初夏の空が広がっていた。
それを、宗次郎はぼんやりと見上げた。
稽古を終えた後、汗を拭い、着替えをすませた処だった。昼からは非番なのでどこかに出かけようかと思ったが、不意に、何もかも物憂くなってしまったのだ。
柱に凭れかかって、空を見上げる。
(歳三さん……)
昨日の歳三の話は、宗次郎にとって衝撃だった。
宗次郎自身、歳三の念弟だったと言われても、未だ実感がなかった。彼への恋心もつい先日、自覚したばかりなのだ。
なのに、歳三と自分の関係は、そんな幼い恋心など凌駕してしまっていた。大人の激しい情愛を見せつけられ、宗次郎は息を呑んだ。
歳三は、別れ話を出した自分を手込めにしたのだという。彼と躰を重ねたという事実さえ受け止められない宗次郎には、到底理解できる事ではなかった。
あの日も呆然としたまま、彼の部屋から逃げ出してしまったのだ。何か、歳三が言っていた気がしたが、ふり返ることなんて出来なかった。
歳三がしたことは酷いことだ、無理やり躰の関係を結ぶなんて。
だが、一方でわかる気もしたのだ。
歳三は、自分のことを本当に心から愛してくれていた。今、十四才の精神状態である宗次郎だからこそなのか、それとも、やはり沖田総司という人間が自分ではないように感じているためか、歳三が総司に対して抱いている気持ちがそのまま痛いぐらい伝わってくるのだ。
あの歳三さんがと驚いてしまうぐらい、彼は総司のことを愛していた。心から大切に思っていたのだ。
なのに、突然、別れ話をされたのだ。怒りに我を忘れてしまうのも当然だろうと思った。彼も言っていたのだ。悔恨の表情で、「よく覚えてないんだ……最低な話だな」と吐き捨て、片手で顔をおおった歳三の姿が、頭から離れない。
自分を見失ってしまうぐらい、彼は総司を愛していたのだ。
むしろ、総司の言動の方が不思議だった。
そんなにも愛されていたのに、どうして、彼に別れを告げたのだろう。
あんなにも優しくしてくれる彼を、何故、切り捨てようとしたのか。
宗次郎にはどうしてもわからなかった。
(なんか、本当に自分じゃないみたい)
もともと、宗次郎にとって、「沖田総司」という人間は、別人格であるかのような感覚だった。
いきなり七つも年上になり、容姿も大人びたのだ。その上、新選組の大幹部だ、隊随一の剣の腕前だと聞かされても、実感がわくはずがなかった。
ましてや、あの歳三にあれ程までに愛されていたのだ。
歳三も総司と同じように年を重ね、成熟した大人の男になっていた。年月が彼を研ぎ澄ませ、美しい刃のような男の艶を備えるようになっていたのだ。
京でも大層女たちにもてているという話だが、それも当然だと思った。水際立った男ぶりに、街ゆく女がふり返っている様を何度も見せられている。
だが、そんな歳三が溺愛し、大切にしていたのは総司だったのだ。
夢のようだと彼との愛に夢中にならないことが、不思議なぐらいだった。
(私なら、夢中になってしまうよね……)
あのなめらかな低い声で、好きだとか愛してるとか囁かれ、抱きよせられたなら、頭がぼうっと霞んで全部何もかも投げ出してしまいたくなるに違いない。
考えるだけで恥ずかしくて頬が熱くなった。
ずっと彼が怖いと思っていた。嫌いだと思っていた。
だが、それは意地をはっていたせいで、本当は恋心を秘めていたのだ。
その上、今の歳三は信じられないぐらい優しくて甘くて、穏やかで、宗次郎をそっと包みこんでくれるだけの懐の深さがある大人の男だった。そんな彼に心惹かれないはずがないのだ。
宗次郎は試衛館の頃から知っている歳三だから好きなのか、今の歳三だから好きなのか、訳がわからなくなっていた。
それでも、彼に恋していることだけは確かだった。
宗次郎は、はぁっとため息をついた。
その時だった。
「……総司」
突然、後ろから声をかけられ、びくりと肩が震えた。
びっくりしてふり返ると、歳三が廊下に佇んでいた。それに目を見開く。
怯えたような表情に見えたのだろう。歳三が僅かに顔を歪めた。視線を落とす。
「……すまん。驚かせるつもりはなかった」
「……」
「その、話がしたい。今、構わないか」
「あ」
宗次郎は慌てて身を起こした。自室の障子を開けながら、どうぞと彼を招き入れる。
あっさり歳三を招き入れたことに、彼自身は驚いたようだった。だが、すぐに口もとを引き締めると、部屋の中へ入ってくる。
端座した宗次郎の前に、歳三はゆっくりと腰を下ろした。それから、低い声で言った。
「昨日は……その、悪かった」
「……」
「いくら嘘をつかないと言っても、あんな事を聞けばおまえが嫌な気持ちになると、わかっていたのに、また……おまえを怖がらせるような事をしてしまった。逆に傷つけてしまった。本当にすまないと思っているんだ」
そう言って頭を下げた歳三に、宗次郎は目を見開いた。慌てて膝立ちで傍に寄ると、彼の腕にふれた。
「と、歳三さん、頭をあげて下さい」
「……」
「そんな、歳三さんが謝ることじゃないから。歳三さんは正直に話してくれたの。私に嘘をつかないで、辛い事だったはずなのに話してくれた。だから、その、私、傷ついてないし……あなたを怖がってもいません」
「え……」
歳三は驚いたようだった。顔をあげ、信じられないという表情で宗次郎を見つめている。
その深く澄んだ黒い瞳に見つめられ、宗次郎は頬が熱くなるのを感じた。どぎまぎしつつ答える。
「びっくりはしたけど、でも、その……私、歳三さんの気持ちがわかるから。どれだけ、私のことを大切に思ってくれていたか、わかるのです。不思議ですよね、自分のことじゃないように感じているからかな」
「総司……」
「私、総司なんですよね。でも、私自身はまだ宗次郎で、だからかな、あんなに好いてもらって大切にしてもらっていたのに、どうして別れようとしたのだろうって思うのです。歳三さんが傷ついて当然だし怒って当然だと思うし、それは、その……あぁいう事はよくないけど、でも……」
「総司、俺は自分を庇うつもりはない」
はっきりとした低い声で言われ、宗次郎は、はっとして顔をあげた。見上げれば、怜悧な表情をうかべた男と視線がからみあう。
歳三は真っ直ぐ宗次郎を見つめた。
「俺は最低な事をしたし、おまえを傷つけた事は確かだ。江戸にいた頃も、京にのぼってからも傷つけた。なのに、総司は俺を好きだと言ってくれた。その事に有頂天になっていたのかもしれない。嬉しくて夢中になって、知らないうちに、またおまえを傷つけていたのかもしれないんだ。だから、別れを告げたおまえには、おまえなりの理由があったのだろう」
微かに目を伏せ、薄く笑った。
「むろん……それを受け入れられるかどうかは、また別だがな」
「歳三さん……」
「だから、総司、おまえも自分を責めるな。もしも責めるなら、あくまで俺を責めろ。酷い事をしつづけてきたのは、俺だ」
「それは……違います」
宗次郎は思わず激しく首をふっていた。手をのばし、歳三の腕に縋りつく。
「私も、悪かったのです。江戸にいた頃、私も……本当は歳三さんのことが気になっていた、ずっと歳三さんのことばかり考えていた。それなのに、意地をはって、自分のことばかりを考えて、歳三さんに生意気な態度ばかりをとっていた。歳三さんだけが悪いんじゃない、私も悪かったのです」
「総司……」
歳三の瞳がとけるように優しくなった。
「ありがとう。そう言ってもらって、気持ちが軽くなったよ。ずっと、俺はおまえを傷つけたことを悔いてきたから……」
「歳三さん……」
そっと身を寄せた宗次郎を、歳三はとても自然な仕草で抱きよせてくれた。着物ごしに感じる男のぬくもりに、躰から力が抜ける。
思わず男の肩に小さな頭を凭せかけ、目を閉じた。その逞しい腕の中にいると、これこそが正しいのだと感じた。ここにいること、彼の腕の中が自分の居場所なのだと、何の躊躇いもなく感じてしまうのだ。
(だって、こんなにも心地がいい……)
あの頃は考えもつかなかった。
こんな日が自分に訪れてくるなんて、思いもしなかったのだ。
だが、今の宗次郎は自分の恋を自覚しているし、彼の傍にいることがとても心地よかった。好きだと、素直に思う。
男の腕の中により深くもぐりこむようにすると、歳三は優しく抱きすくめてくれた。それに、うっとりと微笑んだ。
だが、その宗次郎を抱く歳三は、戸惑わずにいられなかった。
「……」
つい先日まで、あんなにも嫌われていたのだ。なのに、突然、変わった宗次郎に戸惑いと躊躇いを覚えた。
本当にいいのだろうか? この肌にふれても、この瞳に見つめられても。
宗次郎の記憶しかない彼は今、自分を嫌って怖がり、怯えているはずだった。挙句、総司にも別れを突きつけられた身だ。なのに、こんなふうに身を寄せられるなど、現のこととは思えなかった。
だが、それでも、求めてしまう。
腕に感じる柔らかな重みに、その甘い香り、息づかいに、心が満たされていくのを感じた。こんなにも飢えていたのかと思う。
自分はもう、総司なしでは生きてゆくことさえ出来ないのだ。
そんな事を考えていた歳三の前で、不意に、宗次郎が身を起こした。まるで彼の心を見抜くように、大きな瞳で見つめてくる。それに、どきりとした。
「……何だ」
声が掠れたかもしれない。
少し緊張しながら問いかけた歳三に、宗次郎がことりと小首をかしげた。それから、言った。
「今更かも、しれませんけど」
「え?」
「私、歳三さんの恋人…ですよね?」
「……」
念押しするような言葉に、歳三は息を呑んだ。呆気にとられてしまう。
それに、宗次郎が不意に顔を赤くすると、慌てた様子で言った。
「ち、違っていたらいいのです。記憶をなくしちゃった私じゃ、その気になれませんよね。今の私なんか、子供だし、歳三さんと過ごした月日も全部覚えてないし」
「総司」
「ごめんなさい、勝手なことを言って。でもね、私、歳三さんの傍にいたいって、もっと逢いたいって思うから」
言葉が途切れた。
突然、歳三が宗次郎の華奢な躰を引き寄せたかと思うと、きつく抱きすくめたのだ。その背に手をまわし、息もとまるほど抱きしめてくる。
それに戸惑う間もなく、耳もとで囁かれた。
「いいのか……?」
「え」
「おまえを俺の恋人にしていいのか。俺を……好いてくれるのか」
「……はい」
小さな声で、宗次郎は答えた。細い指さきで、ぎゅっと彼の着物を掴む。
そのまま、男の広い胸もとに顔をうずめるようにして、言った。
「歳三さんのこと……好き、です」
「総司……」
「お願い、私を歳三さんの恋人にして」
「……っ」
歳三はもう何も言えないまま、その躰を抱きしめた。
言葉も何もかも、十四才の少年そのものだった。
それでも、この腕の中にいてくれるのは総司なのだ。
宗次郎と呼ばれていた頃から愛してきた、この世の何よりも大切な宝物。好きだと告げられてからは、己のすべてで慈しみ、愛してきた。もしかすると、それは愛しすぎた故だったのかもしれない。総司は彼の何かを疎ましく感じて、別れを告げてきたのだ。
だが、今、総司は記憶を失っている。ここにいる総司は、十四才の宗次郎の記憶をもった若者だ。
間違っているのかもしれない。この愛を貫くことは過ちかもしれない。それでも、歳三は差し出された幸せを拒むことが出来なかった。例え、それが不安と絶望に彩られ、最後の日々を数える行為であったとしても。
それでも、愛する者の傍にいられることは、彼の心を深く満たしたのだ。
誘惑には勝てなかった。
一度、切り捨てられただけに、あの幸せだった日々を知っているだけに、さし出された果実を喰らわずにはいられなかったのだ。
愛しているがゆえに。
深く激しく、狂おしく。
この世の誰よりも、失えば気が狂ってしまうほど。
「愛してる、総司……」
そう囁いた彼の腕の中で、宗次郎が「私も……」と答えるのを、歳三は夢のように聞いていた。
それからの日々は、夢のつづきだとしか思えなかった。
土方は総司を慈しみ、愛した。色々な場所に二人で出かけたり、身を寄せあったりした。
気持ちが十四才という幼さを考え、土方は総司を抱こうとはしなかったが、抱擁と口づけはあたえた。それに、総司は身を固くしつつも、懸命に答えた。
初な総司に、一つ一つ教えていく行為が心地よかった。記憶がない故か、総司は男との抱擁や口づけ、情事についてもまったく覚えていないようだった。
だが、一方で口づけられれば、敏感に反応したし、躰を柔らかく撫でてやると甘い声をあげた。心はともかく、明らかに躰は男の行為を覚えているのだ。
それに土方は複雑な気持ちになったが、総司を可愛いと思うことには変わりなかった。
「ほら、見て! 歳三さん……!」
紫陽花が美しいと評判の寺に連れていった時のことだった。
美しく色とりどりに咲きみだれる紫陽花に、総司は歓声をあげた。嬉しそうに彼の腕に手を絡め、一つ一つの花を指さして喜ぶ様に、思わず頬が綻んでしまう。
「おまえは花が好きだな」
「だい好きですよ。綺麗だし、見ていると幸せな気持ちになります。歳三さんはそうじゃないの?」
「そうだな」
土方はちょっと考えてから、かるく身をかがめた。総司の耳もとに唇を寄せると、囁きかける。
「……おまえの方が、花よりも綺麗だ」
「!」
とたん、総司の頬が真っ赤になってしまった。