短い沈黙の後、土方は嘆息した。
 切れの長い目でまっすぐ総司を見つめたまま、冷ややかに云い捨てる。
「相変わらず、おまえは子供だな」
「……」
 また例の皮肉の応酬なのか。
 無言で見返した総司に、土方は言葉をつづけた。
「朝から雨が降りそうだったのは、空を見ればわかるだろうが」
「……」
「どうして、傘をもってでなかった」
 男の呆れたような口調に、総司は唇を尖らせた。これでは本当に子供だと思ったが、自然と拗ねきった口調になってしまう。
「どうしてって……土方さんの云うとおりですから」
「?」
「私はどうせ子供です。後先考えずに何でも行動してしまう子供です。だから、空模様なんて確かめなかったし、傘なんか持ってでませんでした!」
 ほとんど喧嘩ごしに云いきった総司に、土方はちょっと驚いたように目を見開いた。だが、やがて、くっくっと喉を鳴らして笑い始める。
 総司は唇をとがらせたまま睨みつけたが、彼を見たとたん、びっくりしてしまった。
 土方は笑っていたのだ。
 いつものあの斜めにかまえた皮肉な笑みや、嗤いではない。
 心から楽しそうに、おかしそうに笑っていた。


 まるで。
 総司がいつも思い描いてきた優しい彼のように───


「……土方さん……?」
 思わず問いかけた総司に、土方はようやく笑いをおさめた。だが、その口許に、まだ笑みをうかべながら答える。
「あぁ、いや、悪い。あまりに、子供そのものの口調で云うものだから、つい笑ってしまったんだ」
「……それって、喧嘩売ってるんですか」
「さぁ、どうかな」
 くすっと笑ってから、土方は不意に歩をすすめた。総司が雨宿りしている軒先の下へ入ってくると、丁寧な手つきで傘をたたむ。
 その一連の動作に、総司は呆気にとられた。
「……何、してるんですか」
「見りゃわかるだろう。傘をたたんでいる」
「そ、それはわかりますけどっ。でも、何で……」
 口ごもった総司の前に、すっと傘の柄がさし出された。え?と見あげたが、土方は無言だった。黙ったまま、その手に傘の柄を押しつけてくる。
 訳がわからず後ずさると、彼の短い舌打ちが聞こえた。はっとして見ると、いつもの苛立ったような表情になってしまっている。
 胸の奥がつんと痛くなった。
「……」
 傘を決して受け取らず、それどころか両手を後ろに隠してしまった総司に、土方はかるく嘆息した。
 じっと見下ろしたまま、低い声で云った。
「……俺が持っていた傘だから、嫌なのか」
「そ、そんな嫌なんて……」
「だが、このまま此処で待っていても、雨はいつ止むともしれん。我慢して、これをさして帰るんだな」
 そう云うと、土方はカタンと音をたてて傘を壁にたてかけ、踵を返した。そのまま、さっさと軒下から、歩み出ていこうとする。
 それに、総司は驚いた。
「ちょっ……ちょっと待って下さい!」
 慌てて手をのばし、彼の袂を掴んだ。それに、僅かにふり返る。
「土方さんは、どうするのですか? 私に傘を渡したら、あなたは」
「このまま帰るさ」
「わ、私は大丈夫です。こんな雨ぐらい……」
「嘘つけ」
 ふっと彼の口許が笑った。
「風邪なんざひいたら、病が酷くなっちまうだろうが。強がりを云うな」
 そう云うと、土方はすっと軒下から歩み出ていってしまった。その艶ややかな黒髪を、肩先を、雨がしめやかに濡らしてゆく。
 しばらくの間、総司はそこに突っ立ったまま、遠ざかってゆく男の背を見つめていた。だが、不意に傘を片手で掴んだ。
 音をたてて傘を広げながら、軒下を飛び出す。
「……土方さん……!」
 追いかけながら彼の名を呼ぶと、土方が僅かな躊躇の後にふり返った。それに、降りしきる雨の中を走り寄り、かるく背伸びをする。
 驚いたような男の顔を見あげながら、傘をさしかけた。
「一緒に帰りましょう」
 そう云った総司に、短い沈黙の後、土方が微かに笑った……。










 雨音が静かだった。
 こうして一つ傘の下、歩いていると、そこだけ別世界のような気がしてしまう。
 辛くて冷たい現から綺麗に切り離された、二人だけの世界。
 それが屯所までのほんの短い一時だとわかっていても、今の総司には無性に嬉しかった。そっと目をあげてみると、傘の柄をしっかり握っている男の手が映る。
 土方の方が、小柄な総司よりずっと背が高いので、当然ながら彼が傘をさす事になったのだ。
 総司は思わず、彼の手を見つめた。
 男の人にしては綺麗な手だと思う。
 むろん、男らしく骨張ってはいるが、それでも、指さきはとてもしなやかだ。この人は、指さきまでも美しい。
 だが、その美にしても、決して弱々しいものではなく、むしろ精悍な男のものだった。
 力強くしなやかで均整のとれた長身。
 端正な顔だち。
 よく透る低い声。
 その一つ一つがたまらなく好きだった。
 いったい、いつのまに、自分はこの人をこんなにも愛してしまったのだろう。それはこれからもつづくのだ。
 この後も、もっともっと深く愛し──彼に恋してゆく事に、総司は痛いほどの予感を覚えていた。


(きっと、いつまでも……私はこの人を愛してる……)


「……あの……」
 総司は呼びかけ、ちょっと口ごもった。
 だが、躊躇いはしたが、結局、どんなささやかなものでも彼と会話をかわしたくて、総司は口を開いた。
 そっと訊ねる。
「どこかへ行かれていたのですか」
「……あぁ」
 土方はかるく頷き、苦笑した。
「公用だ。黒谷へ行っていた」
「お一人で? 危ないと思いますけど」
「おまえだって一人じゃねぇか。人の事が云える立場か」
「そ、それはそうですけど……っ」
 総司は痛い処をつかれ、俯いてしまった。沈黙が落ちる。
 雨音だけが二人を包み込み、ひんやりとした冷たい空気が肌にふれた。
 今度は、土方が口火をきった。
「……どうして」
 それに総司は、え?と小首をかしげる。
 いつものような境界もなく無邪気に見あげてくる総司に、一瞬、土方は躊躇った。結局、本当は訊ねたかった言葉を、喉奥に呑み込んでしまう。
 かわりに、別の事を問いかけた。
「どうして、あんな処で雨宿りしていたんだ。どこかへ出かけていたのか」
「え……あ、はい」
「どこへ?」
 答えるのを拒絶するかと危惧したが、総司は素直にあっさり答えた。
「お菓子を買いに行ってたんです」
「菓子?」
「えぇ。とても評判のお菓子で。見た目も綺麗なんです……って、何笑っているんですか」
「いや、おまえらしいなと思って」
 くっくっと笑いながら、土方は答えた。それに、総司が桜色の唇を尖らせる。
「とてもおいしいお菓子なのに。絶対、土方さんにはあげませんから」
「別に菓子なんざ欲しくねぇさ」
「でも、たまには甘いもの食べたくなりません?」
「……そうだな」
 土方は、総司の桜色の唇を見下ろした。


 たまにはどころか、本当はいつでも食べたい。
 菓子などではなく、心底欲しているもの。
 きっと、この世の何よりも甘い存在。
 そして。
 永遠に、俺の手には入らない───







 そのまま、土方は押し黙ってしまった。
 無言のまま、雨の中をゆっくりと歩んでゆく。
 そんな土方を、総司はそっと見上げた。
 雨が降りしきる光景の中、間近にある男の端正な顔に、胸の鼓動が早くなるのを感じた。


 好きだ、と思う。
 おかしくなりそうなほど、好きだと。
 だけど、でも。
 この人にとって、自分は子供だから。


 総司は微かに目を伏せた。


 私は、土方さんにとって、病もちで手間がかかり鬱陶しい──だが、それでも立場上捨て去る事のできない困った存在なのだ。
 でも、そんなふうに思われているにしろ、今、この人の隣にいるのは私だった。一つ傘の下、時々、肩や腕がふれあって、そのぬくもりを感じているのは私なのだ。
 その幸せを噛みしめる事は、許されるだろうか──?


 総司はゆっくりと手をのばした。
 彼に気づかれぬよう、そっと男の黒い着物の袂にふれる。彼の身に纏うものにふれただけで、とても幸せな気持ちになった。
 こんな小さな事にも幸せを感じてしまう自分に、ふと泣きたくなる。


 誰よりも愛されたかった。
 お梅の事で、あんなにも彼が自分への感情を露にするとは、思ってもいなかったのだ。
 冷たい氷のような、そのくせ熱い焔のような彼の怒り、激情、拒絶。
 そんなものにふれた瞬間、総司は自分が何か間違えたという事を知った。
 今でもわからない。
 これほど彼に嫌われる理由が、拒まれる理由が。
 それとも、人が人を拒絶するのに、理由など何もないのだろうか──?








「……どうして……」
 思わず、小さな声で呟いていた。さきほどの土方のように。
 だが、口にした瞬間、はっと我に返る。
 ほんの小さな幸せだった。
 屯所へ帰るまでの短い時だとよくよくわかっていても、二人の間に、突然訪れた穏やかさだった。
 それを、総司はこの手から失いたくなかったのだ。
 この心地よい、優しい時を、少しでも長く感じていたい……。
「……総司?」
 訝しげに、土方がこちらを覗き込むのがわかった。それに総司はゆるく首をふると、小さく微笑んでみせた。
「何でも…ありません」
 答えた総司に、土方は僅かに眉を顰めた。一瞬、探るような瞳で見つめたが、すぐに何もなかったように視線をそらした。





 雨音だけが響く。
 天から滴り落ちるような細い雨。
 その中を、ふたりは寄りそい歩き、ぽつりぽつりと時折言葉をかわした。
 何かの拍子に肩さきがふれあう。
 そんな些細なことにさえ、身のうちが震えるほどの喜びを感じた。
 互いの存在を、甘く切なく感じながら。
 だが、そのくせ。
 本当は問いかけたい、その気持ちを胸の奥に呑み込んで。


(どうして、俺を追いかけた? おまえは俺を嫌っているはずなのに)


(どうして、私に傘をかしてくれたの? あなたは私を嫌っているはずなのに)






 すれ違う心を置き去りにしたまま歩きつづけ、やがて、煙るような雨の向こうに屯所が見えた時。
「──」
 一瞬だけ、土方は立ち止まった。それにつられ、総司も歩みをとめたが、とたん、僅かによろめいてしまった。
「あ」
 声をあけた総司の躯は、すぐさま男の腕で受けとめられた。礼を云って身をおこそうとした、その瞬間だった。
「!」
 細い背に男の手がまわった。あっと思った時には、男の逞しい胸もとに、きつく息もとまるほど抱きしめられる。
 総司の目が大きく見開かれた。
 だが、それは一瞬の事だった。思わず縋りつきかけたとたん、荒々しく引き離された。
 見上げた総司に、土方はぶっきらぼうな口調で問いかけた。
「大丈夫か」
「……はい、すみません」
「気をつけろよ」
 視線をそらしたまま云った土方は、突然、総司の手に傘を押しつけた。そのまま背をむけると、驚いて追おうとする総司をふり返らぬまま、雨の中へ足早に去ってしまう。
 彼のぬくもりが残る傘の柄を握りしめ、総司は呆然とそれを見送った。煙る雨の中、遠ざかる男の背。
 その背は、どこまでも自分を拒絶しているようだった。否、実際そうなのだろう。
 屯所にまで辿りついた土方は、こちらを一度もふり返る事なく門をくぐっていった。その姿はすぐさま見えなくなってしまう。


 ……夢は、終わりを告げたのだ。


 雨の雫が、立ちつくす総司の肩をひっそりと濡らした。
 ふたり一緒に歩いていた時から降りつづいていた雨なのに、それは先程よりずっと冷たく感じた。身の内まで凍えてしまいそうだ。
「……土方さん」
 総司は、愛しい男の名をそっと呟いた。
 そして。
 傘の柄を握りなおすと、彼の後を追うように、ゆっくりと歩き出していったのだった。







      降りしきる雨の中
      ただ一つ
      ふたりの想いだけを残して















[あとがき]
 次のお話から大きく展開します。やっとすれ違いが解消される…かな? でも、甘甘になる訳ではありません。このシリーズも半分まで来ました。今後ともよろしくお願い致しますね。