そう覚悟して望んだ恋だ。何があっても、俺はおまえを諦めたりしない」
そう静かな声で云ってから、土方は自分を落ちつかせるように、ふうっと息をついた。
一瞬だけ固く瞼を閉ざしてから顔をあげ、この世の誰よりも愛しい恋人をまっすぐ見つめる。
そして、ゆっくりと告げたのだ。
事実を。
「……お琴が自害した」
と。
「あとがき]
お琴さん、お亡くなりになってません。自殺未遂です。ただ、総司にとっては、どちらにせよショックで……。つづき、また読んでやって下さいね。
