「今日はここまで」
静かな声でそう云った総司に、隊士達は一斉に頭を下げた。
病身のため、そう滅多に稽古をつけられる訳ではなかったが、総司が道場に現われれば、きんと張りつめた緊張感が漂う。その優しげな容姿と裏腹に、稽古の厳しさは評判だった。
病を得てから、生死の一瞬を見据えるようになった為か、その剣術はより鋭く研ぎ澄まされていた。一種、凄絶なまでのものがある。
それは、一見すれば花のように優しく素直な総司の中に秘められている、激しくも美しい焔の本質そのものだった。
そんな総司自身も気づかぬ気質を、誰よりも理解し、深く愛していたのが土方だ。冷たく接しつつも、総司がまだ宗次郎と呼ばれていた幼い頃から、その複雑で繊細な少年の気質を愛してきたのだ。
その土方は、今、総司の傍にはいない。
「……」
総司は道場を出ながら、ふと目を伏せた。
冬の終わりを告げるような青空が、目に眩しかったのだ。澄み渡った空が広がり、新緑があちこちで光を受けて輝いている。
(……あの人がこの屯所を発ってから、もう五日)
心に、そう呟いた。
土方は今、新撰組の屯所を離れていた。だが、それは江戸への旅ではない。
もしそうであれば、総司も、こんなに安穏としていられなかっただろう。
「……やっぱり、気持ちって正直だ」
総司は小さく呟いた。
もうすぐ春が訪れる。
それはある意味、彼の祝言が迫っている事を意味していた。
この春、土方は江戸に戻り、あの美しい娘を妻とするのだ。それは既に決定した事であり、今も江戸では着々と準備が進められているはずだった。
それを思うと、総司は息が苦しくなった。胸のあたりが詰まるような思いに襲われるのだ。
土方がそれを認める事を云った訳ではなかった。いったいどうするつもりなのかわからないが、それでも、土方は総司の前で、肯定的な事は告げなかったのだ。
彼への拒絶のため、総司の方から口にした時もだった。
土方は切れの長い目で若者を見つめ、静かにこう云ったのだ。
「おまえは、何も心配しなくていい」
男の言葉に、総司は微かに目を瞠った。
息ができなくなる。
嬉しいと云えばいいのか、それとも、いやだと云えばいいのか。
それさえも、わからなかった。
「……心配など、していません」
彼への想いを隠しつづけている総司は、そう云って、すげなく顔を背けた。
すると、背中から強く抱きすくめられた。
「つれない事を云うな」
耳もとで囁く土方に、総司は鋭く云い返そうとした。だが、とたん、男の掠れた声が耳に届く。
「俺も男だ……おまえにすげなくされると、傷つく」
「……」
総司は思わず息をつめた。
彼の想いが、優しさが切なさが、抱きしめる腕から伝わってくるようだった。
この人が愛しくて愛しくて、たまらなかった。
好きですと告げられたら、どんなにいいだろう。
何のしがらみもない恋だったなら。
この人との愛だけに、生きることができたなら……。
「土方さん……」
愛を告げぬかわりに、ただ、愛しい男の名を口にした。
男の腕の中、総司はそっと目を閉じた。黙ったまま抱きしめる男の広い胸もとに、身を凭せかける。
土方はそんな若者を抱きすくめ、頬に首筋に口づけを落とした。時折、甘く低めた声で囁きかけてくれる。
「……愛してる」
想いの丈をこめた告白を、拒絶できるはずもなかった。だが、深い罪悪感ゆえに受けいれる事もできなくて。
それが哀しく辛い総司は黙ったまま、唇を噛んだ。何かを堪えるように。
だが、こうして抱きしめられる瞬間の幸せは、その切なさを凌駕し、総司の中にある理性など簡単に突き崩してしまいそうだった。
それ程、頬にふれた彼の吐息や、抱きしめる腕の力強さは、何よりも誰よりも、愛しくて……
(……こんなにも、私は囚われている……)
総司は長い睫毛を伏せると、吐息をもらした。
先程から、井戸端で一人佇んでいたのだが、たまらず俯いてしまう。彼の事を想うだけで、何もかも消え失せ、彼だけに囚われてしまう己が怖い程だった。
井戸の縁に手をかけ、きつく瞼を閉じる。
「……」
その時、道場の方から斉藤が現れた。
井戸の縁に手をかけ俯いている総司に気づき、心配げに声をかけてきた。
「おい……大丈夫か」
「!」
それに、総司は慌てて顔をあげた。
「あ……斉藤さん」
友人の姿をみとめ、小さく笑ってみせる。
「大丈夫ですよ、別に何ともありません」
「ならいいが」
斉藤は僅かに眉を顰めた。
「あまり無理はするなよ。また発作でも起こしたら事だ」
「えぇ」
こくりと頷いた。
実をいうと、最近、総司の病は小康状態をたもっていた。
そして、それはある意味では、土方のおかげだった。
以前は遠くから眺めているだけで口出しできなかった土方が、強引に総司を医者へ連れてゆき、薬を飲ませるようになったのだ。無理をさせぬよう、よく休ませてもいる。
そのため、総司のなめらかな頬は赤みをさし、稽古にも出られるようになっていた。
そのことに、心配していた一番隊の隊士たちも、一番弟子である総司を可愛がっている近藤も、喜んでいる。むろん、土方も。
だが、そうした兄代りとしての気遣い以外、総司は完全に土方を拒絶していた。相変わらず拒みつづけているのだ。
それに対し、土方も諦めるつもりはないようだった。
愛してる──と甘く掠れた声で告げ、抱きしめてくる。
出張の前日、六日前の夜もそうだった。
近藤に彼を呼んでくるよう頼まれ、仕方なく向かった副長室。
廊下で膝をつき、障子をそっと開いた。
「……副長」
声をかけた総司に、文机にむかっていた土方がふり返った。総司を見たとたん、かるく目を見開く。
そんな表情さえ魅力的で、慌てて視線をそらした。
「近藤先生が……局長が呼んでおられます」
「そうか」
土方は頷くと、筆を置いた。立ち上がり、部屋を大股に横切ってくる。
彼を通すため総司は立ち上がり、身を寄せようとした。
あっという間だった。
手首が掴まれたかと思うと、次の瞬間には、部屋の中へ突き飛ばされる。
「!」
慌ててふり返った時には、土方が障子を素早く閉めた処だった。
「……や」
必死になって逃れようとしたが、男の力には叶わない。あきらかに体格差がありすぎるのだ。
どんなに稽古に励んでも、総司の躯は華奢なままで。
土方の腕の中では、まるで娘のように扱われてしまう。
それが悔しく、だが──一方で、広く逞しい胸に抱きとられる安堵感に、思わず吐息をもらしている自分に気づき、狼狽する。
「だ…め、離して……っ」
「離さない」
「お願い、誰かが入ってきたら……」
そう云いかけた唇が塞がれた。
深く唇を重ねられ、甘やかに舌をからめられる。
「……ぁ……っ」
陶然となった。
愛しい男の腕の中、たちまち身も心もとろかされていってしまう。
だが、畳の上へ柔らかく横たえられたとたん、我に返った。
こんな処で抱かれるなど、とんでもない事なのだ。下手すれば、一気にすべてが暴かれてしまう。
それを思っただけで、さぁっと血の気がひいた。
「……っ」
怯えきった瞳で、彼を見あげたのだろう。
土方は僅かに苦笑すると、身をかがめ、そっと長い睫毛に唇を押しあてた。
「……そんな顔をするな」
「土方さん……土方さん、お願いだから……」
「わかってる。こんな処で抱きゃしねぇさ」
「……」
彼の言葉に、思わず安堵の息をもらした。ほっとしたとたん、強ばっていた躯の力が抜け落ちる。
そんな総司を見下ろし、土方は柔らかく抱きすくめた。そっと頬をすり寄せる。
「愛してる……」
「……」
「おまえだけを……誰よりも愛してる……」
「……」
真摯な声で囁かれ、総司は胸が熱くなるのを覚えた。
愛しているのだ。
ずっとずっと恋してきたのだ。
だが、それでも彼にそれを告げる訳にはいかなかった。
もしもこの恋が彼に知られれば、土方はもう躊躇う事などないだろう。
すべてを捨て去り、総司との恋に身を投じるに違いない。
そんな事させる訳にはいかなかった。
総司自身、望んでもいなかった。
自分たちをとり囲む多くの人々を、裏切りたくなかった……。
「……だいっ嫌い」
だから、告げた。
愛する男の腕の中で、そう云い放ってやったのだ。
そんな事を云っても、もはやどうにもならぬ処まで、彼も自分も来てしまっていた。
今更なのだとよくわかっていながら、それでも。
他に、何の手段も見つからなくて。
「あなたなんか……だい嫌い」
大きな瞳でまっすぐ見あげ、そう告げた総司に、土方は何も答えなかった。
ただ黙ったまま、腕の中にいる愛しい若者を見つめている。
やがて、もう一度くり返そうとした総司の唇に、そっと指を押しあてた。
そして、囁いた。
「それでも……おまえを愛してる」
「──」
総司の目が見開かれた。半ば呆然と、彼を見つめている。
それに、土方は微笑んだ。
「どんなにおまえに嫌われても憎まれていても、それでも……俺はおまえを愛している。その真実は、絶対に変わる事はない」
「……」
もう、何を云うこともできなかった。
自分を見つめる男の深く静かな瞳に、思い知らされたのだ。
どれほど愛されているか。
そして。
この愛から、もう逃れえぬ事も───
「え? 土方さんが?」
総司は驚いて、思わず聞き返した。
それに、近藤は少し困惑したような表情で頷いた。
昼下がりの局長室だった。遠く隊士たちの鍛錬の声が聞こえている。
突然、近藤に呼び出された総司は理由もわからぬままやって来たのだが、そこで、驚くべき事を聞かされたのだ。
近藤は懐手をしながら、低い声で云った。
「何でも、町中でいきなり斬り合いになったらしい。むろん、相手は倒したが、歳も傷を負ったという話だ」
「傷って……そんな! 深いのですか!?」
思わず身をのりだし訊ねた総司に、近藤はゆるく首をふった。
「少し腕を斬られただけらしい。たいした事はないと、この文にも書いてある」
「そう…ですか」
ほっと安堵の息をもらした総司を、近藤は訝しげに見やった。僅かな笑みをうかべる。
「何だ、歳のことが心配か」
「え? えぇ……まぁ」
「少し前まではいがみあってばかりだったのが、随分と変わったものだな。仲直りできたのか」
「──」
何も知らぬ近藤の言葉に、息がつまった。
罪悪感が胸奥から突き上げ、吐き気まで覚えてしまう。
必死になって両手を握りしめた。
「隊士として……心配しただけです。あの人は新撰組の副長ですから」
「そうだな」
頷いた近藤は、穏やかに微笑んだ。
「だが、良かった。最近、おまえと歳があまり対立せんようになってきたので、安堵していたのだ。昔は酷く険悪な仲だったからな」
「……ご心配をおかけし、申し訳ありません」
「いや、いいのだ。おまえは大切な一番弟子であり、歳は大事な盟友だ。その二人が和解してくれるなら、それにこした事はないからな」
「……」
総司は思わず目を伏せた。
自分はこの人たちを裏切っているのだ。
和解どころか、ふたりして背徳の罪に堕ちてしまった。
抱きあい睦みあい、互いを深く求めあって。
それでも。
どんなに周囲を傷つけても尚、渇望してしまうこの愛とは、いったい何なのか。
人は、これを罪と呼ぶのではないのだろうか……。
心が苦しく、今にも押しつぶされてしまいそうだった。
