廊下の気配にため息をついた斉藤に、総司は小首をかしげた。
「斉藤さん……?」
 そっと細い指さきでふれられた。
「どうしたのですか?」
「いや、何でこうなるのかなぁって思っただけだ」
「???」
「話を戻そう。で? 総司は土方さんの恋人という位置に戻るつもりはないのか?」
「えっ?」
 総司は大きく目を見開いた。すぐさま、激しく首をふる。
「そんなつもり、ありませんッ!」


 ……そこまで思い切り否定しなくても。


 廊下から伝わってくる冷え冷えとした気配に、話を打ち切りたくなる。
 だが、総司はまったく気づくことなく、言葉をつづけた。
「だって、あの歳三さんですよ? 私をあれだけ莫迦にして、軽蔑して、冷たくしてきた人です。意地悪ばかりされたし、それに、お幸ちゃんにだってあんな冷たくふるんだもの。だいたい、ついこの間まで、大っ嫌いだと思っていたのに、いきなり恋人なんて言われて納得できると思います?」
「まぁ……難しいだろうな」
「私を恋人にしたことだって、信じられないし。何でだろうと不思議で仕方がないし」
「それは好きだから、だろう」
 当然のことを言った斉藤に、総司はきっぱりと断言した。
「違うと思います」
「え」
「あの歳三さんが私を好きになるなんて、絶対ありえません。それに、もっと不思議なのは私です。何で、私、歳三さんの念弟になんてなったのでしょうね? 何か理由でもあったのでしょうか」
「それこそ、好きになったから……」
「そんなの絶対に違いますよ。私が歳三さんを好きになるなんて、絶対ありえない」


 だから、そこまで否定するなって!


 廊下の気配にハラハラしている斉藤をよそに、総司はぷうっと頬をふくらませてしまった。そうしている処は子供じみていて、本当に十四なんだなぁと感じさせる。
 だが、子供だからか、言うことが容赦なさすぎるのだ。歳三の気持ちなど全く頓着しない総司に、斉藤は頭が痛くなる思いだった。
 それ以上、聞いていられなかったのだろう。廊下から既に気配は消えていた。
 斉藤はもう一度、深々とため息をついたのだった。












「……好きになるなんて、絶対ありえない、か」
 土方は思わず呟いてしまった。
 そのため、尚更、気落ちしてしまい、はぁっとため息をつく。
 むろん、立ち聞きなどするつもりはなかった。たまたま通りかかった処に、二人の会話が聞こえてきたのだ。
「土方さんが怖いのか?」
 そう訊ねる斉藤の言葉に、思わず足をとめた。どうやら、話の相手は総司のようだ。
 聞いてはいけないと己の中で警鐘が鳴ったが、足が動かなかった。
 総司は彼のことを怖いのだと、斉藤に話していた。緊張してしまうのだと。
 だが、次第に話は彼にとって切ないものになっていき、最後には、好きになるなんて絶対ありえないと、断言されてしまったのだ。
 もしかしたら、それが真実なのかもしれなかった。


(総司は一度として俺を愛したことなど、なかったのではないか)


 愛していない男に身をまかせることなど、あの潔癖な総司が出来るはずもなかった。
 だが、こうして恋人としての彼など完全に忘れられてしまい、挙句、好きになるなんてありえないと言われてしまえば、それが本心かと思ってしまう。
 だからこそ、あんな事を言ったのかもしれないのだ。
 あの、総司が記憶を失った日の前夜。
 告げられた言葉は、今なお、土方の胸を深く傷つけていた。呆然と総司を見ていた自分を、よく覚えている。
 気がつけば、縋りつくようにその細い身体を抱きしめていた。
 そして──


「……っ」
 土方はきつく眉根を寄せた。
 今更、悔いても仕方がないことなのだ。すべては己の所業から端を発した事だった。
 どれほど悔いても、過去をやり直すことは出来ない。
 ならば、これからの行動を変えていけばいいと思いはするのだが、肝心の総司があれでは手のうちようがなかった。近づけば、怯えられ、言葉数少なく総司は俯いてしまう。彼を見る瞳には怯えと、まぎれもない嫌悪の色がある気がした……。


 わかっているのだ。
 何度も傷つけた。
 あの愛しい少年が手に入らないもどかしさに、嫉妬に狂い、総司自身を傷つけた。
 その報いを今、受けているのだ。


 土方は柱に背を凭せかけると、固く瞼を閉ざした。















「……あ」
 打ち合わせの少し前だった。
 宗次郎が広間に行ってみると、まだ早すぎたのか、ほとんど人は集まっていなかった。
 一人、歳三が書類をめくりながら座している。誰かが入ってきたことに気づくと、視線をあげた。
 切れの長い目が宗次郎にむけられた。
「……っ」
 どうしよう、と思った。
 打ち合わせの時、宗次郎の居場所は歳三の隣だった。一番隊組長である以上、そのように定められているのだ。
 記憶を失う前ならいそいそと坐っていたのかもしれないが、今は、その場所に坐ることが宗次郎にとってはかなりの難事業だった。どうしても緊張してしまうのだ。
 黙って突っ立っている宗次郎に、歳三は微かに苦笑した。
「どうした」
「え、あの……」
「まだ打ち合わせの始まりには時があるが、とりあえず座れよ」
 そう言いながら、歳三は子供にするように、ぽんぽんと自分の隣を軽く叩いてみせた。それに促され、宗次郎はおずおずと歩み寄った。
 彼の隣に坐った宗次郎に、歳三は何も言わなかった。話しかけることもなく、書類に視線を落としている。
 その端正な横顔を、こっそりと宗次郎は見つめた。
 男にしては長い睫毛が頬に翳りを落とし、引き締まった唇が形良い。艶やかに結い上げられた黒髪、切れの長い目、その黒曜石のような瞳に、頬から顎にかけての精悍な輪郭。何もかもが息を呑むほど整っているのだ。今、書類をめくっている指さきまでも、しなやかで美しい。
 引き締まった逞しい躰に黒い着物と袴をつけ、そうして端座している様はまるで絵のようだった。時折、微かに眉を顰めるのさえ、どこか男の色香を感じさせる。


(歳三さんって……きれい)


 今まで思ってもみなかったことを、宗次郎は感じた。
 むろん、彼が整った容姿をもっていることはわかっていた。だが、江戸にいた頃はまだ彼も青年の域を脱しきれていなかったのか、どこか頼りなげで危うい雰囲気を漂わせていたのだ。
 しかし、今の彼は違った。完成された男らしい落ち着きと、その中にある少年っぽさ、男特有の華を感じさせる。
 京に来てから、より女にもてるようになったという話を聞いた事があるが、それも当然だろうと思った。
 だが、そう思ったとたん、ずきりと胸を走った痛みに戸惑った。
 歳三のことなど何とも思っていないし、それどころか嫌っているはずなのに、どうしてか、美しい女を傍においている彼を想像したとたん、胸奥が痛くなったのだ。
 俯いて、ぎゅっと唇を噛みしめた宗次郎に、隣にいた歳三も気づいた。
 眉を顰め、覗きこんでくる。
「どうした……気分でも悪いのか」
 心配そうに訊ねる歳三に、慌てて首をふった。訳のわからぬ痛みに胸もとをきつく掴む。
「な、何でもありません」
「だが……」
「歳三さんに心配されるような事じゃないから」
 そう言った宗次郎に、一瞬、歳三は顔を歪めた。だが、すぐに自分を取り戻すと、微かに息を吐いた。
「……そうか。気分が悪くなったら、部屋で休めよ」
「はい」
 酷い事を言ったという自覚があったのに、それでも怒らず自分を気遣う歳三に、宗次郎は戸惑った。
 だが、それでも彼に心を許す気にはなれない。宗次郎の中にある警戒心は強いままだった。
 どうして? と、思ってしまうのだ。
 なぜ、自分を念弟になどしたのだろう。あれほど女には不自由しない彼が、こんな子供の自分など相手にする理由がまったく思いつかなかった。とても、斉藤が言ったように「好きだから」とは思えないのだ。
 宗次郎は、他に誰もいないこの場がいい機会だと思い、訊ねてみることにした。大きな瞳で彼を見上げる。
「歳三さん」
「何だ」
「歳三さんは、私が剣が強くて役にたつから、念弟にしたのですか?」
「……」
 歳三の目が大きく見開かれた。
 愕然とした顔で、宗次郎を見下ろしている。その瞳に傷ついた表情を見つけた気がしたが、宗次郎は構わず言葉をつづけた。
「色々と考えたけど、それしか理由が思いつかなくて。私の取り柄は剣だけですし、今は新選組の大幹部なのでしょう? 内部で色々と対立も起こっていると聞きました」
「……」
「私が役に立つ駒だから手元に置くために、念弟にしたのですか?」
「……」
 歳三の唇が微かに震えた。
 だが、そのまま何も言わず、視線をそらせてしまう。
 やがて、掠れた低い声が答えた。
「……そう思いたいなら、そう思っていればいい」
「歳三さん、それじゃ答えに」
「今のおまえに何を言っても、通じないだろう。おまえは俺を警戒しているし、信用もしていない。そんなおまえに何を話しても無駄だ」
 そう言い切った歳三に、宗次郎は黙り込んだ。


 確かにそうだった。
 もしも、今、宗次郎の言葉を否定されても、それを信じることは出来るのか。だが、一方では否定してほしいと思ったことも確かだった。
 斉藤が言ってくれたように、好きだから念弟にしたと答えて欲しかったのだ。そんなふうに思う自分の心の動きが、まったくわからなかったが。


 黙りこんでしまった宗次郎に、歳三もそれ以上何も言おうとしなかった。無言で書類に視線を落としている。だが、眉を顰めた顔はひどく不機嫌そうだった。彼が怒っていることは、傍にいても伝わってくる。
 宗次郎はいたたまれなくなったが、今更、否定することも出来なかった。
 重い沈黙のまま座り続けていると、やがて、幹部たちが入ってきた。その中には斉藤もいて、ちらりと気遣うような視線を二人にむけた。
 だが、それに応えることも出来なくて、宗次郎はきつく唇を噛みしめたのだった。













 斉藤が副長室を訪れてきたのは、その日の夜だった。
 晩飯後であり、その頃なら土方も仕事が一段落しているだろうと思ったのだ。
 実際、土方は信じられないぐらい多忙だ。そのため、日中は私的な話などする余裕もなかった。
 思ったとおり、土方は一段落したところらしく、文机に頬杖をついて煙管を燻らせていた。
 だが、これは珍しいことだ。総司とつきあうようになってからは、一切煙管をやめているようだった。総司の躰を気遣ってのことだろうが、おそらく口づけの時の苦さを指摘されたのだろう。


 思えば、土方は総司に対して、呆れるぐらい甘かった。
 もともと総司の知らないところで甘やかし、手助けをして見守ってきたのだが、晴れて恋人同士となったとたん、箍が外れたように堂々と甘やかし始めたのだ。
 溺れこんでいると言ってもよい程だった。
 二人は幸せの絶頂にいるとしか見えなかった。
 いったい誰が、こんな事になると思っただろうか。


「土方さん、ちょっといいですか」
 廊下から声をかけた斉藤に、土方がふり返った。「あぁ」と軽く頷いた彼に目礼してから、部屋の中へ入る。
 腰を下ろしながら、煙管の火を消そうとしている彼に、いいですよと手をあげた。
「どうぞ、好きにやって下さい」
「いや、そろそろ消そうと思っていた処だ」
 そう言って煙管の火を消している土方を眺めながら、斉藤は静かに言った。
「ずっと疑問に思っていたことがあるのです」
「何だ」
「総司の記憶のことです」
 一瞬、びくりと彼の手が震えるのを見た。だが、すぐに何気ない様子で、斉藤に視線を戻す。
 何の表情も浮かんでいない端正な顔に、さすがだなと思ったが、言葉をつづけた。
「なぜ、総司は記憶を失ったのでしょう」
「……」
「まだ全部記憶を失ったのなら、わかります。ですが、七年分だなどと、十四才の頃に戻るなど、奇妙だと思いませんか」
「それは……俺に聞いても仕方がないだろう」
「そうですか?」
 斉藤の揶揄するような口調に、土方は目を細めた。きつい視線が斉藤に向けられる。
「何だ。言いたいことがあるなら、はっきり言えよ」
「じゃあ、遠慮なく言わせてもらいますが、土方さんは総司が記憶を失った原因、知っているんじゃないですか」
「どうして、そう思う」
「あの日、直前まで傍にいたのはあなただ。それに」
「それに?」
「あなたは、まったくその原因を探そうとしていない。まるで総司が記憶を失ったことが当然であるかのような態度だ」
「……」
 しばらくの間、土方は押し黙っていた。だが、やがて胡座をかいた膝に頬杖をつくと、微かに苦笑いをうかべた。
「まったく……おまえは妙な処で鋭いな」
 男の言葉に肯定の意味を感じ取り、斉藤は吐息をもらした。
「やっぱり、そうですか」
「あぁ。俺は、総司が記憶を失った原因を知っている。あの夜、俺は総司と一緒にいたからな」
「なら、その原因を取り除けば、記憶を取り戻すんじゃないですか。以前のように、あなたの恋人の総司に……」
「それは無理だな」
「え?」
「あいつは二度と、俺の恋人にはならねぇよ」
 土方は微かに目を細めた。
 そして、戸惑う斉藤の前で言ったのだった。


「あの夜、総司は俺に、別れてくれと言ったんだ……」