あの夜、誘ってきたのは総司の方だった。
 誘いの文をもらった時、土方は珍しいこともあるものだと思った。総司は初で恥ずかしがりやのため、いつも外での逢瀬を誘うのは土方の方だったのだ。
 それは、逢えば必ず褥を共にすることになることに、起因していた。いくら公認の仲であっても、屯所で抱くのは難しく、二人は外で逢瀬を繰り返していたのだ。
 指定されていた料亭に行ってみると、総司は既にそこにいた。二人が何度も利用した料亭だった。
 食事をしている時から、様子がおかしいとは感じていた。
 いつも明るく賑やかに話す総司にしては、妙に口数が少ないし、沈んだ表情でいる。食事もあまり進まないようだった。
 心配になって、土方はあれこれ話しかけてみたが、総司はそれに言葉数少なく返すばかりだった。
 食事が終わり仲居に片付けをさせてから、土方は総司を腕の中に抱きよせようとした。だが、するりと身を捩り彼の手から逃れる恋人に驚く。
「……総司?」
 訝しげに問いかけた土方の前で、総司は居住まいをただした。きちんと端座し、まっすぐ大きな瞳で見つめてくる。
 そのきれいで愛らしい顔は青ざめていた。切羽詰まったものさえ感じさせる様子に、土方は戸惑った。
 いったい、何があったのかと思う。
 総司が桜色の唇を開いた。
 そして、言ったのだ。
「土方さん、私と別れて下さい」
 と。
 初め、意味がわからなかった。いくら明敏な彼であっても、いきなり告げられた別れの言葉に、すぐさま反応することが出来なかったのだ。
「何……だって?」
 問いかけた声は酷く掠れていたことを、覚えている。
 それに、総司は切なげな表情になった。長い睫毛が伏せられる。
「あなたと別れたい、と言ったのです」
「……」
「これ以上、土方さんと一緒にいることが出来ないから、私には無理だから……お願いします、私と別れて下さい」
 そう口早に告げた総司は、請い願うように頭を下げた。
 もともと、総司はひどく欲がない恋人だった。
 彼に頼み事をした事もないし、ねだることもなかった。だが、今、総司は彼に頭を下げていた。


 しかし、初めての願い事がこれだとは……!


 土方は、目の前で別れを懇願する総司を、呆然と見つめた。
 信じられなかった。
 いったい、総司は何を言っているのか。
 ついこの間まで、二人は仲睦まじく、愛し合っていたではないか。彼の腕の中で、総司はいつも可愛らしく笑ってくれていた。
 だから、思っていたのだ。
 こんな時が永遠に続いていくのだと、もう総司を失うことはないのだと。
 だが、それは思い違いだったのか。
 総司は彼のことを、本当は愛してくれていなかったのか。
 ……いや、もしかすると、そうだったのかもしれない。
 最近、ふとした瞬間に見せるようになった憂い顔を思い出した。切なげに彼を見る瞳を、表情を、土方は気のせいだと見てみぬふりをしてきたのだ。
 あれは別れの前兆だったのか。
 総司は、ずっと別れを告げる時を待っていたのか。
 とうの昔に、その心は彼のものではなくなっていたのか。


 もしかすると、身も心も、既に他の男のものに……


 ───次の瞬間。
 激しい怒りと嫉妬に、土方は意識が焼き切れるのを感じた。












 翌朝、総司は記憶を失ってしまっていた。
 彼を忌み嫌っていた宗次郎に戻ってしまっていたのだ。
 その事実を知った瞬間、天罰が下ったのだと思った。総司をずっと傷つけてきたのに、突然、あたえられた僥倖。その幸せに溺れ、再び総司を傷つけてしまった己にあたえられた罰なのだ、これは。
 だからといって、それを甘受するつもりはなかった。
 今も総司を求めている。総司だけが欲しくてたまらない。
 誰よりも愛しい存在なのだ。だが、総司はそう思っていないようだった。


『歳三さんは、私が役にたつから、念弟にしたのですか?』


 総司の言葉が耳奥に蘇った。
 呆然として、何も言うことが出来なかった。かろうじて言葉を返したが、それも酷く震えていたように思う。
 己の感情を堪えるため、きつく奥歯を食いしばった。あの時、怒鳴りつけなかった自分を褒めてやりたいぐらいだった。
 あれきり、総司とは逢っていない。逢う気にもなれなかった。
 また、あの怯えた、嫌悪さえ感じさせる瞳で見られ、拒絶されたら? 嫌いだと罵られたら?
 それがたまらなく恐ろしかった。
 新選組の鬼副長として恐れられている自分が、なんてざまなのか。思わず失笑してしまう。
 だが、総司は昔から特別なのだ。彼の心を唯一動かすことが出来る存在。
 その愛らしい笑顔をむけてくれるのなら、どんな犠牲を払っても構わない。何でもしてやると、その場に跪いてしまいそうだった。
 だが、そんな事をしても、総司が笑顔をむけてくれることなど、二度とない。それは記憶を取り戻しても同様だった。別れ話を切り出した時点で、総司の心が彼から離れていることは明らかなのだ。


(総司はもう……俺の手元には戻ってきてくれない)


 寂寥感に、胸奥がきつく痛んだ……。












 巡察の後に寄ってみた神社に、覚えはなかった。
 だが、とても綺麗で静かな神社だと思ったし、心惹かれた。緑がさわさわと揺れ、心地よい風が髪をかき乱してゆく。
 それを感じながら、宗次郎は鳥居から一歩中へ入った。小首をかしげるようにして、周囲を見回す。
 人気はなかった。小さな神社で常に人がいる訳ではないのだろう。だが、丁寧に手入れがされ、美しく整っていた。
 掃き清められた砂に、木漏れ日がちらちらと落ちている様がとても綺麗だ。
 宗次郎は社の前に進むと、一礼して二拍手してから、目を閉じて手をあわせた。


(どうか、私の記憶が戻りますように)


 そう、心から祈った。
 頭の中に、先日の歳三の表情が浮かぶ。
 怒っていたことは明らかだが、その中にはどこか切なさと悲哀があったのだ。絶望の苦痛に似た色をうかべた瞳を、何度も思い出してしまう。


(あの人があんな顔をするなんて、思ってもみなかった……)


 試衛館にいた頃、どんなに酷い応酬になっても、歳三は傷ついた様子など全くなかった。それどころか、宗次郎の方がやりこめられ、傷つく事の方がずっと多かったのだ。
 だが、今は違った。宗次郎が何気なく口にした言葉や、行動に、歳三が酷く傷ついていることは明らかだった。そんな彼に慣れていないため、反応されるたび、戸惑ってしまう。
 この間もそうだった。
 巡察の途中で現れた歳三に、躰が固くなった。口数も少なくなってしまって、歳三が優しく話しかけてくれたのに、ほとんど答えることも出来なかったのだ。何を言っていいのか、わからなくて、「はい」と「いいえ」ぐらいしか返事を返せなかった。
 そんな宗次郎に呆れたのか、それとも気遣ったのか、歳三は不意に「用がある」とだけ告げて去ってしまったのだ。
 だが、去り際にみせた彼の瞳は哀しげで切なく、宗次郎は胸奥がズキリと痛くなるのを感じた。


 どうすればよかったのだろう。


 記憶のない自分では、彼の話し相手になどなれるはずもなかった。
 もともと嫌いだった男だ。その彼が突然、自分の念兄弟だと言われ、優しく笑いかけられても、すぐさま気持ちを切り替えることなど出来るはずもない。
 宗次郎にとって、歳三はあくまで江戸にいた頃の不良でいい加減で、女遊びが激しく、宗次郎のことをいつも莫迦にして、冷たい侮蔑の言葉しか投げつけない男なのだ。
 だからこそ、いつも話しかけれるたび、笑いかけられるたび、不安と恐れに身を固くしてしまう。


 突然、豹変するのではないか、元の酷い彼になるのではないかと。


 それも当然だった。
 幾度も投げつけられた歳三の言葉は、宗次郎の中に酷い疵を残していた。そのため、もう二度と傷つきたくないと、どんなに優しくされても疑い、身構えてしまうのだ。
 だが、一方で、歳三を傷つけたくないと思うことも確かだった。
 あんな哀しげで切ない瞳をする彼を、見たくないのだ。その理由は自分でもわからなかったが、だからこそ、早く記憶を取り戻したいと思った。
 そうすれば、きっと、こんな思いはしなくて済むはず。
 歳三とどんなふうに結ばれたのか、なぜ念兄弟になったのか、ちゃんと知ることができれば……。



 宗次郎はもう一度丁寧に頭を下げてから、踵を返した。
 帰ろうとするが、そのとたん、はっと息を呑んだ。
 明らかに偶然だったのだろう。神社の鳥居前を一人の男が行き過ぎようとしていた。何気なく流した視線が絡み合う。
「……歳三、さん」
 小さく呟いた宗次郎に、歳三も目を見開いた。足をとめ、躊躇う。
 先日のことがあるのだ。声をかけるべきか、悩んでいるのだろう。そう思った宗次郎だったが、こちらから話しかける気にもなれなかった。
「……」
 黙ったまま見つめていると、かなり迷った末に、歳三は神社の境内へ入ってきた。濃紺の着物を着流し、両刀を斜め差しにしている様が男の色香を感じさせる。
 すぐ傍まで歩み寄ってきた歳三は、静かに問いかけた。
「巡察の後か」
「はい」
 宗次郎はこくりと頷いてから、つけ加えた。
「ここは、前から気になっていた神社で……その、今日、思い切って訪れたのです」
「前から気になっていた?」
 そう訊ねてから、歳三は神社の中へ視線を走らせた。微かに笑う。
「それは当然だろう。ここは、俺とおまえが幾度か逢瀬に使った場所だ」
「え」
「巡察の帰り道にあるからな。隊士たちを解散させた後、おまえはここで俺と何度か落ち合ったのさ」
「……」
 宗次郎は目を見開いた。
 まさか、そうだとは思わなかった。
 だが、だからなのか、ひどく懐かしい気がした。とても心地よく、幸せな思いがしたのだ。


(幸せな思い……)


 ふと、心の中で呟いた。
 幸せな思いがするということは、歳三の恋人になったことは自分にとって幸せだったのだろうか。斉藤が言ったように、好きになったから恋人になったのだろうか。
 よくわからない複雑な気持ちで黙りこんでしまうと、それに何を思ったのか、突然、歳三が言った。
「無理をしなくてもいい」
「え?」
「前のおまえが俺の念弟だったからといって、俺はおまえにそれを押し付ける気はねぇよ」
「……」
 宗次郎は目を見開いた。
 まさか、そんな事を彼が言ってくれるとは思わなかったのだ。
 それに歳三は宗次郎を石段の方へ誘った。木陰になっているそこは涼しく、心地よい。春も終わりになり、陽射しが少し強くなっていたため、木陰に入ると、ほっとした。
 宗次郎を石段に坐らせたが、歳三はすぐ隣に坐ろうとはしなかった。怖がらせないためか、少し離れた場所に腰を下ろす。
 しばらく黙ってから、歳三は再び口を開いた。
「ここで逢ったのは偶然だが、ちょうどよい機会だ。俺は一度、おまえとしっかり話をしたいと思っていた」
「……」
「総司……いや、宗次郎」
 幼名で呼びかける彼に、目を見開いた。それに、言葉が投げかけられる。
「おまえ、俺が怖いか?」
「……ぁ」
 思わず小さく喘いだ。ここで怖いと認めてしまっていいのか、わからない。だが、それでも嘘をつくことが出来ず、こくりと頷いた。
 それに、歳三が小さく吐息をもらした。一瞬、唇を噛んでから、問いかけを続ける。
「では、もう一つ聞く。宗次郎、おまえは俺が……嫌いか」
「……」
 これもかなり躊躇った。
 今の彼は嫌いではない。だが、つい先日まで自分に酷く冷たく接していた彼のことまでも、嫌いではないとは到底言い切れなかった。
 そのため、小さな声で告げた。
「嫌い……です」
「……」
「でも、その……それは、前の歳三さんで、今の歳三さんじゃありません」
「……そうか」
 歳三は頷き、はぁっとため息をついた。両手を石段について天を仰ぐ。
「まぁ……仕方がねぇよな。あれだけ酷い事をしておまえを傷つけたんだ。嫌われて当然だ」
「で、でも、今の歳三さんが嫌いとは……」
「あぁ。けど、怖いのは、今もなのだろう?」
 問いかける男に、宗次郎は目をみはった。しばらく黙った後、桜色の唇を震わせ、こくりと頷いてしまう。
 歳三が微かに目を細めた。
「それは……俺がまた酷い事をするかもしれないと、思っているからか」
「ご、ごめんなさい」
 低められた声に、宗次郎はびくんと躰を震わせた。
 そのままでは男の怒りを尚更煽ってしまうと思ったのだろう。口早に言葉を告げた。
「歳三さん、あの頃よりもずっと大人になっていて、それで、余計に、その怖いのです。緊張してしまうのです。私、江戸の頃の歳三さん相手なら、やりあっても喧嘩しても慣れていたからまだ良かったけど、も、もちろん……その、酷い事を言われて辛かったけど、哀しかったけど、でも、今の歳三さんは大人で口でも叶いそうもなくて、もっともっと子供扱いされそうで莫迦にされそうで、それで」
「宗次郎」
 堰を切ったようにつづける宗次郎に、歳三は手をのばした。だが、肩にふれる寸前で身をすくめた宗次郎に気付き、ふれることをやめる。
 宗次郎は、そんな彼に気づくことなく、ぎゅっと両手を握りしめた。
「私、どうしても歳三さんを信じることが出来ない。こうして、優しくされても、一緒にいても、急に酷くされそうで冷たくされそうで、それが怖くて……仕方がないのです」
「……」
「ごめんなさい。でも、私、もう……傷つくの嫌だから、辛いから」
「……」
 宗次郎の言葉に、歳三は胸を突かれたようだった。きつく眉根を寄せて、黙りこんでいる。
 やがて、低い掠れた声で言った。
「宗次郎……すまない」
「……」
 驚いて顔をあげた宗次郎の前で、歳三は潔く頭を下げた。
「本当にすまない。己の身勝手さでおまえを傷つけたことを、深く悔いている」
 それに、宗次郎はかえって慌ててしまった。手をのばし、彼の腕にふれる。
「歳三さん、そんな事しないで……!」
「いや、これは俺のけじめだ」
「でも……お願い、頭をあげて下さい」
 そう言った宗次郎に、歳三はようやく顔をあげてくれた。黒い瞳でまっすぐ見つめてくる。
 真摯な表情で言った。
「むろん、俺もわかっている。謝って済むことではないし、おまえの傷が癒されるはずもないと」
「……」
「おまえの気が済むように、何でもしたいと思う。二度と顔を見たくないと言うなら、出来るだけ逢わないようにするし、話したくないなら二度と話しかけない」
「え……」
 宗次郎は目を見開いた