重い空の色だな……と思っていたら、突然、ばらばらっと音がして雨が降ってきた。
京の町並みが、屋根が、樹木が、草や花や緑が、雨に濡れてゆく。
慌てて傘をさす人、走って家へ帰る人、雨宿りをする人、店へ駆け込む人。
それらを眺めながら、ちょっとため息をついた。
とたん、ぞくりと冷たさが足下から這い上がり、思わずぶるっと身震いしてしまう。
「……寒い」
小さく呟き、総司はまた空を見上げた。
朝から確かに雲行きはあやしかったのだ。だが、せっかくの非番に屯所でじっとしている気にもなれず、総司は町中へ出かけてきていた。
そろそろ帰ろうかと思った処に、この雨だ。
もともと肌寒かったが、雨まで降ってますます寒くなってしまった。
本当ならあたたかいお茶でも飲ませてくれる店へ駆け込みたいが、あいにく懐がさみしい。ついさっき菓子を買うために、有り金はたいてしまったのだ。
「だって……食べたかったのだもの」
誰にも聞かれてないのに、拗ねた子供のような声で呟くと、総司は壁に凭れかかった。
雨宿りしているのは、人気のない町家の軒先だ。留守なのか静まり返っている。
見あげると、ぽたぽたと軒先から雨の雫が滴り落ちてきた。どう見ても、まだまだ止みそうにない。
まさか夜までここにいる訳もいかないし、屯所まで雨の中を走ったらずぶ濡れになってしまう。ずぶ濡れになるのはいいが、それでまた病が悪化して発作でも起こせば、また土方に皮肉の一つでも云われるだろうと思った。
いくら恋する男との会話でも、それが嫌味や皮肉にいろどられたものでは、嬉しいとは到底思えない。
そこまで、総司も自虐的ではなかった。
本当は、優しい言葉一つもかけられたい。
望むべくもないとわかってはいるが、女達などに向けられるその綺麗な笑顔を、ほんの一瞬でいいから自分にも向けて欲しい。
だが、そんな総司の恋心と裏腹に、二人がかわす言葉は刃にも似た鋭さみちていた。
むけられるのは冷たい瞳、嘲笑、そんなものばかりなのだ。
「……土方さん」
小さく、恋しい男の名を呟き、総司はきゅっと唇を噛みしめた。
出逢った当初から、ここまで険悪だった訳ではなかった。
土方が子供である総司に見向きもしなかった事は確かだし、総司自身も彼に懐かなかったのは事実だった。だが、それでも、云ってみれば慇懃無礼──そんな関係をずっと保ってきたのだ。
むろん、総司はそれを悲しく切なく思っていたが、それでも、今の方がよほど酷かった。顔をあわせれば喧嘩や嫌味の応酬ばかりをくり返している。かと思えば、重苦しい沈黙。
きっかけは、芹沢の女だったお梅。
彼女の死が原因だった。
(あの時……私は驚いて声も出なかった)
お梅が殺された時、息さえとまるかと思ったのだ。
まさか、あの人が女に手をかけるなんて、考えてもいなかった。
甘いと云われるかもしれないが、あの人の本当の冷酷さ、容赦のなさをわかっていなかったと思い知らされ、ぞっと身震いした。怖くなった。
江戸から京へのぼって、新撰組を結成して、副長となって。
めまぐるしく変わってゆく中で。
少しずつ、少しずつ。
あの人は変わっていった。
今までのしがらみや、あの人を縛っていたすべてのもの──それらをすべてを軽々と脱ぎ捨てた瞬間、あらわれたのは、まるで研ぎ澄まされた刃のように美しく冷たい男だった。
だが、それを目にしても、総司はまだ彼を理解していなかった。
己の野望や目的のためなら、どんな残酷な事でも躊躇い一つなくやってのける。
江戸の頃、自堕落で遊び歩き、だが、いつも陽気で優しかった男は、どこにもいなかった。
否、あの頃も今も、本当は何も変わっていないのだ。
彼自身の本質はずっと同じだったのだから。
ただ、その優しい笑顔の下にかくされていた冷徹で非情な男の顔に、幼い自分はまるで気づいてなかっただけだ。
それを思い知らされたのは、あの嵐の夜だった。
お梅の血が飛び散り、自分の頬をも濡らした。
甲高い断末魔の悲鳴が今尚、耳奥に残る。
先日、艶やかに誘い込んだ女。
何の興味もなかったのだが、ふと土方が男としていつも見て感じているものを知りたくなり、女の誘いにのった。部屋へ連れこまれたとたん、着物を半ば脱いだお梅がしなだれかかってきたのだ。
だが、結局、関係をもつ事はなかった。
酷く己を冒涜するような──否、ずっと心の奥で大事にしてきた彼への淡い恋心を裏切るような気がして、拒絶してしまったのだ。
逃げ出した自分を、お梅が罵り嘲っていたが、そんなこと全く気にならなかった。
その胸にあったのは、土方の事ばかりだった。
だが、あの芹沢誅殺の翌日。
二人きりの部屋で、お梅の死を追求し責めたてた瞬間。
私を見つめたあの人の、黒い瞳は───
思わず、総司は身を震わせた。固く瞼を閉ざしてしまう。
あんなにも、誰かを怖いと思った事はなかった。
彼の黒い瞳には昏く燻る狂気があった。
土方は明らかに、お梅を殺した事に愉悦を覚えていたのだ。
大声で哄笑してやりたいほど、悦んでいたのだ。
信じられず呆然と彼を見つめる総司の前、土方はゆっくりと唇の端をつりあげた。
それは、ぞっとするほど残酷で、美しい笑みだった。
「……どうして斬ったか、だと?」
どこか艶さえ感じさせる低い声で、土方は問い返した。僅かに俯いたかと思うと、くっくっと喉を鳴らし、嗤った。
「そんなもの、あの女を殺すために決まっているだろうが」
彼は、殺したと云った。
斬ったとは、云わなかったのだ。
その言葉、土方の表情からも、総司は明らかな殺意を感じとった。ぞっと背筋が寒くなった。
恐ろしいほど凝り固まった殺意を、ひしひしと感じたのだ。
そして、直後から、土方と総司の関係は大きく変わった。
決して仲がよいと云えずとも、普通に言葉をかわす仲間だったのが、周囲の目をもひいてしまうほど険悪な仲になった。
土方の身の内深くに抱える愛ゆえの激しい嫉妬など、全く知る由もない総司は、ただもう戸惑うばかりだった。
投げつけられる刺すような言葉、冷たいまなざし。
容赦ない叱責、拒絶する態度。
恋しい男からの突然の仕打ちに、怯え震えたのだ。
だが、総司も一人の人間だった。
それも、隊随一といわれる剣の腕前をもち、それをもって世に自分の価値を問おうとしている若者だ。
いくら恋しい男からの仕打ちでも、ただ逃げているばかりなのは、己自身の誇りが許さなかった。
総司は理不尽な土方の言葉に反論し、鋭く返すようになった。それはある意味、泥沼へはまってゆく行為だったが、他にどうする事もできなかったのだ……。
「……どうして、こうなってしまったのだろう」
壁に凭れかかったまま、総司は小さく呟いた。俯いたとたん、ぽろりとこぼれ落ちそうになった涙を、手の甲で慌ててぬぐう。
どうして、こんな風になってしまったのか。
まるで絡まる糸のように、あの人と自分の間は、複雑に絡まるばかりだ。
総司はため息をつきざま、足下にあった小石を軽く蹴った。こんっと音がなり、それは路上へ転がってゆく。
むろん、雨に濡れたぬかるみの中だ。
それほど飛ばなかったが、小石は通りかかった侍の足下へと転がった。
「!?」
とたん、総司は、まずかったかなと思った。
あたってはいないが、侍相手に喧嘩を売ったようなものだろう。
思ったとおり、その侍が足をとめ、こちらへ向かって歩み寄ってきた時には、ちょっとうんざりしてため息をついてしまった。
きっと、これから一悶着あるのだろう。
いろいろ難癖をつけられるかもしれない。
総司は、自分が他の隊士たちより小柄で華奢であり、また、女顔である事もよくよくわかっていた。
それをまた、土方が子供扱いし、嘲っていることもよく───
(……でも、結局、あの人にとって、私は何をしても気にいらないんだ。性に合わないってこと? でなきゃ、あんな云い方……)
「こんな処で雨宿りか」
「!」
突然、思い出していた声が、頭の上から降ってきた。
驚いて顔をあげると、黒い隊服姿の男が傘をさし、僅かに眉を顰めながらそこに佇んでいた。
雨の降りしきる薄暗い光景の中でも、その端正な顔だち、すらりとした長身は、いうにいわれぬ華があった。
まるで、そこだけ切り取られたようで、総司の目も心も強く惹きつけてしまう。
「……土方…さん……」
思わず彼の名を呼んだ総司に、男は僅かに目を細めた。
