もしも許されるのなら
あなたを愛したい
あなたに愛されたい……
















 土方が妻を娶る事になった──と。
 人の噂に総司が聞いたのは、すぎゆく風もひんやり冷たくなった秋口の頃だった。
 相手は、以前からの許婚、お琴らしい。
 とうとう痺れを切らした彦五郎が矢の催促をし、近藤の薦めもあって土方は承諾したのだと、今度江戸へ戻った時に祝言を挙げる事になったのだと、隊士たちの噂話から聞かされた。
 総司は何も云わなかった。
 ただ黙って頷いただけだったが、その綺麗な顔は明らかに色を失っていた。
 今まで、どれほど女遊びが激しくとも、それはあくまで遊びだった。男の性ゆえの色事というものだった。
 だが、お琴との事は違うのだ。
 妻を娶るのだ。
 いわば、彼が他の人のものになってしまうという事だった。
 もう想う事さえできない。
 人のものとなった彼を恋しつづけるなど、横恋慕以外の何ものでもなかった。そんな惨めな姿、自分でも見たくない。
 しかも、自分は彼に嫌われているのだから。
 子供だと嘲られ、侮蔑され、ものの数にも入れられていない。
 当然だという事はわかっていた。
 お琴は総司と同じ年だったが、とても艶やかな娘だった。年齢よりも大人びた表情をもち、気質もしっかりした美しい娘だ。
 小柄で華奢な総司にくらべると、彼女はまるで大輪の花のようだった。
 土方とならべば、これ以上ないほど似合いの一組だと、誰もが賛美する事だろう。
 江戸にいた頃も美しい二人を見るたび、総司は、自分の幼さ引け目をつくづく思い知らされ、彼の傍に寄る事もできぬ自分に一人涙したのだ。
 そのお琴が、彼の妻となる。
 総司の胸はきりきりと鋭い痛みに苛まれた。








 土方は出張先である大坂の町中で、ふと足をとめた。
 店先で揺れる花に、目がとまったのだ。しなやかで美しい胡蝶のような花だった。その儚げな美しさが、まるで総司のように思えた。
 三日ほど前から大坂に出張に来ている。だが、そう云えば聞こえはいいが、ようは逃げだった。
 矢の催促をかけてくる義兄や、彼のためと信じて疑わずに勧めてくる近藤から逃げるため、この仕事を引き受けたのだ。
 何もわざわざ、副長自身が行かなければならぬような事ではなかった。だが、それでも、屯所にいるのは耐えられなかったのだ。
 むろん、わかっている。
 もう承諾の言葉を返してしまった以上、後戻りなど出来るはずがないと。
 だが、それならば、地へ沈んでゆくようなこの心地は、いったい何なのか。
 この世の誰よりも愛しい存在がありながら、そしらぬふりで、他の者を娶ろうとしている。
 不道徳な男だと思った。だが、その一方で結婚とはそういうものかもしれぬとも思う。
 愛など、必要ない。
 ただ体面が保たれ、夫婦としての生活が営まれてゆけばいいのだ。
 それに、この頃、思うのだ。
 愛、とはいったい何だろうと。
 どんなに逃れようとしても、自分を深く強く絡めとって離さない。
 狂おしいまでの、この気持ちは───
「……」
 土方は美しい花から目をそらすと、きつく唇を噛みしめた。








 重なるはずがないと思っていた。
 互いの道は、離れてゆく一方なのだと。
 なのに。
 ある夜の出来事が、互いの鎖を剥ぎとってしまう。








 むろん、総司は知っていた。
 土方が大坂へ出張中だとよくよく知っていたのだ。そして、その帰路に伏見があるという事も。
 だが、総司が伏見に行った時、その事は全く念頭になかった。
 ただ京から離れてみたく、だが、それほど遠くへ行ける訳がないので、前々から聞いていた伏見稲荷へ行ってみようと思ったのだ。
 竹林の中、どこまでも真紅の鳥居がつづく参道は美しく──だが、どこか妖しげなものを感じさせた。
 白い狐のお面でもつけた少女が、ひょいと顔を出しそうな雰囲気だ。
 その中を歩きながら、総司はふと思った。

(そう云えば、昔、あの人に狐のお面を買って貰った事があった……)

 幼い頃、今ほど二人の仲は険悪でなかったのだ。
 優しいという訳でもなかったが、彼も幼い自分を程ほどには相手にしてくれた。ちょっと迷惑そうな顔をしつつも、手をひいてくれたりしたのだ。
 祭りへ道場仲間と行った時、何故だか急に欲しくなったお面を、宗次郎は大きな瞳でじっと見つめていた。
 それに他の誰も気づかなかったのに、歳三だけが気づいて訊ねてくれたのだ。
「欲しいのか?」
「え」
 びっくりして見あげると、歳三はいつもの皮肉っぽい笑みをうかべていた。が、どこか、その瞳は優しい。
 宗次郎は思わず頬を赤らめ、俯いてしまった。口ごもる。
「べ、別に欲しい訳じゃ…ありません」
 だが、そう否定した宗次郎に構わず、歳三は少年の手を掴んで店の前へ歩み寄った。
「どれが欲しいんだ」
「だから、私は別に……」
「欲しいものを云え。買ってやるから」
 彼の言葉に、宗次郎は目を瞠ってしまった。それに、歳三は小さく笑った。手をのばし、くしゃっと宗次郎の髪をかきあげてくれる。
「そんな顔するな。俺だって、お面を買うぐらいの金はもってるさ」
「……」
「ほら、云えよ。どれがいいんだ」
「……あれ」
 おずおずと指さした宗次郎に、歳三は頷いた。金を払い、店の主人から受け取ったお面を、手ずから宗次郎の頭につけてくれる。
 くすっと笑った。
 そして、彼はこう云ったのだ。
「お稲荷さんの使いみたいだな」
 と。

(……土方さん……)

 数少ない、ささやかで幸せな思い出だった。
 ほんの一瞬だけ、彼が見せてくれた自分への優しさだった。
 今はもう、よくわかっている。
 あれは彼一流の気まぐれだったのだと。彼にしてみれば、覚えておく価値もないほんの小さな出来事。
 だが、それでも、総司はずっと胸に抱いてきたのだ。
 大事に大事にしまいこみ、でも、時折、そっと手のひらの中に取り出して、夢のように見つめる大切な思い出─── 
「……」
 総司はそっとため息をつき、石段を下りた。
 だが、そろそろ帰ろうと踵を返したとたんだった。ぱらぱらっと音が鳴り、雨が降り出してきたのだ。
「!?」
 それはあっという間に、ざぁーっという響きになり、辺りは激しい雨に包みこまれてしまった。
 慌てて総司は走り出した。
 とりあえず近くの茶店に駆け込んでから、どうしようと思う。この分では止みそうにもないし、もう夕暮れ時なのだ。
 今から雨の中を屯所へ戻ると思うと、気が重かった。それに、病身でそんな無理をすれば、後々どうなるか目に見えていた。
「この近くに宿はありますか?」
 そう訊ねると、店の小女が親切に教えてくれた。
 小さいが品の良い宿が、すぐ近くにあると。
 総司は礼を云うと、そこまで走った。幸い、その宿はさほど茶店から離れていなかったので、ずぶ濡れにはならずに済んだ。
 だが、宿を訪ねてみた総司は落胆した。
 主が出てきて応対してくれたのだが、あいにく部屋はすべて塞がっているというのだ。
「そうですか。お手数をかけました」
 仕方なくそう云って出ていこうとした、その時だった。
 後ろから、突然、声をかけられたのだ。
「……総司?」
 と。








 ひそやかな音が、雨の訪れを知らせた。
 風呂上がりの肌を手拭いでざっとぬぐいながら、土方は窓の外へ視線をやった。宿の庭の緑が、たちまち雨に濡れてゆく。
「夕立というより……本格的な雨だな」
 一人、小さく呟いた。
 他に人の姿はない。満室だと聞いてはいたが、この時刻に湯へ入るものはあまりいないのだろう。それに、もともと小さな宿のため部屋数も少なくひっそりとしている。土方もそこが気にいって、ここで草鞋を脱いだのだ。
 当初は、別に伏見へ泊るつもりはなかった。だが、京を前にしたとたん、総司のことや縁談の事が頭に思いうかび、どうしても億劫になってしまったのだ。
 何もかも投げ出したくなってしまい、連れの隊士たちを先に帰した上でここに宿をとった。
 後で近藤から詰問されるだろうが、せめて一日、新撰組副長である事も様々な軋轢やしがらみも忘れきり、一人の男としてのんびりしたくなったのだ。

(結局、俺は疲れているのだろうな)

 ほろ苦い笑みをうかべながら、土方は黒い絣の着物に袖を通した。手早く着流しにすると帯をしめ、さっさと外へ出た。
 磨き抜かれた廊下を歩みながら、思った。


 本当に、疲れているのだ。
 疲れきって、何もかも投げ出したくなり、こんな宿に逃げ込んでしまっている。
 どうせ逃げるのなら、愛するものと道行きでもやらかしてしまいたかったのに。
 そう。
 愛する──総司と。
 もしも今、この瞬間、総司が傍にいてくれるなら、他の何を投げ捨てても構わなかった。
 誰よりも何よりも愛しくて大切で、欲しくて欲しくてたまらない、たった一人の存在。
 まさに飢えた獣のように、渇望するように、ずっと求めつづけてきたのだ。
 だが、実際には、他の何を捨て去っても、総司だけは手に入れられない。ふり返ってくれる事さえないのだ。
 彼にむけられるその瞳は、嫌悪と拒絶がうかぶばかりで、土方はいつもそれを見せられるたび、身を斬られるような思いがした。たまらず、目をそらしてしまった事も度々だ。
 だが、それでも。
 そのほっそりした姿を、見つめていたいと。
 己の瞳に映したいと、望まずにはいられなくて───

(まるで虜だな。いや……俺は、とうの昔に、あいつの虜にされている……)

 むろん、総司は全く知らないだろう──否、そんなこと関心もないだろうし、知ればまた嫌悪の表情をうかべるだろうが。
 土方は、己のすべてが、総司のものだと知っていた。
 この手も足も、指さきも。
 瞳も、唇も。
 総司のためだけに。
 総司を求め、愛するためだけに、己は存在しているのだと。
 そう、わかっていたのだ……。








 土方は己の部屋である離れへ戻るため、廊下をゆっくりと歩いた。
 先にある玄関の方から、何か話し声が聞こえてくる。それを聞くともなしに歩を進めていた土方は、玄関へと出たとたん、思わず息を呑んでいた。
「!?」
 見間違えるはずがなかった。
 しっとりと露をふくんだ艶やかな髪。こちらに横顔を見せているため際だつ、美しい輪郭を描いた顔だち。僅かに伏せられた、煙るような長い睫毛。
 ほっそりとした躯、華奢な肩。
 今去る処らしく、こちらに背を向け出てゆこうとしているのは───
「……総司?」
 気がつけば、言葉が口をついて出ていた。
 呼びとめてどうするというのか。
 また、嫌悪の瞳をむけられる虚しさを味わうのか。
 そんな事を考える暇もない、無意識の行動だった。
「──」
 一瞬、総司はびくりと肩を震わせた。
 どこか恐る恐るという感じでふり返ったとたん、その瞳を大きく見開く。
 さっと、その可愛らしい顔が強ばったのを見てとり、土方は苦い笑みをうかべた。もう慣れてしまった鈍い痛みが、胸奥に棘を残してゆく。

(嫌そうな顔をして……そんなに、俺を見るのが嫌なのか)

 半ば自虐的な気持ちで呟きながら、土方はいつもの怜悧で傲慢な表情をつくり、総司を見下ろした。
「どうした、こんな処で何をしている」
「土方さんこそ、どうして……」
 視線をそらしつつ口ごもった総司に、土方は肩をすくめた。
「ご覧にとおり、ここに泊っている。明日、屯所へ戻るつもりだった」
「そう…ですか。私は雨が降ってきたので、どこかに泊ろうかと」
「ほう。で、その泊る処は見つかったのか」
 あきらかな意地悪い口調で訊ねた土方に、総司はぱっと顔をあげた。大きな瞳で憎らしげに睨みつけてくる。
「相変わらず、嫌味な人ですね」
「何が」
「何がって……見ればわかるでしょう? ここは満室だって断られた処で断られたんです。それで、今から他を当たろうと……」
「俺と一緒に泊ればいい」
「……え?」
「俺の部屋は離れだし、かなり広いから大丈夫だ」
 あっさりそう云いきり、土方は宿の主へ切れの長い目をむけた。
「むろん、かまわぬな?」
「へぇ、それはもう」
 主は安堵したように頷いた。もともと、宿がなくて困っている総司を、気の毒に思っていたのだ。それではご用意をと、足早に去ってゆく。
 それを見送り、土方は総司の方へ向き直った。
「そうと決まれば、さっさと上がれ。風呂にも入った方がいいだろう」
「どうして」
 総司は思わず噛みついた。
「土方さんが全部決めてしまうのです? 私はまだ承知するって云ってないのにっ」
「承知しねぇのか? なら、またずぶ濡れになって、あちこち宿を探し回る訳か。そんな事してる間に、日暮れちまうぞ」
「……っ」
 総司は悔しそうに唇を噛んだ。
 土方の云う事はもっともなのだ。外の雨脚はますます酷くなってきている。そんな中、また歩き回るなど正直ごめん被りたい処だった。
 小さくため息をつくと、総司は草履を脱いだ。框をゆっくりとあがり──だが、そこで立ち止まってしまった。
 彼の言葉に従っていいのか、不安になったのだ。
 一晩、同じ部屋に泊る事になるなんて。
 この世の誰よりも、愛しい男と。
 それも、もうすぐ妻を娶ってしまう男と。
 自分が同性である以上、土方が気にもとめていない事も、何の意図もなく一緒に泊ろうと云った事も確かだったが、それでも、総司は不安でたまらなかった。


 こうして彼と逢っているだけで、目の前にしているだけで、あふれそうになってしまう熱く甘い想いを、本当に秘めたままでいられるのだろうか?
 この恋心が彼にばれぬまま一夜を共に過ごす事など、本当にできるのだろうか?


 俯いたまま、立ちすくんでしまった総司を、土方は深く澄んだ瞳で見やった。
 しばらく黙ってから、ゆっくりと手をさし出す。
「……」
 顔をあげた総司を、土方は静かに見つめた。
 そっと──まるで幼い子供の手をひくように、総司の手を握りしめてやりながら、優しく囁きかけた。
「……おいで」
「──」
 総司の目が大きく瞠られた。


 もう、逆らえるはずがない。
 この人の傍にいたい。
 この人を感じていたい、と。
 心から渇望するように願っていたのは、自分自身なのだから……。 


「……ぁ……」
 微かな喘ぎをもらした総司は、そっと長い睫毛を瞬かせた。それから、こくりと頷くと、頬を染めて男の手を握り返す。
 土方はそれに微笑んだ。
 雨音が静かに響く中。
 ゆっくりと部屋へ歩き出していきながら、二人は互いの存在だけを熱いほど感じていた。