気が付けば、随分と辺りは暗くなってきていた。
 伏見稲荷の鳥居をくぐり、階段を下りてゆく頃にはもう夕闇があたりにみちはじめている。
 ゆっくりと階段を下りていた総司は、途中で立ち止まった。見あげれば、空にまだ淡い色合いの月が浮かんでいる。
 真昼の月に似た、美しい下弦の月だ。
 それをぼんやり見あげていると、不意に傍らから声をかけられた。
「……いつまでそうしている気だ」
「えっ?」
 聞き慣れた低い声に、息を呑んだ。
 だが、慌てて周囲を見回してみても、誰もいない。赤い鳥居と階段がつづくばかりだ。
 風にざぁっと木々が揺れた。
 戸惑っていると、夕闇の向こう側で、低い笑い声が響いた。
「!」
 総司は思わず叫んだ。
「土方さん……どこにいるの?」
 答は、すぐ返ってきた。
「さぁ、どこだろうな」
 揶揄するような声音だった。
「どこに俺がいるか、探してみろよ」
「探すって……そんな」
 総司は戸惑い、唇を噛んだ。それに、土方は言葉をつづける。
「おまえにはさんざん逃げ回られたからな。今度は、俺が逃げる番だ」
「土方さん」
「鬼ごっこ、得意だろう?」
 楽しげでどこか意地悪な男の口調に、総司は黙り込んだ。まだ戸惑いを隠せぬまま、答えた。
「得意、ですけど」
「じゃあ、捕まえてみろよ」
「捕まえたら……何かあるのですか?」
「さぁ……」
 男の声が笑った。
「それは、捕まえてからのお楽しみかな」
「じゃ、絶対に捕まえます」
 総司はそう云いきった。
 だが、なかなか土方の居場所は掴めない。
 もともと彼は猫のように足音一つ立てず、動くことが出来るのだ。気配を消すこともお手の物だ。
 悔しいけれど、叶うはずがなかった。
 だが、そんな彼を探す事に夢中になっている総司は、全く気づいていなかった。
 いつのまにか、ずっと今まで逢わなかった事も、二年という限りある命の事も、ふわっと消えてしまっていた。
 そこには恋しあい愛しあっている恋人同士だけが、ひっそりと存在している。
 月明かりの下。
 二人だけの……恋人たちの鬼ごっこだった。








「つかまえた!」
 不意に、明るい声が空の下で響いた。
 鳥居の一番下の段で、総司はようやく土方をつかまえたのだ。
 嬉しくて嬉しくて、子供のようにはしゃいでしまう。
「土方さん、つかまえました。私……」
 言葉が途切れた。
 突然、その華奢な躯に腕がまわされたかと思うと、ぎゅっと息もとまるほど抱きしめられたのだ。
 背中にまわされた、男の力強い腕。
 久しぶりに感じる彼のぬくもり。
 優しい彼の匂い。
 耳を押しあてれば聞こえてくる、静かな鼓動。
「……総司」
 細い肩口に額を押しつけ、土方は微かに震える声で云った。
「……愛してる……っ」
「……」
「愛してる……おまえだけを愛してるんだ……!」
「! 土方…さん……」
 男の腕の中、息をとめた。
 わかったのだ。
 彼の声の切なさに、感じとった。


(……あぁ……)


 思わず祈るように目を閉じた。
 この人は──知ってしまったのだ。


(……私の命があと二年だという事も、すべて……)


 そう思った瞬間、総司の胸に込みあげたのは不安ではなかった。
 先程まで抱えていた、拒絶されるという不安など何処にもなかった。
 あるのはただ──切ないほどの悲しみだった。
 そっと目を開いたが、抱きしめられているため視界は何も見えない。
 ただ、男の胸もとに深く深く抱きしめられる。その広い背に、そっと両手をまわした。
「……土方さん……」


 私の限られた命を知った時、この人はどんなに傷ついただろう。
 どんなに傷つき、嘆き、苦しんだ事だろう。
 いつか私は、この愛おしい──いつも強がって冷たい顔をしてみせるくせに、本当は誰よりも優しくて心脆い彼を、残して逝かなければならないのだ。
 あと二年で、土方さんは一人になってしまう……。
 それがたまらなく辛かった。
 私自身の命が消えることよりも、土方さんを一人残して逝く──そのことが、泣きたいぐらい悲しかった。


 じんわりと涙が込みあげた。それは止めるすべもなく、あとからあとから溢れて。
 彼の着物の胸もとを濡らしてしまったが、それを土方は咎めだてする事はなかった。ただ黙ったまま、そっと抱きおこすと、こぼれる涙を彼の唇で優しくぬぐってくれた。
 潤んだ瞳で見つめると、土方は静かに微笑んだ。
 そして、囁いた。
「……ずっと一緒にいよう」
 目を瞠った総司に、静かな声でつづけた。
 それは、悲しみに震える総司の心に、優しくしみいるような彼の声だった。 
「ずっと、ふたり一緒に生きてゆこう。もしも……おまえが様々な理由で拒んだとしても、俺は二度と離さない」
 そう云ってから、土方はその黒い瞳でまっすぐ総司を見つめた。
「この世が終わる時……傍にいたいと願うのは、総司、おまえ唯一人だ。他の誰でもない、おまえだけだから……」
「……土方…さん……」
 震える声で彼の名を呼んだ総司を、ゆるく両腕で守るように抱きすくめた。
 そっと問いかけた。
「おまえは? 総司……おまえは……?」
「……私も…です」
 総司は涙に濡れた瞳で、懸命に土方だけを見つめた。
 のびあがると、細い両腕で男の首をかき抱いた。縋るように抱きつきながら、涙まじりの声で告げる。
「私も……あなたの傍にいたい。ううん……いさせて下さい」
「総司……」
「この世が終わる時だけでなく……ずっとずっと、いつまでも……」



 たとえ、この世では果たされぬ願いであっても。
 それでも、死して尚、いつまでも。私は、あなたの傍にあるから。
 あなたが凍てつく荒野の中、一人立ちつくす事になっても。
 その時、私が遠く離れた地で息絶えていても。
 それでも。


 土方さん。
 私はあなたを愛してる。
 あなたも私を愛してる。
 だから……もう何も怖くない。
 何も恐れない。


 そこに、愛がある限り───









 ……月明かりの中。
 恋人たちは、静かに互いを抱きしめあった。
 まるで一つになりたいと願うかのように。
 一つの魂に戻りたいのだと。
 心からの願いを、互いに刻むように。




 いつまでも

 柔らかく降りそそぐ月明かりの中で───……



















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