Prologue





 宗次郎は、土方歳三という男が大っ嫌いだった。
 この世で一番って言ってもいいぐらい嫌いで、苦手で、それは初めて逢った時から変わることのない感情だった。
 何しろ、出会いの印象からして、お世辞にも良いとは言えなかった。


(あんな人が若先生の親友だなんて、信じられないっ)


 初めて逢ったのは、二年前のことだった。宗次郎がまだ十二才だった頃だ。
 道場を掃除していた宗次郎は水がいっぱい入った桶を、間違ってひっくり返してしまい、それがたまたま通りかかった歳三に掛かってしまったのだ。
 当然、宗次郎は謝った。
 だが、歳三はその切れの長い目で宗次郎を冷ややかに一瞥しただけで、通り過ぎてしまったのだ。返事さえしなかった。まるで声をかける価値などないように。
 もちろん、宗次郎だってわかっている。粗相をしてしまったのは自分だ。しかし、あんな軽蔑した冷たい目で見ることはないだろう!


(何なのっ、あれ!?)


 宗次郎は十の年に道場へ入っていたが、それほど嫌な思いをしたことはなかった。
 師匠たちも道場仲間である永倉や原田も可愛がってくれたし、時折、訪ねてくる斉藤という友達もいた。毎日、楽しく暮らしていたのだ。
 そこへ突然、現れたのが歳三だった。
 彼が若先生である近藤の親友だと聞いた時は驚いたが、宗次郎のような子供など目を向ける気にもなれないと言わんばかりの歳三の態度に、めちゃくちゃ腹がたった。
 歳三は宗次郎に声をかけることもなかったし、話しかけてもぶっきらぼうに言葉を返すばかりだった。挙句、彼の女遊びの激しさまで聞いてしまうと、幼いだけに潔癖な宗次郎には、到底受け入れられるものではなかった。


 不潔! 最低!
 女たらしっ!


 そんな言葉ばかりがぐるぐる回り、歳三の顔を見るのも嫌だと思った。
 だが、宗次郎がイライラすることに、歳三は近藤のもとをよく訪れてきていた。二人で仲良く談笑したりしている。歳三は愛想もよく明るく、原田や永倉とも仲良くやっているようだった。だから、余計に、子供だからと除け者にしてくる歳三が憎らしい。
 はしたないと思ったが、ついつい近藤にも訊ねてしまった。
「どうして、あんな人が友達なのですか?」
 と。
 宗次郎の言葉に、近藤はびっくりしたように細い目を丸くした。それから、ちょっと困ったように笑った。
「どうしてと言われても困るが……宗次郎は、苦手なのか」
「苦手って言うより、嫌いです」
「どうして」
「だって、歳三さんは女遊びばかりして、ぶらぶらしていい加減で、私にも……」
「宗次郎にも?」
「いえ、何でもありません」


 話しかけてくれない、笑いかけてくれない。
 冷たい態度ばかりとられている、なんて。


 まるで、男の気をひきたい女みたいだと感じて、言葉に出せなくなってしまった。
 そのまま俯いてしまった宗次郎に、近藤はため息をついた。
「そうだなぁ、確かに、歳はいい年してふらふら遊んでばかりいるし、女で揉め事も多いし、困った奴だが……しかし、いい奴なんだよ」
 どこが!? と突っ込みたかったが、とても言えるものではなかった。師匠にそんな失礼な事が言えるはずもない。
 むっと黙っている宗次郎の頭を、近藤はぽんぽんと優しく叩いた。見上げると、人の良さそうな顔で笑っている。
「まぁ、気長につきあってやってくれ。そのうち、宗次郎もあいつの良さがわかるから」


(一生、わからなくて結構です!)


 そう言いたかったが、これまた、ごっくんと呑み込んだ。
 宗次郎は近藤が大好きだったし、尊敬もしていた。だから、近藤が悲しそうな顔をするのを見たくなかったのだ。だが、当然、納得は出来ていない。
 結局、十四才になった今でも、宗次郎は歳三が嫌いだったし、相変わらず仲が悪かった。
 そんなある日、宗次郎の気持ちを決定づけてしまう事件が起こったのだ。


「え、お幸ちゃんが!?」
 宗次郎は思わず叫んでから、慌てて口をおさえた。
 それに、斉藤が難しい顔で頷いた。
「いや、おまえ、仲良くしていただろ? あの子と」
「えぇ」
 宗次郎はこくりと頷いた。それに、斉藤は困ったようにため息をついた。
「なんかさ、よくわからないけど……自害しかけたってのは、よっぽどの事があったんだろうなぁ」
「でも、助かったんですよね?」
「まぁ……危うくな。首をくくってぶら下がろうとしていた処を止められたらしくて、怪我もなくて済んだから良かったけど」
「お幸ちゃん、今は?」
「店の寮で養生しているって話だ」
 お幸というのは、試衛館の近くにある大店の一人娘だった。宗次郎とも仲良くしていた小町娘だったが、突然、そのお幸が首をくくって死のうとしたらしいのだ。
 宗次郎は慌てて近藤に断りを入れると、その店の寮へと見舞いに向かった。自分が行ってどうにかなるものではないかもしれないが、心配でたまらなかったのだ。だが、そこで、宗次郎はとんでもない話を聞くことになってしまった。
 帰ってきた宗次郎は、すぐさま近藤のところへ行った。そこにはちょうど来ていたらしい歳三がいたが、宗次郎は構わなかった。というより、彼に話があったのだ。
「……」
 入ってきた宗次郎を見て、歳三は腰をあげて出ていこうとした。その前に素早く立ち塞がる。
「待って下さい、あなたに話があります」
「……」
 宗次郎を見下ろし、歳三は眉を顰めた。
「……何だ」
 いつものように冷たい、ぶっきらぼうな声音で答える。
 それにちょっと怯みはしたが、宗次郎はつけつけと言葉を続けた。
「お幸って娘、知っていますよね? あの子を弄んだ挙句、捨てたのはあなたでしょう、歳三さん」
「? お幸?」
 僅かに考えるような表情になってから、歳三は「あぁ」と呟いた。煩わしげに片手で前髪をかきあげながら、くっと喉を鳴らす。
「あのうるさい小娘か」
「う、うるさいって」
「弄んだっていうより、相手にしなかっただけだ。俺はな、餓鬼なんざ相手にする気ねぇんだよ」
「あ、あなたが子供嫌いってことは知っていますけど、でも、お幸ちゃんはあなたに酷くされて、それを嘆いて首をくくったんですよ」
 二人の会話を黙って聞いていた近藤が、さすがに驚いたように口をはさんだ。
「まさか、死んだのか」
「いえ、寸前で家の人に見つかり、助かりました。でも、落ち込んでいて悲しんでいて……」
「そんなのそいつの勝手だろう」
 冷たい声音で、歳三は言い捨てた。驚いて見上げると、微かな苛立ちをうかべた瞳が宗次郎を見下ろしている。
「俺がその小娘の相手をしようが、相手をしなかろうが、これも俺の勝手だ。傍からあれこれ言われることじゃねぇ」
「そ、それはそうですけど、でも」
「それとも何か? 俺は言い寄ってくる女、全部相手にしなきゃならねぇってのか。はっ、冗談じゃねぇよ」
 苦々しく吐き捨て、歳三は宗次郎を押しのけるようにして、部屋を出ていってしまった。遠ざかる広い背を見送り、宗次郎は唇を噛みしめる。


 確かに、彼の言っていることはわかる。
 一方的に好きになったのはお幸なのだろう。
 だが、それでも、そこまで好いてくれた相手に対して、もう少し何かやりようがあるのではないだろうか。


 宗次郎には、歳三の仕打ちがあまりにも酷いものに思えてならなかった。
 あの人には情というもの、思いやりというものがないのか。
 無言のまま、部屋に中にいる近藤を見ると、彼にしては珍しく気弱な笑みをうかべた。
「ま、あいつも……複雑な奴なんだ」
「……」
「根はいい奴だから、その……」
「とてもそうは思えません!」
 今度こそ、キッパリ言いきってから、宗次郎はくるりと背を向けた。すたすたと道場へ歩いていきながら思う。
 最低、大嫌い! と。
 その後、お幸はある店の若旦那といい仲になり、とても幸せな結婚をしたのだが、それでも宗次郎の苛立ちは消えることがなかったのだった……。












いちばん大好き!











 ちゅんちゅんと雀の声が聞こえていた。
 朝の光が障子越しに柔らかく射しこんでくる。
 それでも、もう少しだけ眠りたくて、宗次郎は布団の中へゴソゴソともぐりこんだ。
 とたん、かるく肩に手がかけられる。
「……総司」
 男の声だった。なめらか低い、いい声だ。
 そっと優しく頬を撫でられ、さらさらと髪をかきあげられた。気持ちが良くて、仔猫のようにその手に頬をすりつけてしまう。
 男が安堵したように吐息を吐いた。小さく頬に口づけを落とされる。その後、唇に。
「……?」
 意味がわからなくて、薄く目を開いた。とたん、見覚えのない天井が視界に入る。
 見事な彫り模様が入った天井に、美しい土壁、きれいに張られた真っ白な障子。見たことがない程、贅沢な部屋だった。しかも畳張りだ。
 呆気にとられ、思わず呟いてしまった。
「ここ……どこ?」
「総司、おまえ、寝ぼけているのか」
 傍らから、誰かが言った。
「昨日、泊まった料亭だろうが。以前、おまえが気にいってくれた離れの部屋だ」
「離れ? 料亭……え……?」
 男の言葉の意味がわからないし、そもそも、傍で話しているのはいったい誰なのか。
 宗次郎は身を起こし、傍らにいる男を見た。とたん、鋭く息を呑んだ。
「歳三……さんッ!?」
 思わず大声で叫んでしまう。
 それに、歳三の方が驚いたようだった。一瞬、目を見開いたが、すぐに答えた。
「何だ、それ。久しぶりだな、おまえに歳三さんなんて呼ばれるの」
「な、何で、あなたがここにいるのです!」
「おまえ、昨日のこと、全部……忘れちまったのか?」
 歳三が眉を顰めた。
「昨夜、俺とおまえはここに泊まっただろう。で、その…閨の後……」
「ね…ねや……っ?」
「俺はおまえの念兄だ、恋人だ。確かに、昨夜は俺も……」
「こ、こここ、恋人―ッ!? 私とあなたがっ!?」
 いちいち彼の言葉を繰り返して驚く宗次郎の様子に、歳三もさすがにおかしいと気づいたようだった。訝しげに、その顔を覗きこんでくる。
 とたん、宗次郎は彼の姿に気がついた。
 違うのだ。
 彼が纏っている着物、髪型もまるで違っている。
 歳三は武家姿だった。艶やかな黒髪を結い上げ、その躰に黒の上質の着物を纏っていた。さらりと着流しているが、着物も帯もかなり上等なものだという事がわかる。
 それに、よくよく見れば、端正な顔はそのままでも、少し鋭さが増していた。頬から顎にかけての線が引き締まり、切れの長い目も鋭い。
 だが、一方で、その黒い瞳にある表情は、あの頃と比べ物にならないぐらい柔らかだった。
「すまない、昨夜のことで熱がでちまったか。いや、それにしては妙だな」
 額に手をあて、心配そうにあれこれ気遣ってくる歳三に、宗次郎は慌てて身をひいた。それから、問いかけた。
「あの、あの……私、どうしてここにいるのですか」
「だから、昨夜泊まったと……」
「そうじゃなくて、歳三さん、私のことなんて嫌いだったはずなのに、莫迦にしていたのに、何で」
「は?」
 歳三は一瞬呆気にとられたが、すぐにきっぱり言い切った。
「俺がおまえを嫌うなんざ、ありえねぇだろう。いったい何を言っているんだ」
「だって、この間も言ったじゃないですか。餓鬼なんて相手にしないって、お幸さんのことで私が言った時、歳三さん、すごく冷たく私のことあしらって……」
「お幸?」
 不思議そうに歳三は聞き返した。しばらく黙っていたが、やがて、訝しげに訊ねる。
「お幸って、あの大店の娘か。俺にふられた挙句、首をくくろうとした」
「そうです」
「おまえ、いったい何年前のことを言っているんだよ。だいたい、あれは、おまえがお幸のこと好きだと思っていたから、悋気妬いちまったんだって言っただろ。おい、こんな恥ずかしい事、何度も言わせるなよ」
「何年前って……悋気って、え……?」
 宗次郎はあまりに一度のことを言われて、頭が混乱してしまった。だが、不意に、ある事に思い当たり、スッと背中が寒くなる。
 急に顔を真っ青にして黙りこんでしまった宗次郎に、歳三は驚いたようだった。慌ててその細い背中に手をまわし、抱きよせてくる。
「大丈夫か、気分が悪くなっちまったか」
「そ、そうじゃなくて……お幸ちゃんのことがあったの、何年も前になるのですか……?」
「あぁ、もう七年近くになるか。おまえが十四の頃だったからな」
「私、今、十四じゃ……」
 言いかけ、口を閉ざしてしまった。
 ぐるりと部屋を見回し、目的のものを見つけた。だが、立ち上がろうとしたとたん、腰の重さに呻いてしまう。
「何、これ……」
「すまん。昨夜、俺も……その、手加減できなかった」
「……え」
 男の言葉の意味がわかったとたん、かぁぁっと耳まで真っ赤になるのを感じた。


 先ほど、彼と自分は恋人だと言われた。
 なら、この腰の重さは、つまりそういう事なのだろうか。


 どんな顔をしていいのかわからないまま、宗次郎は必死になって立ち上がった。それに歳三が素早く腰に腕をまわし、支えてくれる。
 宗次郎は「あ、ありがとうございます」と言ってから、何とか目的の物にまで歩み寄った。それは鏡だった。女性が使うものだが、今の宗次郎にはどうしても必要だった。
 鏡の覆いを外す宗次郎に、傍らの歳三が眉を顰めた。
「総司? おまえ、何をやっているんだ」
「……」
 正直な話、彼の言葉など全く耳に入っていなかった。
 鏡に映る自分の姿に、呆然となっていたのだ。


 そこにいたのは、美しく玲瓏な若者だった。
 きれいに髪を結い上げ、大きな瞳でこちらを驚いたように見つめている。なめらかな白い肌に、ふっくらとした桜色の唇。白い寝着を華奢な体に纏っている姿は愛らしく可憐でありながら、どこか艶かしさがあった。
 確かに、面影はある。だが、それは少年の姿ではなかった。
 少なくとも、宗次郎の記憶にある自分の姿ではなかったのだ。


「……これ、誰……?」
 思わず呟いた宗次郎は、意識がすうっと薄れるのを感じた。
 そして、次の瞬間、「総司ッ!?」と驚きの声をあげる男の腕の中に、ばたっと倒れこんだのだった。