総司はため息を深くついた。
 縁台に坐ったまま、軽く足を前へ蹴った。ころっと石が転がってゆく。
「……はぁ」
 もう一度ため息をついた。
 医者からの帰りだった。休憩するため、茶屋に立ち寄っていたのだ。
 久しぶりの外出だった。あの喀血をした日から、数日が経っていた。もう床上げをして、隊務に戻っている。
 以前と変わらぬ日々だったが、一つだけ違うことがあった。


(……土方さん……)


 あの日から、土方とは顔もあわせていなかった。
 打ち合わせなどを総司が体調不良を理由に欠席していたためだったが、臥せっている時もあれ以来、土方は一度として見舞おうとしていなかった。
 斉藤などは不思議がっていたが、総司にはその理由がよくわかっていた。


(当然、だよね……)


 土方は知っているのだ。
 ここにいるのは、別れを告げた総司なのだと。ずっと大切にしてもらってきたのに、その彼の優しさに感謝するどころか、手酷い仕打ちをしたかつての恋人。
 記憶が戻った理由について、詳しいことはわからない。だが、状況が重なった故ではないかと思っていた。
 あの時もそうだったのだ。
 池田屋の後、労咳だと知らされて、それでも土方のために戦い続けようとした。まだ躰が気だるかったのに無理に床上げをして、隊務に戻った。
 近藤は心配をしてくれたが、土方は声一つかけようとしなかった。
 それはむしろ当然のことだった。土方と総司は京にのぼってから、ほとんど口をきかず、万一会話することがあっても終始口論になっていた。彼にとって、総司は煩わしい存在に過ぎなかったのだろう。
 そんなある日のことだった。
 巡察の報告にと向かった副長室前で、喀血して昏倒したのだ。力強い腕が自分を抱きあげてくれたことだけは、覚えている。気がつけば、自室で寝かされていた。
 驚いたことに、傍には土方がいた。
 それに戸惑いつつも、嬉しくてたまらなかった。彼が自分をほんの少しでも気にとめてくれたことが、泣きたいぐらい嬉しかったのだ。


 ずっと、恋してきたから。
 憧れて好きで好きで、たまらなくて。


 いつ好きになったかなんて、わからない。
 もしかしたら、逢った時から好きだったのかもしれなかった。ずっと彼だけを見つめてきたのだから。
 だが、彼がふり返ってくれることなどありえなかった。彼にとって、総司は鬱陶しく反抗ばかりしてくる、子供なのだから。
 永遠に叶わない恋。
 それでも、総司にとって、土方は最愛の男だった。この世の誰よりも愛しい彼だったのだ。
「……土方、さん」
 小さな声でその名を呼んだ総司は、淡い期待を抱いていた。
 喀血した自分の傍にいてくれたのだ。少しは優しい言葉をかけてもらえるのかもしれないと、思った。
 だが、その淡い期待は次の瞬間、打ち砕かれた。
「江戸へ帰った方がいい」
 男の低い声に、目を見開いた。
 呆然としている総司の前で、土方は淡々と言葉をつづけた。
「京にいては療養することもできんだろう。おまえは江戸へ帰るべきだ、近藤さんも賛成している」
「……」
「体調が回復したら、京を発て。準備だけはしておく」
 そう言って、土方は立ち上がりかけた。腰をあげ、部屋から出ていこうとしている。
 あまりに冷たい態度に、指さきがすっと冷たくなった。
 ずっと恋心を押し殺してきた総司にとって、土方の言葉は絶望だった。
 気がつけば、叫んでいた。
「いやです……! 江戸へなんて帰らないッ」
 突然、叫んだ総司に驚いたのだろう。
 土方が目を見開いた。
「……総司?」
「京から去るなんていや! そんな事をさせるぐらいなら、いっそ殺して。切腹でも何でも命じればいい」
「……」
「あなたの傍にいられないなら……っ!」
 宥めるためか、こちらに伸ばされていた彼の手がびくりと震えた。それに気づかぬまま、総司は言葉をつづけた。
 気がつけば、ぽろぽろと涙がこぼれていた。情けない、恥ずかしいと思ったが、もう涙も言葉もとまらなかった。
「私は……土方さん、あなたの傍にいたい。あなたの傍にいられないなら、私はもう……っ」
「……総司、おまえは……」
 掠れた声で、土方は何かを言いかけた。だが、いったん口を閉ざしてから、訊ねる。
「おまえは……何故、俺の傍にいることを望むんだ」
「好きだから……っ」
 もはや何の躊躇いもなく、総司は告げた。潤んだ瞳を彼にむけ、言った。
「あなたが好き、愛しているから……!」
「……」
「ごめん…なさい、あなたに嫌われているってわかっている。でも、それでも好きなの。この気持だけはどうしても止められなかったの」
 そう言って、総司は両手で顔をおおった。肩を震わせ、声もなく泣きつづける。
 その細い躰が不意に男の胸もとに引き寄せられた。驚いて目を見開いたとたん、きつく抱きしめられる。
 耳元で、男の声が呟いた。
「……信じられねぇ」
 それに総司は呆れられたのだと思った。
「ごめん…なさい……」
 謝ったが、土方はより強く総司を抱きしめ、髪に唇を押しあてた。
「そうじゃない、おまえが謝ることじゃねぇんだ。いや、謝るべきなのは俺だ」
「……」
「俺はおまえを傷つけてきた。酷い事ばかりしてきた。そんな俺が今更こんな事を言う資格はない、それゆえに告げずにいようと思っていた。だが、おまえが俺のことを想ってくれているのなら……」
 土方は総司の細い肩を掴んで、躰を起こさせた。そして、その顔を覗き込み、まっすぐ瞳を見つめた。
 少し掠れた声で告げた。
「俺も、おまえが好きだ。愛してる」
「……え?」
「総司、おまえが好きだ。俺はおまえを愛してる、と言ったんだ」
「う……そ……」
 総司の目が大きく見開かれた。
 信じられなかった。あれ程、冷たくされてきたのだ。嫌われている、蔑まれていると思い込んでいた。それがいきなり好きだと言われて、信じられるはずがなかった。
 それに、土方が声をたてて笑った。
「信じられねぇか」
「えぇ……」
「それは俺の台詞だよ。俺だって信じられねぇ、てっきりおまえに嫌われているとばかり思い込んでいた。まさか、おまえが俺を好いてくれていたなんて、考えたこともなかった」
 土方はそう言ってから、総司の頬に優しくふれた。手のひらで包みこみ、仰向かせる。
 そして、くちづけた。深く唇を重ね、柔らかく舌を吸ってくる。
 とろけそうな口づけに、総司は陶然となった。思わず男の腕に縋りついてしまう。口づけを終えた土方はそれに微笑みながら、抱きすくめてくれた。
 それから、甘い声で囁きかける。
「……これでも信じられないか?」
 男の問いに、総司は夢のような気持ちで首をふるばかりだった……。













 それからの日々は、まさに夢のようだった。
 ふわふわとした夢の中にいるかのような、幸せな甘い日々。
 砂糖菓子で出来ているような毎日に、総司はうっとりと酔いしれた。
 土方は信じられないぐらい優しかった。まるで別人のように優しく、総司を甘やかしてくれる。
 二人、初めて躰を重ねた夜は、痛みに泣いたが、それでも幸せだった。この人と一緒にいられるなら、どんな事だって出来ると思った。
 彼だけが好きだった。ずっとずっと愛してきたのだ。
 一縷の望みもない恋が叶えられた歓びに、総司は溺れていた。
 だが、そんな日々の中でも、不安があった。初めは考えないようにしていた不安だったが、少しずつ総司の中で大きくなっていったのだ。


(本当に、土方さんは私を好いてくれているの……?)


 土方が総司の想いに応じてくれたのは、同情、憐れみのためではなかったのか。
 江戸の頃から美しい女たちに纏わりつかれていた男だった。それは京にのぼってからも変わらない。ただ、端正な姿形をもっているだけではない、誰をも惹きつけてしまう華があるのだ。
 そんな男が、同じ性をもつ、しかも労咳もちの総司を好きになってくれるなど、信じられなかった。
 土方はとても優しかったが、優しくされればされるほど、それが同情故のように思えた。
 いつも冷たくされてきたが、土方は本来とても優しい男なのだ。労咳になった挙句、泣きながら縋りついてきた総司を突き放すことなど、彼には出来なかった。
 憐れみから受け入れてくれたのではないだろうか……?
 そう思いつつも、総司は土方の傍にいた。
 同情でも憐れみでもよかったのだ。彼の傍にいたかった。
 どんな形であれ、あれ程望んだ笑顔をあたえてもらえる、優しくしてもらえることが、泣きたいぐらい嬉しかった。
 そんな日々の中で突然おこったのが、土方の縁談だった。
 断るつもりだと聞かされたが、総司自身は、その時、これが定めなのだと思った。別れなさい、彼を解放してあげなさいと、誰かに言われた気がした。
 お琴という美しい許嫁との縁談まで断って一緒にいられるような価値が、自分にあるとは到底思えなかった。
 もう十分、愛してもらえた、優しくしてもらえた。
 何の取り柄もない自分の傍に彼はいてくれたのだ。それに感謝して、今度は彼を解放してあげるべきだった。
 縁談はとても良いものだった。この縁談を受けて彼が幸せになってくれれば、それでいいと心から思った。
 いずれ別れを告げられるのなら、自分から告げた方が楽だった。
 そのため、料亭に呼び出して落ち合った。
 だが、別れたいと告げたとたん、土方の顔色が変わった。
 伊東のことを持ちだされ、それ故に別れるのかと聞かれた。むろん、伊東はいい友人だが、恋愛感情を持ってはいなかった。
 だが、土方は誤解してしまっているようだった。
 気がつけば、褥に押し倒されていた。いやだと叫び、必死に抗ったが、強引に抱かれた。土方は最後まで手を緩めようとせず、一切容赦しなかった。
 恐ろしかった、哀しかった、……切なかった。
 本当は別れたくなんて、なかったのに。愛されたかったのに。
 でも、そんなこと無理だから、優しい彼は同情してくれただけだから。


(いっそ、好きにならなければよかった……)


 そんな事が頭をよぎった。
 彼を嫌いだと思っていた幼い頃に、戻りたいと思った。恋を自覚する前の自分に戻りたかったのだ。
 そして、記憶を失った……。













 総司は茶屋を出ると、空を見上げた。
 初夏を思わせる、清々しいほどの青空が広がっている。総司の気持ちとは裏腹に。


(青空みたいに素直になれたら、どれだけ楽だろう。宗次郎だった頃みたいに……)


 記憶を失い、宗次郎として生きていた時のことは、すべて覚えている。
 だが、あの時と同じように振る舞うことは出来なかった。好きという気持ちを素直にあらわすことも出来なければ、彼の言葉を信じることも出来ない。
 記憶を失っていた時、土方からの愛を確信できていたこと自体が、今になってみれば不思議だった。
 愛されていると、何の躊躇いもなく信じることが出来た自分が、とても遠く感じてしまう。


「同じ私なのにね」
 小さく呟いた。
 子供の自分なら、確かに躊躇いなく飛び込むことが出来たのかもしれない。
 彼の気持ちも素直に信じることが出来た。だが、色々な経験を重ね、大人になってしまった総司には到底出来ない。
 苦しくて切なくて哀しい恋をして、我が身が燃えるような嫉妬をして、泣いて、そんな事を重ねるうちに、一番大切な人さえ信じることが出来なくなってしまった。
 愛してるという彼の言葉は、こんなにも遠い。
「……」
 一瞬、きつく目を閉じてから、総司は再び目を開いた。ゆっくりと屯所への道を辿っていく。
 まだ屯所まで時がかかると思った時だった。
 不意に、すっと横合いから人が現れた。武士だ。
「!」
 反射的に刀の柄に手をかけながら、身構える。
 だが、次の瞬間、大きく目を見開いていた。
「……土方…さん」
 そこに現れたのは土方だった。
 黒い編笠をかぶり、黒い単の着物を着流して、角帯に両刀を斜めがけにしていた。さらりと風が黒髪を吹き乱していく様が、男ぶりを際立たせる。
 その証に、道行く女たちが皆、彼のことをふり返っていた。
 だが、それらに視線をむけることもなく、土方は切れの長い目で総司だけを見つめている。
 濡れたような黒い瞳に見つめられ、どきりとした。慌てて俯いたところに、訊ねられる。
「屯所への帰りか」 
「……はい」
 こくりと頷いた総司を、しばらくの間、土方は無言で眺めていた。やがて、微かに吐息をもらすと、踵を返す。
 え? と顔をあげた総司に、振り返りざま言葉を投げかけた。
「ついて来い」
「え、あの」
「話がある。つきあえ」
 ぶっきらぼうな物言いだったが、冷たさはなかった。その事に安堵しつつ、総司は彼に従った。
 だが、連れて行かれた場所に戸惑ってしまう。


(ここは……)


 記憶を失う原因になった夜を過ごした、料亭だった。
 この料亭の離れの部屋で、総司は土方に別れを告げ、挙句、手込めにされたのだ。
「……」
 立ち止まってしまった総司に、土方も気づいたようだった。振り返り、微かに唇の端をあげてみせる。
「何だ、警戒しているのか」
「……」
「安心しろ、何もしやしねぇよ」
 それは総司に興味がないという事なのか、安心させるためなのか。
 意味はわからなかったが、従う他なかった。
 総司はきゅっと唇を引き結ぶと、そのまま土方の後ろに従った。あの日と同じ離れに通され、料理が運ばれてくる。
 土方は仲居を下がらせてから、総司の方をふり返った。突っ立ったままの総司に、苦笑する。
「座れよ。俺と、食事ぐらいは出来るだろう」
「……話とは何ですか」
 身構え、静かに問いかけた総司に、土方は肩をすくめた。
「なるほど。記憶を取り戻したとたん、その様か」
 嘲るような声音に、びくりと肩が震えた。


















次で完結です。