伊東との関係は記憶を失う前からあったらしい。
 とても仲の良い友人だったと聞いた。敵対をしている事が明らかであるため、歳三はあまり良い顔をしてはいなかったが、宗次郎は彼らの思惑など関係なく伊東に近づいたのだ。それは今も同様のことだった。
 宗次郎は、いつも物静かで穏やかな伊東に心惹かれるものを感じていた。確かに、かなりの策士だということも聞いている。底知れない男だとわかってはいたが、つきあいをやめようとは思わなかった。
 素直で気質がまっすぐな宗次郎は、好きか嫌いか、己の感覚だけで判断する。そこに隊内の政治的な思惑や他者からの視線など、まったく存在していなかった。
「伊東先生」
 にこりと笑った宗次郎に、伊東は歩み寄ってきた。伊東も宗次郎から七年の記憶がない事を聞かされている。
「お出かけになっていたのですか」
 無邪気に訊ねる宗次郎に、伊東は頷いた。
「えぇ、少し買い物をしてきました。そうだ、きみにもお土産がありますよ」
「お土産?」
 不思議そうに小首をかしげると、包みを手渡された。開いてみると、綺麗な菓子が入っている。
「綺麗ですね、とても。それに美味しそう」
「後で食べて下さい。もし気にいれば、店を教えますよ」
「はい、ぜひ」
 縁側に二人は並んで腰かけた。伊東は今日街で見たことなどを話してから、宗次郎を鳶色の瞳で見つめた。
「それで、調子はどうですか」
「調子……は、何とも言えません」
 すぐに彼が記憶の事を言っているのだとわかり、首をふった。
「まだ何も思い出す事が出来ませんし、わからない事ばかりで……」
「そうですか」
 頷いてから、伊東は手をのばし、宗次郎の髪を軽く撫でてくれた。
「しかし……あまり焦らないように。ゆっくりと思い出していけばいいのだと思いますよ」
「はい」
「そうだ、医者には行ったのですか?」
「いえ……まだ」
 歳三にも言われていたが、なかなか行く気になることが出来なかった。頭の病であるが故、躊躇いがあったのだ。医者に行って治るものでもないだろうと、つい思ってしまう。
 それに、伊東がくすっと笑った。
「医者嫌いは相変わらずですね」
「そ、そうですか?」
「えぇ。以前も、医者へ行ったり薬を呑んだりするのを、酷く面倒くさがっていました。土方君に叱られている処を見たことがありますよ」
「そうでしょう…ね」
 叱られているという言葉から思い出したのは、試衛館で宗次郎がしくじった時など、歳三から浴びせられた冷たい視線だった。あからさまな嘲笑とともに、侮蔑の言葉まで投げつけられた記憶がある。
 あの調子で医者へ行かないことを咎められれば、意地っぱりな自分は尚更、行く気が失せただろう。
 そんな事を思いながら、宗次郎は顔をあげた。とたん、「あ」と声をあげてしまう。
 渡り廊下を一人の男が立ち去っていく処だったのだ。こちらに向けられた広い背には見覚えがあった。


(……歳三、さん?)


 胸のうちで小さく呟いた声は、むろん、相手に届くことはなかったのだった。












 仕事に私情を持ち込んではいけないことはわかっている。
 だが、彼も一人の若い男だった。大切な愛する恋人のこととなると、気持ちが乱れてしまうのだ。つい仕事ぶりも不安定になり、山崎などに渋い顔をされる始末だった。
「……ったく、ざまぁねぇよな」
 ようやく一段落させた処で山崎を追い払い、土方は副長室で一人、畳の上にごろりと寝転んだ。腕枕をして、目を閉じる。
 瞼の裏に浮かぶのは、やはり、この世の誰よりも溺愛している恋人のことだ。
 今、彼のことを嫌っている、愛しくて憎らしい存在……。





 総司と初めて逢ったのは、江戸の試衛館でのことだった。
まだ、総司が宗次郎と幼名を名乗っていた頃で、自分に水を間違ってかけてきたのだ。愛らしい顔で、だが、自分を見たとたん、怯えたような表情になったことに酷く苛ついたことを覚えている。
 何か声をかけてやればよかったのかもしれないが、子供相手に何を言ってやればよいのか、皆目見当もつかなかった。そのため、無言で背を向けてしまったのだ。


 結局、江戸にいた頃、宗次郎とはまともな会話が成り立ったことさえなかった。お互いに無視をするか、口論になるか、だったのだ。
 初めの頃、土方もなぜ、こんなに気になるくせに、顔を見れば冷たく接してしまうのかわからなかった。他の誰にでも愛想よくすることが出来たし、決して饒舌ではないが、それでも相手が望むだろう会話を上手くやる自信もあった。それ故、女にもよくもてたし、試衛館にいた原田や永倉とも親しかったのだ。
 だが、宗次郎だけは別だった。
 つい突き放してしまったり、冷たい言い方をしてしまったりしまうのだ。優しくしてやりたいという気持ちがあるのに、それを素直に表すことが出来なかった。それが激しい情愛の裏返しなのだと気づいたのは、宗次郎が自分の幼なじみである娘のことを庇い、彼を詰った時だった。


(俺は、嫉妬していた……)


 嫉妬したのだ。宗次郎の優しく素直な心を占めている娘に、その愛らしい笑顔をむけられている存在に。
 あんな笑顔、むけられた事などなかった。いつも怯えたような顔か、怒りに染まった瞳ばかりだ。心底、嫌われていることもわかっていた。
 今更、どうしようもないと思った。こうなれば、とことんまで嫌われてやると自棄になった覚えもある。
 そのため、京にのぼってからも二人の関係が変わることはなかった。
 だからこそ、信じられなかった。総司から愛していますと告げられた時は、夢のようだと思った。恋人になれてからの日々は、それこそ夢のように幸せだった。生きてきた中で、あれほど幸せを実感したことはなかったぐらいだ。
 総司と呼べば、あどけない愛らしい笑顔をむけられた。土方さんと甘く囁いてくれる声が、ふれる細い指さきが、たまらなく愛しかった。
 だが、破局は突然、訪れた。
 ある朝、総司は七年分の記憶を失ってしまったのだ……。





「俺とのことを……無かった事にしたいのか」
 そう呟いた。


 つい考えてしまう。すべての記憶を失うならともかく、なぜ、ここ七年分の記憶なのか。
 総司と結ばれたのは、つい最近のことだった。池田屋の事が起こったすぐ後のことで、まだ一年の時も過ぎていなかった。
 酷い事ばかりをしてきたのはわかる。愛しい総司に辛い思いばかりをさせたし、記憶の中にある幼い少年は悲しそうな顔ばかりだった。
 だが、それでも愛してもらうことが出来たのだ。いつから愛されていたのかはわからない。ただ、総司の愛を得ることが出来た時、彼は有頂天になった。ずっと恋してきた相手が手に入ったことに、夢のようだと舞い上がってしまったのだ。
 いっそ、あれほど幸せでなければよかった。
 総司と愛しあった日々があんなにも幸せでなければ、簡単に諦めることが出来たのか。
 否、そうではない。もしも傷つけあう日々であったとしても、それでも、自分は総司を手放すことなど出来なかっただろう。
 心から──この世の何よりも愛しているのだから。


 土方は身を起こすと立ち上がり、部屋を出た。
 怯えた顔をされるとわかっていても、総司に会いたくなったのだ。話しかけ、その瞳を見つめたかった。
 だが、総司の部屋近くまで来た土方は、胸奥が刺し貫かれたような痛みに息がとまった。
「……っ」
 目の前で、総司が微笑っていた。あどけなく幸せそうに。
 だが、その笑顔は彼に向けられたものではなかった。土方が敵対している男、伊東にむけられた笑顔なのだ。
 二人は縁側に腰掛け、仲睦まじく言葉をかわしていた。時折、総司が笑い、伊東がその髪を撫でた。


 どこから見ても、恋人同士だった。
 深く愛しあう、幸せな恋人たち。


 自分が立ち入る隙などなかった。
 初めから、こうあるべきだった形に戻っただけなのか。
 彼との日々など無かったように笑う総司を見るうち、きつく手を握りしめていたのだろう。痛みを感じてみれば、爪が食い込んでいた。
「……」
 それ以上見ていることが堪えられず、土方は背を向け、その場から立ち去った。
 つい数日前のことなのに、総司と過ごした幸せな日々が遠く感じられた……。














「斉藤さん、教えて欲しいことがあるのです」
 そう言って総司が、斉藤を呼び止めたのはある昼下がりの事だった。
 巡察から帰ってきた斉藤が着替えを終えて、休憩でもするかと隊士たちのたまり場へ足を向けかけたところに、総司が現れたのだ。
 大きな瞳でじっと見上げ、頼み事をする総司に、斉藤が逆らえるはずもない。むろん、斉藤にすれば、二十一歳の総司として見えているのだが、もともと幼い頃からこの可愛い笑顔に逆らえた試しがないのだ。
「何だ?」
 部屋へ戻ってから訊ねた斉藤に、総司はちょっと躊躇った。だが、きょろきょろと辺りを見回してから訊ねてくる。
「私と、と…土方さんのことです」
「歳三さんでいいよ。おれの前では」
「あ、はい」
 ほっとしたように笑ってから、総司は言葉をつづけた。
「その、歳三さんと私、いつから念兄弟になったのですか? どうしてなったのか、斉藤さんは知っています?」
「いつからってのはわかるけど、どうしてなんてオレが知る訳ないよ」
 何で恋敵の恋が成就した理由を知らなきゃいけないのだ! と、ずっと総司に片思いしてきた斉藤は思ってしまった。だが、そんな想いは総司にまったく通じていない。
「じゃあ、いつからだけでもいいです。いつなのですか?」
「池田屋事件の後だな。去年の夏だよ、おまえがその……労咳だということがわかって、養生して、それからしばらくしてから、急に二人の仲が良くなったんだ。呆れるぐらい、仲睦まじい恋人同士って感じで、おかげでこっちは」
 どれだけムカついたことかということは、当然、口には出さない。
 言葉を切った斉藤に、総司は何も気づいてないようだった。可愛らしく桜色の唇を尖らせる。
「ふうん……急にってことは、それまで仲が悪かったのですか」
「まぁ、そうだな」
 斉藤はちょっと考えてから、頷いた。
「おまえも知っているだろうが、試衛館の頃から二人は仲が悪かっただろう? それは京にきてからも同様だったんだ。仕事の事で口論になったこともあるし、土方さんはいつも総司を冷ややかに見下す態度をとり続けていた。総司もそんな土方さんを無視するか、反発するかだったんだ」
「まぁ……そうでしょうね」
「だからさ、突然、二人が恋仲になった時は、隊中がひっくり返るぐらい驚いた。そりゃそうだろう? 昨日まであんなに仲が悪かったのに、土方さんはとろけそうな笑顔でおまえの肩を抱いているし、おまえも土方さんの腕の中におさまって幸せそうにしているしで」
 これまた腹がたって仕方がなかったのだが、あんな総司の幸せそうな笑顔を見せられたら、諦める他なかったのだ。
 見たことがないぐらい、幸せそうな笑顔だった。
 二人してどこかに泊まった翌朝、土方に肩を抱かれるようにして屯所に帰ってきた二人。何か土方が耳もとに囁きかけられるたび、頬をそめ、嬉しそうに身を寄せていた。それはもう恋の絶頂にいる者の表情そのもので、斉藤も片恋の終わりを覚悟したのだったが。


(こっちが諦めかけたとたん、これだものなぁ)


 斉藤はため息をつきたい気持ちで、目の前の総司を眺めた。
 見た目は、どこから見ても玲瓏で愛らしい二十一歳の若者だ。そのくせ、どこか違っていることは確かだった。
 前の総司は、新選組一番隊組長であり、筆頭師範代という大幹部らしく、凛とした表情は美しいとさえ感じさせた。だが、今の総司はやはり十四才という精神状態が出てしまうのか、どこか幼く頼りなげだ。それがまた可憐で愛らしく、男の庇護欲を煽ってしまう。
 土方にすれば心配で仕方がないだろうと思った。こんな総司に近づくことさえ出来ないでいるのだから。
 先日も、総司と一緒に巡察に出たのだが、途中で土方と一緒になった。
 心配で待っていたのだろうが、彼の姿を見たとたん、総司は顔を強ばらせ、青ざめてしまったのだ。それまで元気よく斉藤と話をしていたのに、口数も減ってしまい、酷く緊張しているようだった。それを察したのだろう、土方はすぐに離れてしまい、その後ろ姿を総司は複雑な表情で見送っていたという次第だ。


(本当のところ、総司は土方さんの事、どう思っているのだろう?)


 確かに、試衛館にいた頃は、こっちの腹が痛くなるぐらい仲が悪かった。
 顔をあわせれば無視をするか、口論になるかのどちらかだったのだ。だが、今の総司はそこまで彼を嫌っているようには見えない。ただ、緊張していることだけは確かで、どこか戸惑っているような印象を受けた。
 むろん、戸惑って当然だろうとは思う。あれ程嫌いで仲が悪かった男が自分の念兄弟になり、優しく穏やかに話しかけてくれたり、あれこれ気遣ったりしてくれるのだ。頭ではわかっていても、心では今の彼を受け入れることが出来ないだろう。
「あのさ、総司」
 斉藤は思い切って訊ねることにした。
「おまえ、土方さんのことをどう思っているんだ?」
「どうって?」
 総司は不思議そうに小首をかしげた。
「土方さんのこと、昔はあんなに嫌っていただろう? 今もそうなのか? いや、おまえにとっては昔じゃないんだな」
「それはそうです」
 こくりを頷いた。不安げに瞳が揺れる。
「私、つい数日前まで歳三さんのこと、大っ嫌いでした。この世で一番嫌いで、顔も見たくないって思っていました。でも、記憶がなくなっていきなり大人になっちゃって、それで一番戸惑ったのが歳三さんのこと……なのです」
「……」
「別人じゃないのかなって思うぐらい、歳三さん、優しいし、笑顔も見せてくれるし、でも……ね、私、怖いんですよ」
「怖い?」
 斉藤は驚いて聞き返した。
「土方さんが怖いのか? ……おまえ、何かされたのか」
 一瞬、いつまでたっても自分とのことを思い出さない土方が、総司に行為を無理強いしたのではないかと思ったが、総司はゆるく首をふった。
「何もされていません。でも……あの人といると、怖くて。いつ罵られるか、侮蔑した言葉をかけられるか、莫迦にされるかって、身構えちゃうのです。急に、前の歳三さんに戻りそうで、私、怖くて何も言えなくなってしまうのです……」
 そう言って俯いた総司は、まったく気づいていないようだった。
 二人が話す部屋の外、廊下に、人の気配があったことに……。