土方が江戸より京へ戻ってから、数日がたっていた。
 あの時、江戸から連れ戻った新入隊士たちもそれぞれ配属され、さっそく忙しく働き始めている。
 土方自身も副長の激務に追われ、息つく暇もない程だった。やはり彼がいない間に、様々な問題が滞ってしまっていたのだ。局長の近藤はこういった細々とした事務的なものの処理は不得手だ。
 副長室の明かりは毎夜、遅くまで灯されていた。
 そして、そんな忙しい日々もようやく一段落つきかけた頃、土方はある事に気づいて眉を顰めた。
 否、本当はずっと前から気づいていたのだ。知っていながら、あえて目をそらしてきただけだった。


 ──総司に避けられている


 それは、確かな事実だった。
 江戸から戻った最初の日、風呂場で声を聞いて以来。
 まったくその姿を目にしていないのだ。それは驚く程だった。
 だが、しかし、それは以前とは違う形となっていた。
 声は聞いた。
 ふわりとひるがえる袂も見た。
 その気配も。
 さりながら、土方がそれに気づき、ふり返ったとたん、去ってしまうのだ。まるで、夢幻のように。
 まさに、美しい蝶だった。


 男の手には、永遠に囚われぬ蝶───


「……まったく、翻弄されてるな」
 土方は片手で口許をおおい、苦笑した。
 今も、総司に去られてしまったところだった。否、去った後に気づいたと云うべきか。
 ほんの僅か席を外した隙に、副長室の文机の上、そっと置かれてあった梅湯。
 淡い湯気がたちのぼるそれは、総司がいつも入れてくれたものだった。
 疲れがとれるからと、さし出してくれた総司の微笑みを思い出し、胸奥がじんわり熱くなった。
「こんな事するぐらいなら、俺に逢ってくれよ」
 少し怒ったような口調で呟き、土方はその湯飲みを手にとった。一口飲むと、甘酸っぱい味がひろがる。
 土方は湯飲みを置くと文机に頬杖をつき、考え込んだ。


 いったい、どうして総司が自分を避けているのか。
 その理由はわからないでもなかった。
 おそらく、あの問いかけへの答を出すのが怖いのだ。
 いや、それとも……このこと自体が否という事なのか。
 確かに、もし否なら終わりにしようと云ったのは、自分の方だったが……。


「実際そうなれば……俺は堪えられねぇだろうな」
 終わりにするどころか、 
 解放してやると告げた約束も忘れ去り、総司を追いかけ、抱きしめてしまうに違いない。
 あるいは、恥も外聞もなく総司に縋りつき、懇願するのか。
 どのみち、この恋を愛を終わりになど出来るはずもなかった。 
 身も心もすべて、溺れこんでしまっているのだから。


 ……あの美しい蝶に。











 障子を開くと、局長室は静まり返っていた。
 妙な緊張感が漂っている。
 それに眉を顰めながら、土方は部屋の中へ入った。
「近藤さん」
 声をかけると、部屋の奥で端座していた男が顔をあげた。
 何か難事でもあったのか、眉間に皺を刻み、厳つい顔をより厳つくさせている。
「どうしたんだ?」
 土方はその前に腰を下ろしながら、問いかけた。
 それに、近藤は両腕を組みつつ嘆息した。
「……うむ」
「何だよ、話があるのならさっさと云ってくれ。こっちも暇じゃ……」
「なぁ、歳」
 近藤は不意に彼の言葉を遮り、呼びかけた。
 いきなり問いかけてくる。
「おまえ、総司とうまくいってるのか?」
「……」
「江戸から戻って以来、おまえたち顔を合わせてもいないだろう。喧嘩でもしたのか」
 近藤の問いかけに、土方は苦笑した。
「……あんたに、俺たちの仲を心配されるとはね」
「歳」
 口許を引き締めた近藤を、切れの長い目で眺めた。
「反対していたんじゃねぇのか」
「反対というより、驚きだ。それに……おまえが江戸へ行ってる間に総司の気持ちを聞き、考えをあらためた。おまえと総司がいいのなら、それでいいと思ったのだ」
「……総司の気持ち?」
「まぁ、色々とな。おれから聞くより、総司自身から聞いた方がいいだろう」
「聞いた方がいいって……その肝心の本人と、今、全然逢えねぇ状況なんだろうが」
 ため息まじりに呟いた土方に、近藤は訊ねた。
「何故だ」
「たぶん……避けられている。出立前に俺が云った事が原因じゃねぇかと思うが……」
「何を云ったんだ」
「それは……云えないが、ある問いかけをした。俺への気持ちを試すような問いだった。それで、もし答が否なら終わりにしよう、何も答えないでくれと云ったんだ。だから……」
「つまり、逢わないのは、否という事か」
「そう考えるしか…ねぇよな」
 苦々しく呟いた土方を、近藤は眺めた。
 しばらく黙ってから、低い声でゆっくりと話し始める。
「突然、こんな事を訊ねた理由が分るか? 実は訳があるのだ」
「訳……?」
「おれは、総司がおまえに逢わない理由を知っている、と思うぞ」
「……」
 意味がわからぬといった表情の土方に、近藤は言葉をつづけた。
「今朝、たまたま、総司の主治医に会ったのだ」
「主治医……弦庵先生にか?」
「あぁ、そうだ」
 近藤は頷くと、深く嘆息した。その時の事を思いだしたのか、難しい顔になる。
「かなりきつく云われたよ」
「……」
「滅多に診せにも来ないし、休んでいる訳でもない。本気で治させるつもりなら、どこか遠くで療養させるべきだとな」
「療養……それは、わかってはいるが……」
 土方は思わず唇を噛んだ。
「だが、それで治るのか? 総司の病は療養して治るものではないだろう」
「そうだ。そうして療養しても、五年らしい。だが、今のままの状態をつづければ、もってあと二年だと云われた。……その事を、総司自身にも先日伝えたそうだ」
「──」
 鋭く息を呑んだ。
 ──二年。
 覚悟はしていた事だが、頭を鈍器で殴られたような衝撃が彼を襲った。
 あの総司が。
 ずっと子供の頃から見守り、傷つけあい、だが、それでも心から愛してきた若者。
 この手の中に、ずっと留めおきたいと望んだ総司。
 その命が、たったあと二年なのだ。
 しかも、それを総司自身が知っていると───
「……っ」
 土方は反射的に片手で口許をおおった。
 胃の臓腑がきつく締め上げられ、吐き気がこみあげたのだ。
 それを堪えつつ、きつく瞼を閉ざす。


 今すぐ総司に逢いたかった。逢って、その細い躯を抱きしめたかった。
 だが、一方でたまらなく怖かった。
 いかないでくれ……!
 俺はおまえを失いたくないと、総司の気持ちを思いやる事もできず、縋りついてしまいそうで。
 辛いのは総司自身だとわかっていながら、それでも、いつか総司を失う将来は、恐ろしいほど残酷な冷たさに満ちていた。
 荒涼とした凍てつく地に、たった一人とり残されるような恐怖に、身の内が震えた。
 それは、まるで。
 あの問いかけた言葉。
 この世の終わりそのものではないか───


 固く瞼を閉ざしたままの土方を、痛ましそうに近藤は見やった。
 ゆっくりと低い声で話しかける。
「おそらく、総司はそれが理由で、おまえを避けているのだろう。おまえに知られたくない、おまえに縋りたくない……そんな思いで避けているのだと、おれは思うのだ」
「……縋って…か」
 土方は緩やかに目を開くと、だが視線を落としたまま呟いた。
 ほろ苦い笑みが口許にうかべられる。
「あいつに……情けなく縋ってしまいそうなのは、この俺の方だ」
「歳」
「いかないでくれと、今にも叫びだしてしまいそうで、そんな自分が恐ろしい。総司が俺に逢いたくない理由が今、よくわかったよ。俺だって……怖いんだ。今、あいつの顔を見たら、何を口走るのか自分でもわからない……」
「おまえたちは……」
 近藤はしばらく黙ってから、静かな穏やかな笑みをうかべた。
 かるく小首をかしげるようにして、長年の友を見やる。
「いつも傷つけあっていたのに、そのくせ、ずっとお互いの事ばかり思いやり考えてきたのだな。それだけ互いを慈しみ、愛しているという事だろうが……つねと別れて暮らしているおれには、少し羨ましい」
 微かに喉奥で笑った近藤に、土方は我に返ったように顔をあげた。気まずそうな表情で答える。
「……すまん」
「そこで謝るな。返事に困るだろう」
 近藤は穏やかな口調で返してから、土方をまっすぐ見つめた。
「とりあえず、事は話したぞ。総司がおまえを避ける理由もわかっただろう」
「……」
「後は、歳……おまえ次第だ」
「近藤さん……」
「二年なら二年。その限りある生を、あいつが幸せに過ごせるよう、心つくしてやってくれ」
 そう真摯な声で云った近藤に、土方は頷いたのだった……。












 数日後の事だった。
 総司は伏見を久しぶりに訪れていた。
 あの突然の雨に降られた日のように、ゆっくりと伏見稲荷の鳥居をくぐってゆく。
 朱の鳥居は今日も艶やかで、黄昏刻の中、妖しげな雰囲気を醸し出していた。だが、そのシン──と静まりかえった空気が、今の総司には心地よい。
 一歩一歩踏みしめながら段をのぼり、神社に参った。
 手をあわせ、祈る。
 そこで、ふと思った。


(……何を?)


 私は、いったい何を願えばいいのだろう──? 
 少しでもこの命が永らえますように、か。
 療養しないと。二年でも精一杯生きるのだと、自分で選んだことなのに。
 ならば、あの人の傍にいられますように?
 自分から逃げ回っているくせに。
 今日だって遠くに見た、土方さんの姿。
 こちらに背をむけ、私には全く気づかぬまま、何か近藤先生と話していた。
 そのすらりとした後ろ姿を見ただけで、躯中が熱く火照る気がした。恋しくて恋しくて、気も狂いそうだった。
 もしかすると、他に人がいなければ無我夢中で駆け寄り、その背に抱きついていたかもしれない。
 だが、今の状況は自分で選んだことなのだ。
 何もかも、自分で。


「……じゃあ、何を願えばいいのだろう」
 総司はため息まじりに呟いた。少し考えてから、僅かに苦笑する。





 あの人に縋ったり泣いたりしませんように。
 みっともない処を見せたりしませんように。
 あの人の負担になりませんように。
 そう、願えばいいのだろうか。
 願えば、叶えられるのだろうか。
 だが──本当は望んでいない。
 頭ではそうするべきだとわかっていながら、本心は、辛いのだ。怖いのだ。この身が引き絞られるかのように痛くて苦しくて、不意に身も世もなく泣き叫びたくなる。


 お願い、助けて。
 いいえ……助けてくれなくていい。
 だけど、でも。
 一人ぼっちで崩れていきそうな私に、どうか手をさしのべて。


 この苦しさを不安を怖さを受けとめ、優しく抱きしめて欲しい。
 すぐそこに迫っている死の影も消えてしまうぐらい、私の中をすべて、あなたの愛だけで満たして欲しい。
 そうすれば、きっと、私はあなたの腕の中で微笑むことができる。
 幸せになれる。
 たとえ、あと二年の命であっても。それでも。
 私は幸せに……。





 総司は目を開くと、頭上に広がる空を見あげた。
 透きとおった空が広がっている。
 少しずつ紫色と茜色のいりまじった空から、闇の夜へと変化してゆこうとしている、夏の空。
 逢魔が刻。
 神社で魔などと思うのはおかしいのかもしれないけれど、黄昏刻にはどこか、人の心奥にある真実を掴みだしてしまう力がある。
 そんな事を思いながら、総司は小さく微笑んだ。


 ずっと逃げて。
 あの人を避けて。
 だけど、でも、結局辿り着いた答えは、心から望むものだった。
 あと二年しかない命。
 精一杯生きたいと、後悔だけはしたくないと。
 そう心に誓ったはずなのに、受け止めてもらえないかもしれない──こんな事実を知ったら拒絶されるかもしれない。
 そんな不安を胸に怯えてばかりで、彼と向き合うことさえ避けてしまっていた。
 ずっと逃げていた。
 だが、やはり、自分は彼が好きなのだ。
 もしも明日、この世が終わるのなら、彼の傍にいたい──と、心からそう願うのだ。
 むしろ、それだけを祈り願う。






 総司は神社の本殿へ向き直り、綺麗に澄んだ瞳で前を見つめた。
 そして、丁寧に一礼すると、もう一度手をあわせ、祈ったのだった。
 今度こそ。
 心からの願いを……。