こんな偶然ってあるんだ。
 総司はベンチに坐ったまま、そっと両手で唇をおおった。あんまりびっくりして、声をあげそうになってしまったのだ。
 だが、その心配は無用だっただろう。
 雪に閉ざされた新千歳空港はざわざわと騒がしく、総司の声などかき消されるに違いなかった。
 CM録りのために北海道を訪れた総司は、先程から、一人ぽつんとベンチに坐って途方にくれていた。
 何しろ、吹雪のため乗る予定だった飛行機が欠航になってしまったのだ。こんな時、あれこれ処理してくれるはずの磯子は、トラブル処理のため、昨日のうちに東京へ帰ってしまっていた。
 これからどうしようと考えつつ、ベンチに腰かけた処だったのだ。
「……」
 総司は伊達眼鏡ごしに、今、電光掲示板の前で立ち止まり、話しているスーツの一団を見つめた。
 正確に云えば、その中のたった一人を。


(……土方さん……)


 だい好きなだい好きな恋人だった。いわゆる、彼氏だ。
 だが、最近、あまり逢えていなかった。お互い同じマンションの、それも上下階に住んでいるのに、逢う暇がなかったのだ。
 総司が忙しかった事もあるが、東京特捜部のエース検事などをやっている土方も忙しく、今大きな案件が入っているようだった。
 その事はよくわかっている。何故なら、一ヶ月前、デートの最中にちょっとした事があったのだ。
 その色々を思い出してしまい、総司はきゅっと唇を噛んだ。












 そのデートも久々だった。
 なんと二週間ぶりに逢えたのだ。それも、三日連続で総司もオフ、彼も休日という最高のシュチュエーションだった。
 ずっと楽しみにしていた総司は朝から上機嫌で、土方がつくってくれた朝食を食べながら、この後の計画などをたてていたのだ。
「どこか行きたい処でもある?」
 そう訊ねた土方に、総司は、んーと小首をかしげた。
 彼がつくってくれたハムサンドを手にとり、考え込んだ。
 ハムとチーズをはさんでトーストしたものなのだが、バターとの絶妙なバランスが最高だ。
 総司の躯の事を考えてつくられた野菜たっぷりのスープも、牛蒡サラダも、デザートのブラマンジェまで、完璧な出来上がりだった。
 そこらの有名レストラン顔負けのおいしさだ。
「とりあえず、土方さんがつくってくれたご飯を食べられたから、満足かな」
 総司の言葉に、土方は嬉しそうに笑った。手をのばし、総司のなめらかな頬に、そっとふれてくる。
「こんな事ぐらいで満足してくれるなら、いくらでもつくってやるよ」
 甘い言葉を囁いてくれる土方を、総司はうっとりしたまなざしで見つめた。


 白っぽい朝の光の中、彼はとても綺麗だった。
 さっきシャワーを浴びていたため、まだ少し濡れている黒髪が少し跳ね、悪戯な少年のような印象をあたえる。
 時折、総司の方を見つめ、笑いかけてくれる黒い瞳も、甘い言葉を囁く形のよい唇も、何もかもが愛おしい。
 洗いざらしのジーンズに、Vネックのセーターを着ている彼は、綺麗な獣のようだった。
 肉食獣がゆったりと体をのばして休む様を、想像させる。


(土方さんだと、ライオンかな? それとも、狼?)


 そんな事を考える総司に、土方がくすっと笑った。身をのりだし、ちゅっとキスをする。
「まだ寝ぼけてる?」
「え、あ……ち、違いますよ。ちゃんと起きてるもん」
「本当?」
「うん。だって、土方さんが恰好いい肉食獣みたいだなぁって思ったから」
「肉食獣?」
 びっくりしたように、土方は目を見開いた。それから、くっくっと喉奥で笑いはじめる。
「何だ、それ。俺がライオンとかに見えた訳か?」
「うん、狼かなぁって思ったりして」
「で、おまえを食べちゃう訳だ」
「あ……」
 不意に立ち上がった土方が、総司の後ろにまわった。そっと両腕で背中から抱きすくめながら、白い耳朶を甘咬みする。
「ほら、こんなふうに……食べちゃおうか」
「や、ぁ…んっ」
「うん。これも、いいかもな」
 土方は首筋や頬に唇をはわせながら、呟いた。
 それに、総司が彼の腕の中で目を閉じながら、「な…に……?」と聞き返した。大きな掌で薄いセーターごしに躯のラインを撫でられ、頭がぼうっとしてくる。
 彼の吐息が耳元にふれ、たまらない。
「こういうの。どこにも行かないで、こうしていちゃついてるのも最高だなって」
「……ぁ、っ……」
「総司はどう思う?」
 男の問いかけに、総司はもう答えられる状態ではなかった。
 悪戯な指さきで胸の尖りをくすぐられ、躯が甘やかに疼きはじめていたのだ。小さく喘ぎながら、前にまわされた男の腕にしがみつく
 可愛いしぐさに、土方は微笑んだ。OKだと勝手に判断して、ソファへ運ぼうと、膝裏と腰に両腕をまわして抱きあげかける。
 その時、だった。
「!」
 不意に鳴った携帯の音に、土方は眉を顰めた。
 彼の携帯だ。
 鋭い電子音が部屋の甘ったるい空気を、ぴりぴりと引き裂いてゆく。
「……」
 土方は一瞬躊躇ったが、結局は、総司の躯を椅子に下ろした。携帯電話を取り出すと、耳にあてながらリビングへ歩いてゆく。
 それを、総司はぼうっとした表情で見送った。
「──あぁ、俺だ」
 しばらくすると、何かやり取りする声が聞こえてきた。
 固い声音だ。どう考えても仕事関係のようだった。
「本当なのか、それは。──困ったな、矢部は? あいつも駄目なのか。仕方ないな……あぁ、わかった」
 それをぼんやり考えながら聞いているうちに、電話が終った。顔をあげれば、土方が携帯電話を仕舞いながらこちらへ戻ってくるところだ。
 身をかがめ、まだ椅子に坐ったままの総司を抱きしめると、彼は小さな声で謝った。
「……ごめん」
「え……?」
 総司は目を瞬いた。
「悪い、急ぎの仕事が入った。不測の事態が発生したみたいなんだ」
「不測の……事態?」
「休みはなしだ。これから仕事に行かなきゃいけなくて……」
「……」
 ぼうっとしていた総司の頭も、ようやく回り始めた。


 どういう事?
 急な仕事って……え、何で?
 今日と明日と明後日は、土方さん、お休みのはず……


「やだ」
 しばらく黙り込んでから、きっぱり断言した総司に、土方は小さく苦笑した。
 困惑はなく、ただ、わかっていたような表情で、少年の髪を撫でる。
「ごめん。この埋め合わせは今度するよ」
「絶対にいや。お休みのはずなのに」
「本当にごめん。」
「だって……っ」


 ずっとずっと楽しみにしていたのだ。
 やっと二人一緒にとれたお休み。
 なのに、どうして?
 まだ1時間も一緒に過していないのに。これからって時だったのに。
 何で、ぼくを置き去りにしちゃうの?


 ぷうっと頬をふくらませた総司は不意に立ち上がった。
 リビングへ行くと、ソファの上に坐りこみ、クッションを抱え込んで丸くなる。
「総司」
 追いかけてきた土方が、そっと総司にふれようとしたが、その手もふり払った。クッションに顔をうずめながら、くぐもった声で云う。
「土方さんなんか、嫌い」
「それは困るなぁ」
「困っても何でもいいもん。そんなにお仕事が大事なら、さっさと行っちゃえば? もう知らないっ」
「……」
 黙り込んでしまった土方に、総司はすぐさま不安になった。また本気で怒らせてしまったのだろうか。
 あまり我侭云うなと、怒鳴られるのだろうか。
 ちょっとびくつきながら顔をあげ、総司は土方の方をふり返った。
 すると、視線があったとたん、土方は悪戯っぽく笑ってみせた。身をかがめ、総司の髪をくしゃっとかきあげ、瞼に、頬にキスを落としてくる。
「拗ねてる顔も可愛いね」
「土方さんっ」
「磯子ちゃんには連絡しておくから」
 そう云うと、土方は身を起した。もう一度だけ、くしゃりと髪をかき回してから、部屋を出てゆく。
 遠ざかる男の背を見送っていた総司は、玄関ドアが閉まる音を聞いたとたん、ソファに突っ伏してしまった。


 本当に仕事へ行ってしまったのだ。
 あの、いつもいつも総司には甘くてどんな我侭でも叶えてくれる男が、総司を残して行ってしまった。
 それだけ重要な、絶対に外せない仕事なのだという証拠だったが、そんなの、恋人である総司には何の関係もないのだ。
 ずっと楽しみにしていたデートをキャンセルされてしまった落胆は、他で、埋め合わせできるものではない。


「……土方さん」
 総司はだい好きな彼の名を呼ぶと、クッションをきつく抱きしめた。












 結局の処、土方はその三日どころか、それから十日程、仕事に忙殺されたようだった。
 土方が仕事へ向ってから数日後、財界で逮捕者が出た。大規模な汚職事件に発展しそうで、政界の中からも次の逮捕者が出るのではと噂されている。東京特捜部のエース検事である土方が呼び出されるのも当然の事だった。
 だが、その報道を見ながら、総司は別のことを考えていた。
 時間がたつにつれ、あの時、駄々をこねてしまった自分が、恥ずかしくなってきたのだ。
 前々から、我侭ばかり云っている、甘えているという自覚はあった。
 土方も、いつも「我侭でいいよ?」と笑ってくれるから、どんどんつけ上がってしまっていたのだと思う。
 大変な仕事をしている彼を引きとめ、挙げ句、あんなふうに駄々をこねるなんて。
 そして、総司は思ったのだ。


 もう少し、しっかりしなくちゃ! と。


 どんどん甘やかしてくれるので、こっちもつい際限なく甘えてしまったが、よーく考えれば、自分も、もう二十歳すぎ。
 いい加減、大人にならなくちゃいけないだろう。
 彼に迷惑ばかりかけて、困らせる訳にはいかない。
 だいたい、こんな事をずーっと続けていけば、いくら寛大な彼でも呆れて、三行半を突きつけられてしまうかもしれないのだ。
 そんなの、絶対にいやだった。別れなんて、考えただけで泣き出したくなってしまう。


 ずっとずっと、彼の傍にいるためにも、しっかりしなきゃ!


 そう、固く固く決意したのだ。
「……だから、だめだめ、我慢なの」
 空港のベンチに坐りこんだ総司は、呪文をとなえるように呟いた。
 現在、新千歳空港は雪で閉ざされ、どう考えても、この北海道で一泊しなければならない。
 今までだったら、偶然会った土方に頼ってどうにかして貰うか、もしくは、磯子に電話しているに違いなかった。
 だが、それではいけないのだ。大人になれないのだ。


 ここが正念場!
 自分でこの難関を突破しなくちゃ、大人になれないんだから。


 総司は顔をあげ、土方たちが佇む方向を見つめた。
 全く、こちらには気づいていない様子だった。
 それはそうだろうと思う。ベンチには大勢の人が坐っていたし、立っている彼らの方が目立つ処にいるのだ。
 実際、この騒ぎの中でも、通りすぎる女達は皆、土方をふり返ってゆく。
 だけど、当然よね……と、総司はため息をつきたくなる思いで、だい好きな恋人を見つめた。


(土方さん……)


 すらりとした長身に上質のスーツを纏い、佇んでいる姿は、誰もが見惚れてしまう。
 どこかのモデルかと思われているに違いない、華のある容姿。
 すっきり整えられた黒髪に、今、微かに顰められた形のよい眉。話している相手をまっすぐ見つめる、切れの長い目。黒曜石の瞳。
 頬から顎にかけてのシャープな線、引き締まった口許。
 仕事のことなのか、厳しく怜悧な表情だ。
「……」
 思わず息をつめた。
 総司といる時は、軽口や冗談をたたいてばかりで、優しくて甘甘でお料理上手の彼だ。いつも、悪戯っぽい少年のような笑みをみせてくれる。
 だが、今、その端正な顔は引き締まっていた。ストイックでありながら精悍な大人の男だ。


(土方さんって、ほんと恰好いいよね。理想的な恋人って云うんだろうなぁ。大人だし、優しいし……)


 土方の危険極まりない本性も、裏の仕事も、なーんにも知る由のない総司は、ぼーっと見惚れながら、そんな事をつらつら考えた。あらためて、しっかりしなくちゃと拳を握りしめる。
 そんな総司が見つめる中、土方は同僚たちと別行動をとる事にしたようだった。歩み去ってゆく彼らに視線をむける事もなく、携帯電話を取り出し、何か操作をしている。
「……」
 総司はそぉっと立ち上がり、ゆっくり歩き出した。人々の間をすり抜け、空港のロビーを横切ってゆく。
 行くあてはなかった。だが、どこかホテルをとらなければならないという事はわかっていた。
 案内所で相談しようかなと考え、総司は空港内の地図を見上げた。
 その時、だった。


「──どこへ行くの?」


 突然、後ろから腕を掴まれた。
















総司の腕を掴んだのは、もちろん……


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