「……土方さん」
 総司は恥ずかしそうに彼の名を呼んだ。
 かぁっと耳朶まで桜色に染めて、土方を大きな瞳で見上げる。
 どこか拗ねたような、そのくせ、恥じらっている表情が可愛い。
 土方はそれにたまらない愛しさを感じながら、総司の細い肩を抱き寄せた。さらさらとした絹糸のような黒髪をかきあげ、白い首筋に口づけを落とす。
 びくりと震える総司に目を細め、耳の後ろや項、頬に口づけの雨を降らせた。それに、総司はうっとりと身をまかせ、心地よさげにしている。
「総司……愛してる」
 腕の中にある細い躰を、土方は抱きすくめた。
 もう失ってしまったと思っていた、存在。冷たく別れを突きつけてきた恋人。
 だが、今、総司はここにいてくれるのだ。
 彼のことを好きだと囁き、身をまかせてくれる。
 それが何よりも幸せだと思う一方で、土方は、己の中から一つの声が告げるのを聞いていた。


 これは夢だ、と。


 総司が記憶を取り戻すまでの間だけ、あたえられた夢なのだ。
 別れを告げた総司を手込めにし、傷つけた。あんな酷い事をした自分が報いを受けない訳がなかった。
 いつか、罪は罰せられる。
 彼がこの世の誰よりも愛する者自身の手で。
 その日が訪れることを望んでいるのか、恐れているのか、土方自身にさえわからなかった……。












「最近、土方さんと上手くいっているんだな」
 そう言った斉藤に、宗次郎はこくりと頷いた。
 二人、久しぶりに出かけた帰りだった。茶屋に入り、団子を食べる総司の隣で斉藤は湯のみを傾けた。
 宗次郎は無邪気な笑顔で答えた。
「私、歳三さんの恋人なんです。いつも歳三さん、優しいし、とても幸せですよ」
「優しい……」
 思わず呟いてから、不思議そうな宗次郎に、いやいやと首をふった。
 斉藤にすれば、土方が優しい姿など想像もつかないが、実際、宗次郎にはそうなのだろう。もっとも、宗次郎限定であることは確実だったが。
 斉藤は宗次郎を覗きこんだ。
「けど、記憶は戻っていないんだろ?」
「それはそうですけど、でも……思い出さなくてもいいかなと思って」
 宗次郎は長い睫毛を伏せた。
「歳三さんもそれを望んでいないみたいですし、私も……あまり思い出したくないかなと思っています」
「それは、おまえが別れを告げたからか?」
「え、斉藤さんも知っているの」
 驚いて目を見開いた。
「私から事前に聞いていたとか? そういうことなの?」
「いや、違うよ。この間、土方さんから聞かされた。別れを告げられて、それで……そのおまえに無理強いをしたから、記憶を失ったんじゃないかと悩んでいた」
「それは……わかりませんけど、でも」
 宗次郎は、はぁっとため息をついた。
「本当にわからないんですよね、私の気持ち。私自身なんでしょうけど、でも、何であんなに優しい歳三さんに別れたいなんて言ったのか、傷つけることをしたのか、わからなくて」
「だから、記憶を取り戻したくないってことか」
「歳三さんにも酷い事になるでしょう? 記憶を取り戻したら、また別れるなんて言い出すかもしれないし、それに」
 そう言いかけた時だった。
 不意に、後ろで土方の名が出たのを耳にしたのだ。
「……」
 そっとふり向いてみると、新選組の隊士たちが宗次郎たちに気づくことなく、店の前を通りすぎていく処だった。
 だが、彼らが話をしている噂話が問題だった。


(……え)


 宗次郎は思わず息を呑んだ。
 さぁっと顔が青ざめてしまう。
 今、彼らは言っていたのだ。近々、副長が婚儀をあげるのだと。
 先日、江戸へ新入り隊士募集のために行った時、話をまとめてきたとのことだった。相手は江戸で待たせている許嫁だということで、近々、その許嫁が京へのぼってくるのだという。
 艶福家の副長だから、大層美しい娘だろうと、隊士たちは噂していた。
 副長とは、土方のことに間違いなかった。


(な…に? 婚儀って、それ……どういうこと?)


 信じられない思いと同時に、許嫁という言葉に思い当たるものがあった。
 お琴という娘だ。
 試衛館にいた頃から聞いたことがあった。宗次郎と同じ年の美しい娘が歳三の許嫁なのだと、聞かされたことがあったのだ。そのお琴との婚儀が整い、近々、江戸から京へのぼってくる。
 むろん、そんなこと歳三からはまったく聞かされていなかった。歳三の中では、妻は妻、念弟は念弟として分けられてあるのか。
 だが、宗次郎にすれば、そんな簡単に割り切れることではなかった。
 愛する男が他の者と結ばれるのだ。
 そんな事に堪えられるはずがなかった……。


「総司
 ふらりと立ち上がった宗次郎に、斉藤が慌てて声をかけた。
「落ち着けよ、総司」
「……斉藤さん、私、屯所に帰ります」
「帰って、土方さんを問い詰めるのか。けど、そんな事したって」
「もしかして、斉藤さんも知っていたの?」
 宗次郎は大きな瞳で、まっすぐ斉藤を見つめた。それに、斉藤はうっと声を詰まらせてしまう。
 その様子に、知らないのは自分だけだったということを知った。
 ずっとずっと前から、誰もが自分を欺いていたのだ。隠していたのだ。何も知らないのは自分だけ。記憶がないからと、隠し事をしていた彼らが許せなかった。
 こんな大事なことを、どうして。
「総司」
 手をのばして腕を掴もうとした斉藤に、激しく身を捩った。
「いや……!」
 宗次郎は斉藤を突き除けるようにして、茶屋を飛び出した。駆け出していく。
 後ろで斉藤が何か叫んでいるのを聞いたが、ふり返る気にもなれなかった。












「土方さん……!」
 いきなり副長室に走りこんできた斉藤に、土方は眉を顰めた。
 前触れもなく障子を開けた斉藤を咎めようとふり返るが、それよりも先に叫ばれた。
「総司を探してくれ!」
「は?」
「どこにもいないんだ。あいつ、店から飛び出して屯所に帰るって言ったのに、ここには帰っていないし、いったいどこへ」
「寄り道でもしているんだろう。そのうち帰って……」
 言いかけた土方を、斉藤が遮った。
「総司、あの話を聞いてしまったんだ。あんたの縁談話を」
「!」
 土方の目が見開かれた。
 愕然とした表情で、斉藤を見ている。
「俺の縁談話って……あのお琴とのことか?」
「そうだよ」
「だが、あれは」
 言いかけ、土方は訊ねた。
「何をどんなふうに聞いたんだ、総司は」
「あんたの許嫁が近々京にくる、婚儀も間近だって噂だよ」
「……」
「その噂を隊士たちがしていて、それを聞いた総司は飛び出していってしまったんだ。屯所に戻ってもいないし、いったい何処にいったのか……」
 当惑する斉藤の前で、土方は立ち上がった。両刀を差し込みながら、歩き出していく。
 焦燥が胸にせまった。
 今の総司は、十四才の宗次郎なのだ。見かけは大人でも、中身は子供だった。純真で初で、素直な少年そのものだ。
 それが、こんな話を聞けば、傷つくに決まっていた。むろん、総司だった頃でも傷ついただろうが……。
「……」
 土方は、ふと眉を顰めた。何かが頭の奥をかすめたのだ。
 だが、今は総司を探しだすのが先決だった。軽く頭をふると、屯所の玄関を目指した。
 一刻も早く、総司を見つけ出したかった。











「……雨」
 ぽつりと呟いた。
 宗次郎は本堂の軒下に身をいれて、降ってくる雨を避けた。
 以前、歳三と逢ったことがある神社だった。懐かしい感じがすると言った宗次郎に、何度も逢瀬につかったと言われたのだ。
 自分でも、どうしてここに来たのかわからなかった。
 初めは屯所に戻って、歳三を問いただそうと思っていた。だが、駆けているうちに気持ちが怖くなってしまったのだ。


(聞いてどうするの? 本当だと言われたら、どうすればいいの?)


 記憶を失った当初、歳三のことを信じることが出来なかった。
 怖い、嫌いという印象があまりに強くて、優しく笑いかけられても信じることが出来なかったのだ。だが、次第に彼に惹かれていった。好きになり、また、自分の中に元々あった恋心に気づいて、恋人になった。いつの間にか、彼のことを誰よりも信じるようになっていたのだ。
 なのに、裏切られた。
 もしかすると、歳三は裏切ったという意識さえないのかもしれない。何が悪いのだと、不思議そうに聞き返されるかもしれなかった。
 だが、宗次郎には到底受け入れがたい事実だった。割り切ることなど出来ないし、愛する人を他の者と分け合うことなど出来るはずもない。
 むろん、わかっている、こんな気持は今の世の中でおかしいのだと。
 男は妻があっても妾がいることが多いし、それがむしろ当然とされている。だが、初で真っ直ぐな宗次郎には受け入れがたいことだったのだ。
 そして、何よりも、歳三が何も教えてくれていなかったことが、哀しかった。子供だから理解できないと思われたのか。確かに理解することは出来ないが、それでも、教えて欲しかったのに。
「……っ」
 宗次郎は両膝を抱え込み、ぎゅっと唇を噛みしめた。
 その時だった。
 ばしゃっと水が跳ねる音がした。それに顔をあげた宗次郎は、はっと息を呑んだ。
「……歳三、さん」
 鳥居をくぐり、一人の男が境内へ駆け込んでくる処だった。傘をさしてはいるが、かなり濡れている。
 宗次郎の姿を見つけると、足をとめた。少し躊躇った後、怖がらせないようにするためか、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「やはり、ここだったか」
 そうは言いながらもあちこち探しまわったのだろう。肩で息をしていたし、その黒髪や着物も雨に濡れていた。
 しばらくの間、歳三は、石段に座り込む宗次郎をじっと見下ろしていた。やがて、微かに息をついてから、そっと手をのばす。
 さしだされた手を、宗次郎は見つめた。それに静かな低い声が呼びかけた。
「行こう」
「……」
「ここにいては濡れるばかりだ、風邪をひいてしまう。とにかく場所を移そう」
「……」
「総司」
 黙り込んだままの宗次郎に業を煮やしたのか、歳三はその細い腕を掴んだ。無理やり立ち上がらせると、肩を抱えて傘の下に引き入れてしまう。
 宗次郎はきつく唇を引き結んだまま、顔を背けた。それに、言った。
「俺は妻を娶るつもりなどない」
 突然の言葉に、驚いた。思わず見上げると、歳三は真剣な表情でこちらを見下ろしていた。
 黒い瞳は真摯で、嘘偽りがないのだとわかる。
「噂は偽りだ」
 そう言ってから、宗次郎を連れて歩き出した。彼の言葉に呆然となっていた宗次郎も、つい歩き出してしまう。
 歳三が宗次郎を連れていったのは、すぐ近くにある小料理屋だった。幾度か利用したことがあるのか、歳三は奥の部屋を指定すると、料理を運ばせ、後は自分たちですると言って仲居を下がらせた。
 夕飯には少し早かったが、二人は食事をとることにした。開かれた障子の向こうには中庭が広がり、紫陽花がひっそりと雨に濡れている。奥まった部屋であるため、周囲の喧騒はまったく聞こえなかった。雨が降る世界に、自分たち二人きりになったような錯覚さえ覚えてしまう。
 食事中は無言のままだった。宗次郎もあれこれ考えてしまって、何を言えばいいのかわからなかったのだ。
 だが、歳三は言うべきことを心得ているようだった。食事が終わって片付けさせると、すぐさま宗次郎の前に腰を下ろした。その手をとり、持ち上げて指さきに口づける。
「と、歳三さんっ」
 顔を赤くする宗次郎に、歳三は目を細めた。
「……さっき言ったことは本当だ」
「歳三さん……」
「俺は妻を娶るつもりなどない。この間、江戸へ行った時、きっぱりと断ってきた。お琴とも話がついているし、もともとその気などまったくなかった。俺にはおまえがいたからな」
「でも……」
 宗次郎は口ごもった。
「噂になっているし、斉藤さんもそうだと思っていましたよ。お琴さんがあなたとの婚儀のために、京へ来るって」
「だから、それは噂だろう。おまえは俺よりも噂を信じるのか」
 少し傷ついたような表情で言われ、黙ったまま首をふった。そんな事あるはずがないのだ。
 歳三を見れば、わかる。その表情は真剣で、誠実そのものだった。
 彼は以前も言ってくれたのだ、もう二度と偽ることはしないと。己の気持ちに正直になるし、宗次郎にも嘘偽りなく接してくれると約束したはずだった。
 それを、宗次郎は信じた。
「あなたを……歳三さんを信じます」
「よかった。ありがとう」
 歳三は安堵したように微笑んだ。それを見上げ、小首をかしげる。
「でもね」
「何だ」
「私、思ったのですけど、この事が原因で別れ話になったのではないですか?」
「? どういう意味だ」
「だから、私、別れて欲しいと言ったのでしょう? あなたに縁談があると誤解して、それで裏切られたと思って……」
 それなら納得できた。
 歳三を愛している総司ならば、そうするだろう。苦しくても辛くても、一緒にいる不幸せを選ぶことなんて出来ないから。
 だが、それに歳三はきっぱりと首をふった。
「それは違う」
「でも」
「俺は随分前に総司にも言ったんだ、縁談は断る、おまえがいるのに妻なんざ娶らないと、はっきりと言った」
 歳三はため息をつき、片手で黒髪をかきあげた。それから、言葉をつづけた。
「むろん、おまえの重荷にならないようにした。俺がもともと所帯を持つことに向いていないこと、お琴は許嫁とされていたが、顔さえ覚えていないということを全部、話した」
「顔さえ覚えていないって……」
「俺はおまえしか見ていなかったからな」
 そう言ってから、歳三は少し身をかがめた。宗次郎の頬に唇を押しあてる。
 そして、包みこむように、両腕で柔らかく華奢な躰を抱きすくめた。
「俺にはおまえだけだ……おまえしか愛せない」
「歳三、さん」
「今のおまえに、俺の想いは負担になるだけかもしれない。おまえは躰は大人でも、心は十四才だ。だが、それでも……もう手放すことができねぇ」
 激しく言い切った歳三に、息を呑んだ。
 見上げると、狂気じみた情愛を湛えた黒い瞳が、じっと宗次郎を見つめていた。剥き出しにされた大人の男の情の激しさに、ぶるりと身震いする。
 怖いとさえ思った。だが、一方で愛しくて、幸せで。
「……っ」
 宗次郎はきつく目を閉じると、その広い胸もとに縋るように抱きついた。



















次、お褥シーンがありますので、苦手な方は避けてやって下さいね。