意識を失っていたのは、僅かな間だったらしい。
 目を開くと、心配そうに覗きこんでいる歳三の顔が視界に入った。
 だが、その表情に、周囲の光景に、あれは夢ではなかったのだと思い知らされる。
「……歳三、さん」
 小さな声で呼んだ宗次郎に、歳三は、ほっとしたように肩の力を抜いた。
 はぁっとため息をつき、片手で顔をおおう。
「おまえ、急に倒れるから……俺、すげぇ慌てちまったよ。昨夜のことがあるからな」
「そ、それは……わかりませんけど。あの」
 気を失っていた間に、布団に寝かされてくれていたらしい。その上に起き上がりながら、宗次郎は大きな瞳で彼を見上げた。


 これは、夢じゃない。
 なら、いろいろと聞かなければならないことがあるし、彼にも話しておくべきなのだ。
 自分が十四才の宗次郎であるということを。


「あの、いきなりで驚かれると思いますが」
 宗次郎はちょっと躊躇いつつ、言った。
「私……十四才なのです」
「? おまえは今年で二十一だろう」
「そうじゃなくて、私、十四なのです。昨日の夜、試衛館の部屋で休んだはずだったのです。なのに、起きたらこんな処にいて、あんなに仲が悪かった歳三さんと念兄弟だって言われて、びっくりして訳がわからなくて、歳三さん、なんか今までと違うし、それに」
「……ちょっと待ってくれ」
 歳三が手をあげ、宗次郎の言葉を遮った。
「いくら何でも訳がわからねぇよ。おまえ、いったい何を言っているんだ」
「だから、私もわからないのです。私……昨日、試衛館にいたはずなのに……っ」
 涙がこみあげそうになった。だが、歳三に嘲られると思い、必死にこらえる。
 だが、そんな事はまるで気にしていない様子で、歳三は眉を顰めた。
「昨日、試衛館にいた? 江戸へ戻るのは無理すぎるだろう」
「江戸って……ここ、江戸じゃないのですか」
「今更、何を言っているんだ。ここは京だろうが」
「……」
 宗次郎の目が大きく見開かれた。
 その様子を、歳三はじっと見つめた。切れの長い目が細められ、探るような視線になっている。
 しばらく黙った後、低い声で問いかけた。
「もしかして……おまえ、記憶を失ったんじゃねぇのか」
「記憶……?」
「そうだ、十四才から二十一才までの記憶だ」
 驚いて息を呑んでいる宗次郎に、歳三は言葉をつづけた。
「十四才までの記憶しか、おまえにはねぇんだろう? いつ、俺たちが京へのぼってきたのか、新選組を結成したことも、俺たちが念兄弟になるまでの事も全部、知らない、つまり……そういう事だろうが」
「……何も、知りません」
 宗次郎は俯いた。
「それに、一番よくわからないのは……歳三さんと、こういう関係になっていることです。あの頃、歳三さん、私のこと嫌っていたし、私も歳三さんが……大嫌いだったし」
 大嫌いと言われた瞬間、びくりと彼の手が震えたのだが、それに宗次郎が気づくことはなかった。
 歳三はしばらく黙った後、ため息をついた。不思議そうに見やると、訊ねてくる。
「つまり、何だ。今、ここにいるおまえは十四才の宗次郎で、俺を嫌っているという事か」
「え、あ……」
 言葉をつまらせた宗次郎に、しばらくの間、歳三は黙りこんでいた。だが、やがて微かに片頬を歪めた。
「……まぁ、仕方ねぇよな。実際、仲が悪かったのは事実だ」
「ご、ごめんなさい……」
 宗次郎は思わず俯いてしまった。


 今、ここにいる彼は、とても優しかった。
 本当にあの歳三と同一人物なのだろうかと思うぐらいだ。柔らかな口調で話してくれるし、自分に対して愛情をもってくれていることも感じる。
 あの頃、歳三がこんなふうに接してくれていたなら、宗次郎も彼のことを好きになっていただろう。もしかすると、恋愛感情ももっていたかもしれない。
 だが、歳三はとても冷たく、いつも宗次郎を無視するか、侮蔑した表情で見下したように眺めるかだった。それが辛くて腹がたって、結局、いつも彼を避けるようになっていったのだ。
 そのため、今、自分が歳三の念兄弟だと言われても実感がわかないし、彼に対しても違和感を覚えてしまう。
 この人は本当に、あの彼なのだろうか、と。


「総司」
 そう呼んだ歳三に、宗次郎は顔をあげた。
「あまり実感がわかないだろうが、おまえは元服して、総司と名乗っている。沖田総司だ」
「総司……」
「それから……もう一つ言っておく。おまえは俺を歳三ではなく、土方と呼んでいた。できれば、皆の前ではそう呼んでもらいたい」
「どうして?」
 不思議そうに訊ねる宗次郎に、歳三は肩をすくめた。
「試衛館と違って、今、俺たちがいるのは新選組という大所帯の中だ。大勢の隊士が周囲にいる以上、色々とあるんだよ」
「……よく意味が」
 戸惑っていると、歳三は困ったように笑った。
「まぁ、ゆっくりと話していこう。何しろ七年分の記憶だし、あまりにも色々とありすぎたしな」
「はい……」
 こくりと頷いた宗次郎は、これからの不安を感じつつ、俯いた。ぎゅっと唇を噛みしめる。
 あまりにも急激な状況の変化が今でも信じられなかった。いきなり七年分も大人になってしまっているのだ。対応していくことが出来るのか、不安でたまらなかった。
 そのため、気が付かなかった。
 俯いてしまった宗次郎を見つめる歳三の瞳が、苦痛に似た色を湛えていたことに……。












 歳三の話は、宗次郎にとって驚きの連続だった。
 新選組という武力集団、そこの副長である彼と、一番隊組長という大幹部である自分。京にいること、二人が念兄弟になっていること。
 むろん、辛いことも聞かされた。友人だった山南が先日、切腹したこと、自分が池田屋という場所であった事件の時、血を吐き、労咳であることが判明したこと。
 宗次郎の病を告げる時、歳三は苦しげに眉を顰めていた。彼がその事に心を痛めていることが、本当に伝わる表情だった。
 一番何が衝撃だったのか。
 宗次郎にもわからなかった。病のことも、あまりにも一度に多くのことを聞かされたため、それ程気落ちすることもなかったのだ。
 それよりも戸惑ったのは、歳三との関係だった。
 念兄弟だということは、隊の中でも公然のものとされているようだった。二人の関係がそのようなものになったのは最近のことで、池田屋の後だったらしい。
 だが、宗次郎にとって、土方はあくまで、あの「大っ嫌いな歳三さん」だった。あれ程、冷たくされ蔑まれつづけてきたのだ。それが突然、念兄弟だと言われても、すぐに受け入れることが出来るはずもなかった。
 歳三は宗次郎を連れ、新選組の屯所に戻った。以前は壬生にいたが、つい最近、西本願寺という寺に移転したのだと聞いた。
 一緒に玄関から入っていくと、すれ違う隊士たちが頭を下げてくる。それを一瞥することもなく、平然と奥へ通っていく彼の姿に、宗次郎は呆気にとられた。
 江戸にいた頃、歳三はとても愛想がよく朗らかだった。少なくとも宗次郎以外には気さくな歳さんで通っていたのだ。それがどうだろう。今の彼はまるで別人だった。
 そっと見上げた端正な顔は冷徹で、厳しく引き締まっていた。多くの者の上に立つ男らしい威厳や風格がある。


(何もかも、違っているんだ……)


 宗次郎はぎゅっと唇を噛みしめたまま、彼の後を追った。
 幾つかの角を曲がった後、歳三は一つの部屋の前で足をとめた。障子を開きながら、宗次郎をふり返ってくる。
「ここがおまえの部屋だ。ほら、入れよ」
「あ……はい」
 それ程、広い部屋ではなかった。だが、日当たりが良い部屋で小奇麗に片付けられていた。
 宗次郎は部屋をぐるりと見回してみたが、まったく見覚えがなかった。そのことに気落ちしていると、様子を見ていた歳三が声をかけてきた。
「何も思い出さねぇか」
「……すみません」
 謝る宗次郎に、土方は苦笑した。
「おまえが謝る事じゃねぇよ。だが、さっきも言ったが、今のおまえは一番隊組長だ。色々と戸惑う事も多いが、少しずつ慣れていってくれ」
「あまり自信が……」
 自信がないと言いかけ、宗次郎は慌てて口をつぐんだ。こんな事を言えば、歳三に莫迦にされると思ったのだ。
 だが、莫迦にするどころか、歳三は柔らかな口調で励ましてくれた。
「急ぐことはない。ゆっくりと少しずつ慣れていけばいいんだ、わからない事があれば俺に聞けばいい」
「はい……」
 宗次郎はもともと試衛館にいた頃から、師範代として人を教える立場にあったため、それなりに人をまとめる事は慣れている。だが、新選組は歳三の話では最強の武力集団なのだ。その中でも精鋭と言われる一番隊を率いることが出来るのか、不安でたまらなかった。
「それから、おまえの事は近藤さんには話しておくよ」
「え、若先生もここにおられるのですか」
「さっき、言っただろう。局長になっていると。若先生じゃなくて近藤先生と、おまえは呼んでいたがな」
「私……逢いたいです」
 そう言った宗次郎に、歳三は少し複雑な表情になった。片手で煩わしげに髪をかきあげなら、軽く舌打ちする。
「? 歳三さん……?」
「いや、そうだな。おまえ、近藤さんには懐いていたものな」
「え、あの……」
「わかった、後で逢わせてやる」
 歳三が答えた時だった。不意に障子の外に気配がしたかと思うと、声がかけられた。
「総司?」
 からりと障子が開かれ、斉藤が顔を覗かせる。とたん、宗次郎の表情がぱっと輝いた。
「斉藤さん!」
「……」
 歳三の黒い瞳が剣呑な色をうかべている事に気づかぬまま、宗次郎は飛びつくように斉藤の傍へ寄った。嬉しそうに笑いかける。
「斉藤さんもいてくれたんですね。よかった、安心しました」
「? よかったって……?」
 まったく意味がわからない斉藤に、宗次郎はどう説明したらいいのだろうと戸惑った。それに、歳三が傍らから言う。
「こいつは七年分の記憶を失っちまっているのさ」
「は? 何です、それ」
「斉藤が来たのなら、俺は用無しだろう。嫌いな俺よりも斉藤の方がいいに決まっているからな。斉藤、後は全部、おまえが説明してやってくれ」
 そう言うと、歳三は背を向けた。声もかけぬまま、さっさと部屋を出ていってしまう。
 斉藤は呆気にとられた表情でそれを見送ってから、急に元気をなくしてしまったような宗次郎を見下ろした。
「土方さんはいったい何を怒っているんだ。喧嘩でもしたのか?」
「違うのです。私……」
 宗次郎は俯き、ぎゅっと唇を噛みしめた。
「さっきも歳三さ……いえ、あの、土方さんが言ったように、記憶がないのです。七年分の記憶がなくて」
「意味がわからない。何でそんな事になったんだ」
「原因はわからなくて、昨日の夜、試衛館で眠ったはずなのに、今朝起きたら京にいて……」
 例えようもない不安がこみあげてきた。
 これから、自分は本当にやっていけるのだろうか。
 身体は確かに二十歳を超えた大人だが、心はまだ十四才のままなのだ。なのに、いきなりこんな処に放り込まれて、どうすればいいのか。
 宗次郎は不安げな表情で、歳三が立ち去ってしまった方を見つめたのだった。













 新選組での生活は戸惑う事ばかりだった。
 結局、記憶を失ったことに関しては、試衛館の仲間にも話すことになり、皆、一様に驚いたが、それでも受け入れてくれた。
 気を使い、心配してくれる原田や永倉の存在に、宗次郎は心から感謝したのだ。とくに、近藤はとても心配をしてあれこれ気遣ってくれたが、何か宗次郎が知らない事を知っているようで、複雑な表情だった。
 ただ、聞いても教えてもらえそうにない気がした。
 何かを知っていると言えば、斉藤も同様だった。どうも何事かを隠されている気がしたのだ。
 それらの事はともかくとして、宗次郎は毎日、新選組の暮らしに慣れることに懸命になった。屯所の間取りから組織図、隊士たちの顔と名前、京の地理など、次から次へと覚えなければいけないことがあり、不安になっている暇もない程だったのだ。
 それでも、日が過ぎていくと、次第に宗次郎も今の生活に慣れることが出来るようになってきた。屯所で迷子になることも減ったし、隊士たちの顔や名前を一致させることも出来た。
 歳三も色々と気を配ってくれたらしく、宗次郎が京の地理に慣れるまで一番隊のみで巡察に行かせることはなかった。斉藤や原田、時には歳三自身がついてくれることが多かったのだ。
 だが、宗次郎にとって、斉藤や原田はともかく、歳三がついてきてくれることはあまり嬉しい事ではなかった。
 何しろ、あれ程嫌いだった男なのだ。
 今の彼はまるで別人のように親切で優しくしてくれるが、宗次郎にとってそれはすぐさま受け入れられるものではなかった。
 いつまた彼が豹変するのかわからないと思ってしまうし、こんな事を言えば嘲られる、軽蔑されると、歳三と一緒にいれば緊張してしまう。そのため、話しかけられても言葉数も少なくなってしまった。
 そんな宗次郎の気持ちを察したのか、歳三も次第に話しかけないようになっていった。むろん、だからと言って冷たくされる訳ではないが、少し距離を置こうとしているようだった。


(……歳三さん……)


 どうしても心の中では、彼のことを歳三と呼んでしまう。そんな自分にため息をつきながら、宗次郎は柱に凭れかかった。
 西本願寺の広い庭へと目をやる。きれいな春の空の下、緑が柔らかく輝いていた。だが、宗次郎の気持ちは沈んでいってしまう。


 十四才だった宗次郎がいきなり大人の世界に放り込まれてしまったのだ。
 その上、あの大っ嫌いな男だった歳三が自分の念兄弟だという。他の誰に聞いても、それは公の事実のようで、当然のように言われた。
 だが、どうしてもわからないのだ。なぜ、あれ程嫌っていた彼とそんな関係になったのか。
 騙されているのではないかとさえ、思ってしまう。


 宗次郎がきつく唇を噛みしめた時だった。ふと、向こうの渡り廊下を歩いていた男と視線があう。
 幾つかの冊子を手にした彼は宗次郎と目があうと、柔らかく微笑んでみせた。それに、心が弾むのを感じる。
「伊東先生……」
 彼は新選組参謀であり、宗次郎の友人であり、そして、隊内で歳三と最も敵対している男だった……。