「……お待たせしました」
 すっと襖が開き、風呂上がりの総司が部屋に入ってきた。
 それにふり返って見た土方は、思わず息を呑んだ。

(……総司……)

 風邪をひかさぬため、部屋に入ってから荷物を置かせると、土方は総司をすぐ風呂へ行かせた。着替えは宿の方が用意してくれた。
 戻ってきた総司は白地の浴衣を纏い、濃い藍色の細帯をしめていたのだが、まるで美しい遊女のような艶めかしさだった。しっとり濡れた髪は後ろで一つに結わえられ、それが男でもなく女でもない、不思議な色香を漂わせている。
 土方は目が離せず、しばらくの間、呆然と総司を見つめてしまった。
 風呂上がりのため上気した桜色の頬も、白い首筋も、潤んだ瞳も、何もかもが男を狂おしいほど煽り刺激してくる。
 総司は長い睫毛を瞬かせると、どこか甘えるような表情で彼を見つめた。
「? 土方さん……?」
「え……あ、あぁ」
 慌てて視線を総司からもぎ離し、土方は用意された膳の前に腰を下ろした。総司にも坐るよう促す。
「もう、お料理来ていたんですね」
「さっき来たばかりだから、冷めてはいないだろう」
「でも、すみません。お待たせしてしまいました」
「いや……」
 土方は言葉少なに答えると、僅かに目を伏せた。
 ぎこちない雰囲気の中で、食事は進んだ。
 会話も、当たり障りのない事がぽつりぽつりと交わされる程度だった。むろん、普段の二人からすると格段よい雰囲気と云えたのだが、もともと幼い頃からよく知ってる仲であるのなら、他人行儀な事この上なかった。
 食事が済み膳を下げてもらうと、土方は立ち上がった。寝るために着替えようと思ったのだ。
 それに、総司は慌てて視線をそらせた。何気ないふうにまだ雨が降りやまぬ庭へ視線をやる。
「……」
 背後で聞こえる衣擦れの音に、自然と頬が火照った。
 同性である男が着替えている事に動揺するなんて、自分でもおかしいと思う。だが、彼は恋しい男なのだ。ずっと愛し焦がれてきた相手なのだ。仕方がなかった。
 彼の逞しく引き締まった躯を間近に感じれば、どぎまぎせずにいられない。
 じっと庭の方を見ていると、着替えが終わったらしい土方がすっと傍を通り過ぎた。裾がひるがえる様に、思わず目で追ったとたん、どきりとする。
 土方は、総司と同じように宿が用意した白地の浴衣を纏っていた。それに濃紺の帯を締めているのだが、総司とはまるで印象が違う。すっとのびた背が凜として美しく、男の色気を感じさせた。
「……雨、やまねぇな」
 頬を火照らせる総司に気づくことなく、土方は呟いた。それに、総司も「えぇ」と小さく答えた。
 土方は庭へもう一度視線をやってから、寝るための準備を始めた。さっさと布団を敷き始める。それを、総司も手伝った。
 本当はもっと彼と離れた部屋の片隅で眠りたかったのだが、いくら彼がとっている部屋が離れであっても、それ程の広さがあるはずもない。結局、二組の布団を並べる事になってしまった。
 二人枕を並べて眠るなど、滅多にある事ではなかった。しかも二人きりの夜だ。
 総司は胸が激しく鳴り、その鼓動が彼に聞こえてしまわないかと不安になった。


 いったい、私は今、どんな顔をしているのだろう?
 不安にその瞳は揺れてないだろうか。
 耳朶まで赤らんでいるように思えるのは、気のせい?
 指さきが震えているのは確かだけど、この人に気づかれる事だけは───


「……おやすみ」
 低い声が云った。
 はっとして顔をあげると、土方は褥に坐った総司をその黒い瞳でじっと見つめている。
 慌てて答えた。
「は、はい……おやすみ…なさい」
 頷き、土方は躯を横たえた。総司が褥に入ったのを確かめてから、手をのばし、ふうっと行灯の明かりを落とす。
 薄闇が部屋に落ちた。
 降りつづいていた雨もそろそろ止むのか、少し雲が切れてきたようだった。月明かりが障子の隙間から細く射しこんでくる。
 土方はすぐに眠ってしまったのか、衣擦れ一つしなかった。
「……」
 しばらくの間、総司は天井をぼんやり見つめていた。
 寝ようとは思った。寝なければ駄目なのだ。たとえ、隣にいる彼が気になって一睡もできないとしても、寝たふりだけでもしなければならない。
 だが、一度だけ。
 一度だけでいいから、彼の寝顔を見てみたいと思った。
 愛しい男が眠りに落ちてる様を、そっと見つめてみたいと思ったのだ。こんな夜は二度と訪れるはずもないのだから。
 音をたてないよう、総司はそっと寝返りをうった。ゆるやかに土方の方へ視線をやる。
 とたん、どきりとした。
「!」
 月明かりの中、男の瞳がこちらをまっすぐ見つめていたのだ。
 熱く濡れたような、黒い瞳。
 一切の感情を消した端正な顔の中で、その瞳だけが熱をもったように総司を見つめていた。
 まるで、その心の奥底まで掴み取るかの如く。










「……っ…ぁ……」
 総司は思わず小さく喘ぎ、両手で胸もとを強く握りしめた。無意識のうちに躯を竦めてしまう。
 しばらくの間、それを土方は無言のまま眺めていたが、やがて微かに吐息をもらした。低い声が静かに問いかける。
「……眠れないのか」
 一瞬、答えも返せなかった。
 だが、それでも、総司は黙ったままであったが、ふるりと首をふった。まだ少し濡れた髪が首にひと筋、纏わりつく。
 気がつけば、横でなく縦に首をふっていた。
 それを見た土方が、くすっと笑った。
「憎い俺の隣では……落ちついて寝れねぇか」
「……そんなのじゃ……」
「無理をするな。おまえの気持ちはよくわかっているさ」
 ふっと息をついてから、土方は肩肘をついた。どこか探るような瞳で、総司を眺めてくる。
 それに、総司は頬が紅潮するのを感じた。


 わかっているなんて。
 この人は何もわかっていない。
 どんなに今、私がこの一瞬を大切にしたいと思っているか。
 どんなに胸の鼓動を速めているか。
 好きだと。
 愛してると。
 今すぐにでも、あなたの腕の中に飛び込んでしまいたいぐらい──息もとまりそうなほど恋いこがれている私のすべてを、あなたは知らない。
 知らないからこそ、そんな冷たい言葉を吐ける……。


 土方がまた訊ねた。
「本当の事を云われて、怒ったのか」
「どうして」
「瞳が潤んでいるように見える」
「なら……普通は泣いてると思わないですか」
「……泣いているのか」
「泣いて…ません……」
 そう返しながら、総司は声がもう涙に濡れてしまっているのを感じていた。たまらず、顔をそむけてしまう。
「泣いてなんか……いるはずないでしょう」
「そうだな、おまえが俺の前で涙を見せる事なんざありえねぇな」
「当たり前です」
 そう必死に返しながら、思った。


 どうして、いつもいつもこうなのだろう。
 この人とは、すれ違いばかりだ。
 どんなに手をのばしても、決して届く事のない遠い人。
 今、この一時の幸せを噛みしめる事さえ、私には許されないの……?


 総司はすうっと息を吸い込むと、もう一度、土方の方へ向き直った。それから、問いかけた。
「一つ、聞いていいですか?」
「何だ……いきなり」
「いきなりではありません。ずっと前から思っていた事です。土方さんと二人きりなんて滅多にないから、今、聞きたいのです」
 総司の口調から気分のいい話ではないと感じとったのだろう。土方の形のよい眉が顰められた。
 しばらく黙ってから、答えた。
「云ってみろ」
「……お梅の事です」
「──」
 月明かりの底で、男の瞳が鋭く光った。










「私は……ずっと不思議に思っていました」
 総司は土方の押し殺された怒りを感じながら、ゆっくりと言葉をつづけた。
 祈るように両手を握りあわせる。
「あなたは、あの時、どうしてあんなに怒ったのだろう……と。何もかも、あの時からです。土方さんが私を忌み嫌うようになったのも、酷くあたるようになったのも」
「……」
「どうして、あなたはお梅の事に、あれほど拘ったのですか?」
「……それは、こっちの台詞だ」
 土方は低い声で答えた。
 え?と小首をかしげた総司に、土方はゆっくりと半身を起こした。褥に片手をついて総司を見下ろしながら、言葉をつづける。
「俺の方が聞きたかったさ。おまえは、何故あんなにもお梅に拘ったんだ? 俺がお梅を斬った事が、そんなにも許せなかったのか」
「……」
「いや、許せないからこそ、俺を嫌い憎み、侮蔑したんだな」
 土方は静かに嗤った。
 どこか歪んだ、昏い嗤い───
「何しろ、お梅はおまえの女だった。初めての女だったのだから……」
「……え」
 総司は目を見開いた。
 一瞬、意味がわからなかったのだ。


 お梅が自分の女? つまり情が通じていたと?
 まさか。お梅は芹沢の女だったのだ。
 なのに、どうして。


 そう思った瞬間、総司は不意に理解した。
 土方は、あの時の自分たちを見ていたのだ。お梅に誘われ、部屋で躯を重ねようとした自分を見ていたのだ。
「……っ」
 総司は羞恥と戸惑いに、きつく唇を噛みしめた。視線をそらす。
 だが、誤解されたままでいられるのは、いやだった。愛しい男にそんな誤解はされたくない。
 躊躇ったが、小さな声で云った。
「そんな……違いますよ」
「嘘つけ」
「だから、そんなの間違いです。お梅と私は情を通じたりしていません」
「……」
 土方は僅かに目を細めた。
 不意に強い苛立ちを覚えると、手をのばし、総司の手首をつかんだ。
 そのまま、驚いて見あげる総司の上へのしかかった。両手首を褥に押しつけ、鋭い瞳で見下ろす。
 怒りに罵るかと思ったが、総司は僅かに桜色の唇を震わせただけだった。どこか怯えたような瞳で、彼を見あげている。
「……土方…さん?」
「嘘をつくな。俺はあの時、見たんだ」
 吐き捨てるような口調で、土方は云った。
「おまえがあの女と部屋へしけこむのをな。あんな穢らわしい女と寝て、よかったか? その女を斬った俺が許せなかったか?」
「だから、ちが……違うのです」
 総司は激しく首をふった。
「私は確かに、あの時、お梅の誘いにのりました。でも、結局、途中で逃げ出してしまったんです」
「……逃げた?」
 土方の目が僅かに瞠られた。
 それに、総司はこくりと子供のように頷いた。
「えぇ……怖くて逃げてしまいました。どうしても最後まで出来なかったのです」
「なら、何で誘いにのったんだ。途中で逃げ出すぐらいなら、どうして」
「それは……」
 総司は羞じらうように目を伏せた。
「あなたが感じているものを、知りたかったから……」
「……俺?」
 土方は意味がわからぬと云いたげに、眉を顰め、総司の顔を覗き込んだ。
 どうして、そこに突然、自分が出てくるのかわからない。
「何で、俺なんだ。それはいったい、どういう意味だ」
「言葉どおりです……私は、あなたが感じているものを知りたかった。あなたが見ているものを見ることで、少しでもあなたに近づきたいと願って……」
「近づきたいって、嫌いな男にか?」
 呆れたように呟いた土方の前で、総司はまた激しく首をふった。
「嫌いなんかじゃありません。私は……あなたを嫌った事など、一度もありません」
「あれだけ罵っておいて?」
 土方はくっと喉奥で嗤った。
「さんざん、俺を罵倒しておいて、よく云うぜ」
「それは……謝ります。でも、あなたが私を疎んじていたから、嫌っていたから……だから……」
「何を云っている。嫌っているのは、おまえの方だろう」
「だから、私はあなたを嫌ってなどいません。それは、あなたが」
「俺だって、おまえを嫌ってなんざいねぇよ!」
 いつまでたっても埒のあかぬ会話に苛立った土方が、不意に声を荒げた。とたん、総司がびくんっと目を瞠り、躯を強く竦ませる。
 それを見た瞬間、土方は、己の行為を深く悔いた。


 大きな瞳が不安に揺れる様は、たまらなくいじらしかった。
 この手の中にいつまでも留めおき、優しく守ってやりたかった。何よりも愛おしい存在だった。だが、それを傷つけてきたのは、己自身なのだ。
 これ以上、傷つけたくなかった。
 不安がらせたくなかった……。


「……大声を出して、すまない」
 土方は落ち着きを取り戻した声で云うと、そっと髪を撫でた。それに総司は一瞬目を瞠ってから、微かな吐息をもらした。華奢な躯から強ばりが消えてゆく。
 従順に彼を見あげてくる若者を見下ろしながら、言葉をつづけた。
「だが、これだけはわかってくれ。俺も、おまえを一度だって嫌った事はない。俺こそが、おまえに嫌われていると思っていた」
「土方さん……」
「お梅の事で拗れていった時、俺も苦しんだ。あんな事をしなければ良かったのかとさえ思った。だが、顔を見られたという事もあったが……俺は……」
 一瞬、躊躇うように、土方は唇を噛んだ。
 が、すぐに、その深く澄んだ黒い瞳で総司をまっすぐ見つめた。
「俺は、お梅が許せなかった」
「え?」
「おまえを穢したあの女が、どうしても許せなかったんだ」
「──」
 男の言葉の意味を理解したとたん、総司は目が大きく見開かれた。
 それを見つめ、土方は言葉をつづけた。
「俺は、おまえがお梅によって穢されたと思った。誰よりも綺麗で無垢なおまえが、よりによってあんな芹沢の情婦の食いものにされるなど、到底我慢できなかった。だから……殺した。俺自身の中にある明確な理由のために、この手で斬ったんだ」
「でも、私は最後までしてません。何も……」
「そうだな」
 ほろ苦く、土方は笑った。
「おまえは穢されてなかった……だが、それでも、お梅の罪は変わらねぇ。あの女はおまえを誘ったし、おまえにふれた。それだけで俺にとっては許せん所業となる」
「土方…さん……」
「なんて身勝手で残酷な男だと思うだろう。半ば狂っていると。だが……これが俺だ。副長の仮面をかぶりながら、その実、ずっとおまえだけを焦がれ欲してきた俺の本当の姿だ」
 そう云いきった土方は、しばらくの間、黙り込んでいた。それを、総司はじっと見つめている。
 やがて、土方は濡れたような黒い瞳で、総司を見下ろした。
 ゆっくりと手をのばし、総司の白い頬にふれた。大きな手のひらで包みこみ、そのなめらかな感触を味わう。
 そんな男の手に、総司は抗い一つしなかった。ただ、潤んだような瞳で彼だけを見つめている。
「……この頬に」
 低い声が薄闇に響いた。
「誰か……ふれた事があるのか」
 そう訊ねた土方に、総司はゆるゆると首をふった。白い首筋に、艶やかな髪が一筋纏わりつく。
 それに目をとめた土方はすくいあげると、そっと髪に唇を押しあてた。
 また、囁くような声で訊ねかけた。
「この髪にも、口づけられたのか……?」
「いいえ……」
「唇には……?」
「……」
 総司は黙ったまま、ゆるやかに両手をのばした。男の首を細い両腕でかき抱き、その背を僅かに浮かせる。
 その声にならぬ求めを、土方が見過ごす事はなかった。
 柔らかく背に手をまわして抱き寄せると、そのまま──静かに唇を重ねた……。