小雨が降っていた。
重く雲がたちこめる空から、糸を引くように雫が落ちてくる。
傘が小さな雨音をたて、水たまりが足下でぱしゃっと跳ねた。
「……」
丸い小さな傘を僅かに傾けて、総司はちょっとだけ空を見あげた。だが、すぐ視線をしょんぼりと下へ落としてしまう。
こんな雨の日は、昔から好きだった。
売れっ子歌手である総司がサングラスもかけず、出かける事の出来る日。
降りしきる雨や、傘のせいで、誰も他人には気が付かないのだ。視線さえ向けない。
それぞれ透明な小さい密室の中にいるような、不思議なエアポケット。
だが、今、総司の可愛らしい顔には、楽しさも何もなかった。その大きな瞳からは今にも涙がこぼれ落ちそうで、ピンク色の唇はぎゅっと噛みしめられている。
総司は俯き加減のまま、とぼとぼと歩いた。
その華奢な姿の傍、突然、一台の車が滑るように横づけされた。
「!」
はっとして、総司が顔をあげた。
期待と嬉しさにみちた表情で。
だが、目の前にとまった車とその窓から覗いた顔に、項垂れた。ごめんなさいと思いつつ、がっかりしてしまう。
「……磯子ちゃん」
「何やってるの? こんな処で」
磯子は助手席のドアを開けながら、云った。
「総ちゃんの家へ行こうと思ってたのよ。電話も何度かしたんだけど」
「え、お仕事?」
「ちょっと急なね。このまま直行するから、乗って」
「うん」
総司は傘をたたみ、助手席に乗り込んだ。しっかりシートベルトを締めたのを確かめてから、磯子は車を発進させる。
ハンドルを操りながら、ちらりと視線をやった。
「そんなに濡れちゃって……いったい、どこへ行くつもりだったの?」
「どこって別に……散歩、かな」
「散歩って、こんな雨の日に?」
「うん」
こくりと頷いた総司に、磯子は首をかしげた。
昨日から、総司はオフに入っていたのだ。
今頃、楽しい休日を過ごしているだろうと思っていたのだが、こんな処で一人散歩だなんて、いったいどうしたと云うのだろう?
「けっこう濡れちゃってるね、後ろにタオルがあるからそれで拭いたら?」
「大丈夫だよ」
「でも、そのままにしたら風邪ひくわよ〜。そんな事になったら、あたしが怒られちゃうし」
「怒られるって、誰に?」
「決まってるでしょ、土方さんよ」
その名前を告げたとたん、だった。
錯覚ではない。
総司の躯がびくんっと震えたのだ。
それに磯子は驚いて、また視線をやった。
「……総ちゃん?」
「え……あ、あ、うん」
「どうかしたの? 大丈夫?」
「え、何が?」
総司は聞き返し、大きな瞳を僅かに瞬いた。だが、信号待ちであらためてその顔を見た磯子は、その瞳に涙を見つけて眉を顰めた。
熱があるにしては頬が青ざめ、だが、瞳は明らかに涙をふくんでいる。
「総ちゃん……何か、あったの?」
「……」
「もしかして、土方さんと喧嘩でもした?」
磯子の優しい問いかけに、総司はしばらくの間黙っていた。だが、やがて、こくり──と小さく頷いた。
ぎゅっと両手を膝上で握りしめている。
それに、磯子は小さく微笑んだ。手をのばし、総司の髪を撫でてやる。
「大丈夫よ、謝って仲直りすればいいじゃない」
「……う、ん」
「土方さんなら、すぐ許してくれるわよ」
そう云った磯子に、総司は瞳を揺らした。
謝りたかった。
仲直りしたかった。
でも、そんなの絶対無理だから。
もう二度と、逢うことだって出来ないかもしれないのだから……。
「そう、だね。ちゃんと謝るよ」
総司は小さな声で答えると、きゅっと唇を噛みしめたのだった。
あんな表情の彼は──初めて見た。
その言葉を叫んだとたん、すうっと瞳の色まで変わってしまった気がしたのだ。
いつも優しかったその黒い瞳は、見た事もないほど冷たい光をうかべた。
一切の表情を無くした端正な顔は、恐ろしく冷ややかだった。
「……わかったよ」
長い沈黙の後、土方は呟いた。
その声も低い押し殺されたもので、まるで彼のものではないようだった。
呆然としている総司の前で、土方はすっと踵を返した。背を向け、さっさと部屋を出ていってしまう。
追いかけなきゃ、とは思った。
ちゃんと謝らないと駄目だと。
だが、先程見せられた彼の冷たい瞳に、心の奥まで凍りついてしまい、呆然とそこに立ちつくすしかなかったのだ。
我に返ったのは、ばたんっと玄関の扉が閉まる音を聞いてからだった。
「……あ……」
喉奥から掠れた声を出し、総司はのろのろと一歩前へ踏み出した。だが、それでも結局はそこで立ち止まってしまう。
怖くて怖くて、たまらなかったのだ。
自分が酷い言葉を投げつけたからだとわかってはいたが、それでも、彼の冷たい瞳が、態度が、声音が、恐ろしかった。
突きつけられた拒絶が、総司の身を震わせた。
「どう…しよう……っ」
総司はその場に立ちつくしたまま、呟いた。
いつもいつも優しい彼に甘えきっていたのだ。
何をしても、何を云っても、許してもらえるのだと、思い上がっていた。
わがままでいいよ?と笑ってくれる優しい彼に、どんどんわがままになっていき、それに振り回される彼の気持ちも何も考えなかった。
いくら恋人でも、どんなに愛されていても。
云ってはいけないこと、してはいけないことが、あるはずだったのに。
『だいッ嫌い! 土方さんなんて、もういらない……っ!』
さっき叫んだ言葉が、まだ部屋の中に残っていた。
仕事が忙しくてまともに食事も睡眠もとれなくて、健康管理が全然出来ていなかった総司。
それを心配し、あれこれ世話を焼いてくれた彼。
でも、久しぶりにとれたオフの日、あまりに痩せてしまった総司に、土方はとうとうきつい口調で云ってきたのだ。
社会人なのだから、もう少し自分で健康管理をした方がいいんじゃないのか。
仕事熱心なのはいいが、それで倒れたらもともこもないだろうと。
それに、総司は反論し、喧嘩になった。
総司は自分の仕事に誇りをもっているし、歌うことも歌をつくることもだい好きだ。生き甲斐だ。それをセーブしろと云われることは、総司には我慢できなかった。
売り言葉に買い言葉で、どんどん二人の喧嘩はエスカレートしてゆき、挙げ句、さっきの言葉になったのだ。
云った瞬間、しまったとは思った。
土方の顔がさっと強ばったのを見たから、尚のことだった。
いつも優しい瞳で見つめ、微笑んでくれていたから、全然知らなかった。
彼の整った顔があんなに冷たく見えるなんて。
あんな冷たい瞳ができるなんて。
怖い、とさえ思った。
躯の芯がきんと凍りついて、刺すような視線をむけてくる彼に、どうしようもなく震えた。
もう謝ることさえ出来なかった。
何一つ云えなくて、言葉にできなくて、指一本動かせなくて。
ただ、彼が出ていってしまうのを見ているだけだったのだ。
「……土方…さん……っ」
総司はぎゅっと固く瞼を閉ざした。
「……ただいま」
小さな声で云ってから、総司は部屋に入った。
むろん、答は返らない。
部屋の中は真っ暗で静まりかえり、ぱちんと電気をつけても明かりを灯しても、何だか寒々しく感じた。
総司はコートを脱いでから、上を見あげた。
この真上は、土方の部屋だ。
だが、そこに彼がいないことはわかっていた。昨日、彼は総司と喧嘩別れしてから、上の部屋からさえ出ていってしまったのだ。
総司は翌朝、かなり悩みはしたが、謝るために上の部屋へ行った。何度も呼び鈴を押して、応答一つ返らぬことに涙ぐみながら、以前貰った合い鍵でおずおずと部屋に入ってみたのだ。
だが、部屋の中に、土方の姿はなかった。
どこにも彼の姿はなく、しんと静まり返っている。
出かけているだけかと思った総司は、ぴくんっと躯を震わせた。
「!」
突然、電話のベルが鳴り始めたのだ。
もちろん、勝手にとることもできなくておろおろしていると、電話は留守番電話に切り替わった。
そこから流れてきたのは、彼の声。
『はい、土方です。しばらく長期にわたり、家を空けますので……』
「……え?」
総司は目を見開いた。
何、それという感じである。
しばらく長期にわたりって……いったい、何?
そんなの全然聞いていなかった。
昨日だって、あの喧嘩まではこのオフの間一緒にあちこちへ行こうと、計画していたのに。
なのに……
(え、じゃあ、もしかして……)
総司は息を呑み、その場に立ちつくした。
彼は自分を避けたのだ。
自分がここへ押しかけてくることを見越し、ここからも出ていったのだ。
いつ帰ってくるかもわからない。
長期だなんて、いったい、いつまで?
ううん、それよりも。
(本当に……帰ってくるの? まさか、まさか……これきりってことは……)
総司の目が大きく見開かれ、かたかたと躯が震えはじめた。
のろのろと上げた両手で口許をおおい、もれそうになった嗚咽をこらえる。
涙がぽろぽろとあふれ、頬をこぼれ落ちた。
だが、それさえも自覚しないまま、総司は呆然と点滅する電話を見つめている。
(……土方さん……!)
どうしたらいいのかさえ、わからなかった。
このまま別れてしまうなんて、絶対にいやだと思ったが、どうしたら彼と逢えるのかさえわからない。
「そ、そうだ。携帯……」
総司はようやくその事に気が付き、慌てて携帯電話を取り出した。
だが、ナンバーをプッシュしたとたん、愕然となる。
「う…そ……」
着信拒否をされたのだ。何度やっても同じことだった。
土方は、総司からの一切の連絡を拒絶してしまっていた。
それはとりもなおさず、彼が本気で怒っていること、そして、総司を拒んでいることを、あらわしていた。
「土方さん……」
総司は彼の名をそっと呼んでから、しょんぼり俯いた。しばらくそうしていたが、やがて、のろのろとした足取りで部屋を出てゆく。
ここにいては、尚のこと彼を怒らせてしまうような気がしたのだ。
もしかすると、土方さんはぼくとは別れるつもりなのかも。
ううん、もしかするとじゃなく……確実に?
だって、あんなことを云ってしまったぼくなんか、嫌われて当然だもの。
土方さんはぼくのことを心配して云ってくれたのに、なのに、あんな……。
もう好きと思ってもらえるはずもない。
別れようって、彼から云われるのもあたり前で。
だったら、この合い鍵も返しておくべき……だよね。
めちゃくちゃ短絡的思考で結論づけると、総司は部屋をとぼとぼと出た。鍵をドアポストから中へと滑りこませたとたん、かしゃんっという音が響く。
それをじいっと聞いていた総司は、くるりと背をむけ、下の階へ駆け下りていったのだった。
土方が総司の傍から姿を消して、五日がたった。
その間、総司はますます仕事に打ち込んでいたため、家にも全く帰らず、車の中やホテルでの生活をくり返している。
「……いったいどうしたんだ」
久しぶりに会った斉藤は、総司を見たとたん、驚いた。
一回りほど小さくなってしまった印象さえある総司は、どこまでも儚く尚のこと可憐だったが、明るさも元気さも全くなかった。
憂いにみちたその瞳は、今にも涙が零れそうだ。
昼食のためにレストランへ連れ出してきた斉藤は、総司にあたたかいスープをさし出した。あれこれと気遣い、おいしくて躯に優しい料理を注文してくれる。
その優しさにふれ、総司は小さく微笑んだ。
「斉藤さん、ありがとう……」
「いや、けど……もう少しスープを飲んだ方がいい。体があったまるよ」
「うん」
こくりと頷き、総司はスプーンを口許にはこんだ。
それを眺めながら、斉藤は静かな声で訊ねた。
「いったい、何があったんだ」
「……何も」
「何もなくて、こんなに痩せるか」
「……」
「もしかして、土方さんとのこと……か?」
「!」
かしゃんっと音が鳴った。
総司がスプーンを皿の中へ取り落としてしまったのだ。思ったより響いたその音にしばらく固まっていた総司は、慌ててスプーンを取り上げた。
ぎゅっとそれを握りしめながら、強ばった笑みをうかべる。
「べつ…に、あの人には関係ないですよ」
「最近、家に帰ってないって聞いたけど」
斉藤は否定する総司に構わず、言葉をつづけた。
「それはもしかして、喧嘩した土方さんと顔をあわさないためか?」
「……」
「だったら、謝ったら済むことだと思うけど、いったい……」
「……謝れ…ないんだもの……」
小さな小さな声で、総司が云った。
それに「え?」と聞き返すと、総司がぱっと顔をあげた。その大きな瞳はもう明らかにうるうると涙で潤んでいる。
「だって、謝れないんだもの……!」
「……何で」
「土方さん、あの部屋を出ていっちゃったから……っ、携帯電話も着信拒否されてるから……」
「えぇっ?」
斉藤は目を見開いた。
思ってもみない総司の言葉に、唖然としてしまう。
あの土方さんが部屋を出ていった?
総司からの電話も着信拒否?
そんなの絶対ありえないだろー!と思うのだが、実際そうらしく、今、総司はしくしく泣き出している。
現実問題、レストランで可愛い少年、しかも超売れっ子歌姫を泣かす不届きものとして、斉藤は非難の集中砲火を浴びそうだが、幸いにして、ここは奥まっていて人目につかない。
そのことを深く深く感謝しながら、斉藤はナフキンを総司にさし出した。
総司はナフキンに顔をうずめ、くすんくすん泣いている。
その姿はとんでもなく可愛くてキュートで、いたいけな小動物というか白ウサギみたいで。
こんな可愛い恋人を土方が放っておくはずもないのだが、実際、彼の姿は傍にない。それどころか、出ていってしまったらしい。
「……うーん」
斉藤は腕組みし、唸ってしまった。
他の男ならこういう時はチャンスとばかりに口説くのだろうが、そういう弱みにつけこむのは、斉藤のプライドが許さない。
そりゃ、総司のことは初めて逢った時から一目惚れだったが、やはり恋は正々堂々と勝ち取りたいものなのだ。
だいたい、そんな事をしたら、土方に殺される。射殺される。
冗談でなく、いや、マジで。
あの男は超一流の腕をもつスナイパーなのだから、あっという間にあの世行きだろう。
(……いや、総司に手を出したなんて知れたら、一発じゃ死なせてくれないだろうなぁ)
世にも恐ろしい想像にぶるぶるっと頭をふってから、斉藤は身を乗り出した。
「あのさ」
「……はい」
「オレから掛けてみようか?」
「え?」
総司はきょとんとした顔で、斉藤を見あげた。
前編、土方さん出番なかったけど、後編は出てきます。後編は激甘展開なので、ご安心を。
