ある休日のことだった。
 珍しく総司が休みをとることができた日で、これまた、売れっ子歌手以上に忙しい東京地検特捜部のエース検事である土方も、休みとれた日。
 テーブルには、土方特製のおいしい朝ごはんが用意されていた。焼きたての手作りクロワッサンに、グリーンサラダ、とろりと半熟の目玉焼きとベーコン、フルーツにポタージュスープという組み合わせだった。
 それに、起きてきたばかりの総司が歓声をあげた。
「わぁ、おいしそう」
「気にいってもらえると、嬉しいね」
 土方はギャルソンエプロンを外しながら、椅子に坐るよう促した。まろやかな曲線を描く白いポットから、ぽとぽとと紅茶を注いでくれる。その姿に、うっとりと見惚れてしまった。
 いつもより柔らかく整えられた黒髪に、アーモンド形の切れ長の目、少し伏せられた男にしては長い睫毛。視線に気づいて、こちらを見てくれた黒い瞳は濡れたようで、とても綺麗だ。
 柔らかな笑みをうかべた形のよい唇に、引き締まった頬から顎にかけての線、シャツの襟元からのぞく褐色の肌。
 すらりとした長身に白い綿シャツと洗いざらしのジーンズを纏っている彼は、休日の陽射しの中で、まるで一枚の写真のようだった。


(こんなに格好よくて素敵な人が、ぼくの恋人だなんて夢みたい)


 そんな事を思いながら、総司はクロワッサンを手にとった。食べると、しっかりパイ層があって、とても美味しい。
 いつもながら最高に美味しい朝食をとりながら、総司は言った。
 そうだ、忘れないうちに言っておかなければと思ったのだ。
「あのね、今度ね」
 話しかける総司に、土方が顔をあげた。
「今度?」
「ぼく、ライブをすることになったの」
「え?」
 小首をかしげた。
 一瞬、意味がわからなかったのだ。
 コンサートではなく、ライブとはどういうことなのか。というか、ライブは生演奏という意味であり、コンサートと同じことになってしまうのだが。
「えーとね、上手く言えないんだけど」
 総司は小首をかしげるようにしながら、言った。
「小さなライブホールでやるの。デビューした頃にはよく使っていたホールなんだけど」
「何でまたそんな処で」
「次のアルバムのプロモーションなんだって。それに……」
 言いかけ、総司はもごもごと口ごもってしまった。それを訝しく思ったが、土方はにこやかな笑顔で言った。
「じゃあ、生で総司の歌が聞ける上に、すぐ目の前っていう特典ありまくりなんだ」
「う、うん、そういうことかな」
「でも、客が押し寄せて大変な事になるんじゃないか?」
「あ、大丈夫。抽選にしているから」
「なるほど」
 土方は頷くと、テーブルに手をついて身を乗り出した。え? とびっくりしている総司を、きれいな笑顔で覗き込む。
「で、もちろん、俺の分のチケットはあるよね」
「あ……うん、でも。土方さん、お仕事なんじゃない?」
「いつ」
「この前言っていた、すごく忙しい時の真っ最中。あの週の水曜日なの」
「……」
 忙しい週の真っ最中の水曜日とは、家宅捜査の予定日だった。
 早朝から、とあるベンチャー企業に捜査に入る予定なのだ。横領だけでなくインサイダー取引など、様々な疑いがもたれている会社だった。
 重大な案件であるため、エース検事である土方自身が指揮をとることになっている。そのための準備を今、進めている処だった。
 いくら日常生活そのものが総司優先で動いている土方であっても、ライブのために家宅捜査をすっぽかす訳にはいかない。
 だが、やはり面白くないことは、当然のことで……
「……」
 押し黙ったまま食事を再開した土方を、総司はちょっとびくびくしながら見た。


 確かに、ライブをすることは事実だった。
 一応、言っておかないと、後で知られた時に怒られる気がしたのだ。
 だが、言っていないこともあった。それこそ、土方が不機嫌そのものになって、挙句、喧嘩にまで発展してしまいそうなことが……。


 総司は、事の発端となった日のことを思い出した。













「え、ライブ?」
 総司はびっくりして顔をあげた。
 その前で、磯子は頷き、スケジュール帳をめくった。
「うん。今度、新しいアルバムを出すでしょ。そのプロモーションもかねているんだけど、ちょっと他にもあるのよ」
「他って、何のこと?」
「総ちゃん、kotuneさんって知っているでしょ」
「あ、うん」
 総司はこくりと頷いた。


 最近、とても人気が出てきている歌手のことだった。
 総司とは路線がかなり違い、本格的なロックグループのギタリストであり、ボーカルだ。総司より二つほど年上で、個性的で弾むようなリズムの心地よい彼女たちの音楽は最近、人気急上昇中だった。
 総司と同じ事務所だし、何度か、音楽番組で一緒になったことがある。ロックグループのボーカルであり、ギターの腕前が一流なのだが、気取った処もなく明るく可愛らしい女性だった。小柄で華やかな顔だちをしている。
 総司も話したことがあるが、楽しく朗らかで、素敵な人だなとかなり好感を持っていた。もっとも、そのことである記憶があるのだが……。


「その彼女とね、コラボの話が出ているの」
「コラボ……」
「共演というか、総ちゃんがkotuneさんたちのグループと一緒に歌うってこと。ライブで評判が良ければ、そのままCDにしてもいいし」
「えっ、本当に?」
 総司はびっくりしたが、気持ちが弾むのを感じた。


 いつも総司はソロで歌ってきていたので、誰かと一緒に歌ったという経験もなかった。
 ましてや、ロックグループと一緒になんて、まったくの初めての経験で、わくわくしてしまう。


「やりたい! ぼく、絶対にやりたいよ」
「じゃあ、OKってことでいいわね」
 磯子はにっこりと笑った。だが、すぐに、「あ」という顔になった。
 小首をかしげると、総司の顔をじっと見つめた。
「磯子ちゃん?」
「このライブなんだけど、日程はこっちに任せてくれる? というか、土方さんの仕事、この頃、忙しいみたい?」
「? えーと、今はそうでもないけど、確か……」
 総司は自分のスケジュール帳を出した。
 この頃、二人は休みをあわせるため、お互いのスケジュールを記すようになっているのだ。あらかじめ予定を書いておけば、休みもあわせやすくなるためだった。もっとも、総司のスケジュール帳に実際、記入をしているのは、土方自身なのだが。
 案の定、磯子が覗きこんでみると、土方らしい綺麗な男らしい文字が丁寧に書きこまれてあった。とくに数字が美しく明確で、いかにもビジネスマンらしい筆跡だ。
「この辺りは、土方さん、忙しいみたい。この週がとくに……」
「ふーん、なるほどね。じゃあ、この週の真ん中の水曜日に、ライブをやりましょ」
「え?」
 総司はきょとんとした。


 どうしてなのか、まったくわからなかったのだ。
 ライブをやるなら、総司も彼に来てもらいたいと思うことは当然だ。
 なのに、どうして、わざわざ彼が来られない日を選んでやるのか。


「何で? どうして、この日なの?」
「総ちゃん、本気で言っている?」
「???」
 まったくわかっていないらしい総司に、磯子は、はぁっとため息をついた。
 それから、はっきりと言った。
「覚えてないの? このkotuneさんのことで喧嘩になったって、総ちゃん、言っていたじゃない」
「……あ」
 とたん、記憶が蘇ってきた。






 総司が出た音楽番組が、たまたま休みの日に放映されたのだ。
 それを見ていた土方が、総司に「この女の子、誰?」と訊ねたのが始まりだった。
 kotuneも一緒に出ている日で、仲良く二人で喋ったりしているところが映しだされたのを見ての、言葉だ。その時点で明らかに土方は不機嫌そうに眉を顰めていたのだが、新しい友人が出来たことにうきうきしていた総司が、それに気づくことはなかった。
「あのね、コツネさんって言ってね」
 と、それはそれは嬉しそうに、楽しそうに、kotuneのことを褒めちぎって話してしまったのだ。
 優しくて明るくて楽しいとか、笑顔がかわいくて素敵とか、年も近い上にミュージシャンだから話があうとか、色々話していく間、土方はずっと無言だった。相槌一つうつでもなく、黙りこんでいたのだ。
 だが、総司が喋り終わったとたん、
「ふうん、そんなに、その子のこと気にいったんだ」
 土方が微妙な口調で言った。
 びっくりして見上げると、皮肉っぽい笑みをうかべている彼と目があった。口もとは笑っているのに、まったく目が笑っていなかった。
 どこからどう見ても怒っているのだ。
「気にいったって……友達だもん」
「友達、か。便利な言葉だよね」
「何それ」
「よく言うじゃないか。熱愛報道とかされた時、レポーターに、彼女はいい友だちですとか」
「土方さんは、ぼくが嘘をついているって言いたいの? 友達じゃないって」
「ふうん、友達以上の関係な訳?」
 真面目な顔でそう聞かれたとたん、総司は、ぶちっと切れてしまった。
 恋人から言われる台詞ではないと思ったのだ。その後はもう売り言葉に買い言葉で、クッションまで投げつけちゃって、3日ぐらい口もきかない日が続いてしまった。
 結局、いつもどおり土方が折れる形で仲直りしたが、それでも、以来、kotuneのことは禁句になっている感じがある。





「確かに……まずいかも」
 もごもごと口ごもった総司に、磯子は「でしょ?」と頷いた。
「音楽番組でちょっと仲良くしただけで喧嘩になっちゃったんだから、一緒にライブやるなんてなったら、あまりいい気持ちしないわよね。揉め事の元になるのはわかっているんだから、事前に手を打っておくべきなのよ」
「それが、水曜日にライブをやる理由?」
「そう。土方さんに知られなきゃいいのよ。だいたい、総ちゃんだって土方さんと喧嘩するの嫌でしょ」
「嫌だけど、でも、kotuneさんとは本当にいい友達になれるかなって、思っただけなのに」
「相手が悪すぎよ」
「? どういう意味」
「kotuneさんと総司、めちゃくちゃ似合いだもの。何だか似ているもの同士というか、猫がじゃれあっているみたいで」
「ね、猫のじゃれあいって……」
 絶句してしまった総司の前で、磯子はパタンと音をたててスケジュール帳を閉じた。
「とにかく、このこと、土方さんには絶対に秘密だからね。どんな事があっても口を割らないように」
「自信、ないかも……」
「絶対に頑張るのよ。ライブ中止なんてなったら、たまったものじゃないんだから。賠償ものよ。それ、全部、土方さんが支払って……」
 と言いかけ、磯子はしばらく天井を仰いでから、はぁっとため息をついた。
「彼なら払っちゃうかもね。総ちゃんを独占するためなら、何でもやってのける人だから」
「何でもって、そんなことないよ」
 ぜーんぜん土方の独占欲と執着の強さを実感していない総司は、にこにこと笑っている。その天然な笑顔を見ながら、磯子はライブが無事終わることを祈ったのだった。












 で、やっぱり、総司を独占するためなら何でもやってのける土方は、その頃かなり不機嫌だった。
 むろん、仕事場では仕事も人柄も一流のエース検事を演じているため、一切そんな処は見せないが、プライベートになるともろに出てしまう。
 今も検察庁を出たとたん、形のよい眉を顰めながら携帯電話を取り出した処だった。何度かのコールの後、相手が出る。
「はい、もしもし?」
「斉藤か、俺だ。ちょっと出て来い」
 有無を言わさぬ口調に、斉藤は呆気にとられたようだった。
「……はぁ? 何ですか、藪から棒に」
「何でもいい。今から20分後に、例のバーで待ち合わせだ」
「え、ちょっ……」
 斉藤が会話中であるにも関わらず、土方はさっさと通話を切った。携帯電話をスーツの内ポケットに入れて そのバーに向かう。
 バーと言っても、適度な広さのある店だった。カウンター席の他に、ボックス席も幾つかある。落とされた照明の店内は品良く整えられ、静かな音楽が流れていた。ここは酒も店員も最上質の店なのだが、あまり人には知られていないツウの店なのだ。
 20分とは言ったが、斉藤がそんなすぐに来られるはずもない事はわかっていた。土方はカウンター席に腰をおろすと、とりあえずバーボンをロックで頼んだ。バーテンダーがつくってくれた美味い酒を飲んでいると、傍らに人が立ったことに気づく。
 斉藤かと思って顔をあげた土方は、微かに眉を顰めた。見たことがある気がするが、すぐには思い出せない。
 そんな彼に、男はにこりと笑ってみせた。
「東京地検特捜部の土方さん、ですよね」
「……えぇ、そうですが」
「覚えておられないのも無理はない。永倉と申します。以前、近藤さんとご一緒したことが」
「あぁ……近藤さんの所の」
 公安の首席調査官である近藤の部下の一人だった。かなり仕事が出来る男だと聞いた覚えがあった。
 以前、一度だけ会ったことがある。
「随分とご活躍のようで」
「いや、そちらこそ……近藤さんはお元気ですか」
「元気ですよ。また、あなたと酒を飲みたいと言っていました。ここの処、こちらも忙しくて時間がなかなかとれないようですが」
「あまり無理はされないよう、お伝え下さい」
「わかりました」
 永倉も長居をするつもりはないようだった。顔見知りを見かけたため、挨拶だけは済ませておこうと考えたのだろう。律儀な男だと思った。
 その永倉は場を離れようとして、店に入ってきた斉藤に気づいた。あれ? という顔になる。斉藤はカメラマンとして名が通っているが、実は公安の一人なのだ。
「斉藤」
 かるく手をあげてみせた土方に頷いてみせてから、斉藤は永倉に笑いかけた。
「仕事の話じゃありませんので、ご安心を」
「信用しているよ」
 そう言うと、永倉は店を出ていった。すれ違うようにして歩いてきた斉藤は、スツールに腰かけながら、土方を覗きこんだ。
「ここで永倉さんと会っていたんですか」
「偶然だ。それに、おまえが言ったとおり、仕事の話なんかじゃねぇよ」
「でしょうね。あなたが何か情報流してくれるはずありませんし。……総司のことですか」
「おまえ、ライブのこと、何か聞いているか」
 そう言った土方に、斉藤は首をかしげた。
「ライブですか」
「今度、総司がライブをやるらしい。けど、あいつは俺に何か隠し事をしている」
 そう言った土方は、微かに目を細めた。