躰が、心が震えた。
 だが、それでも、総司は彼から視線を外さず、まっすぐ見つめた。
 土方の表情が微かに変わった。しばらく黙った後、吐息をもらした。
「……記憶の有無で、そこまで違ってくるんだな」
「……」
「すぐにわかったよ、おまえが記憶を取り戻したことは。俺を見る目がまったく違う」
「あなたを見る目……?」
「そうさ」
 土方は畳の上に腰をおろし、胡座をかいた。膝に片肘をつきながら、微かに喉奥で嗤う。
「俺を嫌っている目だ。数日前に、俺を愛してる、ずっと傍にいると約束してくれたおまえは、もうどこにもいない」
「それがわかっているなら、話をすることもないでしょう」
 総司は胸の痛みを覚えながら、言った。


 本当は、こんな言葉を吐きたい訳ではなかった。
 彼を傷つけたい訳でもない。
 愛してる、今も好きですと告げたかった。
 でも、彼の言葉を信じることがどうしても出来ないから。


「失礼させて頂いてよろしいですか」
 そう言って、総司は背を向けた。そのまま部屋を出ていこうとする。
 次の瞬間だった。
 不意に、引き寄せられた。胸の前へ男の腕がまわされ、後ろから抱きすくめられる。
 逞しい男の腕の中にすっぽりと抱きすくめられ、息をとめた。
 久しぶりのぬくもりだった。
 誰よりも愛しい男の……


(……土方、さん……)


 総司は、ただ何も言わず抱きしめてくる土方の腕の中で、固く目を閉じた。
 しばらくの間、土方は何も言わなかった。ただ黙ったまま、総司をその腕に抱きしめている。


(……総司……)


 目を伏せ、きつく唇を噛みしめた。


 ただ、総司と言葉をかわしたかった。
 このまま知らぬ顔で、二人の間が離れていくことに我慢できなかったのだ。
 再び別れを告げられても、それでも、何処かで区切りをつけてしまいたかった。むろん、総司を手放すことに堪えられるはずもない。
 だが、このまま過ごしていても、状況が変わらないことは確かだった。ならば、彼が動く他なかった。


(今日、総司が医者を訪れると知った。だから……)


 待ち伏せまでした。
 そんな自分に、どこまで溺れこんでいるのかと自嘲したが、どうしようもなかった。
 こうでもしなければ、総司は己と逢ってもくれないのだ。
 そんなにも憎まれているのかと思えば、胸が鋭く痛んだが、その想いも、総司が現れたとたん、消え去った。
 突然現れた土方に、総司は驚いているようだった。大きな瞳を見開いた表情がいとけない。
 拒絶されることを恐れ、乱暴な言い方でついてくるように命じたくせに、総司がついてきてくれたことに、そっと安堵の吐息をもらした。
 この料亭を選んだことは別に他意はなかったのだ。そこが最も近い処だった。
 部屋へ入ってから、総司が佇んだままでいることに焦りを覚えた。坐って話をすることさえ疎ましいのかと感じた。だが、そんな彼に、総司は冷たく返した。
 わかっているのなら、話はないと告げたのだ。
 憎んでいる、嫌悪しているということを肯定したも同然だった。
 土方は非常に矜持の高い男だ。こんな言葉を吐かれて相手を追う必要などなかった。今までの女なら、とうの昔に突き放していただろう。
 だが、総司は別だった。


 どれほど憎まれてもいい、嫌われてもいい。


 それでも、傍にいて欲しいと願ってしまうのは、狂おしい情愛ゆえなのか。
 もはや、自分が総司を愛しているのか、憎んでいるのかさえわからなかった。
 気持ちよりも躰の方が動いていた。総司が部屋を出ていこうとした瞬間、腹の底から突き上げた怒りと悲しみ。
 きつく抱きしめた腕の中で、総司は抗い一つしなかった。ただ、男の腕におとなしく抱かれている。
 その髪に頬を寄せた。
「……一つだけ聞いていいか」
 腕の中で、総司がこくりと頷いた。それに言葉をつづける。
「記憶がなかった時のことを、おまえは覚えているのか」
 男の問いに、総司は一瞬、躊躇ったようだった。やがて、微かに笑う。
「覚えていますけど……でも、土方さん、決めつけているんですね。私が記憶を取り戻したって」
「実際、そうだろう。けど、そうか。覚えているのか」
 吐息をもらした。
 それから、土方はより深く総司の躰を抱きよせると、囁いた。
「……愛してる」
 びくりと総司の躰が震えた。それに構わず、つづけた。
「俺はおまえを愛してる。おまえだけしかいらない……総司、おまえが傍にいてくれれば、他には何も望まない」
「……」
「おまえが何を思って、俺と別れようとしているのか、わからない。あの時、言ったように伊東へ想いが移ってしまったのか、俺への気持ちが失せてしまったのか」
「土方さん、私は」
 何かを総司が言いかけた。それを遮った。
「そんな事……全部、どうでもいいんだ」
「え」
「俺は、おまえが別れたいと泣いても懇願しても、絶対に……別れない」
「……」
 総司の目が見開かれた。しばらく呆然としていたが、やがて、彼の腕の中でもがき始める。
 彼の言葉の異常さに恐れを抱き、逃げようとしているのだろう。むろん、逃がすつもりなどなかった。
 土方は腕に力をこめることで、総司の細い躰を拘束した。白い項に唇を押しあてる。
「愛してる、俺にはおまえだけだ。おまえを失えば、俺は駄目になっちまう」
「……っ」
「おまえを失うなら、いっそ殺した方がいい。なぁ、おまえを殺してしまおうか」
「土方さ…ん……」
 狂気じみた男の言葉に、総司の躰が震え始めた。
 怖くて怖くて、たまらないに違いない。この間は、別れ話を出したとたん、手込めにされたのだ。挙句、今度は無理心中まで持ちだしてくる男に、嫌気がさしても当然だと失笑がこぼれた。
「……」
 華奢な躰を抱いたまま、くっくっと喉を震わせて嗤う男に、総司は何も言わなかった。黙ったまま身を固くしている。
 新選組隊士として幾多もの修羅場をくぐってきている総司だが、こんな男の狂暴な情愛に晒されたことはなかったはずだ。素直で優しい総司には、到底理解できるはずもないだろう。


 わかって欲しいなどとは、思わなかった。
 ただ、もう手放したくない、これは俺のものだという叫びが、突き上げていた。
 激しさで相手をも灼きつくしてしまうのなら、恋はまさに罪悪だろう。
 まさに、罪そのものだ。
 愛していたのに傷つけて、挙句、捨てられそうになったとたん、相手を犯して殺めようとする。
 それのどこが罪ではないのか……。


 そんな事を思いながら、総司を抱きしめていると、小さな声が彼の名を呼んだ。
「土方さん」
 静かな声だった。
 黙っていると、躰にまわした腕にふれられた。そっと撫でられる。
「お願い……離して下さい」
「離せば、逃げるだろう」
「逃げません。違うの、あなたを見たいだけなの。私を……見て欲しいだけなのです」
 その言葉に、土方は唇を噛んだ。


 信じた訳ではないが、腕の力を緩めても逃げようとすれば、すぐさま捕まえることが出来る自信があった。
 否、逃げれば殺してしまうかもしれない。


 そんな事を考えながら、ゆっくりと腕の力をゆるめた。それに、総司がするりと躰を動かす。
 だが、すぐさま総司は躰を反転させると、澄んだ瞳で彼を見上げてきた。怒りも悲しみもその顔にはない。
 ただ、夢見るような表情で見つめてくる総司に、戸惑った。
「……総司?」
「もう一度、言って」
「え?」
「愛してるって、もう一度……お願い」
 それに、土方は目を瞬いた。
 だが、すぐに総司の腰に腕をまわして抱き寄せると、低い声で囁いた。
「……愛してる」
「……」
「俺はおまえだけを愛してる。総司、おまえしか望んでいないんだ……」
「……」
 総司は黙ったまま土方の胸もとへ凭れかかってきた。そっと、吐息をもらす。
 細い指さきが男の襟元にふれた。
「……私も…です」
 やがて、掠れた声が答えた。
 え? と聞き返そうとする土方の腕に身をまかせながら、総司は囁いた。
「私も……あなたを愛してる。土方さんしか、望まない」
「……総司、おまえ」
 土方は眉を顰めた。総司の肩を掴んで身をおこさせると、その愛らしい顔を覗きこんだ。
「おまえ、記憶が戻っていないのか。ここにいるのは、宗次郎のおまえなのか」
「いいえ」
 きっぱりと首をふった。
「ここにいるのは、沖田総司です。あなたが好きで好きで、好きすぎるあまり、あなたを信じることが出来なかった私です」
「信じることが出来なかった?」
「あなたは、私を憐れんで、恋人になってくれたのでしょう?」
「……」
 総司の言葉に、土方は目を見開いた。しばらく押し黙ったまま総司を見つめていたが、やがて、低く唸るような声を発した。
「……何だ、それ。おまえ、俺のことを信じる事が出来なかっただけじゃなく、そんな愚かな男だと思っていたのか」
「だって……っ」
 総司は思わず叫んだ。
「あなたは優しいから、記憶をなくして宗次郎だった時でも、あなたはずっと優しくしてくれた。私のことを辛抱強く見守ってくれた。そんなあなたが、私に縋りつかれて困らないはず……」
「優しくなんかあるものか」
 土方はため息をついた。総司の躰を抱きすくめ、軽く子供にするように揺さぶる。
「俺はなぁ、めちゃめちゃ身勝手な男なんだよ。だから、おまえに別れを告げられたとたん、逆上して手籠めにしちまったし、あんな事をやっちまってもおまえを手放せなかったし」
 くすっと笑い、その白い頬に口づけを落とした。
「どれだけ俺がおまえに惚れているか、知らねぇだろう。もう十年ごしの恋だぞ。おまえに水かけられた時から惚れぬいてきたって、言っただろう?」
「それは聞きましたけど、でも……そんなの信じられないし」
「宗次郎の時は信じてくれたのにか?」
「だって、土方さんみたいな人が私なんかを好きになってくれる理由が、わからないの。あんな酷い事ばかりしたのに、なのに」
「それはこっちの台詞だ。俺の方が酷い仕打ちをしてきただろうが。けど、それよりもな、総司、おまえは理由がなきゃ人を好きにならねぇのかよ」
「え……」
 総司は驚いて、息をつめた。それに、土方は真摯な声音でつづけた。
「人を好きになるのに、理由なんかいらねぇだろう。ただ、好きになった、惚れた、傍にいたいと思った。それだけのことだ。俺だって、おまえを好きになったことに、理由なんかねぇよ。ただ、おまえが好きってことだけだ」
 そう言った土方は、総司を抱え込んだまま腰をおろした。自然と、総司も彼の膝上に座るような形になってしまう。
 子供扱いに、総司はちょっと不安げに彼を見上げた。
「あの、土方さん?」
「何だ」
「土方さんは、私の記憶が戻るの、すごく嫌がっていましたよね。それは、私が宗次郎のままの方が良かったからじゃ……」
「おまえ、本当にとことん心配性だな」
 土方は呆れたようにため息をついた。優しく髪を撫でてくれながら、言葉をつづける。
「そんな不安ばかりじゃ、まいっちまうぞ。それに、言っておくが、俺にとっては、宗次郎も総司も同じなんだよ。どっちも可愛いおまえなんだ。そうだろう? どっちもおまえ自身なんだから」
「……」
「気が強くて元気いっぱいで無邪気で、けど、戦う時は凛としていて、一生懸命で、けなげで一途で、すぐ泣いちまう、色々な面を持っているおまえが好きなんだ。そうだな、ほら、びいどろみたいだ。見る時によって、いろんな色になるところなんかさ」
 そう言ってから、土方は総司にむかって小首をかしげてみせた。
「おまえは、そうじゃねぇのか?」
「え」
「俺もあまり単純とは言いがたい男だろう。けど、そんな俺をおまえは好きになってくれたんだと、思っていたがな」
 そう言ってから、土方は小さく笑ってみせた。
「土方である俺も、歳三である俺も、おまえは好きになってくれたんじゃねぇのか」
「好きです」
 即座に、総司は答えた。
 その勢いに自分自身びっくりして、ちょっと赤くなったが、すぐさま男の腕の中で、懸命に言葉をつづけた。
「土方さんであるあなたも、歳三さんであるあなたも、好き……大好き……!」
 一途な表情で告げてくる総司に、土方は嬉しそうに笑った。総司を、両腕で抱きすくめる。
 そして、可愛い恋人の耳もとに唇を寄せると、「俺もだ」と囁きかけたのだった。












 翌朝、総司は目を覚ましたとたん、心配そうにこちらを見下ろす土方に気がついた。
「? おはようございます」
「おはよう」
 辺りは穏やかで優しい朝だ。
 結局、昨日は二人仲直りのためもあって色々と致してしまい、屯所に戻らずここに泊まった訳だが、それにしては、土方の表情はあまり明るいものではない。
 寝言でまずいことでも言ってしまったのかと、総司は焦ってしまった。慌てて起き上がり、おそるおそる訊ねる。
「あの……どうしたのですか?」
 それに、土方はかるく眉を顰めた。しばらく黙っていたが、やがて、訊ねてくる。
「おまえ、ちゃんと俺をわかっているか?」
「は?」
「自分のことも、全部わかっているよな。また、前みたいに宗次郎になっちまっているなんてこと」
「もう、何を言っているんです」
 総司は土方の膝上に手を置いた。
「そんな事あるはずないでしょう? 私、今、ちゃんとあなたのことを信じているし、好きってこともわかっているし」
「なら、いいが」
 土方は煩わしげに黒髪を片手でかきあげ、ため息をついた。
「もし、おまえが記憶を失って宗次郎に戻っちまったら、また一からやり直しだろう? だから、つい心配になっちまったのさ」
「一からやり直し?」
「恋愛も、こういう事も全部だ」
 言いながら身をのりだし、口づけてくる土方に、総司はなめらかな頬を淡く染めた。耳朶まで赤くして、俯いてしまう。
 いつまでも初で可愛い恋人に、土方は小さく笑った。
「だが、そうだな」
「え?」
「あぁいうのも新鮮でいいな」
「?」
「何も知らねぇ宗次郎であるおまえに、色ごとを一つ一つ教えていくのも結構楽しかったんだぜ。すげぇ新鮮だった」
「!?」
 男の言葉に、総司が勢い良く顔をあげた。それに驚いて見下ろせば、大きな瞳で睨みつけている。
「何ですか、それっ」
 頬をふくらませ、唇を尖らせた。
「じゃあ、何でもかんでもわかっている私は、楽しくないってこと?」
「そんな事言ってねぇだろう」
「だって、そうじゃありませんか。どうせ私はぜーんぶわかっちゃっていますよ! 皆、土方さんに教えられたんだからっ」
「いや、だから、それは」
「土方さんが教えたんでしょ? なのに、今更なんですか! だいたい───」
「……」
 きゃんきゃん言ってくる総司を眺めつつ、土方は、ため息をついた。
 確かに、姿形は大人だ。きれいで凛として愛らしくて。
 だが、中身の方はどうやらまだまだ子供らしい。結局のところ、この可愛い恋人の本質は宗次郎の頃とあまり変わっていないのだ。
 そのあたり、本人が自覚しているかどうかは、また別の話だが。


(まぁ、そういう処が可愛いんだけどな)


 そんな事を考えながら、土方は拗ねた表情の総司を抱き寄せた。素早く口づけて、その桜色の唇を塞いでしまう。
 彼の腕の中でもがいていた総司が、おとなしくなるまで。
 甘い甘い恋人たちの時が訪れるまで――……
















完結です! ラストまでお読み下さり、ありがとうございました!